別邸の佯

第1話

 別邸に住んでいる、旦那様の愛する女性ひとはきっと、とても素敵な方なのだろう。


 だって、あの旦那様が溺愛しているのだから……。


 きっと、金色の羊のようなふわふわとした巻き毛に、青い瞳、お人形のように可愛らしい女性があの別邸で幸せに暮らしているのだろう。

 旦那様にお似合いの。可愛らしくて絵本にでてくるお姫様のような女性が真綿に包まれるようにして大切に守られているのだろう。


 朝起きて一番最初に、私はカーテンを開ける。旦那様の妻である私は重厚な織りのカーテンの隙間からそっと、別邸の方をむいてため息をつく。

 ちょっとだけ、寂しげに。


 私は結婚してから毎日繰り返している。

 そう、初夜であるはずの日の翌朝からずっと、変わらずに……。

 二人用のベッドは私には広すぎる。冬のころなどは、いくら上等な羽根布団がかかっていたとしても、本来旦那様がいるはずの場所に足の先がふれると、小さく悲鳴が上がるくらい冷たい。

 家族で小さく身を寄せ合っていたころの方が、まだ暖かいと感じるくらいだ。


 ああ、家ではみんなどうしているだろう。


 弟はちゃんと毎日勉学に励んでいるだろうか、心を病みがちだった母はお医者様のいうことを聞いてきちんとお薬を飲んでいるだろうか、父は仕事だけじゃなくしっかりと家族を見ていてくれてるだろうか。

 大丈夫。きっと、全部大丈夫なはず。

 私がいるときよりも、家族はきっとよくなっているはず。

 旦那様がそこはちゃんとしてくれるという約束だから。

 貧乏で明日の心配をしながら、過去の生活を懐かしむなんて生活よりもずっとよくなっているはずだ。

 また、昔のようにみんな……笑顔でいられるはずだ。


 気分を切り替えようと深呼吸をするとスズランの甘い香りが胸の中いっぱいに広がった。甘いといっても控えめで清潔感のある優しい香りだ。

 幼いころを思い出す香り。

 我が家がまだ豊かだったころ、母の鏡台にはいつも素敵な小瓶が並んでいた。

 バラ色の五角形の瓶には透明な液体が、青くて透き通った丸みのある瓶には小さな綿のボールが詰められ、他にもすりガラスに詰められた白っぽい液体やら、異国の花が描かれた壺にはとっておきのクリームがひっそりと隠れているのを知っていた。


 母が鏡台の前に座るのを見ているのは好きだった。

 母は綺麗な人だった。普段は控えめな整った顔をしているけれど、化粧をするとはっとするほど美しい華やかな顔に変わった。

 幼いころは、誰でもお化粧をすればそういう風に変わるものだと思っていた。

 どこかのご婦人に「おばちゃまは、お化粧をなさらないの?」と小さなころの私が聞いたというのは今でも赤面するほど恥ずかしいと同時に、幼い自分はなんとざんこくだったのだろうと思うエピソードの一つだ。

 ただ、それも我が家が没落してからは見ることはなくなってしまったけれど。

 それでも、新緑のころの葉でガラスをそっと色づけたような瓶は最後の最後まで母の鏡台に残っていた。


 子供のころに母が化粧をしているのを見つめると、それに気づいた母は何回かに一回手招きして、「内緒ね」といたずらっぽくほほ笑んだあとに、ちょっとだけ私の手に塗ってくれた。

 あの秘密の化粧品もスズランの香りがしていた。

 大好きで懐かしくて、胸が痛くなる香りだ。


 この屋敷の庭、いいえ、別邸の庭までこのスズランの花畑ができている。

 スズランは私の大好きな花。

 ささやかで、したたかで、甘い香りがとてもよい。

 子供の頃は私もスズランのような慎ましいけれど魅力のある大人の女性レディになりたいと思っていた。

 私はもう一度だけ、ため息をついて、物憂げにスズランの海の向こうにある別邸を眺める。


 この習慣が始まったのは一つの申し出が始まりだった。

 あのときのことは今でもよく覚えている。


「契約上の妻になりませんか?」


 すごく綺麗な笑顔で旦那様はそういったのだ。

 その時の旦那様はまるで物語に出てくる素敵な男性の姿だった。

 太陽の光の下では金色っぽく見える柔らかそうな髪に、グレーの瞳。流行の型のジャケットをこの上なくさりげなく着こなしていた。

 あまりにも堂々というものだから、私はあやうく一張羅のドレスに紅茶のシミを作るところだった。


 私が驚いて、二の句を継げずにいると、旦那様はゆっくりと、子供に言い聞かせるように、


「契約上の妻です。そう、お飾りといったほうが分かりやすいかもしれませんね」


 旦那様は綺麗な笑顔を崩さずにいうと、紅茶を一口飲んで、「少しぬるいかな?」と首を傾げたのだった。


 ある日、私の元に縁談の話がやってきた。

 相手は公爵家。財力も家柄もこれ以上ないくらいだ。いや、私にとってできすぎているくらいだ。

 貴族とは名ばかりの貧乏な我が家にとっては降って湧いたような上手い話だった。

 私は最初、そんな縁談を渋っていた。

 不安だったのだ。

 物語で健気な少女が、すばらしいお金持ちの男性や王子に見初められるのを読むのは好きだけれど、現実にはそんなことはありえないとどこかで分かっているから。

 健気で美しければ幸せになれるならば、母だって心を病むことはなかったはずだ。

 だから、私はその縁談を渋った。

 そんな上手い話なんてあるわけがないし、一時でだけそんな夢を見せられて絶望する余裕なんてないから。


 しかし、私の家は没落貴族。

 どんなに私が抵抗しても、両親からも遠回しに辞退の旨を告げても公爵家のラブコールは続き、とうとう会うだけあってみるということになったのだ。

 結婚なんて誰ともするつもりがないので、せいぜい失礼に振る舞って結婚を諦めて貰うと思っていた。

 さて、手始めにお茶でもかけてさしあげようかしら(このために、厨房に言ってやけどしない温度でお茶をいれた)、そんな風に思案していたところに、さっきの「お飾りの妻」発言である。


 私はティーカップにかけた力をどこに納めればいいかわからなくなり、紅茶の水面はまるで荒れた海原のように揺れていた。もちろん、ティーカップの中の世界よりも私の心の中の方が大きく動揺していたけれど。


「お、お飾りの妻ですって?」

「ええ、貴方には指一本触れないことを約束しましょう」


 旦那様は注意深くこちらをみつめながら言った。


 私の声が震えているのが自分でも分かった。

 普通の貴族の令嬢ならば、これは自分を侮辱された怒りや絶望を示すのだろう。

 だけれど、あの瞬間の私にとってはそれは怒りでも悲しみでもなく、自分のところに振って現れた幸福に、体中が驚き歓喜していて、それに心が追いついていない状態によるものだった。


 私は男の人が怖い。

 だから、旦那様からの申し出は願ってもいない好条件だった。


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