第18話 <キール>

 イリーナの頬はうっかり齧りたくなる程、舌触りが良かった。不思議な事にイリーナの頬は舐めると、ほんのり甘く感じた。禁断の果実のようだった。

うっかり「美味しそうだ」と言ってしまってから、誤魔化すように顔中を舐め回した。イリーナは嫌がる気配もなく、くすぐったそうに笑っている。単純にもっと笑わせたいと言う思いと、頬と同じだろうかと言う好奇心から、首まで舐めた。頬よりもさらに甘く感じた。



私から離れた途端にイリーナは、真っ黒い翼を持つ魔物になってしまった。


「イリーナ指輪は?」


慌てて聞くと、指輪に通した紐が切れて転がり、部屋の隅に落ちているのが目に入った。石が近くにあれば、魔物にならないはずなのだが、石が一つしかないと言う事で安定しないのかもしれない。


 私は身を起こすと、前足でイリーナに触れた。蝋燭の灯の中、イリーナの真っ白な体が仄かに浮かび上がった。先程の闇色の魔物とは対照的に、白く華奢で幻想的なまでに美しい。

余計な考えを振り払う様に、頭を振った。


「風邪を引いてしまうから、早く服を着ないと」


ぼんやりしているイリーナの代わりに足元に落ちた寝巻きを拾い、瞬時に人に戻って、彼女の頭から寝巻きを被せた。そのまま毛布で包んで、抱き抱えてベッドに寝かせてから、狼に戻った。


「やりすぎてしまったね。今度から気をつけるよ」


彼女の頬にそっと鼻を押しつけた。


 地下から二年ぶりに出たせいと明日の舞踏会のことを考えて気持ちが昂っているのか、イリーナはなかなか眠らない。イリーナが腕の(前脚の)中でモゾモゾ起きているせいもあり、なかなか寝付くことが出来なかった。


 自分ではない人に気持ちが向きかけているイリーナが、腕の中にいる事が、近すぎて苦しかった。走って行って、外で遠吠えをしてしまいたくなった。

自分だけを見ていてくれれば、明日の婚約発表を晴れやかな気持ちで迎えることが出来るのに。青空に突然、ルカという黒い雷雲が湧き出てきているような、言いようのない不安が広がっていた。


 夕食を運んできたルカが小さい扉から覗いていたのは分かっていた。だから、扉から見える位置で、イリーナを抱き寄せ、口付けしている様に見せた。ルカはイリーナに気がある。そして、無自覚ではあるもののイリーナも。ならば、ルカの方を諦めさせて、近寄らせない様にしなければ。


 イリーナは指輪がなかった事と、二年も地下牢にいた為、色々な会話の中で知る知識が全くない。本だけは、時間がたくさんある為、普通よりはたくさん読んでいるが。


 侍女たちの噂話や、宮廷の駆け引きなどから知るであろう、常識や空気の読み方は、多分、知らない。イリーナの姉のソフィアはそう言うことが得意のようだが。イリーナと同じ年の令嬢たちの中には、結婚して子供のいる人もいる。イリーナをこのまま、宮廷に出して大丈夫なのだろうか、と心底、心配になる。私が婚約者だと発表されれば、悪い虫はつかないだろうと思うが……。ルカのような者もいる……。

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