覚醒Ⅰ~うちらのコーチはラガーマン~
@kokusi2369
第1話
『覚醒Ⅰ』
~うちらのコーチはラガーマン~
プロローグ
水島幸助は会社帰りのスナックで、グラスの中を立ち昇るハイボールの気泡に視線を落としながら愚痴をこぼした。
「俺ってダメなんですよね、何をやっても」
そして、言った端から「はぁ……」と嘆息を一つ。これに付き合っているのは上司の津村明彦である。水割りのグラスを片手で軽く回しながら、幸助に柔和な表情を送っている。
「商談がまとまらなかったからといって、そんなに落ち込むなよ」
しかし幸助の顔は上がらない。
「生まれ持った特性じゃないかと思えるんですよ。俺には双子の弟がいるんですけど、いつも奴の方が目標を達成して俺は挫折の繰り返しです」
これを聞いて明彦の眉間にしわが寄った。
「考え方が屈折しているな。例えばどんなことがあったんだ?」
「そうですねぇ……最初の挫折は一輪車かな……。子どもの頃、父が友人から一輪車を譲り受けてきたんですよ。近くに公園があったので二人で交代しながら練習していたんですが、弟は乗りこなせるようになりましたが俺はダメでした」
「弟さんが乗れるようになった後もチャレンジし続けたのか?」
「いえダメでしょう。俺は運動音痴なんです」
「どうして自分で決めつけるんだ。双子なんだからあきらめずに努力すればできていたと思うぞ。俺が見ていても、お前は諦めが早すぎる。粘りがないな。きっと双子で育ったものだから競い合う気持ちが強くて、自分の良さを見失っているんだ。自分を信じなけりゃ成功はしないぞ。イギリスのジョナサンという三段跳びの選手を知っているか? 彼は記録からすると普通の選手だったようだ。それでも自分を信じて何年も跳び続けたんだ。そしてある日突然突拍子もない記録が飛び出した。そしてシドニーオリンピックで金メダルを獲り、その後も世界陸上を始め各大会で金メダルラッシュだ。二〇〇三年に引退しているが、現在も彼の記録は破られていない。人は努力によって少しずつ記録を伸ばしていきそうなものだが、限界にチャレンジし続けているとコツを掴んで突然驚異的に飛躍することがある。これを『覚醒』と言うらしい。頑張った者にしか訪れない奇跡だな」
「まるで漫画の世界ですね。俺には当てはまりそうにありません」
落胆しながら幸助はグラスに口をつけた。
第一章 熱血コーチ
一
津村浩美は種田校長から手厳しい指導を受けていた。
「他の先生方から、あなたの授業はやや騒がしいと聞いていますよ」
これに津村が眉をしかめ、怪訝そうな表情で反論する。
「私の担当クラスは一般コースなので、特別進学コースの生徒のようにはいきません」
「ほう、言い訳ですか」
「言い訳ではありません。生徒間のレベルの差が激しいんです。一人でも多く授業に食いつくように、絶えず生徒の反応を大切にしているので、周りからすればざわついているように感じられるのかもしれません」
しかし校長は聞く耳を持たない。
「今は若さを武器に生徒を引き付けることができても、指導力が熟練されていなければいずれそっぽを向かれますよ」
「決して若さに甘えているつもりはありません」
津村が言い返すと、校長はかがんだ背筋を伸ばして強い口調になった。
「三年前、私が企業からこの高校に校長として引き抜かれたとき、この学園は荒廃していました。この学校に入学してくる生徒は、公立を落ちたやる気のない者ばかり。挫折感がどんなに人を駄目にするかお分かりでしょうか。入学してくるなり自分を誇示しようと素行も悪くなり、よからぬ方向に走って名を馳せようと競い合う。校舎のあちらこちらに落書きが横行し、器物は破損、喧嘩が絶えない。もう授業どころではありませんでした。これが学びの舎かと目を疑うばかりです。私が大袈裟なことを言っていると思いますか?」
「……いえ、伺っています」
津村の返答に勢いがなくなった。この様子を見てここぞとばかりに校長が声を張る。
「本校が私立である以上、努力をして生徒数を増やさなければ経営が成り立ちません。あなたはご自身を公務員と勘違いなさっているのではないですか?」
「そんな、心外です。そこは理解しています」
むきになると、これがかえって校長を焚き付ける。
「理解した上でその服装ですか?」
「あっ……すみません」
津村は肩をすくめると、校長がさらに捲【まく】し立てる。
「そのピンクがかったお洒落な服装を見て誰も忠告をしなかったということは、教員間のチェック機能も緩み始めていますね。『教師が教壇に立つときは生徒を相手にしているとともに、その背後にいる保護者の目を意識しなければならない』と日頃から言っているはずです。少しの油断がつけ入る隙を与え、学校への不信感、クレームへと発展していくのです。私は経営コンサルタントとして、いくつもの傾きかけた会社を立ち直らせたノウハウを持っています。世間の悪評を払拭するために校名を現在の緑豊学園に改名し、校舎も深緑色に塗り替えました。そして優秀な教員を引き抜いて特別進学コースを創設し、並行して教員免許を取得しているトップアスリートを教員に採用し、スポーツ特待制度を導入しました。この改革を県内外の中学校にPRするために教員を東奔西走させ、学校説明会やオープンスクールにも相当力を入れました。これを実現するために理事会で役員を説得し、代々学校でプールしていたOB会費や予備費をすべて投入しました。これで失敗すれば学校は終わり、私は責任を取って首をくくらなければなりません、その覚悟でやっています。お分かりでしょうか?」
「それはもう、重々承知しています」
「ほう、承知している? 理解していることと実践に移すことは全く別次元の営みです。私は間違ったことを言っていますか?」
「……いえ」
「私は服装のことだけを言っているのではありませんよ。学校改革は教師一人一人が意識を持って取り組まなければ成功しません。それではあなたの、改革に見合った実践をお聞かせください。具体的にどのような授業の工夫を行っていますか?」
「ええっと……ICTを活用し分かりやすい授業づくりを目指しています」
「あなたね……」校長はここで一呼吸おいて、隣に座っている事務長に目をやった。そして口をむんぐと一文字に閉じ、あきれた表情をしたあと話を続けた。
「ICTの活用は誰でも行っているでしょう。ここにいる事務長のお陰で全教員にパソコンが行き渡り、全教室に電子黒板を配置、全生徒にタブレットを配布、これでICTを活用しなければ実践力どころか、教員の資質さえ疑いますよ。私はおかしなことを言っていますか?」
「いえ……その通りです」
「だったら、あなた独自の特色ある取り組みを言ってください」
「すみません。まだ一年目なので研修にたくさんの時間を取られ、学ぶことの方が多く、開拓するまでに至っていません」
「教育現場でそれは通用しません。生徒にとってはその日、その日が貴重な二度とない時間になります。教育カリキュラムが決まっている以上、彼らは先に進み続けるしかありません。教員が未熟だからと言ってやり直しは効かないんですよ。私は納得いかないことを言っていますか?」
「いえ……でも本当に忙しくて……」
津村が言いかけると、校長が語気を強めた。
「忙しいのはあなただけではありません。この学校の教育目標が文武両道である以上、他の先生方は部活動にも力を注いでいらっしゃいます。あなたが顧問されている卓球部は、今年度、周囲に関心がもたれるほどの活躍をしましたか?」
これを受けて、津村の声量が小さくなる。
「……県大会で一回戦を突破しました」
「ほう、それはあなたにとって満足のいく結果なのでしょうか?」
「主顧問は小橋先生でしたので、私はそのサポート役として技術指導を担当したのですが、新採研に時間を取られ、放課後、思うように部に顔を出すことができませんでした」
「また言い訳ですか。あなたもご存知の通り、小橋先生はこの学校にふさわしくないと判断して他校に転勤していただくことにしました。これをどう受け止めていますか?」
「それはとても残念に思っています。でも卓球部は、他の運動部のように本校の強化指定を受けていません。特待制度を認めていただければもっと優秀な選手を勧誘し、特訓にも耐えさせ、活躍もできると思うのですが現状では無理です。中学生時代に少し卓球をかじっていた程度の部員を見つけ出し、強引に入部させていますので厳しい練習を強いると辞めかねないのです」
「ほほう、また言い訳ですか」
「言い訳ではありません。これが実情なのです」
「それではお尋ねしますが、県で8や4に勝ち進んでいる他の学校は、みんな特待制度で選手を集めているのでしょうか?」
「それは……」
「あなたは最初からあきらめています。本校に特待制度があるばかりに、そうでない自分の部は勝てなくても仕方ないと決めつけています。このままだと三年後、あなたも放出です。これをパワハラだと思いますか?」
容赦ない校長の言葉に、津村はうつむいたままついに涙をこぼした。
「おや、ここで涙ですか。生憎と私は女性の涙なんか怖くありません。学校を背負っている重責と崇高な大志がある以上、そんな薄っぺらな感情に左右される訳にはいかないのです。とにかくあなたの評価は全項目最低ラインぎりぎりになるでしょう。レッドゾーンに落とさないのは、あなたがまだ新採用だと言うことを鑑みた、私らしからぬ恩情だと思ってください。反論はありますか?」
「…………」
「言葉が見つからないようですね。次年度は心を入れ替えて努力していただきたいものです」
津村はうなだれたまま、軽く頭を垂れて校長室を出て行った。それを見送ると、ドアが閉まるや否や事務長が言った。
「校長、相変わらず的確なご指摘ですな。恐れ入りました」
「私はああいう生ぬるい気持ちで教員をやっている人を見ると、我慢できないのです」
「それでも、女性にまであのようにはっきりとものを言う校長は初めてですよ」
「教員に性別は関係ないでしょう。プロとして自覚が有るか無いか、それこそが大切なのです。彼女はビジュアル的に魅力があります。それで本校の広告塔にと期待し、学校紹介のパンフレットに写真を掲載しました。それがかえって彼女を駄目にしたのかも知れません。教員の本質を忘れて増長していますよね。あれでも元国体選手ですか。期待外れとしか言いようがありません」
