第2話

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突如現れた、唖(おし)の少女。

美しい髪にこぼれ落ちそうな透き通った瞳。

ふくよかな豊穣を示す胸元に、くびれた細腰。

柔らかな太股にすらりとのびる足、滑らかな素肌。

声がでないらしい。


足取りはおぼつかない少女に、庇護欲をそそられた王子。

彼は彼女を海岸で拾って、宮廷に住まわせた。

王子は馬鹿な姫がかわいい。

無垢で素直で無知で奔放で天真爛漫。

真っ白な子猫に似た愛らしさに、夢中にならないはずがない。


愛の日々は美しい。

温かく擽ったい。

愛しさと恥じらいと甘酸っぱさ。

煌めく黄金に似て目映くも重く価値のある、代えがたいもの。


しかし王子には懸念があった。


彼女は躍りが得意だ。

くるくると人形のように、ふわふわと重力を感じさせない軽やかなステップ。

求めれば求めるほどうまく踊った。

しかしいつまでも作法はできない。

宮廷作法を人魚姫は知らない。

それでは王妃にはなれない。


いち早く危惧したのは王子の両親。

彼女の奔放さに辟易し、嫌悪を隠さず苦言を呈す。

王子は姫を庇うも、両親の負の勢いは弱まらず、次第に押されていく。

ついには彼らは、王子に相応しいお見合いを用意してきた。

王子はそれをのまざるを得ない。


王子の決断。

それは彼女にとって、裏切り。

王妃に相応しい姫を娶り、地位を確立した上で人魚姫を愛でる。

堅苦しい思いもさせず、自由でいられる。

それこそが彼女の幸せと信じて。

理知も才覚も躾も作法も凡そあらゆる堅苦しいものは彼女に相応しくない。

ならば彼女は愛妾にこそ相応しい。


人魚姫は選択を迫られる。

声があれば。

だがその選択はない。

姉達がナイフを手渡し、王子を殺して人魚に戻れと。

そうでなくとも王子は死ぬ。

王子が人魚姫を裏切れば、魔女との契約で死ぬ。

人魚姫に残された手段は一つ。


人魚姫は眠れない。

人魚姫は忙しい。


王子の裏切りを消すために、王子を殺さなくていい方法は。

王子が裏切るまえに自分が裏切ればいい。


人魚姫は王子を裏切るのに忙しい。

彼女は急いでいた。


ふと、騎士と眼があった。

騎士は姫に同情した。

言葉がなくとも、彼らは通じあった。

姫は騎士と関係を持った。


王子は驚く。

ただただ事実が飲み込めない。

あの純真無垢な姫が裏切るなど信じられない。


両親は直ぐに処断を決めた。

家臣はそれを是として、裁判と火刑台があれよあれよと目前に迫る。

王子は足掻くが、周囲の声は止められない。

口もきけぬ姫を問いただすことは出来ない。


憐れ彼女は火炙りに。






ーーーーー







目が覚めると不思議な空間にいた。

真っ白で何もない。

いや、ただ、大きな水晶玉のようなものが、目の前にあった。

水晶玉はゆらゆら光を反射し、その中で次から次へ劇的に移り変わる色彩。


それは、繰り返し繰り返し。

尾びれのついた少女が、足が生えて陸にあがり、そして火にあぶられていく。


「これは」

『そう。君の知っている物語』


目の前に白い布が翻り、人の形のようなものに変化する。

中身はない。

脳に触れるような声が響いた。


『私は案内人。貴女は今、生死の境にいる』

「え。あたし、死んだの?」


瑠衣はがばりと身を起こした。


『死んではいないが、限りなく死に近い』

「もしかして、流行りの転生もの?それなら親ガチャ失敗してるし。是非希望だけど」


お金持ちで、優しい両親が良いなぁ、等と彼女は思いを巡らせる。

もしそうなれば人生楽勝。

最初から恵まれてないからこんなことになったのだし、親さえ当たりなら、きっと上手く行く。


『生まれ変わり。そうだな。それに近いのかもしれん。あれを、見たか』


期待から捲し立てる瑠衣に、布のような人形は大きな水晶を指し示した。


「ええ。何か関係あるの?」

『神の計らい。貴女がもし、この人魚姫を助けることができたら、もとの世界に戻ることができる』

「人魚姫をサポートするってこと?」

『いや、貴女が人魚姫になるのだ』


淡々と、布切れはそう言った。

瑠衣は愕然とする。


