第3話

 あの子がいない。

 朝、いつも通りあの子が無事か日が登るよりも早い時間に確認にいったけれど、あの子の部屋はもぬけの殻になっていた。

 どういうことだろう。


 部屋には争った形跡もない。

 何者かが侵入するにしても、伯爵家の警備はそれなりのはずだし、泥棒ならばこんな寂しいところじゃなくて、私の部屋を狙うはずだ。


 なのに、もぬけの殻になっているのはあの子の部屋だけ……。


 おかしい。

 こんなことは有り得ない。

 こんな日が来ないようにあの子が小さい頃からずっと気にしてきたのに。


 あの子が自分に自信をもって、外の世界に出て行ってしまわないように、言葉に気をつけていたというのに。


 私があの子の部屋の前で茫然としていると、侍女の一人がやってきた。


「お暇をいただきたいのでございます」


 冷たい声と表情だった。

 あの子の侍女だ。

 いや、私の元同僚というべきだろうか。

 彼女はずいぶんな時が経ったはずなのに、私と違ってまだ若々しかった。

 口うるさいがよく気が付き働く、主人の幸せを一番に考える。同僚の間でも彼女は信用のおける評判の良い人間だ。だから、あの子の側から離した。

 あの子が幸せになってしまわないように。


「あの子は……?」


 私はやっとのことで返事をする。

 唇も喉も酷く乾いていて、ひび割れていた。


「お嬢さまなら、さる高貴なお方の別邸に……きっと幸せになるのでご心配なく」


「だめ! あの子の幸せなんて絶対に認めない!!」


 気が付くと私はそう叫んでいた。元同僚の変わらない凜とした声と違って私の声はヒキガエルのようにしわがれて醜かった。


「なんて、悲しいひと……」


 彼女はそういって、深々とお辞儀をしたあと、あの子の侍女は大きなトランクをもって屋敷を去った。まっすぐにピンと伸びて、迷いなんかないただ正義でまっすぐいられる彼女の背中がまぶしくてうらやましかった。


 でも、ダメなのだ。

 私はあの子が、奥様の娘が幸せになるなんて絶対に認めない。

 認めたくない……認める訳にはいかない。


 私は、我に返ると、必死で屋敷を出て行ったもっと同僚の後を追った。きっと、彼女はあの子のところに行くのだろう。あの子の、主人の幸せを願って。


 でも、私はあの子を幸せにするわけにはいかないのだ。あの子のために。


 私がまだ、ただの使用人だったころ、奥様はあの子を産んだ。そして、奥様は産後の肥立ちがよくなかった。

 もともと、少女のように軽やかで華奢で儚げだったので、妊娠と出産は奥様の体を確実に蝕んだ。

 それでも、旦那様とご自身の子供であったお嬢さまあの子を大切にしていた。


 奥様はあの子が大きくなっても、回復することはなかった。一日中、ベッドの中で枯れていくように眠った。

 それでも、お嬢さまあの子のことは大切にして、よき母親であろうとしていた。


 だけれど、ある日、奥様は変わってしまった。

 伯爵様が奥様の回復が見込めないと諦めたのだろう。跡継ぎが必要だから、男の子の養子を迎えると言い始めたのだ。

 あまりにも突然だった。

 そして、その突然のできごとは屋敷の中である噂が流れた。


『旦那様は愛人の子をこの家に迎え入れようとしている』って。


 もちろん、そんなことは無かった。

 だけれど、体を病み、心を弱らせていた奥様にはその噂を信じて、そしてその怒りとやるせなさを奥様の部屋に顔を見せることもなった旦那様ではなく、毎日側にいるお嬢さまあの子に向けるようになったのだ。