「散々ですな。私はあえて彼女を育てようと思う親心から、先ほどの厳しい指導をなされたのかと思っていました」
「三年も付き合って、まだ私のことが分かっていらっしゃらないようですね。私にはそのような感情はありませんよ。これはビジネスです。食うか食われるか、この業界も一般企業と同じ、生き残るには割り切った考え方が必要です。無能なものは去れ! それだけです。私はこうして社会の荒波を乗り切ってきました。優秀なものが英雄になるのではない、勝ったものが英雄になるのです」
そう言うと、校長は自分の肘掛椅子に戻ってふんぞり返った。
二
二週間後、それは年度が替わった四月三日のことである。津村は再び校長室に呼ばれた。
「ご苦労様です。さあさあ、こちらにどうぞ」
津村に声を掛けたのは事務長である。見ればその奥に校長、そして校長の向かい側には見慣れない男性が座っている。
「ご紹介しておきましょう」校長が穏やかな口調で津村に向かって言った。「こちらは、このたび本校に卓球部のコーチとしてお招きした荒木先生です」
「コーチ……ですか?」
津村は驚きのあまり、口を半開きにしたまま男性の顔を見た。肩幅が広く、スーツで身を固めていてもそのがっしりとした体格は容易に見て取れる。浅黒い顔にぼさぼさの短髪。およそこれまでに卓球界では出会ったことのないタイプに思えた。
「荒木天馬です。よろしくお願いします」
その男性が津村に向き直って軽く会釈をした。
「はっ、はい。卓球部の顧問を務めます津村浩美です。こちらこそよろしくお願いします」
状況が飲み込めないまま、反射的に挨拶を返す。
「突然のことで驚かれたことでしょう。これから荒木先生をお招きした理由をご説明しますから、まずはお座りください」
校長の言葉を受けて津村が荒木の隣に座ると、校長は話を続けた。
「前回の面談ではこちらから厳しい指摘をいたしましたが、津村先生の困り感が分からない訳でもありません。そこで講じたのがこのたびの措置です。まず津村先生ですが、いよいよ今年度はクラス担任を持っていただくことになりました。そうなると部に出る時間を捻出するのは今まで以上に大変です。本校は部活動の顧問を複数制にしていますから、そこはもう一人の顧問と協力してやっていただきたいのですが、その方もクラス担任だとなると、二人とも部に顔を出せないことが多くなる可能性があります。これでは現状を改善することはできませんね。そこで視点を変えてコーチの導入を考えたのです。コーチのメリットは、授業や学校行事に一切かかわらないので、常に練習場に姿を現すことができます。あなたにとって、学級経営に没頭しやすい環境ができるとは思いませんか?」
「なるほど、そうですね」
津村が納得するようにうなずくと、校長はしたり顔で言った。
「その上、この方とは技術指導でぶつかり合う心配もありません」
「えっ、どういう意味でしょう?」
「荒木先生はラグビーが専門で、卓球は全くの素人なのです」
「ええっ!」
「ですから、先生はご自身が持つ卓球理論をいかんなく発揮されればよいのです」
「そうなん……ですか?」
津村はつい荒木に目をやった。荒木はその視線に気が付き、一旦は津村と目を合わせたが、無言のままうなずきもせず、すました顔で前に向き直った。
「それではこの方に、一体何をしていただけば良いのでしょうか?」
「あなたが計画した練習メニューを、部員が真面目にこなしているか監視してもらえばよいのです」
「でも中身の指導はできませんよね?」
「あなたのメニューがしっかりしていれば大丈夫です。部員が気を抜くことなく練習に精を出していれば、それ相当の成果が出てくるはずです」
「そうでしょうか?」
「あなたね、多くのアスリートが自分専用のコーチやトレーナーを付けて成功していることはご存知でしょう。人は誰も自分に甘い部分を持っています。いくら立派な理論に基づいた練習計画を立てても、それをゆるみなく継続するのは難しいのです。コーチやトレーナーの役目の半分は、目を光らせ、そういった人が持つ弱い面を律して、厳しい環境に選手の身を置かせることです。その点、この荒木先生はずば抜けた能力を持っていらっしゃいます。昨年まで広島県の私立高校にお勤めだったのですが、わずか三年で無名校を花園、つまり全国大会に出場させた経歴をお持ちです。このたび、ご本人の出身地であるこの岡山県に戻りたいという希望を聞きつけ、その手腕を買って強引にスカウトしてきたのです」
「それだけの経歴をお持ちなのによく了承されましたね。少しもったいないのでは?」
「それに見合う条件を提示してありますから、ご心配なく」
「ああ、そういうことですか……」
津村は咄嗟に、プロスポーツ界のトレードが頭に浮かんだ――恐らくこの男性のために破格の金額が動いたのだろう。
「どうですか、悪い話ではないでしょう?」
校長が目を細めた。
「悪いどころか、とてもありがたいお話だと思います」
「そう言っていただけると思っていましたよ。あのままあなたに、へこんだ精神状態で学校業務に取り組まれると全体の士気が下がりますから、私なりに知恵を絞りました。そこで、と言っては何なのですが、ここでお二人に新たな提案があります。卓球部がこれまで低迷を続けてきたのは、これといった具体的な目標を掲げなかったからではないでしょうか。今年度はこれだけの条件を整えたのですから、それに見合う目標を設定していただきたい」
「なるほど」
「その反応は、同意を得たと受け止めてよろしいのですね、津村先生」
「そうですね。選手もその方が、やりがいができると思います」
「それは良かった。では早速、この場で到達目標を考えてみてください」
「えーっ、今ですか? 部員と相談もなしですか?」
「あなたが指導者でしょ。部員を奮起させ、高い位置まで引きあげるのがあなた方の仕事なのではないですか?」
「まあ、それはそうですけど……」
「しっかりしてください」
校長の声がやや強まった。津村はこのプレッシャーを受けて、先日の面談が頭をよぎった――このままではまた、だめ教員扱いされる。
「わ、分かりました。それでは……県のベスト8を目指します」
「なぜそのように中途半端なのですか? 隣の荒木先生は県の頂点にのし上がったのですよ。そのような目標ではやりがいがないでしょう」
「ええっ、優勝を期待されているんですか?」
「ほう、優勝ですか。いいですね」
「ちょっと待ってください。いくらなんでもそれは無理です。校長先生もご存知だと思いますが、岡山県には全国でトップ争いをしている二校の私立高校があるんですよ」
「そのようですね。同じ私立校として実に腹立たしい。あなたも悔しくはないのですか?」
「そう言われましても……あの二校は、全国で活躍している小学生を引っ張ってきて、中・高一貫で育てているんです。スタートが違い過ぎます」
「やる前からあきらめてどうするのですか。意地を見せていただきたい」
「意地と言われましても、無理なものは無理でしょう」
「分かりました。卓球部は特待制を認めていませんのでここは少しお譲りしましょう。ベスト4で手を打つことにします」
「有難うございます」
「その代り期限を切りましょう。現三年生が引退するまでにします。では達成できなかった場合のペナルティを設けて良いでしょうか?」
「えーっ、そんなものがあるんですか?」
「当然でしょう。あなたのためにコーチを招聘し、あなたの希望で達成目標も妥協しました。これで『何の成果もありませんでした』と呑気な報告をされたのでは、ビジネスは成り立ちません」
「もしかすると、私が放出されるってことになるんですか?」
「そこまではしませんよ、まだ二年目ですからね。それにあなたの処遇をペナルティの対象にしても、生徒には響かないでしょう。やはり生徒を巻き込まないと」
「では、どうすれば……」
「なに、大したことではありません。現在卓球部の練習場に使っている体育館下のスペースを明け渡す程度のものです」
「ええっ! それは困ります」
「痛くもかゆくもないペナルティでは本気になれないでしょう」
「それじゃそのあと卓球部は、どこで活動すればよいのでしょう?」
「それなのですがね、グランドの南側にあるプレハブの倉庫はいかがですか? 現在体育で使用する器具が収納されていますが、体育の主任に相談してみたところ、他の保管場所に移せるので中を空にすることは可能だそうです」
「そんな……狭すぎます」
「それは大丈夫です、見た目より中は広い。私が計測したところ、卓球台ならゆったり三台、詰めれば四台並べることだってできますよ。今だって四台で練習しているのでしょ?」
「それは現在部員が九人しかいないからです。今年一年生が入ると台は不足します」
「なぁに、すぐに三年生が引退するので何とかなりますよ」
「照明はどうするんですか?」
「あなたはあの倉庫の中を見たことがないのですか? 蛍光灯が六本設置してあります。中で本だって読めますよ」
「トイレや更衣はどうするんですか?」
「トイレはグランドの校舎寄りにあるではありませんか。更衣は女子だけなので、倉庫の中でも大丈夫でしょう」
「そんな……」
「随分と弱気ですね。まだ決まったわけではありません。県大会でベスト4に入ればよいだけのことです」
「三年生が引退するまででしょう? 今からでは無理です」
「それじゃ、いつまでならOKなのでしょう?」
「せめて一年は下さい」
「それでは現三年生に関係が無くなってしまうではありませんか。一年間、あなたの指導の下で頑張ってきた三年生に、花を持たせたいとは思いませんか?」
「まあ、それはそうですが……でも、あまりにも期間が短すぎます。卓球は他のスポーツに比べてボールが小さくて軽く、回転が複雑です。その上に相手選手との距離が近いのでラリーも速い。熟練するまでに相当な時間を要するのです」
「困りましたね……うーん……仕方がありません、それじゃこうしましょう。三年生で勝負して、目標が達成できなければ一旦練習場所を倉庫に移し、そのあと一年の間に一度でも目標が達成できたら元の場所に戻る。これなら三年生も巻き込めるし、一・二年生にも目標が持てるではありませんか」
「その間、現在の練習場はどうなるんですか?」
「トレーニング施設にしてはどうかと考えています。いろいろな部が活用できるでしょ」
