ヒーローシンドローム

月並海

第1話

『速報です。現地時間の午後一時、××国にて開催中の万国博覧会で複数の爆弾テロが発生しました。容疑者は未だ不明ですが、一部報道では数年前から××国にて活動を活発化させているゲリラ組織ではないかと伝えられており、当局では引き続き調査を進めています。

 また、この爆発により数十名の怪我人が出ており、その中には開催地である××国の王太子夫妻もいる模様です』

 穏やかな朝の時間は、ニュース速報により緊迫した空気に一変した。

 その日の私は、夜中の二時まで夜更かしをしたせいで半分目を閉じたまま、機械的にトーストを口に運んでいた。マーガリンが申し訳程度に塗られた八枚切りの食パンは、味わいもないくらいにいつもと同じ味だ。

「やーね、最近物騒で」

 母がテレビと私たちどちらに話しかけているか分からない調子で不平を呟く。タブレットでネットニュースを眺める父がかすかに相槌を打った。

 女子アナの緊張したような、強張った声が悲惨なニュースの続きを伝える。

『これにより、竜胆界人さんが亡くなりました』

 りんどう、かいと。知っている名前がテレビの先から聞こえたことに驚き、私はトーストを落とした。

 界人さんが、死んだ?

『竜胆界人さんは、ヒーロー・リンドウとして世界各国で活躍しており、今回の万博では現地警察などと協力して主要会場での警備を行っていました。複数個所に設置されていた爆弾処理を彼がいち早く対応し、多くの爆弾が不発のまま回収されています。竜胆さんのご冥福をお祈りいたします』

 神妙な顔で頭を下げた女子アナの映像を最後にテロの報道は終わり、スポーツニュースの軽妙な雰囲気へと変わった。

 食卓に満ちる息が詰まるような空気が少しだけ緩む。

 母はとりなすように、いつもよりワントーン高い声を出した。

「竜胆界人って、竜胆さんちのお子さんよね? 綾香覚えてる? 美世ちゃんのお兄ちゃんの」

「知ってるよ」

 母のおしゃべりがこの上なく鬱陶しくて、私は言葉を被せて会話を終わらせた。

 覚えていないわけがない。

 ヒーローはSNSでも人気だし、ニュースにもたくさん取り上げられる。出身の著名人として街のいたるところで界人さんの名前や写真を見た。活躍目覚ましい界人さんの名前を聞かない日はなかった。

 SNSは『リンドウ』の文字で溢れかえっている。界人さんがヒーローとして働くときに使っていた名前だ。みんな、リンドウの死を信じられなくて、悲しんで、悼んでいる。

 クラスのグループメッセージの通知は既に七十件を超えていた。ピコピコといちいち到着を知らせる通知音がうるさくて、アプリの設定から通知音を消す。

 ざっと眺めても、SNSと変わらない内容だ。みんなが悲しんでいる。その事実が、本当に界人さんが死んでしまったことを嫌というほど私に痛感させる。

 単語を目で拾いながらスクロールすると、

『リンドウって竜胆さんの兄妹ってマジ?』

 というメッセージを見つけてしまった。

 なんとなく、まずいと感じた。

 その軽々しい疑問には、私たちと同じ小学校だった子たちが目ざとく肯定し、話題は隣のクラスの竜胆美世のことに移っていく。

 陰気で目立たない同級生がかの有名人の家族ということが、面白い話題として彼らには感じられたらしい。

 から元気のような、悲しみを下世話なネタで塗りつぶすような。とにかく、美世の話題を話すことはやり場のない感情を間違った方向に走らせている気がした。

 辟易した私はスマホをブレザーのポケットにしまい、家を出た。


 街中が騒がしい。そう感じるのは、自分の中が騒がしいせいかもしれない。

 いつもの通学路は比較的閑静な住宅街なのに、ざわざわと人の動きを感じる。大通りに出るとそれはもっと顕著で、いつもと変わらない人の量のはずなのに、流れが鈍くどんよりとした雰囲気が充満していた。