「そんなの無理よ」


口もきけなくて、こんなに必死に王子を愛しているのに。

伝わらないというのに。

どうやって助ける。

本人はこれ以上努力なんて出来ないだろうに。


『これは罰でもあるのです』

「どうして。あたし罰なんて…」


布切れは、機械的な声で続ける。


『陽太くん。彼はこの先助けれなかった貴方を悔いて、余生を過ごす。何十年も誰も愛することなくね。貴方を愛していたから』


え、と瑠衣は言葉に詰まった。

事実が飲み込めず混乱する。


彼は彼女を愛していたと。

何年も会ってなかったのに、そんな夢みたいな都合の良い現実、有るわけがない。

立派に成長した彼が、彼女を掬い上げてくれる未来があったなんて。


「そんなの。そんなの、わかりっこないじゃない。あたしは、ただ陽太を遠ざけただけなのに」

『遠ざけただけ?』


切れ切れに、同様を隠せない瑠衣。

布切れは機械の故障を起こしたかのような、怪訝そうな声色で訊く。


「そうよ。あたしと関わったら、ロクなことがないもの」

『関わらせないため?』

「そうよ。陽太に損させたくないもの」


だから、ちゃんと身を引いた。

ホントなら、後腐れなかった。

陽太が追いかけて来るなんて思ってなかった。

これで納得できたでしょうと、瑠衣は布切れに言い切ろうとして。

異様な雰囲気に押される。


『じゃあ、どうして彼を傷つけた』


何処か重苦しい。

説教するというより、不機嫌さを伴った暗い感情。

凡そ人らしくない、感情を持たないような機械的だった布切れ。

それが初めて見せた、威圧的な負の感情だった。


『傷つける必要はなかったのに、何故』


低く圧し殺された脳に響く声に、瑠衣は恐れを抱いた。

彼女を支配したのは、一刻も早くこの得体の知れない何かと離れたい、それだけだ。


布切れはガタガタ震えだした瑠衣に、何か思うところでもあったのか。

再び機械のような声に戻る。


『罰であると同時に、哀れだったから。これは神の慈悲です』


うんうんと、瑠衣は涙を流しながら頷く。

布切れは、それで満足したらしい。


徐々に彼女の体が透けていく。

転移が始まったのだ。


『頑張って』




ーーーーー






目が覚めたら、砂浜にいた。


立ち上がると、爪先が切り刻まれるように痛んだ。

怪我をしているのかと思ったが、爪先は無傷だ。

ついでに痛みに叫んだつもりが、声がでない。

本当に人魚姫。

もうだいぶ詰んでるところからのスタートだ。


遠くに白馬が見えた。

馬上には、冠をつけた見覚えのある顔がある。

かなり遠くにあるのに、顔の判別が可能なことに違和感を覚える。

こんなのはチートでも何でもない。


忘れるはずがない。

最期に灼きついたのは、あんなに悲しい顔だったから。そう、悲しい顔。傷ついた、顔。


馬上の彼は、優雅に馬を操った。笑ってるその顔に、ほっとする。



ーーー陽太



やっぱり、声は、出なかった。

とんでもないハンデ。

なんて慈悲。

なんて自分勝手な。

酷い神。


打ち寄せる水飛沫が肩に触れ、小さな光の粒になった。


「やあ。可愛い人。君は何処の子だい?」


柔らかな紳士の微笑み。

ああ、でも本当には笑っていない。


「僕はゾンネ」


ホロリ、熱いものが込み上げた。


「どうしたの。泣かないで」


はくはくと、息をするように口を動かす。

空気は通る。

音にはならない。

彼の手が頬に触れ、涙をぬぐう。


「君は、もしかして言葉が…」


驚いたゾンネ。

そう、彼は陽太ではない。

陽太はこんなに気障じゃない。

ゾンネは同じ顔で、戸惑うほど仕草も表情も似ているけれど、陽太じゃない。


「君は、そうだな。トレーネ。トレーネでどうだろう」


陽太じゃない。

わかっているけれど。


同じ顔。

同じ声。

手に入れ損なった幸せに妄想するように、妄執のような恋心が燃え上がるのに、時間はかからなかった。




結果は無惨なものだった。

愛しても尽くしても、そう、彼はゾンネで陽太ではない。

陽太のようにトレーネを追いかけたりはしない。


繰り返し繰り返し。

何度もゾンネに裏切られていくうちに。

トレーネはゾンネを憎んだ。

同時に陽太にも似たような気持ちを抱いた。