「でも、一度あの場所をトレーニングルームにすると、元に戻すことができないのではありませんか?」
「それなら大丈夫です。トレーニング用の機械や器具は一年間固定しないで、いつでも撤去できるようにします」
「なるほど、それはいいですね。すみませんがその条件でお願いします」
「了解しました……。それにしてもあなたは交渉がお上手だ。随分と値切られた気分がしています」
「私だって卓球部の未来を背負っている立場ですから、責任があります」
津村が満足そうに言って面談は終了した。
津村と荒木が校長室を出ていくと、事務長が、立ち上がりかけた校長に声を掛けた。
「いやぁ校長、実にお見事ですな」
「何のことでしょう?」
「とぼけてはいけません、何もかもが筋書き通りに進んだではありませんか。それを、あたかも相手の交渉に折れて譲ったように勘違いさせるなんて、感服いたしました。さすが経営のエキスパートでいらっしゃる」
「私も海千山千、時には体を張って相当やばい方たちと渡り合ってきましたからね、このくらいのことはどうってことないですよ」
「それにしても、まさかコーチ制導入の真の目的が予算の削減にあるだなんて、彼女が本当のことを知ったら驚くでしょうね」
「我が校は教員数が過剰です。受験の際、本校に不適切な生徒をことごとく落としているにもかかわらず、教員数は前身校のままですからね。教員を放出する必要があります」
「それは理解できています。しかしそれに代わってコーチを雇う必要があったのですか?」
「部活動の数は変わりませんので、複数顧問制を維持するためには苦肉の策です」
「それをよくもまあ、あのような説明になりましたね。私でさえ勘違いをしそうになりました。荒木先生は本当に非常勤講師の待遇でよかったのでしょうか?」
「当然です。それが今の彼に見合う条件です。彼の立場を考えるとそれでも有り難いはずです。どうですか、部活動時間だけの時給ですから、教員を雇うことに比べると随分安上がりになったでしょう?」
「ええ、ざっと二五〇万ほど浮きますね」
「それもトレーニングルームの設備投資に当ててください」
「あきれた方だ」
「私は常に、何がその企業に効果的でより大きな利益をもたらすのか、それを最優先して考えることにしています。トレーニングルームは我ながら良い思い付きだと思っています。選手がパワーアップすれば県内外の活躍にとどまらず、本校からオリンピック選手が出るのも夢ではありません。私は壮大なスケールでこの学校の将来を考えているのです。」
「もしも卓球部が目標を達成した時は、どうなさるのですか?」
「それは有り得ません。この一年間そのつもりで時々練習風景を見に行ったのですが、まるでお遊びですね。今更ムチを入れても、駄馬がサラブレッド……サラブレッドどころか普通の馬さえ抜くことはできませんよ」
「でも、荒木先生の指導力は本物なのでしょう?」
「それは自分が精通しているラグビー部の顧問だったからですよ。あんな野蛮なスポーツの経験を生かそうとしても、女の子がついてくる訳がありません。三日も経たないうちにそっぽを向かれるのが落ちです」
「そこまで見通してなぜ彼を雇ったのですか、経費削減だけが目的ではないように思われますが……」
「それが原因で卓球部が消滅すれば、教員の数を減らすことができますし、誰からも恨まれることなくトレーニングルームが作れるでしょう?」
「聞けば聞くほどすごい方だ。先ほど津村先生に説明した内容と、まるで反対のシナリオになっている。これが噂に聞く種田マジックなのでしょうね」
「私は一切、嘘は言っていませんよ」
「まあそれはそうですけど、荒木先生の素性【すじょう】については、伏せていらっしゃったように思いますが……生徒にとって危険人物なのでしょう?」
「立派な経歴をお持ちなのでそちらを称えたまでです。それ以外は不要、彼女に余計な先入観は与えないほうがいい」
「しかしいつか明るみになる日が来るのでは?」
「そうなった時はそうなった時です。別に逃げも隠れもしません。私も説明できるだけの自信を持った上で、彼を雇いましたから」
「いやいや、本当にすごい……と言うより、恐ろしい方だ」
事務長のこの言葉を聞いて、校長はフンと鼻を鳴らした。
三
その頃、津村は荒木を案内して卓球場に向かっていた。
「随分背が高いですね」左手にいる荒木を見上げながら、津村が快活に言うと「一九二です」荒木はやや不愛想なもの言いだ。
そのあとも「コーチって言うことは、教員を辞められるんですか?」「未練はないのですか?」「ラグビーも、もったいない気がしますけど?」「よほど条件が良かったんですね?」と津村の一方的な質問は止まらない。すると荒木は立ち止まり、津村に向き直った。
「どうでもいいじゃないですか、そんなこと。あなたには関係ないことだ!」
いきなりの怒鳴り声に「あっ、ごめんなさい」と津村も足を止めた。それまでの浮かれ気分が一瞬に吹き飛び、目を丸くした。
その表情を見て荒木が詫びた。
「申し訳ない、つい感情的になってしまった……」
打って変わって押し殺したような声だ。
「いえ、私が悪いんです。本当にごめんなさい。人それぞれに事情がありますものね。私はただ、部員にあなたのことをどう紹介しようかと思っているだけです」
「自分のことは自分で話します。コーチ、とだけ紹介してください」
「分かりました」
津村はこのとき、頭の中で思い描いていた荒木のプロファイルに、修正の余地があることを察した。そして、いかつい体に加えて先ほどの怒号である、おのずと近づきがたいオーラを感じた。
気まずい空気の中、無言のまま歩を進めていると荒木の方から話しかけてきた。
「少し卓球部のことを教えてくれませんか? 現在の戦績は?」
意外な声掛けに少し驚いたが、気を遣っているのだろうかと思いながら津村は答えた。
「昨年の県の新人戦では一回戦を突破するのがやっとでした。校長先生には『言い訳するな』と叱られましたが、卓球部は本校の強化指定を受けていないので特待生を入れることができないんです」
「それは卓球部だけですか?」
「いいえバドミントン、テニス、それに大半の中学校にはないハンドボールや、なぎなた、弓道などもそうです」
「みんな勝てていないのですか?」
「……いえ、どの部もベスト8くらいには入っています」
これを聞いて荒木が「ふーん」と意味ありげに腕を組んだので、津村は慌てて補足をした。
「選手は頑張っているんですよ。技術もそれなりに持っています。ただ、緊張感に弱く、試合になると力が出せないだけです」
「ではメンタル面の強化が課題ですね」
「はい、そうです」
やれやれ、どうにか校長のように見下されなくて済みそうだ――津村が胸をなでおろしていると、すかさず荒木が訊いてきた。
「それに対してどんな取り組みを? あなたは元国体選手だとか伺いましたけど」
「ああ、校長先生から聞いたんですね。別に好きでやっていた訳でもないんですよ。一種の逃げみたいなものです。だって私の出身は鳥取の山間部なので、冬になると友達はみんなスキー教室に通っていて……結構レベルが高くて、県の代表選手になる人も多かったんですよ。私にはその道のセンスがありませんでした。それで卓球です。近所に卓球教室があったので物心つく頃からやっていました。小・中・高・大と懲りずに続けていたら、一度だけ県の代表になりました。それも補欠ですけどね。その経験を生かして――」
津村がそこまで話していると「それで、メンタル面の対策は?」と荒木が遮ってきた。
「あっ、すいません、そうでしたね……それが……どうすればよいのか……」
まずい、結局はダメ出しをされそうだ――津村の顔は曇った。
荒木はそんな彼女を横目に「ふーん」と腕組みをしたまま唸っている。意味ありげだが特にそれを口には出さない。それが余計に津村にプレッシャーを与えるのだった。
そうこうしているうちに目的地に到着した。「ここです」津村がそう目配せしたのは、体育館下に設置された鉄の扉だった。
「では中にどうぞ」
下駄箱のスリッパを荒木に勧めたあと、津村は観音開きの右側の扉を手前に引いた。たちまち中から軽やかな打球音が漏れてくる。
場内はバドミントンコート三面程度の広さがあり、八台の卓球台が防球ネットで四台ずつ二列に仕切られている。そして体育館の重量を支えるために設置されたコンクリート製の太い円柱が二本、その四台をさらに二分割していた。
「あとの部員は?」
中を覗いた荒木の声に、津村は「えっ?」と慌てた。確認してみると練習しているのは円柱の左奥側にいる四人だけではないか。津村はあたふたと防球ネットまで駆け寄り、その内の一人に声を掛けた。
「春香さん、三年生はどうしたの?」
「先輩たちは部室にいるはずです。先生がここを出るとすぐに『休憩を取る』って言っていましたから」
「私が出てからって……相当前じゃないの」
津村は嘆くようにつぶやくと防球ネットを手前に引き、いそいそと練習場の奥にある部室に行った。そしてドアをノックしながら少し声を荒げた。
「ちょっと、あなたたち何してるの? ここ、開けるわよ」
しかし津村がドアノブに手を掛ける前に、ドアは向こう側に開いた。そして「あれ、浩美先生、戻って来とったんですか?」と中から顔を覗けた女子には、悪びれた様子もない。
「なに呑気なこと言ってるの。課題練習をしているはずでしょ?」
津村が追及すると「やりたいことが終わったんで、ちょっと息抜きをしとったところですよ」とストローでシャボン玉を作って見せた。
「まあ、あきれた。二年生は練習しているのよ、上級生としての自覚を持ちなさい。それよりもみんな出て来てちょうだい。紹介したい人がいるの」
説教はこれで切り上げた。津村にとって客人の前での叱責は、自分の指導力不足が露呈するようで嫌だったのだ。これを受けて部屋の奥から「えっ?」「だれ?」と言う声が聞こえたかと思うと、五人の女子が出てきた。これにそれまで練習していた四人も活動を止めて合流したので、部員はひと塊となった。
「荒木コーチこちらにどうぞ」
津村が声を張ると「コーチじゃて?」「男の人じゃが、随分と大きい人じゃな」「結構イケメンで」荒木を見て浮かれた声が飛び交う。
