第20話 まだ、帰りたくない
午後七時。
結局一時間以上ホテルで駄弁り、僕たちは帰路についた。
流石に喋り過ぎたのもあり、歩き始めた数分はお互いに無言だった。
十一月へと移り行く冷たい夜風。気遣いのない沈黙と騒がしい夜の街に浸りながら、明かりの少ない方へと流れてゆく。
「今日は楽しかったね」
唐突に口を開いた天城に、僕は「ああ」と返した。
「あのカフェのパスタ、めっちゃ美味しかったよね」
「そうだな」
「映画も面白かったし。続編出たら、また観に行こうよ」
「考えとく」
「欲しい服あったけど、清楚っぽくないから買うのやめたんだ。今度買ったら、佐伯に真っ先に見せてあげる」
「おう」
疲れていた僕は、隣からの声を適当にいなしていた。
悪いとは思うが、構う元気がない。
今日は良くも悪くも色々なことがあり過ぎた。天城のことを考え過ぎて、パスタの味も映画の内容も見て周った店も全部覚えてないし。先ほどホテルで喋り倒したことで、僕の体力は限界を超えている。
「……聞いてもいい?」
重々しい声音に、一拍遅れて「ん?」と反応した。
視線を横へ流すと、天城は悩ましそうに眉を寄せている。
「ちょっとした好奇心でさ。言いたくなかったら、素直にそう言ってもらえると嬉しいんだけど」
「だから、何が?」
「美墨ちゃんが、佐伯は武市以外に友達がいないって言ってて。あの杉本って人も、同じようなこと言ってたし。佐伯って別に変なとこないし、フツーって感じでしょ? なのに何で、孤立してたのかなって」
そう言い切ってから思うところがあったのか、「やっぱなし! 今の聞かなかったことにして!」と慌て始めた。
しかし気にはなるようで、一旦は伏せた瞳でチラリと僕を一瞥する。
僕は前へ向き直り、小さく嘆息を漏らす。
「武市以外と付き合いがなかったわけじゃない。誘われたら遊びにも行ってたし、イベント事の打ち上げとかも基本的に出席してたし。……まあ、ちゃんと友達って呼べるのは武市だけだったけど」
「そう、なんだ」
「天城も薄々気づいてると思うけど、僕って結構な心配性なんだ。友達なんて作ったら、そいつのことで余計なこと悩んだりしちゃうんだよ。ぶっちゃけ、実家にいたくないのはそれもあるからなんだ」
「家族のこと、色々心配しちゃうってこと?」
「ああ。美墨にもよく言われるんだ、その心配性をいい加減に治せって」
いつからこうなのかは、僕にもわからない。
手のかかる兄と姉、弟と妹に囲まれ、そうなってしまったのかもしれない。もしくは単に、そういう星の下に生まれてしまったのかも。
何にしても、僕にとっては何でもない話だ。
顔にホクロが二つあるというような感じの、ちょっとしたコンプレックス。
今の聞かなかったことにして、などと僕の機嫌をうかがう必要なんてない。……のだが、天城は貧血になったような青白い顔をしている。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
「……佐伯と付き合って実家に連れ戻されたら、またたくさん心配しちゃうってことだよね」
「そうなるな」
「そんなのやだ! ストレスで佐伯が絶滅したらどうするの!?」
「じゃあ僕と付き合うのを諦めればいいだろ」
「やーだーっ!」
「子供かお前は」
肩をすくめて、足元へ視線を落とした。
僕の靴に、とても小さいがコーヒーのシミができていた。天城がコーヒーを被った時、僕の靴まで飛び散ったのだろう。
それと同時に、悶絶する杉本を思い出した。あれから数時間経ったが、やはりあの顔は面白く、ぷふっと笑い声を零す。
「天城と付き合ったら……それはたぶん、すごく楽しくて面白いだろうし、実家でのストレスと合わせてプラマイゼロじゃないか。心配しなくても絶滅はしないよ」
「それって告ってる?」
「いや全然。今はプラマイプラスだし」
僕の心配性だけが、実家暮らしをする上での問題ではない。
むしろこれは全体の三割程度。残り七割は、僕を陥れようとする妹やスマホにハッキングする姉、それに負けず劣らずどうしようもない兄弟たちだ。別に嫌いというわけではないが、今の生活を続けられるならその方がいい。
「それってさ――」
急に立ち止まった天城。
振り返ると、乾いた風が彼女の髪を絡め取っていった。
頭上から降り注ぐ街灯の明かりに照らされながら、口元に自信満々な笑みをたたえて上目遣いで僕を見る。
「あたしがいるから、プラスってこと?」
実家でのストレスと合わせてプラマイゼロと言った上で、今の生活はプラマイプラスだと発言したのだから、天城の台詞は確かにその通りだ。
そう、まったく正しい。しかし、うんと頷くことは出来ない。
……単純に、恥ずかしいから。
「へっくちっ!」
突然の音に、僕はビクッと肩を上下させた。
天城はポケットからティッシュを取り出し、はにかみながら鼻を拭う。
今日の最低気温は十度以下だと、今朝のニュースでやっていた。天城が着てきたジャケットは今、コーヒーを被ったため紙袋の中。長袖のニットだけでは寒くて当然だろう。
「僕の着とけよ。ぶかぶかだと思うけど」
羽織っていたパーカーを差し出すと、天城は頬をほんのりと染めながら受け取った。
「ありがと」と袖を通して、ニヨニヨと唇を緩める。
「な、何だよ」
「美墨ちゃんが言ってたんだ。多少薄着にしといたら、帰りに佐伯から上着借りられるよって」
「パーカー返せ」
「あたしが寒くて風邪ひいてもいいの?」
「……よくない、けど」
「じゃあ、少しだけ返してあげる。手、貸して」
少しだけ、とはどういう意味だろうか。
一部切り取って返されても困るなと思いながら右手を出すと、天城は僕の手首を掴みパーカーのポケットに突っ込んだ。
「うわっ」
突然のことに体勢を崩し、天城とぶつかりかけた。
天城はニンマリと口角を上げて、そのまま歩き出す。若干腰を落としながら隣に並ぶが、かなり歩きにくい。
すると。
僕の手首を掴む天城の手が、段々と下がってきた。
彼女の人差し指が、僕の親指の付け根にかかる。そのままゆっくりと、少しずつ、ポケットの中で素肌が擦れ合う。
「……っ」
手のひらの真ん中あたりに、天城の中指の腹が当たった。
程なくして、小指と薬指の間に彼女の小指が割り込む。
流石の僕でも何がしたいのか察し、からかうなよと横目に睨みつけた。
しかし、天城は正面を見つめたまま、顔を真っ赤にさせていた。僕の目に気づいてこちらを一瞥し、「誰にも、バレないから」と小鳥が囀るような声で零す。
ぎゅっ、と。
手と手が絡み合った。
僕と天城にしかわからない場所で。
運動会やフォークダンス以外で、初めて異性と手を繋いだ。
温かくて、やわらかい。少し握ったら折れてしまいそうほど指は細いのに、絶対に離さないという意思を感じるほど強く僕の手を掴む。
これは不純異性交遊なのでは、と冷静に思考する頭は、彼女から伝播する熱に追いやられ段々と失せていった。
心臓が高鳴る。
手汗を不快に思われていないかという不安で、心の中がいっぱいになる。
「ねえ、佐伯」
消え入りそうな声と共に、天城は想いを紡ぐ。
「……あたしまだ、帰りたくない」
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