 リンドウ、と声に出しながら啜り泣く声を聞いてしまった。思わず顔を向ければ、同じ制服を着た知らない女の子たちが寄り添うようにして慰め合っていた。

 そうだ。ヒーロー・リンドウは若い子に特に人気があった。

 ヒーローなんて職業は、フィクションみたいに派手で無敵じゃない。街のゴミ拾いから始まり、迷子の案内、防犯パトロールから警察への協力まで業務は多岐に渡り、その九割九分が地味だ。

 よく言えば人助けのプロ、悪く言えば何でも屋。それが現実のヒーローだ。

 数年前までは「何でも屋」という悪いイメージの方が世間的にも強かった。そのイメージを良い方に変えたのが、リンドウだった。

 華やかな容姿、頑強な肉体、そして「変身」というかけ声。

 変身、なんて言ってもやることは、フルフェイスヘルメットを被るだけだ。ヒーロースーツに早着替えするわけでもなく、人外の力を目覚めさせるわけでもない。ヘルメットだって、安全のために被る必要があるだけ。他のヒーローは被って現場に出ていくヘルメットを、リンドウはわざわざ現場に出てきてから被るのだ。それも、支給される真っ白なヘルメットを青紫色に塗ったオリジナルのものである。

 何かのインタビューで意地の悪い記者が尋ねた。

「なぜリンドウさんはそんな派手なアピールをしているんですか? 安全面でも迅速な救助活動という面でも現場に出てからヘルメットを被ったり、変身なんて声を出すのは不適当だと思われますが」

 カメラがリンドウの顔をアップで映す。一瞬呆けた顔はすぐに凛々しい笑みへと変化した。

「ヒーローという職業を志したとき、私は人のために何ができるだろうと考えました。現実では困っている時に『助けて』なんて声に出す人はなかなかいません。周りに人がいるとも限りませんし、助けに来てくれた人が悪意を持っていないとも限りません。実際、ヒーローを偽装した犯罪は年々増えています。ヒーローの信用はなかなか世間から得られていないのが現状です。だから私は、ヘルメットの色を青く塗り、メディアで顔をだし現場でも顔を出すことで、本物のヒーローとしてみなさんに安心してほしいと思っているんです。『変身』なんて声に出すのはある種の照れ隠しですね、到着してそそくさとヘルメットを被るよりも堂々と被っちゃおうと」

 ははっと大きな笑いをこぼして、リンドウは口を閉じた。

 彼の堂々たる姿が今も鮮明に頭に残っている。そのインタビューから少しずつリンドウは知名度を上げ始め、ついにはヒーローの代名詞になった。

 ──それなのに、あんなに呆気なく死んじゃうなんて。

 普段はBGMにしか聞こえない人の声が全部耳に入ってくる。まるで私の細胞の一つ一つが声をあげて、リンドウの死を悲しんでるみたいだった。


 学校も街とそれほど大きくは変わらなかった。むしろ悲しみは濃い気がする。それは学校という環境が生む、悲しまなければならないという同調圧力のせいかもしれない。

 昇降口も廊下もリンドウという言葉がそこかしこから聞こえてきた。けれども教室に近づくにつれて、その名前はヒーローのものから、界人さんの妹の美世のものへと変わっていった。

 とある教室の前だけ異様に人だかりができている。美世のクラスだった。

 何故みんなが集まるかは分からなかった。何故みんなが美世のところへ来るのか分からなかった。親族ならば、報道されている以上の情報を持っているとでも思ったんだろうか。事故はつい数時間前に遠い外国で起こったことだ。有名人とはいえ、一国民の状況をすぐに親族へ連絡するほど日本政府も暇じゃない。

 みんなが美世に何かを求めていることが分かった。盲目的な渇望が恐ろしかった。

 私は人だかりの隙間を縫って廊下を進む。ちらりと見た教室の中に美世の姿が無かったことに、安心した。

 自分の教室は朝見たメッセージのテンションよりかは少し落ち着いていた。私はほっと息をつき、友達の近くへと行く。

「綾香早いじゃん、珍し」

「綾香おはよー」

「おはよ」

 いつもと同じであることがいかに大切であるかを私たちは無意識に理解しているから、たわいもない軽口で存在を確認し合う。

 昨日の音楽番組の話をする彼女たちの声を聞きながら、ふと美世にはこういう友達がいるんだろうか、と考えた。

 美世は幼馴染だ。幼稚園から小学校まではよく遊んでいたけど、次第に付き合う友達の種類が分かれて距離が広がった。

 たまに見かける美世はヒーロー・リンドウの妹とは思えない見た目だった。高い背は猫背のせいで目立たず長い前髪で陰鬱な雰囲気を醸していた。誰かといる様子はあまりなく、空気みたいな存在だった。だから、この状況において混じり気のない善意で彼女を心配する他人がいないかもしれないと心配が頭を過った。