しかし津村は気が気ではない。荒木が憮然とした表情をしているのだ。自ずと顔はこわばった――また感情的になって声を荒らすかもしれない――部員とは違う立場をアピールしようと、荒木が足を止めるやその横に身を移した。
「このたび小橋先生の代わりに卓球部のコーチを務めていただくことになりました、荒木さんです」
これを聞いて、すかさず部員の一人が手を挙げた。
「浩美先生、質問してもいいですか?」
津村はチラッと荒木の顔色をうかがった。しかしどう見てもそんな雰囲気ではない。
「ちょっと待ってちょうだい。まずはコーチから自己紹介があるので、それを聞いてからにしましょう」
「は~い」
その部員が軽薄な返事をするものだから「ではコーチ、お願いします」と紹介する津村の顔はさらに神妙なものになった。
「荒木天馬です」彼はそう言って一礼すると、だらりと下がっていた両手を前に組んだ。
「初めに断っておくが、俺はずっとラグビーをやっていたので卓球は素人だ。だから君たちに技術指導を求められてもそれはできない。しかし部活動の本質は理解しているつもりだ。先ほどから俺を見て別の何かを期待するような声も聞かれたが、お門違いだと言っておこう。俺は君たちと遊ぶためにここに来たわけじゃない。アスリートを育てるためにやってきたんだ」
ここまで言うと、荒木は部員の反応を確認するように、一人一人の顔に視線を移していった。そして一通り見渡し終わると話を続けた。
「必死にもがき、若い命を燃えたぎらせ、一度しかない青春を、この貴重な時間を、白球を追うことに捧げてみないか。一緒に夢を追おうじゃないか」
荒木がそう言い終わると、三年生部員の間でクスクス笑う声が聞こえてきた。
「夢じゃって」「ちょっと照れるな」「はずいんですけど」
これを荒木が鼻で笑う。
「ふっ、はずいか……いい大人が何言ってんだ、ってところだな。いかにも君たちらしい感想だ。半端な練習をやっているはずだ。それじゃ聞くが、プロ野球選手を夢見て頑張っている少年は、はずいか? プロのサッカー選手を目指す人は? オリンピックはどうだ? スポーツだけじゃない、医者や弁護士、調理師や設計技師など、世の中の大半の人は自分の目標に向かって頑張っているんだ。それは恥ずかしいことか? 人はいつしかそれを『夢』と名付けて、追うことを生きがいにするようになった。そして夢が叶った時、歓喜のあまり涙を流す人さえいる。君たちは頑張っている自分に感動したことがないのか。今、一番夢を持たなければならない年ごろにある君たちが、夢を茶化してどうする。それは人生をあきらめた者がすることだ。俺の好きな言葉を言っておこう。『夢は見るより追いかけろ』だ。いいか、若ければ若いほどいろいろな可能性を持っている。一つでもいい、その花を咲かせようと努力をするんだ。それが生きているあかしってものだろう」
荒木は眼光鋭く、再び一人一人の顔を睨みつけていった。
思いもよらぬ力説に圧倒され、皆は固まっている。この様子を見て津村が言った。
「どうなの、みんな?」
この声に、部員たちは互いを見合うと「そ、そうじゃな」とうなずいている。
「何か質問はありますか?」
念のために訊いたが、この雰囲気で津村の問いかけに手を挙げる者はいない。
「それじゃ、今度はこちらから自己紹介する番ね。三年生からお願いします」
津村がそう言うと、部員たちはキョロキョロと一番手を探し始めた。しかしすかさず荒木が拒んだ。
「いや、一度に聞いても覚えられるはずがない。俺の嫌いな言葉は『無理』『無駄』『無意味』だ。無駄なことはやめて、これから一緒に活動しながら覚えていくことにする。ついては、しばらくゼッケンをつけて練習してもらえるとありがたい」
これに津村が「いい案ですね」と推したが部員の一人がすぐに反論した。
「じゃけど浩美先生、それじゃと下の名前が分からんのんじゃないですか? 私たちは親密なつながりを大切にするために、下の名前を呼び合うことにしとるんですけど」
「そうか、それで『浩美先生』と呼んでいるのか。俺からすれば違和感がある。先ほどから見ていると、どうも監督と選手の間の距離が近すぎる気がする。そういった関係は厳しさの欠如につながる。甘えはすなわち君たち選手の成長を邪魔するものだ。俺は君たちにとって融通の利かない、頑固な存在でありたい。従って、あえて名字を呼び捨てにするつもりだ」
「そこまでこだわる必要があるんですか?」
その部員が食い下がる。
「どうやら君たちは、自分の置かれている状況が分かっていないようだな。この学校は運動部の活躍を売りにしようと力を入れている。恐らくグランドや体育館の中では、各部が功績を残そうとしのぎを削り合っているに違いない。君たちはこの閉鎖された練習場の中にいるため周囲が見えていない。取り残されているんだ。現在、底辺にいると言っても過言では無い!」
「ひどーっ。それは言い過ぎじゃろう」
部員たちは反感を口に出している。しかし荒木は動じない。
「いい加減目を覚ましてはどうだ。先ほど俺と津村先生は、校長から厳しい目標を言い渡された。現在の三年生が県でベスト4に入らなければ、この練習場所を取り上げられるそうだ」
「えーっ、浩美先生、本当ですか?」
「ええ、実はそうなの」
「それじゃ、そのあとどこで練習するんですか?」
「グランドの向こうにある倉庫ですって」
「そんなのひどいじゃないですか。ベスト4なんて無理に決まっとるが」
「そうじゃ、そうじゃ」
ざわめきが激しくなっていく。
「そこまでだ!」荒木が声を張った。「やる前からあきらめてどうする。俺は『無理』と言う言葉が嫌いだと言っただろう。決まってしまったことをとやかく言っても仕方ない。とにかくやるだけだ。やってみなければ分からないだろ」
「じゃけどベスト4でしょ、いくら何でもハードルが高すぎます」
「そうですよ、それこそ無駄で無意味な努力に終わるんじゃないですか? コーチは『無駄』も『無意味』も嫌いじゃって言っとったじゃないですか」
これを荒木が「それは違うだろう!」と諫【いさ】めた。
「『無駄』とは、目標に向かって突き進むべき時に、寄り道をしている状態を示す。さっき君たちが練習途中にシャボン玉をして遊んでいた、ああいう状態だ。そして『無意味』だが、これから君たちがベスト4を目指して頑張ったとするだろ。もし達成できれば大きな自信につながるし、残念ながらそれが果たせなくても、これだけのことはやったんだという誇りが持てるじゃないか。それは決して無意味なんかじゃない、青春の一ページに刻んでおける貴重な経験なんだ。きっとあとになって意味が出てくるはずだ。とにかく、やった者にしか味わうことのできない感動というものがそこにはあるんだ」
聞いているうちに部員たちの目つきが変わってきた。これを見て津村は驚いていた――わずか一〇分足らずでこの表情。一年間この部員たちと付き合ってきたけれど、私は一度も彼女たちのこんな真剣な表情を見たことがない。
「どう? みんな。この荒木コーチは、ラグビーの無名校をわずか三年で全国大会に連れて行った実績があるの。信じて付いて行けば間違いないわ。頑張りましょう」
「えーっ、全国じゃって、すごいな。通りで熱いと思うたわ」
「考えてみりゃ、今まで一度も本気になったことがなかった気がする」
「何か、青春ドラマみたいで面白そうじゃな」
口々に前向きな意見が出始めた。その時、部員の一人が言った。
「でも、負けたら練習場を取り上げられるんですよね。うちらはすぐ引退するけんええけど、後輩は困るんじゃないですか?」
「それなら大丈夫」と津村が言った。「もし三年生が負けて練習場を取り上げられても、この一年の間に二年生がベスト4に入れば取り返せるって校長先生と約束してあるから」
「えーっ、私たちにもチャンスがもらえるんですか」「こりゃ頑張らんといけんわ」
今までおとなしくしていた二年生が声を弾ませて喜んでいる。津村はこれを見て、校長を相手に粘って交渉をした甲斐があった、と顔をほころばせた。
「そうと決まったらすぐ練習に取り掛かりましょう」
「先生、ゼッケンはどうするんですか?」
「そうだったわね。それじゃ一〇分だけ休憩にします。その間に準備してちょうだい」
「は~い」
部員たちは快活な返事をして部室に入っていった。
四
津村は少し浮かれていた。
「ありがとうございます、荒木先生。正直、校長先生から申し渡された内容をどう伝えようか憂鬱だったんですよ。それにしてもすごい説得力ですね。彼女たちがあんなにやる気になるとは思いませんでした」
しかし荒木は仏頂面だ。「思っていることを言ってもいいですか?」と切り出してきた。 自分のテンションとのギャップに、津村は身構えた。
「俺がイメージしている部とはあまりにもかけ離れています。今の彼女たちを見ていると、このまま少しくらい技術が上がっても、きちんと練習を積んでいる学校に太刀打ちできるとは思えません。よほど荒療治をしなければ、まず奇跡は起こらないでしょう」
「……すみません、私が甘いばかりに……」
津村はうなだれた。
「別にあなたのことを責めるつもりはありません。問題はこれからをどうするかです。俺のやり方を貫いても構わないでしょうか?」
「お任せします」
「この練習は何時までになっているのでしょう?」
「ええと、一二時までです」
その返答を受けて、荒木は壁に掛かっている時計に目をやった。
「それじゃあと三〇分しかないじゃないですか。午後からは?」
「春休みの間はずっと午前中の練習にしています。それに今まで土曜日は午前中練習、日曜日は休みにしていました。特待生ではないので、それ以上やると嫌がって辞めてしまいそうな気がするんです」
「そうですか……そのあたりから意識改革が必要ですね。と言っても、予告なしに今の今から日程変更をすることは逆効果だ、反感を持つでしょう。練習が軌道に乗った頃、提案をさせてください」
「分かりました」
「そうと決まったらすぐに練習を再開しましょう。時間がありません。とにかく少しでも雰囲気を把握したい」
「それじゃ呼んできますね」
そう言うと津村は部室に向かって走った。
「えーっ、もう?」という声が聞こえてきたが、津村の声掛けでとりあえず部員たちは台に着いた。
荒木から見て、柱の向こう側二台に入った四人はすぐに練習を始めた。最初、ここを覗いたときに練習をしていた二年生だ。しかしこちら側の五人はじゃんけんを始めた。
