第9話
「おはようございます。おじさん。マンディです。ミルクをもらいにきました」
お嬢さまは、農場の牛小屋の近くで急に声を張り上げた。
お嬢さまが自分のことを「マンディ」と呼ぶのをきくのは幼少期以来だった。アマンダの愛称として「エイミー」と王太子さまから呼ばれるようになって、お嬢さまは「マンディ」という愛称をつかわなくなった。
というか、単純に愛称というものを使わずに、「アマンダ」と名乗っていた。
久しぶりに聞く、「マンディ」という名前の響きはちょっとだけ胸が苦しくなるような懐かしさがあった。
すると、奥から、
「はいって、適当に手前のやつー」
とおじさんの声が聞こえた。
「じゃあ、適当に道具も借りるねー」
「おうよー、好きなだけもってけー」
農場にいって絞りたてのミルクをわけてもらうとは聞いていたけれど、どうやら私が想像していた状況とは違うらしい。
私はてっきり、絞ってある牛乳をうけとるものだと思っていたが、どうやら私たちはこれから、牛乳を牛さんから直接わけてもらわなければいけない。
つまり、乳搾り……無理。
無理。むり。ムリ!
だって、牛とはいってもおっぱいを触るなんてなんか恥ずかしい。
なのに、お嬢さまは慣れた手つきでどこからか道具をもってきて、
「やってみる?」
と私に聞くのだ。
お嬢さま、いえ、お坊ちゃまが、牛のおっぱいを揉むなんて……侍女としてそんなことをただ黙ってみている訳にはいかない。
「は、ひゃい」
私はなんとか返事をして、手招きされる場所にいき、お嬢さまから後ろから支えられながら乳搾りのこつをきく。
私はおそるおそる手を伸ばす。温かい。
いや、やっぱりムリだった。
触る前から、牛の体温を感じるというか、生きているというか。
今までこんな風に、動物に触れたことはなかった。
ずっとお屋敷で仕事をしてきたけれど、動物に触れあったことはない。
生きていると思うと、壊してしまいそうで怖かった。
たとえ、自分より大きな相手だとしても。
私が触れた途端、すべてがばらばらになって生命を失ってしまうんじゃないかって。
「大丈夫だよ」
私がためらっていると、お嬢さまは私の代わりに手早く牛の乳を絞った。無駄もためらいもない滑らかな動きだった。
「お嬢さま、上手です。でもいつまに……?」
「最近、よくここに遊びにきて色んなこと教わってるんだ」
お嬢さまはニカッと笑う。
こんな風な無邪気な笑い方は初めて見たかもしれない。
お嬢さまは、私の知らないところで成長していたことを嬉しく思うと同時に寂しくなった。
もしかしたら、お嬢さまはこのままどんどん広い世界に旅だってしまうかもしれない。
お嬢さまはなんでもできる。公爵家だっていざとなればお金をだしてくれる。
つまり、行きたいと思えばお嬢さまはどこまでも遠くにいくことができるのだ。
そのとき、今のままの私ではきっと付いていくこともできない……。
「ソフィー、摘み立ての苺をもらってきたよ。絞りたてのミルクに砂糖まぜて、食べるとすごくおいしいんだからー……あれ、ソフィー?どうして泣いているの」
「えっ? 気づかないうちに目から汗がでていたみたいです」
「そう、汗かあ……」
お嬢さまはそれ以上なにも聞かなかった。
私はひっしにハンカチを探し出し、目からこぼれ落ちる汗を止める。
そして、お嬢さまが手のひらいっぱいにもっていた苺を一粒つまんで食べた。
お行儀が悪いのは分かっている。
でも今だけ……。
苺は甘くて酸っぱくて、やっぱり酸っぱかった。
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