 


 放課後。何故か先生に呼び出され、職員室へ向かった。電話のコール音が至るところで鳴り続ける、異様な雰囲気の職員室へ形ばかりのノックをして入る。

 呼び出した先生は心なしかげっそりと疲れ果てているようだった。

「葉村、いきなり呼び出して悪いな」

「部活もないので大丈夫ですけど……、何かあったんですか?」

「あーー、うん、ちょっとマスコミとかな。うち、リンドウの母校だから」

 あー、と先生と同じ言葉が口から漏れる。

 大変っすね、なんて他人事を労えば、気まずそうな顔をして先生が茶封筒を差し出した。

「これを、竜胆の家に届けてやってくれないか」

「えっ、なんで私なんですか」

 思わず出た言葉がずいぶん非情だったことに私自身が驚く。目を丸くしている私とは対照的に、先生は目を細くして笑みを浮かべた。

「竜胆さんのお宅もここみたいに電話なりっぱなしらしくて、家の外にもマスコミが押しかけて身動き取れない状態なんだよね。ただ、こちらとしてもご両親に許可を取らないと竜胆界人さんの情報は公開できないわけで、公開できないと一生この電話は鳴り止まないわけ。だからこれはその許諾に関する書類」

 先生は目の前で鳴り始めた電話を至極鬱陶しそうににらみながら続ける。

「書類を渡すのでお伺いしたいと連絡したら、葉村が家を知っているから彼女に頼んでくれって」

「はぁ」

 気の抜けた返事は、未だ疑問が解消されないことへの不満から出たものだった。私を指名する理由が分からない。そりゃあ、幼馴染だけど。今はもう他人と言っても差し支えない距離感だし。

「とにかく、ちゃんと竜胆に渡してくれよな」

 ずいっと茶封筒を押し付けた先生は、しつこく鳴り続ける電話を取り対応を始めてしまった。軽すぎる封筒はこっそり机の上に戻したら、他の書類の山へと飲み込まれてそのままなかったものになってしまいそうだ。

 私はぼんやりと職員室を見回す。目が合う人はいなかった。みんなが目を吊り上げて、電話の先の顔も知らない人へテンプレートの返事をしている。「竜胆界人さんについては」、「竜胆くんのことは日を改めて」、「竜胆さんのことは市の方へ」、……。

 どうして静かに悼むことができないのだろうか。悲しみをそのまま受け取ることができないのだろうか。こんな風に死を騒ぎ立てられことを彼は望んでいたのだろうか。

 誰と話すこともなく私は職員室を出る。言われた通りに美世の家に行く道中も、電話のコール音が耳について離れなかった。


 美世の家の前は異様な雰囲気だった。

 竜胆家は通学路添いにある。朝だって人の動きでざわざわとした雰囲気のあった住宅街だが、竜胆家に近付くにつれて、テレビカメラを持ったカメラマンやら手当たり次第に道行く人を捕まえるインタビュアやら、いわゆるマスコミ関係者が増えていった。