「それじゃ一〇分したら凛は私と交代で」
負けた一人が言った。そして台の横に立ち、順番が回ってくるまで練習をしている部員に話しかけている。時々笑い声が聞こえる。その声につられて隣の台に入っている二人からも笑顔が見える。
柱の向こう側にいる二年生も、笑みを浮かべながら楽しそうにボールを打っている。
「青春じゃな」「燃えてくるわ、全国じゃて」
漏れ聞こえてくる声から察して、彼女たちなりに意欲を持ってやっているようだ。
この様子を見て、荒木が難しい顔をしたまま「ふ~ん」と腕組みをしたので、津村がやきもきしていると「もう充分です。部員を集めていただけませんか?」と声を掛けられた。
この見限られたような言い方に「は、はい」と慌てて返事をする津村。「ちょっとみんな、練習を止めて集まってちょうだい」と叫びながら叩く手もおぼつかない。
部員たちはそれを受け、会話の続きをしながら津村に向かって集まってきている。
「荒木コーチから、みんなにお話があるそうです」
そう告げると、津村はいそいそと荒木の後方に下がった。
「キャプテンは誰だ?」腕組みをしたまま荒木が言うと「私ですけど」と部員の一人が軽く手を挙げた。これに「片山か」と荒木が返す。
「えーっ、コーチはゼッケンを見ないでも私の名前が分かるんですか?」
「片山あゆみだろ。さっきから三年生のみんなが、聞いてもらいたいのか君に話を振っている。部員たちから人望が厚いようだな」
「えっ、そんなことはないです」
そう言いながら、まんざらでもない顔をしている。
「これからみんなを集めるときは君に声を掛ける。大きな声で集合の号令をかけてくれ」
「は~い」
「実はその返事も気になっている。君たちは高校生だ。もっとおなかに力を入れて『はいっ!』と歯切れのよい返事をして欲しい。分かったか」
「は~い……じゃなかった、はい」
「はい、じゃなくて『はいっ!』だ。もっと歯切れよく!」
「はいっ! これでいいですか?」
「うん、まあいいだろう。これは他のみんなも同じだ。分かったか!」
しかし部員たちは戸惑いの様相で顔を見合わせている。
「どうした、返事は?」
荒木が声量を上げて催促した。「はいっ」の声がばらばらに聞こえる。
「なんだ、その返事は。もっと元気良く声を揃えろ、分かったか!」
荒木の声量が一層大きくなった。
「はいっ!」
部員の声が揃った。
「そうだ、その調子だ。もう一度やるぞ、分かったか!」
「はいっ!」
部員の声がさらに大きく揃った。
「どうだ、おなかからしっかり声を出すと気持ちがいいだろう。返事も挨拶もその調子でやっていこう。挨拶は人間社会の基本だと思っている。これが身についていれば社会人になっても恥をかかなくて済む。それに大きな声で挨拶をしていると、自分に自信が持てるようになってくる。自分に自信が持てるようになると、行動だってきびきびしたものになる。そうなると、周囲の人が君たちを見る目も変わってくる。そうやって、みんなから認められる集団を目指すんだ。分かったか!」
「はいっ!」
そう返事をした部員たちは、みな誇らしげな顔をしている。津村はこれを見て、ぞくっとした――すごい、すでに部員が彼の下で一体になっている。
「俺が君たちを集めたのはこんなことを言うためじゃない。これからいよいよ内容に入りたいのだが、その前に気になることがある。集まり方がひどすぎる。それに話を聞くときラケットは邪魔だ。活動していた場所に置きに行け。そして片山が集合の合図を出したら大きな声で返事をして、駆け足で集まれ。分かったか!」
「はいっ!」
「よし、それじゃいったん戻れ。駆け足だ!」
部員は言われるまま、一斉に元の場所に戻った。
「よし、それじゃ片山、大きな声で集合の合図を出せ」
「はいっ! みんな集合!」
「はいっ!」
室内に大きな返事が響き渡り、部員たちが駆け足で集まった。
「ようし、いいぞ。どうだ、アスリートに近づいた気分は?」
「そうじゃね、何だか気持ちがええな」
部員の一人が、隣に話しかけた。
「おうっ、川北だな。実にいい感想だ」
「えっ? 私の名前も覚えてくれたんですか?」
「川北だけじゃない。右から田町、門脇、戸村。ここまでが三年生で、小野、弘崎、星島、玉野井、これが二年生だ」
「すっごーい、もう全員覚えたんじゃな」
部員の間に感心した声が聞こえる。
「まあ人数が少ないからな……それはよしとして、それじゃいよいよ本題に入る。君たちの練習は俺から見ると遊んでいるとしか思えない。話しながら、笑いながらやってどれだけ成果が上がると思っているんだ。限られた時間の中で他校よりも強くなろうと思えば、効率の良い練習を集中してやるしかないだろう。それに緊張感のある場面で力を発揮するためには、日頃からそういった環境を作らなければならない。練習中に無駄話はもってのほかだ。分かったか!」
「はいっ!」
「それから、明日の練習からランニングを入れる。みんなはそれ用に走れるシューズを履いて来い」
「えー、ランニングですか?」
部員の中から疑問とも不満ともとれる声が上がった。
「勝ちたいんだろう? 何試合も勝ち抜くためには体力がいる。その上で『ないくそっ』という意地が出せるようにするには、少々きつい練習が必要だ。従ってランニングだけじゃなく筋力トレーニングも考えている。ここは覚悟を決めろ、いいな!」
「はいっ!」
どうやら荒木のペースにはまったようだ。疑問も不満も押さえつけ、勢いで皆に返事をさせた。津村はこれまで味わったことのない世界観を肌に感じながら、ただ、ただ、感心して見ていた。
五
翌朝七時五〇分、津村と荒木が練習場に行くとすでに部員は揃い、扉の外で二人を待っていた。
「先生、それどうしたんですか?」
二人が救急用の担架を提げるように運んで来た大きなホワイトボードに、田町きららが興味を示した。
「これね、倉庫に眠っていたんだけど、脚が壊れただけでまだ使えるので、ボードの部分だけ取り外して持って来ちゃった」
そこには八つの長方形が描かれていた。その一つ一つがコートを表しており、コートごとの課題が書き込めるとともに、一人一人の磁石付きネームプレートを貼ることによって簡単にコート分けもできる。それに右半分にはスペースが設けてあり、そこに練習メニューを貼れば短時間で練習の流れも説明できる。これは荒木が考案したものだった。ラグビーで使用する作戦ボードを卓球に応用したのだ。
「面白いアイデアですね」
部員たちが荒木を尊敬の眼差しで見ている。しかし荒木は素っ気ない。
「津村先生、こいつらに指示をお願いします」
これをニヒルと称するのだろうか。ともかく津村は「はい」と頷いて部員たちに言った。
「みんな、中に入ったらすぐ準備をしてちょうだい。八時きっかりに練習を始めるから」
これに皆が「は~い」と返事をした。これまでの当たり前のやり取りである。しかしそれを荒木が諫める。
「そうじゃないだろう。返事は『はいっ!』だ。やり直し!」
「はいっ!」
一発で声が揃った。これを見て津村は、しまった、と顔をしかめた。
部員たちが部室に入って準備をしている間、津村は床に置いたホワイトボードに手製の練習メニューパネルを貼った。
「荒木コーチ、これでいいでしょうか?」
「うーん、こうやって見ると大きいと思っていたボードでも、部員たちからは見えにくいですね。壁に横木でも打ち付けて、目線の高さまで持ち上げることにします」
「そうですか、お願いします」
ここで壁の時計を確認して荒木が確認してきた。
「ところで八時まであと二、三分しかありません。今、部員たちは何をやっていると思いますか?」
「おそらくバッグからラケットやタオルを取り出しているんでしょうね」
「それだけのことにこんなに時間がかかるでしょうか。このあと、いつもなら何をするのでしょう?」
「ネットを張り、台上を乾いた雑巾で拭きます。そのあとピン球の入ったトレーを各コート横に設置し、準備が終わったところから打ち始めています」
「彼女たちは、八時を待ってそれを始めようと思っている訳ですか?」
荒木が右の眉を少し上げ圧迫感のある訊き方をしてきた。
「すみません、すぐ声を掛けてきます」
津村は急ぎ足で部室に向かうと、大きな声で部員たちを呼び出した。
「もう始めるんですか?」
のんびりとした感想を口にしながら、ぞろぞろと部員が出てきた。これを見て荒木が怒鳴った。
「片山、さっき津村先生がどんな指示をしたか言ってみろ!」
「ええっと……八時に練習を始める……だったと思います」
荒木の勢いに押されてしどろもどろだ。
「そうじゃないだろ。『中に入ったらすぐ準備をしろ、八時きっかりに練習を始める』だ。間もなく八時になるが準備ができていないじゃないか。ネットも脹れていないし台も拭けていない。君はキャプテンだ。みんながボーっとしていたら君がしっかりしてみんなを動かさないといけない。その自覚を持て。分かったか!」
「はいっ! すいませんでした」
片山が叱られるのを見て、慌てて部員たちも活動を始めた。
全員が無言できびきびと動いている。津村はこれを見ていたたまれない気持ちを抱いた。
やがて準備が整うのを見届けると荒木が全員を集めた。
「ここまでで気付いたことを言わせてもらう」
荒木は厳しい表情をしている。これを見た部員たちは激しい雷が落ちると身構えた。
「練習開始の一〇分前集合が全員守れていたことは良かった。しかしそのあと部室にこもる時間が長くて準備が遅れたことは君たちのミスだ。これだけの者がいながらきちんとした判断ができなかったことは残念だ。俺は失敗に対してグチグチ言うのは嫌いなので、君たちも同じ過ちを繰り返さないよう気を付けて欲しい。ラグビーでは、ボールを持っている選手だけを見ていては話しにならない。常にフィールド内の選手、両チーム合わせると三〇人になるが、一人一人の位置や、体の動き、目の動きを見て、次のプレーを予測しなければならない。それは卓球にも通用する内容じゃないだろうか。相手のあるスポーツだ、勝とうと思えば日頃から人が何を考え、何をしようとしているのか、先を、先を読む力を養わなければならない。分かったか!」
「はいっ!」
説教が始まるとばかり思っていたが、良いところは認め、過ちは正す訓戒だった。荒木のこの言葉は部員たちの心に響いたようだ、みんな得心した表情をしている。津村は教師としての厚みも荒木に感じていた。
