第16話 <ルカ>
いつものように食事を小さい扉から差し入れ、声をかけると、扉の近くから返事が返って来た。自分を待っていてくれたのだろうか、と思ったが、お腹が空いていたのかもしれない、と思い直した。
「ルカ、いつも有難う」
「ルカ」と本名を呼ばれた事に驚いた。
「いつから気がついていたの?」
「最初に扉から入ってきた時から。小さい頃の面影があったから」
辺りを見回した。誰もいないし、物音ひとつしない。
「イリーナ、扉を開けてもらえる?」
思い切って聞いてみた。
「僕に指輪を渡してしまった為に、ここに閉じ込められたんだよね? 知らなかったとはいえ、ごめん」
扉は開かない。
「いいの、私が知らないで渡してしまったのが悪いの。ルカが指輪を持って会いに来てくれるのを待っていたの。自分から名乗ってくれるのを待っていたのに、いつまでも言ってくれないなんて……」
イリーナの言葉に心臓が大きく跳ねた。イリーナがずっと、僕のことを待っていた?
「僕は片時も、イリーナを忘れたことは無かったよ。だから、ここまで来た。」
「ルカ……私を探して門番になってくれたの? 何故?」
「十歳の時、初めて会った君に、一目惚れしてしまったから」
遠くから階段を降りてくる軍靴の音が聞こえて来た。良いところだったのに……。二度も彼女の前でぐるぐる巻きにされるのはごめんだ。
「また、後で」
イリーナの許婚だと名乗った人物が、駆け足で地下の詰所を通り過ぎていった。心なしか、足音が弾んでいたような気がした。地下室のイリーナのところへ行くからだろう。そう考えているうちに、すぐにまた軍靴の音が戻ってきて、詰所の前で止まった。
「女王陛下に話してきたから、指輪を返してくれ。陛下がイリーナを許すそうだ」
こんな時間に直接女王に面会できるなどとは、本当に、公爵の息子だったのか……。ハッタリだと思っていたのに。イリーナが地下から出てしまえば、もう直接口を聞くことも叶わない。思わず後退りした。隠しても無駄だと思いながら、出す気になれなかった。
その男の後ろからイリーナがひょいと顔を出した。心なしか顔が赤い。
「ルカ、お願い! 今すぐ、指輪を返して。返してもらわないと、私はずっとここから出られないの。私は外に出たい。日の光を浴びたい。自由になりたいの」
男から言われただけであれば、無視しても良かったが、イリーナが胸の前で手を合わせお願いしている姿を見て、返そうと思った。
僕はイリーナにとっての自由の意味を知らなかった。「自由」、どこへ行くのも、誰と暮らすことも、何をどう選ぶことも出来る。それが自由だと思っていた。一瞬、イリーナと暮らす夢がチラついた。
黙って、自分の首にかけてシャツの下にしまってあった小さな袋から、一つしか石のついていない指輪を、イリーナに渡した。
「有難う、ルカ! もう一つの石の場所も後ででいいから、教えてね。ルカが約束を覚えていてくれて本当に嬉しかった」
イリーナの白くて冷たい華奢な手が、僕の手に触れた。僕たちは何年も、お互いに会えるのを楽しみにしていたのか……。じんわりと、心が満たされていくのを感じた。
「さぁ、イリーナ、支度をしに行かなくては」
男に促され、イリーナは天国への階段を登るかの様な足取りで、地下から地上に上がって行った。
後ろ姿を見えなくなるまでずっと見つめていた。イリーナはもう戻ってこないかもしれない……。でも、まだ一つ石が残っているし、待っていてくれたのであれば、彼女の方から会いに来てくれるかもしれない。
イリーナは午後には婚約の男と一緒に、地下室へ戻ってきた。男は両手に軽そうな、しかし大きな荷物を抱えていた。
エフセイが地下の夕食用にいつもの倍の盆を抱えて降りてきた。多分、婚約者の男の分も入っているのだろう。かなり重かった。盆を両手で持って、扉の前に行くと、軍靴を履いた重い足音と、その後ろに続く軽い足音が扉に近づいてくるのが聞こえ、中から扉が開いた。
イリーナと男が手を繋いで、立っていた。イリーナはブルーグリーンの何枚も薄い布を重ねたドレスを着ていた。歩く度に、裾が柔らかく揺れ、華奢な足首に纏わりついている。
「お食事をお持ちしました」
男はイリーナの手を離し、お盆を受け取り、軽々と片手で持った。イリーナが、男のあいている方の手をそっと握り締めたのが目に入った。男は盆をテーブルに置くと、戻って扉を閉め、中から鍵をかけた。
こっそり、小さな扉を少し開いてみた。黒いガラスを下ろすのを忘れているようで小さい扉の正面が見えた。
男が扉の近くで、イリーナを抱き寄せ、口付けているのが目に入った。男の緋色のマントが目の奥に焼きつき、ひりひりした。
僕は小さい扉をそっと閉め、詰所まで走って戻った。耳で聞いてしまった時よりも、目で見てしまった時の方が、もっとショックだった。椅子にかけてあった防寒用の緋色のチュニックが目に入っり、思わず床に叩きつけた。
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