 普通の一戸建てである竜胆家の前には、美世の教室に群がっていたのと比べ物にならない人数がひしめき合っている。ここだけがすごい熱気だ。

 初めて間近に見るメディアスクラムに面食らった私が、どうすれば手元の封筒を届けられるかと様子を伺っていると、おもむろに玄関のドアが開いた。

 パシャパシャッパシャパシャッパシャパシャッパシャパシャッパシャパシャッパシャパシャッ。

「竜胆さん! 亡くなった息子さんについて何かひとこと!」

「竜胆さん、界人さんはテロ行為によって亡くなりましたが政府から何か連絡はありましたか?」

「葬儀の予定について教えてください!」

「日本中央報道社ですが、ヒーロー・リンドウの特集を組ませていただきたく、ご家族の皆様にも協力をお願いできないでしょうか!」

 一斉。まさにその言葉が相応しかった。

 スクラムを組んだマスコミが突進するようにして、玄関から出てきた男女に近付き、用意してきた言葉をぶつける。

 一身に口撃を受ける男女は、界人さんと美世のご両親だ。思い出の中に抱いていた朗らかな面影はなく、やつれ悲しみに暮れた痛々しい印象ばかりがカメラに映される。

 二人は支えあうようにしてマスコミへ返事をした。朝のニュースで息子の死亡を知ったこと、外務省から電話があり情報が明らかになり次第連絡すると言われたこと、葬儀は未定であること、今はまだ混乱しているためそっとしておいてほしいこと。矢継ぎ早に飛んでくる質問へ、丁寧に丁寧に消え入りそうな声で答える。

 きっとこんなことしたくないだろうに。界人さんが生きている可能性を信じていたいだろうに。そんな淡い幻想すらも見させてはくれない人々は、ヒーロー・リンドウを失った悲しみを感じないのだろうかと思った。

 否、彼らも悲しいのかもしれない。朝、美世のクラスに集まった生徒たちと同じように、英雄の妹に、両親にこの渇望を癒す何かを求めているのかもしれない。

 言葉は止まない。次の記者が質問をしようと名乗ったのと同時に、玄関のドアが乱暴に開け放たれた。

 出てきた人物は目尻を吊り上げ、何も語らず前に進み出でる。ざわつくマスコミを無視して、両親の腕を掴み玄関へと戻る。

「妹の美世さんですか? お兄さんについて何かひとこと!」

 美世たちに合わせて、マスコミのスクラムが前進した。一際声の通るインタビュアが美世に質問を投げる。

 美世は両親を玄関に入れると、振り返った。

 ぞっとするほどの怒りを宿した瞳に、私は身震いした。

 いつもは長い前髪でよく見えなかった顔が前髪をあげているせいでよく見える。意思の強さを感じさせる界人さんとよく似た面立ち。だが今は表情の何もかもが抜け落ち、ただ瞳ばかりが彼女の気持ちを主張している。

 美世は血の気の引いた唇を開いた。

「お引き取りください。ここにはヒーロー・リンドウはいません」

 温度を感じさせない声が耳を貫く。マスコミがたじろいだその一瞬に美世は家の中へと帰って行った。

 取材対象を失った彼らは蜘蛛の子を散らすように、竜胆家の前からいなくなっていく。

 この様子だと、インターホンを鳴らしても出てきてくれなさそうだ。

 マスコミに捕まらないように足早にその場を去る。世界を拒絶するみたいな美世の姿が家に帰ってもずっと頭の中心を占拠していた。

 


 翌日、私は墓地に向かっていた。

 昨晩、数年使っていない美世のメールアドレスに「書類を持って行っていいか」と連絡すると、受け取り場所にそこを指定されたのだった。

 灰色のブロック塀の先、墓地の入り口には誰もいなかった。簡易的な門扉を押して中へと入る。

 休日とはいえ午前中の早い時間では、墓参りをする人もいない。その静けさが死んだ人々がいる場所、ということを強く感じさせた。何となく気味悪く感じて、私は駆け足で美世を探した。

 美世はとある墓の前にしゃがんでいた。近付いてくる足音に、一瞥をくれる。

 彼女は何も言わなかった。口の端をピクリともせず、手に持った線香に火をつける。途端にあの『線香の匂い』としか呼べない匂いがした。匂いの元は美世の白い指先によって、香炉の中にそっと置かれる。

 美世が手を合わせるのに倣って、私も目を閉じ手を合わせた。お墓の下にいる人を誰も知らないので、代わりに界人さんが天国で穏やかに眠れますように、と祈る。

 目を開けると美世が立ち上がっていた。彼女のセンター分けの前髪とポニーテールが風で揺れる。

「美世。界人さん、残念だったね……」

 そう声を掛ければ、昨日とは別人のように覇気のない声で「別に」と返ってくる。

 その言葉がひどく無神経に感ぜられた。こんなにもみんなが兄のことで悲しみ渇き絶望しているというのに、その妹が何も感じていないのかと考えると、ふつふつと怒りが沸いてきた。