「では、本日の練習メニューを説明する。津村先生お願いします」
「はい」津村はホワイトボードの横に移動すると「これが今日の練習内容です」と言って『ストレッチ体操』『ランニング』『ダッシュ』『基礎打ち』『サーブ・レシーブ』『フットワーク』『課題練習』『ゲーム練習』『筋力トレーニング』のパネルを見せた。
「今日は初日なのでやや軽めに考えています。ランニングは他の部の邪魔にならないようグランドの淵を大きく五周します。ダッシュはこの練習場に戻り端から端まで一〇本。筋力トレーニングは一般的な腕立て伏せ、腹筋、背筋、それからあとで持ってきますが、砂の入ったペットボトルをダンベルに使い、同じくそれを紐でぶら下げて巻き上げる手首の鍛錬を行います」
「えーっ、いきなり五周ですか?」「それにダッシュ一〇本のどこが軽いんですか?」
部員たちがざわめき始めた。
「軽いと言うのは、今日は最初なので、少しくらいスピードを抑えて自分のペースで走っても大目に見ようと言う意味です。基本的には今後も量が増える訳ではありませんから安心してちょうだい」
「それでも五周でしょ。そんな時間あるならボール打とった方が強うなるんじゃねえん?」
川北真澄が愚痴る。津村はつい荒木の顔を見た。
「なんて情けない集団なんだ」荒木がいかにも不快そうに眉をしかめた。
「聞くところによると一周が六〇〇メートル弱だそうだ。五周走っても三キロほどじゃないか。本当なら一〇周走らせたかったんだが、野球部の監督に確認したところ、練習を開始して二〇分ほどでアップが終わるそうだ。それ以降は硬球が当たっても保証しないと言われた。いくら何でも二〇分の間に六キロはきついと思い、半分にしたんだ。体力だけじゃない、精神力も鍛えようと思えば、最低でもこれくらいはやらなければ効果がない。片山はどう思う?」
「えっ、私ですか……昨日、コーチを信じて付いて行こうとみんなで決めたのに、何もせんうちにくじけるのは、やはりどうかと思います――みんな、とにかくやれるだけのことをやってみようや。私たちは勝ちに行くんで、この部の歴史を塗り替えるんじゃろ?」
「……あゆみがそう言うんならしょうがねぇか……」
皆が、仕方ない、という表情で頷いた。
「よしっ、よく言った。君たちは今、生まれ変わりつつある。片山がいいことを言ったぞ、みんなで卓球部の新たな歴史を作るんだ。いいな!」
「はいっ!」
そしていよいよランニングが始まった。これを見て荒木がぼやいた。
「ここまでひどいとは……。全く足が上がっていない」
その横で津村は逃げ出したい心境だった――練習態度もダメ、挨拶もできていない、そして走る姿を見てこの感想……全てにおいてダメ出しとは……本当に情けない。
外野方向から三塁ベースに差し掛かると、野球部の監督にも冷やかされている。
「お前らが卓球部か。ランニングするっちゅうて聞いとったけど、悠長にジョギングとはねぇ……。トロトロ走っとったら、弾丸食らうことになるぞ!」
「ひーっ」
目を覆いたくなるばかりの光景である。
ひとかたまりでスタートした九人だったが、半周もしないうちに縦長の列になった。別に先頭の片山あゆみが速度を上げたわけでは無い、ゆるゆるとしたスピードにさえついていけないのだ。二年生四人は遠慮しているのか、三年生の最後尾を走る川北真澄の後ろにくっ付いている。川北真澄とすればいい迷惑だろう、後輩に追い立てられる形となり、歩くことが許されない。
二周目、三周目までは野球のダイヤモンドに近づくたびに、心持ちスピードを上げようとする様子もあったが、四週目になるともはやそのような余裕はない。顎が上がり、ひたすらあえぎ、犬かき泳法で空気を掻【か】いている。
それでもランニングを開始してから二〇分程度で全員がゴールできた。
良かった、何とか走り終えた――津村は胸をなでおろした。しかし荒木は容赦しない。
「一〇分だけ休憩を置く。その間に水分補給をして、トイレも済ませておくように。次は練習場でダッシュだ」
「ひーっ、鬼じゃ」
部員から一同に悲観の声が漏れている。
部員が練習場に戻ってみると、日頃使用されていない手前の四台の卓球台が端に寄せられ、太い円柱の両脇にレーンができていた。
「やっと戻ってきたか。こっちの壁から向こうの壁まで走るんだ。歩測で約三〇メートルある。本当は五〇メートルあれば理想的なんだが、雨天時も利用できることを思えば贅沢も言えないだろう。物足りなければ本数を増やすことも考えられるが、今日のところはこれで勘弁してくれ」
笑えない冗談だ。部員たちが顔をゆがめている。
「じゃあそこに一列で並べ」
荒木の指示に従って九人がスタート位置に並んだ。
「先ほど君たちのランニング姿を見せてもらったが、足が上がっていない。従って一度腿【もも】上げをやってみよう。いいか、こうやるんだ」
そう言うと、荒木は胸を張った姿勢で腿上げを始めた。
「速く走ろうと思えば、足を後ろに蹴るよりも、こうやって胸に引き付けるくらい腿を上げることが肝心だ」
いかにも筋肉隆々のアスリートがエネルギッシュに跳ねている。昨日の自己紹介でこれをやっていたなら熱い眼差しで見たかもしれないが、疲労困憊状態にあって、そのような憧憬【しょうけい】が湧くはずもない。みんな恨めしそうに眺めている。
「それじゃ君たちの番だ、やってみろ」
部員たちは互いの表情を確認しながら、仕方ない、とバラバラに足を動かし始めた。
「何だそれは、足踏みじゃないか。胸を張って、もっと腿を上げろ!」
遠慮のない檄【げき】が飛ぶ。しかし足は思うほど上がらない。
「どうしたみんな、限界に挑戦しろ! 片山、さっきのランニングは先頭でよく頑張った。さすがキャプテンだ。ここでも意地を見せてくれ」
「はいっ!」
片山あゆみの腿が水平まで上がり始めた。
「よし、いいぞ、その調子だ。次は誰だ。片山を見殺しにするのか?」
片山の右隣の部員も腿が水平まで上がり始めた。
「よしっ! 門脇、やればできるじゃないか。他の者はどうした。勝ちに行くんだろ? 新たな歴史を作るんだろ?」
左列部員の腿が上がり始めた。
「おっ、二年生が頑張り始めたぞ、その調子だ。あと三人だ。みんなの頑張りを無駄にするな。歯を食いしばってとにかく腿を水平まで上げろ」
顔を歪め、今にも泣きそうな表情で残りの三年生が腿を上げた。
「よしっ、みんな揃った。それじゃ、そのまま向こうの壁までダッシュ!」
この号令で、荒木の前を一斉にドタドタと走り抜けた。
ゴールした者からタッチした壁にもたれ掛かり、ゼイゼイと肩で息をしている。
「きついだろ、さっきのランニングでそれぞれの体力を使い果たしたからな。でも実はまだ限界じゃなかった。ダッシュする体力が残っていたんだ。そして今も限界が来ている訳じゃない。何故なら君たちはまだ走れる。これまで自分に甘えていた君たちは、自分が持っている力を知らなかったんだ。さあ行こう、ここからが未知の世界だ。本当の自分の限界にチャレンジするんだ。みんな並べ!」
青息吐息だが、皆がゴールした壁の前に並んだ。
「腿上げ始め!」
荒木が声を張り上げると「えーっ、またぁ?」と三年生から不満めいた悲鳴が聞こえてきた。腿上げは予定外だったようだ。
しかし荒木は緩めない。「全員の腿が上がらないとスタートしないぞ」と鼓舞し続ける。仕方なく皆は顔を歪めて腿上げを始めた。
「ようしいいぞ。そのなにくそっという意地が、奇跡を起こす原動力になるんだ。それじゃスタート!」
この合図で、再び部員は反対側の壁に向かってダッシュをした。
この調子で、ダッシュが一本終わるたびに荒木が気勢を高め、部員はいや応なしに腿上げを繰り返す。みんな完全にヘロヘロ状態だ。
これを見て、荒木の神経の太さに津村は引いていた――自分にはできそうにない、いくら何でも、ここまで心を鬼にすることなんて……。
「さあ、いよいよラスト一本だ。目の前に何が見える? このゴールの壁は、君たちが掴もうとしている栄光への入り口だ。さあ来い。ミラクルが待っている。自分の力でここにたどり着くんだ!」
荒木があおる。
「はいっ!」
返事をしたものの、部員たちはうつろな目をしている。気力だけで立っている感じだ。全身から汗がほとばしる。腿上げこそ何とか踏ん張っているが、全力疾走には程遠いダッシュで最後の三〇メートルを走りきった。そしてゴールの壁にタッチするやいなや、バタバタと全員が床に倒れ込んだ。
「みんな大丈夫? よく頑張ったわ」
慰撫【いぶ】せずにはいられない――津村が駆け寄った。これに荒木は腕踏みをしたまま声を掛ける。
「どうだ、自分のすごさが分かっただろう。君たちはとてつもない力を秘めているんだ」
その表情は満足感に満ちている。しかし聞こえているのかどうか、それに反応する部員はいない。ただ、ただ、うつ伏せたまま、全身でゼイゼイと荒い息をしている。
「それじゃ一〇分休憩だ。その間に打てる準備をしておくように」
構わず荒木が次の指示を出す。これを見かねた津村が部員をかばった。
「コーチ、いくら何でも一〇分なんて、この調子じゃ練習にならないのでは?」
だが荒木は平然と言い放った。
「若いうちは驚くほどの回復力があります。『もう動けない』と思い込んでしまうとそれ以上頑張れませんが『やるのが当たり前だ』と自分に言い聞かせれば体は動くものなんです。ランニングの後のダッシュを見れば分かるでしょう。それが精神力、今、彼女たちに一番大切なものなんです――片山キャプテン、分かっているな」
「は、はい……」
身動きもしないで片山が返事をした。
この惨劇にも近い状態を目の当たりにして、津村は戸惑っていた――これ以上彼女たちに優しい声掛けをすると、それは逆効果になるのかも知れない。そうかと言って急き立てることなどできそうもない――なすすべなく部員たちの横に立っているしかなかった。するとその内、むっくりと起き上がる人影を感じた。目をやるとそれは片山あゆみではないか。
「さあみんな、次の準備よ。頑張りましょう」
この姿を見て、津村は強いジレンマに襲われた――キャプテンという使命感に駆られて、けなげにもみんなを奮い立たせようとしている。自分はキャプテンの存在を、こんなにも意味あるものにしたことがなかった。ラグビー界ではこれが当たり前なのか? それとも荒木が指導者として優れているのか?