 そして、奥様は心を病みながらどんどん弱っていった。

 毎日、毎日、


「あの子さえいなければ…・・・」

「あの子が憎い」


 そうつぶやきながら、奥様の体と心は一歩ずつ死に向かっていった。

 そして、とうとう奥様はなくなるとき、私に、いえ、恐らく部屋の外にいるお嬢さまに言ったのです。


「あの子だけ幸せになるんて許せない。私が不幸こんなになったのはあの子のせい。いつかあの子が一番幸せになった瞬間すべてうばってやる。私から健康も旦那様もあの子が奪っていったみたいに」


 奥様はそう吐き捨ててその晩には亡くなった。

 儚げで少女のようだった奥様の亡骸は、やせ細った鬼のようだった。


 最初はいくら何でも、奥様がお嬢様を取り殺しにくるなんてことはないと思った。だけれど、奥様がなくなってからはこの屋敷では変なことが起きる。

 お嬢さまのお世話をしているとき、お嬢様が楽しそうに微笑むと窓ガラスが粉々にくだけ散ったり、お嬢様にお食事を差し上げるとき、いつの間にかスズランの花が混ざっていたりした。厨房にスズランが紛れ込むなんてありえないし、そもそもこの屋敷にはスズランなんて咲いていない。

 きっと、奥様がいる。奥様がお嬢様を見張っているのだ。私はそう確信した。



 それから、私は覚悟を決めたのだ。

 あの子を守ろうって。

 まだ正気だった奥様が愛したあの子を。


 あの子を守るために、旦那様をお酒に酔わせて関係をもち、後妻に入った。


 あの子につらくあたることもあったけれど、すべてあの子のためだった。

 一番幸せにならないように。

 でも人生なにがあっても自分の力で切り開き不幸になったりしないように。

 きちんと食事をとらせ、手に職をもたせた。

 ただ、あの子がつくるアクセサリーが評判になったのはあの子の生まれ持った才能だ。誇らしい。

 あの子は成長するにつれて美しくなった。そう奥様によく似た美人に。


 だけれど、その美しい顔は旦那様に避けられる原因にもなりかねない。旦那様に顔を見せないように、屋敷の一番端の部屋に済ませ、顔がかくれるように古びたように見えるローブを与えた。

 そして、万が一奥様の面影に絶えられなくなった旦那様にお嬢さまあの子が追い出されたときのために、持ち出せる宝石類も買い集めておいた。


 だけれど、あの子は出て行ってしまった。

 あの子が幸せにならなくても、無事に健やかに生きていけるようにずっと側にいたのに。

 どうして、あの子はでていってしまったのだろう。


 走り続けると、少し先の角にあの子の侍女と同じスカートが見えた気がした。

 私はさらに懸命に手足を動かし、その角に向かう。


 角を曲がった瞬間。

 なにか冷たいものが私を切り裂いた。

 冷たいはずなのに、次の瞬間、かあっと全身が熱くなる。

 そして、視界に広がる紅い色。

 これは……血?


「もうお嬢さまの幸せをあんたなんかにじゃまさせない!」


 ぐらぐらと揺れる視界にあの子の侍女と銀色に光るナイフが見えた。


 ああ、私はここで終わりなのか。

 彼女のなにか物をみるような目で、私が人間ではなく、死体になりかけているのが分かった。


 もうこれ以上あの子を守れない。

 ずっとあの子が幸せにならないように気をつけてきたのに。

 あの子が幸せなんて認めない。


 私は必死であの子の名前を呼ぶ。

 だけれど、あの子はここにいない。

 代わりにあの子の侍女が言う。


「お嬢さまは大丈夫です。お相手はちょっと単純で女好きですが、名門の家できっとお嬢さまには不自由させないでしょう。まあ、女癖は悪いけれど、それくらいまだマシな方です」


 ああ、良かった。

 あの子が幸せになるなんてみとめない。

 あの子が幸せになればきっと、奥様があの子を取り殺しにやってくるから。

 だけれど、きっとあの子はこのあと、最高の幸せは手にいれない。


 継子あの子の幸せなんて認めない。


 だけれど、あの子の今後の人生がせめて、穏やかなものでありますように。

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