「なんか、その言い方はなくない? あんたは界人さん亡くなって悲しくないわけ?」

 悪意は口から飛び出し、美世へと向かう。

 彼女はひとつ、ゆっくりと瞬きをした。瞼を上げたとき、彼女の瞳には昨日と同じぞっとするほど強い怒りが映し出されていた。

「何を勘違いしてるのか分からないけど。私は三年前に竜胆界人は死んだと思ってるから」

「はぁ?」

 何を言っているのか分からなかった。三年前、なんてリンドウとしての仕事が急増した時期だ。死んだなんて誤りにも程がある。

 美世は私の顔から墓石へと視線を移す。

「三年前から兄は家に一度も帰ってきていない。仕事、人助け、ボランティア。求められるままに兄は東奔西走していた。稀に家族に会えても、リンドウとして呼ばれればそちらに行く。顔を知られてしまったばかりに、ヒーローなんて仕事を選んだばかりに。ただのひと時もヒーロー・リンドウでいない時間はなかった。だから、私は兄が三年前に死んだと思っている」

 淡々と、しかし煮え湯のごとき温度を持った言葉が吐き出される。

「変身? ばっかみたい! ヒーローなんてフィクションの見過ぎよ。人気取りに躍起になって他人の顔色ばっかりうかがってさ、そんなことしてるから何も知らない土地で死んだりなんかするの、自業自得よ」

「美世!」

 ヒートアップしていく美世に思わず静止の言葉をかけた。肩を掴んでこちらを向かせる。

「言い過ぎだよ」

 美世の眉がつり上がった。肩にあった私の手を虫でもいるかのように払いのける。

「言い過ぎ? ヒーローのリンドウしか知らない他人が言わないで。マスメディアが作り出した幻想ばっかり追いかけて、欲しがるばかりで与えるということを知らないあなたたちみたいなのが口を出さないで!」

 美世の絶叫が私の心の柔いところに突き刺さった。そこはリンドウの訃報を聞いたときに最も痛みを訴えたところで、彼の名前を聞くたびに新しい傷ができ、彼のことを考えるたびに化膿するところだった。

 存在しない傷が広がることを恐れるように、私は美世から距離を取り、心臓を押さえた。

 わなわなと唇が震える。何か言ってやりたかった。彼女から無遠慮にぶつけられた怒りを同じだけ返してやりたかった。

 けれども、何も出来ない。彼女もまた、私達と同等かそれ以上の絶望を抱いていると知ったから。怒りに燃える瞳には涙はなかった。彼女の涙はこの三年の間に涸れ果ててしまったのかもしれない。

 沈黙のまま、私達はお互いの目を見ていた。墓地は静かすぎて、時間を感じさせないのがなんとも恐ろしかった。

 先に動いたのは、美世だった。

「兄さんは、竜胆界人はあなたたちに殺されたのよ」

 小さくそう吐き捨てて、美世は墓地を走り去っていった。

 線香の煙が細く立ち上る。空へ向かう前に見えなくなって、世界のどこかへと消えていく。

 亡くなった人は火葬された後、空の上の天国へ行けるのだろうか。それとも、煙と同じように世界のどこかへ消えていくのだろうか。

 答えはない。死後を知る人なんていないから。

 それならば、どうか夢を見させてほしい。世の中に兄を取られてしまったあの子の傍に、兄の魂がありますように。どうか世界が少しだけあの子に優しくありますように。そう願わずにはいられない。

 きっと、世間はヒーロー・リンドウの話題で持ちきりだろう。マスコミは求められるままに情報を集め、加工し、報じる。人々はまだまだあのヒーローがいなくなったことを受け入れられない。静かに私たちの英雄を悼むには時間がかかる。

 だからもう少しだけ、幻想を追いかけることを許してほしい。

 私は謝罪を込めて墓石に刻まれた『竜胆家』の文字を撫でた。

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ヒーローシンドローム 月並海 @badED_

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