片山あゆみがゆっくり立ち上がると、他の部員も次々に体を起こし始めた。最後まで動くそぶりを見せない部員に片山あゆみが手を差し伸べた。
「さあ真澄、頑張ろうで」
川北真澄は嫌がることもなく「うん」と小さく返事をしてその手を掴んで起き上がった。
「みんな、すごい、すごいわ!」
津村は賛辞の声を上げずにはいられなかった。しかし部員たちは無反応だ。これに対して荒木が「あと二分しかない、水分補給をしたら防球ネットを直せ」と命令している。
この期に及んで、よくそんなことが言えるものだ。一体どんな神経をしているのか――津村にとって、もはや理解の範疇を超えていた。
「時間だ。片山みんなを集めろ」
荒木がそう声を掛けると、彼女の号令で元気のない返事をして部員がゆるゆると集まってきた。だがここで荒木のダメ出しが出る。
「やり直し! ここが踏ん張りどころだ。自分に負けるんじゃない! 元に戻れ!」
そして改めて片山に集合の号令をかけさせた。
「みんな集合!」
「はいっ!」
練習場に響き渡る声とともに、駆け足で皆が集まった。
「やろうと思えばできるじゃないか。できないのは、勝手に自分の壁を作るからなんだ。今君たちは、生まれて初めての経験をしている。それは自分一人だとできそうにないことでも、仲間がいるからこそやれているってことだ。例えば腿上げだ。片山が『みんなのためだ』と決意して無理をして上げ始めた。それを見て『これを無駄にしてはならない』とみんなが上げた。つまり一人がみんなのために、みんなが一人のために頑張った。これをラグビー界では『ワンフォアオール・オールフォアワン』と言う。これからも互いに支え合って、今まで超えたことのない壁を越えようじゃないか」
「はいっ!」
度を越していると思っていたが、部員は納得してついてきている。この人は本物だ――津村は荒木の精緻【せいち】を極めたその手腕に感動していた。
「それではここからコートを使っての練習に入る。津村先生お願いします」
「は、はい」
バトンを渡された津村は少し緊張していた――これまでの劣悪な評価に対する汚名を返上しなければ、この先、自分の居場所がなくなる。
「基礎打ちですが、ボードに貼ってある自分の名前を確認してコートに入りなさい。田町さんは五コートを準備して私とやりましょう。ではみんな、取り掛かってください」
「はいっ!」
部員のこの反応に、津村はほっと胸をなでおろした。
部員はコート分けを見て驚いた。いつもと違い、三年生と二年生がペアを組んでいるからだ。同学年による無駄話をなくし、下級生のレベルを引き上げるメリットが期待できる。これも荒木による改革の一つだった。
その効果があり、部員たちはヘトヘト状態にも関わらず、真剣に相手に向き合っている。三年生にも、後輩に弱音を見せたくないというプライドがあるのだろう。
その後の練習も組替えをしたが、やはり異学年をペアにした。
そして課題練習に入るとき、部員一人一人にノートと鉛筆が手渡された。その日の自分の課題練習内容を書き込み、このあと行うゲームを通して、それが実際に役立っているのか、他にやるべき課題は無いのか書き込むのだ。部員の思考力を伸ばすことはもちろんのこと、練習後に回収して津村と荒木で点検し、部員の卓球に対する知識の向上と、レベルの成長推移を検証する目的がある。
課題練習のあとはゲームだ。九人を三つのグループに分け、三人による総当たり戦を行った。全試合が終了すると、自分の課題について先ほどのノートに記録を付けさせた。
「何もかもが変わったな」
部員たちから感想が聞こえる。全く気を抜くことができない練習内容に、上々の感触を抱いている様子だ。
そして最後のトレーニングとなる。通常、五分もあれば一セットが終わるところを三倍以上の時間がかかった。荒木が緩めないからだ。号令に合わせて腕立てや腹筋を行う。それについてこられなければ、待ってでも徹底して全員にやらせた。
「もうダメ」「死ぬ!」全員が悲鳴に近い声を出しながらもがいている。しかし荒木は「まだ声を出すだけの余裕があるじゃないか」と相手にしない。
こうして荒木が考案した練習メニューでの初日が終了した。部員が全員引き揚げたあと、津村は恐る恐る荒木に声を掛けた。
「大変お世話になりました。私自身、あんなに追い込まれた経験がないので、ついつい心配になって声を掛けてしまいたくなるんですが、これからは我慢して見守るよう努めます」
「俺もラグビーを通して学んだのですが、人は上を目指している時は大変さを忘れるものなのです。逆に、立ち止まって現状のきつさに感情が浸ってしまうと、なかなか次の一歩が踏み出せません」
「そのようですね。何だか本当にこの三年生が目標を達成しそうな気がしてきました」
「いや、問題はこれからでしょう。厳しい練習に耐えたからと言って、すぐに戦績につながる訳ではありませんからね。モチベーションを保つには、こちらからの心のケアも必要になってきます。その辺はあなたの方が向いているかもしれない。これからもよろしくお願いしますよ」
蔑視されていると思っていたがこの内容だ、津村の中に嬉しさが込みあげてきた。
六
翌朝、津村と荒木が練習場に行ってみると、片山あゆみと二年生しかいない。後の三年生部員は筋肉痛で動けないと言うではないか。
津村の目が、どうしたものか、と荒木の顔に向いた。しかし荒木は不快感をあらわにしている。
「たかが筋肉痛くらいで……。片山、悪いが四人に連絡してくれ。第一、後輩が揃っているのに情けないじゃないか」
これを受け、片山あゆみはバッグの中からスマホを取り出した。その間二年生は部室に向かい、津村はボードにメニューを、荒木はダッシュ用にコート整備を始めた。
しばらくすると片山あゆみが津村のところにやってきた。
「すいません、やはりだめみたいです」
そう言ってスマホを差し出した。津村が覗いてみると、そこには卓球部三年生で作ったラインが映し出され、筋肉痛から始まり、荒木に対する不満が噴出している。
「困ったことになったわね」
津村はため息をついた。
「どうしましょう、コーチにも見せますか?」
「そうねぇ……この文面は見せないほうがいいでしょう。私の言葉で彼女たちの気持ちを伝えることにします」
これを聞いて片山あゆみは部室に入っていった。
「あの……コーチ……」
防球ネットを外している荒木に津村が声を掛けた。
「ああ、片山からの返事が思わしくなかったようですね。筋肉痛だけじゃなさそうだ」
「いえっ、大半の理由はそれなんですが、その原因となっているランニングとダッシュが嫌みたいで、練習に来たくないってことでした」
「何てことだ、そこが一番肝心なのに」
「コーチのやっていることに間違いはないと思っています。ただ初日から飛ばし過ぎたのかも知れません。やはり徐々に慣らしていったほうが良かったのではないでしょうか?」
「体力をつけるだけならそうかもしれませんが、俺は精神力を鍛えたいんです。そのためには荒療治が必要だ。きつければきついほど、克服したときの達成感が大きい。ここを乗り越えれば彼女たちは変わる」
「それは分かっています。でも来なくなってしまうと元も子もありません」
「俺に妥協しろと? 一度譲ると、またそれを当てにしてどんどんずるくなっていく。そうは思いませんか?」
「そうですね……」
津村は困った表情をして目を伏せた。
「昨日も言いましたが、あなたは彼女たちに信頼されている。俺の指導が受け入れられていないのであれば、それをフォローしてもらえると有り難いのですが」
「フォローですか……」少し困惑な表情を見せたが、津村にすればこれも挽回のチャンスには違いない「分かりました。やってみます」と返した。
「それじゃ今日の練習を始めましょう。片山を呼んでください。あれほど言ったのに、出てくるのが遅い」
「恐らく私とコーチの話し合いに気を遣って、二年生を留めているんだと思います」
「そうですか。彼女は本当にキャプテンにふさわしい子ですね」
「私が至らないばかりに他の三年生と同じように見えますが、中学生の頃は生徒会でも活躍していたそうです。すぐに呼んできます」
そう答えると、津村は部室に向かった。そして五人という、かつてない少人数で昨日とほぼ同じ練習メニューをこなした。
その午後、津村は三年生一人一人に電話をした。そして荒木がどのような思いで自分たちに厳しい練習を強いているのかを説明した。しかし彼女たちは、ランニングとダッシュだけはどうしてもいやだ、と言い張る。それに皆で結託して起こした行動となると、一人だけ抜ける訳にはいかないとも言う。四人の意志は固く、簡単なことでは崩せそうにない様子だ。
