嘘つきに祝福を
月並海
第1話
まるでいつも通りに、最後の嘘をつきました。
それはどうしようもない嘘でした。
その日、私は彼といつものようにバイトから帰るところでした。田舎の夜道は疎らな街灯しか光がないので、冬は対向車のハイライトで目が眩むほどに真っ暗です。私達はバス停に向かっていました。
彼は幼馴染でした。可哀想な私を、家族以上に大切にしてくれました。思い出をたくさんくれました。約束もくれました。高校を卒業したら、一緒にこの町を出て家族になろうと指切りをしてくれました。
珍しく頬を赤らめてそう言ってくれた彼の全てを、私は一生忘れないでしょう。
そして、彼との約束を反故にする自分を一生許せないでしょう。
私は嘘を吐きました。
私の父は、それはそれはもうどうしようもないクズで、母や私や弟を殴ることでしか家族をやっていく方法を知らない男でした。私たち三人が家族でいるためには、この街から逃げ出すほか方法がありませんでした。
本当はお別れを言うべきなのです。真摯に今までの感謝を伝えるべきなのです。
けれども、私にその勇気はありませんでした。お別れを言ったら、彼とのか細い絆が途切れてしまうような錯覚を覚えていたのです。
今日までのように彼と過ごせないことを、笑って伝えられるとは到底思えませんでした。
「忘れ物をしたから取ってくるね」と言いました。
彼は一緒に行こうかと言ってくれましたが、私は一生懸命に笑顔を作って言いました。
「すぐに追いつくから、先に行ってて」、と。
バス停に向かう彼を背に、私は走って駅に向かいました。走って走って、何も考えられないように、ただ足を動かしました。
冷気が肺を痛め、鼻も目も口も渇き、血が急激に身体を巡っても、アクリル板で作られたバス停の待合小屋で一人待つ彼の姿が脳裏に焼き付いたままでした。
駅に着いて母と弟の温い手に触れた瞬間、彼のいるであろうバス停の冷たさを思い出したのです。
とっくの昔に決めたはずの覚悟が揺れて崩れる前に、私は改札に足を進めました。
◇
まるでいつも通りに、最後も嘘をつかれました。
それがどうしようもない嘘ということも分かっていました。
彼女は幼馴染で、小さいころから僕らは一番近くにいました。そして、一番多く嘘をつかれました。
青くなった頬について尋ねると彼女は笑って「私ドジだから、ぶつけちゃって」と嘯き、大きな物音への過剰な反応を心配すると「大丈夫」と誤魔化すのでした。
原因は知っていました。暴力でしか人と関われない父親と彼女の陰に隠れ怯えることしかできない母親と弟のせいです。家族が彼女の人生を搾取しているのです。
だから、僕は解放してあげたかった。弱弱しい笑みでしか自分を繕えない彼女の全てを僕自身の手で救ってあげたかった。
僕は嘘を吐かれました。
彼女の様子がおかしいことは分かっていました。真面目な彼女にしては珍しく、バイトでミスを繰り返し、気付くと心ここにあらずといった風にどこかを見ていました。
幼馴染の様子に、僕は一つだけ心当たりがありました。
とうとう彼女がこの街から逃げる覚悟を決めてしまったということです。家族になる約束をした僕とではなく、同じ痛みを抱える家族と今夜街を出ていくのでしょう。
悔しさと悲しさと恨めしさで頭がいっぱいになりました。僕に黙って出ていくことも彼女が逃げなければならないことも、僕が一緒に行けないことも、全てのどうしようもない事柄に怒りが沸きました。
未成年の僕は彼女を守ってやることはできません。僕と彼女は、目の前に立ちはだかる現実的な障壁に対して、絶対的に無力なのです。
だから僕は、何も聞かずに送り出すことに決めました。それがせめてもの救いになることを信じて。彼女の嘘を明るみに出さないことが正しいと信じて。
「忘れ物をしたから取ってくる」と言う彼女に、一緒に行こうかと自然な風を装って提案しましたが、「すぐに追いつくから、先に行ってて」と返されました。
彼女に背を向けるふりをすれば、駆けていく足音が聞こえます。
僕は足を止めて、彼女の背中が闇に溶けるまでずっとその姿を見守りました。
空気に晒された肌は全て氷のように冷え切り、足は鉛のように重く動かせません。
どうか彼女の冷たい手を家族が温めてくれますように。そう願いながらやっとの思いでバス停へと足を進めます。
夏であれば虫が集まる電灯も、こう寒くてはわざわざ寄ってくるわけもなく、田んぼに囲まれたバス停はただただ静かでした。僕は一人きりでした。
明日が来なければいいのに、という軽くて薄っぺらい願望が頭の中を浮いたり消えたりしています。彼女がいなくなった前の日のまま、ずっとここで彼女を待ち続けたい、と一人の今を認めたくない気持ちが溢れてきます。
バスが来るまでの間、僕は冷たい指先で温い涙をぬぐい続けたのでした。
嘘つきに祝福を 月並海 @badED_
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