陽太はこういう気持ちだったんだろうかと。


彼は、あたしを裏切ってない。

ゾンネは、トレーネと共にいる道を探しただけだ。

実現可能な未来を描いただけ。

だけど、トレーネにとっては裏切り。

張り裂けそうな胸の痛みは、何度繰り返しても慣れない。


人魚姫は眠らない。

何とか王子に振り向いて欲しいから、気づいて欲しい、真実の愛のために。


人魚姫は眠れない。

何度も王子への猜疑心に苛まれて、痛みにもがいて、憎しみのために。


真実の愛のために、決して可能ではない課題を与えられる悲劇と、同じ類いのもの。

それで人を試す、なんて酷い話。



そしてわかった。

ゾンネはあたしと同じ。



あたしのあれは、押し付けやった。

陽太に詫びたい。


ごめんなさい。

あたしのエゴで、あんたを傷つけた。

態と、陽太の理想壊して、印象付けようとした。

可哀想なあたし、落ちぶれて自棄になってる、人も頼らない意地っ張りを、目につくように演じたから。

陽太は昔から、そんな人に寄り添っちゃうって知ってた。

幼馴染みに恋愛はなくても、困ってるってわかったら、優しいあんたはほっとけなくなる。

追いかけて来てくれるやろって、期待してた。


打算したら計算通りやったけど、引っ込み付かんくて車に引かれるやなんて。

ホンマにアホやわ。






ああ、でも。



人魚姫ってこんな話やったっけ?

こんな苦しく逝くやなんて、童話らしくない。

地味に心折ってくるから。


ホンマに辛いんよ。

焼かれるあの瞬間。

油と肉と熱。

痛みと匂い。

早く息が出来なくなれば楽やのに、結構長いねん。


よく精神がイカれないもんやって、今は思ってられるんやけど。

多分あと何回もは耐えられへんと思う。

精神イカれたら、もう、陽太には謝られへんわ。




何度目かの火炙りを数えるのはやめて。

トレーネは再び始まるために目を閉じた。








ーーーーー




真っ白な空間。

そこに浮かぶ二つの影。

目の前には大きな水晶球。


代わる代わる映し出される色彩は鮮やかで褪せていて、この世のものではない。


『どうして。人間は最善の答を選べないんでしょうね』


布切れは、もうひとつの布切れを窺う。


『泡になる人魚姫は救われる。彼女がその事に気づいたら、きっといい結果になる。だけどもう、彼女は覚えてないのかもね』

『覚えてもいてくれてないとは、思いませんでした』


もうひとつの布切れの中には、顔があった。

それは彼女がよく知るものだろうと、顔のない布切れは思う。


『それが君の願いでしたね。大丈夫。思い出すまで、何度でも繰り返される。それとも、もう止めたい?』


顔のない布切れの問いに、顔のある布切れは逡巡する。

沈黙は、二呼吸ほどの間。


『いいえ』

『彼女、壊れますよ?』

『愛される人はずるい。人を愛すことを知らずに傷つけるから。…続けます』


満足そうに何度か自身の首を縦に下ろす顔のある布切れ。

それはまるで自身に言い聞かすように。

決断の正しさを検証し、確認している、研究者のような顔付きで。


『では、僕は《戻ります》』


言いたいことだけ言って、顔のある布切れが、消える。




真っ白い。

水晶球以外、何もない空間に残された影はひとつ。

常にこの空間に漂う、管理人。


それは再び水晶球に魅入る。

海の青が鮮やかに、波頭は目映い金の縁取り。

空の境界は曖昧で、大地の境界ははっきりしている。


白い花は何度も汚されながら、何度も咲き誇り、枯れていく。

だが確かに、蝕まれていく花。

じわじわと毒が、全身に行き渡る迄。

行き渡っても止まることはない。

それを美しいと、穢らわしいと、ない交ぜの感情が、確かにそこにはあり。




残された布切れが、独りごちる。



『どうして。人間は最善の答を選べないんでしょうね』






人魚姫が、安寧に眠ることはない。





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人魚姫は眠らない 个叉(かさ) @stellamiira

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