第10話

「や、やめてください」


 私はそう言って、伯爵を突き飛ばした。

 だって、殴り飛ばしたとき万が一、伯爵がドMでそういう性癖に目覚めちゃったら怖いから。


 ――「も、もっとなぐってくれ」と伯爵は私の足に縋りつくのです。

 なんてモノローグ絶対にお断りだ。


 とりあえず、無難に対応しておく。

 だけれど、されるがままになって、伯爵に一本取られるのも癪である。

 よって、私ができるのはただ一つ。プレーンな選択肢。普通の女の子らしい反応だ。

 ああ、どうせ前世の記憶があるならば、もっと自分の身に起こることが分かればいいのに。


 ほら、前世でプレイしていた乙女ゲームの中に転生して、あらかたのストーリーラインが分かっているやつ。登場人物の属性や性格や過去なんかもわかっててさー。

 あれって、正直イージーモードでしょ。


 私なんて、前世の記憶らしきものはあってもあくまで知識とかであって、この伯爵が誰かとか、だれが王妃になるかなんてしらない。

 死亡フラグどころから、きっと私はこの世界においてその他大勢の背景にうつるモブでさえもない。

 いっそ、前世の記憶らしきものなんてないほうが、余計なことをせずに幸せに生きられたかもしれない。


 そんなことを呑気に考えていると、急に体が一瞬だけ宙に浮く。

 えっ、と思ったときには遅かった。

 私の体はベッドの上に墜落していた。

 運のよいことにベッドは大きくふわふわで、私のことを軽々と受け止めてくれてちっとも痛い思いはしなかったけれど。


 けれど、なんなの! なんでレディーである私が突き飛ばされなきゃいけないのっ。この乱暴者。

 私がキッと伯爵をにらみつけると、伯爵は不敵な笑みを浮かべてこういったのだった。


「そこは婚約者らしく恥じらわなければだめじゃないか」


 そことはどの時点のことを言っているのだろう。顎をクイっとされたとき、それとも突き飛ばされてベッドに着地した瞬間。

 恥じらいね。恥じらい。恥じらいがお好きなのね。伯爵様は。この変態!

 私は心の中でののしりながらも、お望み通り、恥じらいに見える反応。

 しおらしく見えるように体の力を絶妙に抜いて、うつむく。髪の毛が一筋、肩からさらりと流れた。より弱々しさがでただろう。

 私はそのまま静かに、無言を貫く。


 伯爵が息を吸って何か言おうとした瞬間、


「さあ、これでいかがですか。ご満足?」


 言ってやったー! 一本取ったー!!!

 私は満面の笑みを浮かべて、顔を上げると、そこには悔しがった顔の伯爵が……ちょっと間違ったらキスしてしまいそうな距離の場所にあった。


「えっ、あっ……ふあっ!?!?」


 私はあまりの近さに驚いて、悲鳴ともつかない謎の声が出る。

 えっ!!

 ええ???

 一体どういうこと?


 こういう時は大抵、ベッドから二メートルとか約六フィート程度離れた距離から申し訳なさそうな顔をしたイケメンがいるものじゃないの。


 ディスタンス!!!!!


 人、一人分くらいあけてよ。

 近い、近すぎるの。


 イケメンだからいいものの、これが中年の腹が出たおやじだったら殴り飛ばしていたよ?

 いや、イケメンでもよくない。


 その証拠に、私のほほはウイスキーでも流し込まれたみたいにかあっと熱くなり、伯爵をまっすぐ見ることができなかった。


「ほほう、やっとしおらしくなったじゃないか。その感じを忘れるな」


 伯爵は勝ち誇ったように私に宣戦布告したのであった。

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