どうしたものか、このままでは荒木の期待を裏切ってしまう――卓球部の行く末も心配だが、今の津村にはそちらの方が大きな問題だった。しかし現時点ではこれ以上進展は望めない。実情を荒木に報告するしかなかった。
次の朝を迎えた。津村と荒木がいつものように練習場に行くと、驚いたことに人数がさらに減っていた。片山あゆみ以外には小野春香と弘崎瑞穂しか来ていないのだ。他の二年生は、三年生に乗じて休んだようだ。
「今日の練習はどうしますか?」
ためらいながら津村が荒木に訊いた。
「もちろんやるつもりでいますよ、いつも通りね」
「そうですか……でも、このままでは部員がいなくなってしまうかも知れません」
「それはないでしょう。この様子からすると、今来ている三人は頑張ると思います。それでいいじゃないですか。無理をしてやる気のない者に合わせるより、この三人を軸に、新生卓球部を目指す方が将来性はありますよ」
「ええっ! そんなことを思っていらっしゃったんですか? 私はてっきり、ここから盛り返して、九人の絆がさらに深まる方向に進むのかと思っていました。それにこのままでは団体戦に出ることさえできません。四人必要なんですよ」
「極論を言ったまでのことです。本当に卓球が好きなら戻ってきますよ。相手は高校生、それが青春ってもんです」
「そうでしょうか……荒木さんは女子のことが良く分かっていらっしゃらない気がします。男子はそれでついてくるかも知れませんが、女子は感情が先に立つと、大事なものが見えなくなってしまうんです。私はこれまでそんな友達を結構見てきました」
「ふーん、女子の特性と言うやつですか。それならやはり、割り切った考え方をした方がすっきりするのではないですか? こんなことでウダウダ言うなんて、元々運動には向いていない連中なのかもしれません」
「そんな……彼女たちを見捨てたくありません……。分かりました、説得を続けますからもう少し待ってください」
「ええ、待ちますよ、気の済むまでやってください」
まるで他人事のような言い草だ。本心はどこにあるのだろう――津村には分からなくなってきた。
一方で、これを喜んでいる者がいる。
「すごいですな、校長。あなたが言った通りになりました。わずか三日ほどで卓球部員が激減しましたよ。今日はわずか三人でグランドを走っていたようです」
校長室で紅茶をすすりながら事務長が言った。これに椅子にふんぞり返っている校長が答える。
「知っていますよ、ここからグランドが見えますからね。八時になるとここに立って、窓の外を見るのが私の楽しみの一つになっています。もう廃部も時間の問題と言ったところでしょう。こうなればいよいよトレーニングルームです。改装の話は進んでいるでしょうか?」
「はい、現在四社に声を掛けて、入札用の見積もりを取っているところです」
「大幅なリニューアルが必要です。あの鉄の扉はよくありません。閉塞感が漂ってイメージが悪い。ガラス張りにし、中のLEDを増やしてもう少しライトアップしましょう」
「その点も大丈夫です。仕様書の条件に『県内屈指の外観』を入れていますから」
「それは楽しみです。当然、導入する機械や器具も最新式なのでしょうね?」
「もちろんですよ。それを条件に、こちらも三社の取り扱いスポーツ店に見積書を上げさせています」
「こうなると着工時期が問題ですね。予定していた八月一日より早まるかもしれません」
「どれくらいまで繰り上げが可能なのか、仕様書に入れていただきましょうか?」
「それいいですね。すみません無理ばかり言って」
「なあに、お安い御用ですよ。それが私の仕事ですから」
「ふふん、実に頼りになる事務長さんです。お茶のお代わりはいかがですか?」
「ロンネフェルトの紅茶なんて私には贅沢すぎます。一杯で十分ですよ」
「これはまた、慎ましやかなお方だ」
校長は目を細めた。
その日の午後、津村は三年生五人を喫茶店に呼び出していた。電話で一人一人に当たっていてもらちが明かないと踏んだのだ。
しかし逆効果だった。同士が集うと気持ちが大きくなる。皆は露骨に荒木への不満を口にした。
「ヘトヘトで動けんのに『限界じゃない、まだいける』って、ありゃ鬼じゃが」
「夢だ、ミラクルだ、って非現実的な言葉並べたくって、それで私らがついて来とると思うとる。勘違も甚だしいんじゃ」
どんどん話はエスカレートし、荒木の誹謗中傷で盛り上がっていく。頼りの片山あゆみでさえ、それを聞いて笑っている。
挙げ句の果てに「二年生も来んようになってきとんじゃろ? さすがにみんな辞めたらあいつの方が困るんじゃねぇん? あいつは首になるで。みんな辞めちゃろうか」
よりによってこの結論で意気投合しようとしている。津村は舵取りのできない自分の力不足が情けなくなり、不覚にもうつむいた顔から涙をこぼした。
さすがにこれは無視できない。一瞬にして場は静まり返り、部員たちは津村の言葉に耳を傾けるようになった。
「この一年、十分なことはしてあげられなかったけど、もう少しあなたたちとは心が通じ合っていると思っていたわ。だから今日ここに集まって話をすれば、もっと前向きな解決方法を考えてくれると思っていた。それが一度きつい思いをしたくらいで部を辞めようだなんて……あなたたちにとって卓球はその程度のものだったのかと思うと、とても残念なの」
皆はうなだれた姿勢で固まった。
そのうち門脇凛がぽつりと口を開いた。
「あゆみは昨日も今日も走ったんじゃろ? どうじゃった?」
「そりゃきつかったわよ。じゃけど、初日より昨日、昨日より今日の方が楽じゃった気がする。慣れたのもあるかも知れんけど、ペース配分を覚えたのもあると思う。もうあんまりあちこちが痛うないしな」
「ふーん、そんなもんかなぁ……どうする?」
門脇凛が確認するように皆を見た。
「そうじゃなぁ……私はやってもええけど」という声もあるが「あのコーチに服従しとんかと思われるのはちょっと癪【しゃく】じゃな」という声もある。
せっかく変わりそうな流れを元に戻すわけにはいかない。「みんな誤解しているわ」と津村が切り込んだ。
「あなたたちが思っているほどコーチは冷淡なんかじゃない。電話で話した通り、今回の練習だってメンタル面を鍛えるためにあえてきついメニューを入れているの。コーチは誰よりもあなたたちのこと考えてくれているわよ。どう、みんな、もう一度コーチを信じて頑張ってみましょうよ」
津村の声に張りが出る。
「じゃけど、二年生もやる気ないんでしょ。私ら誰のために頑張るんか、あほらしい気もします」
「それは違うで優奈」津村の加勢をしたのは片山あゆみだ。
「自分のために頑張るんじゃ。それに二年生も二人は走っとる。あとの二人もうちらが頑張りゃ一緒にやるに決まっとる。じゃからもう一遍がんばろう」
そう言ってポンと戸村優奈の肩を叩いた。
「そうじゃなぁ……」戸村優奈が周りを見渡すと、仕方ないか、と皆も軽くうなずいている。
「有難うみんな、それでこそ三年生よ。明日で春休みも終わり、すぐに新入部員が入ってくるわ。みんなの団結力を見せてよね」
津村はホッと胸をなでおろした。
翌日、三日ぶりに全員が揃った。津村から事情を聞いていた荒木は「みんなよく出て来たな」とだけ言うと、何もなかったかのように練習が始まった。
しかしメニューに手心は加わっていない、やはりストレッチのあとにはグランド五周のランニングが待っていた。ただ荒木の提案でランニングの内容は変わった。連帯感を持たせるために、最初の二周は列を作り掛け声を出しながら走ろうというのである。
走るだけで精一杯なのに声を出す余裕なんかあるものか、と皆は腹立たしく思ったが、津村の申し訳なさそうな表情を見て従うしかなかった。
そして二周を走り終えたところで荒木の鞭【むち】が入る。
「ここから競争だ。あと三周は二年も三年もない、早くゴールした者から休憩とする。それじゃスタート!」
一変してスピード競技となった。意外なことに先頭を走っているのは二年生の小野春香だった。みるみる集団を切り離していく。こんなに速かったのか、と津村も荒木も驚いた。それを追うのは同じく二年生の弘崎瑞穂、その後ろが片山あゆみだ。やはり休まず練習に参加していた三人は他の者に比べてスピードが違っていた。
たまらないのは三年生四人だ。弛緩【しかん】生活の反動で体が重い。その上、たちまち置いて行かれたショックで精神的な張りも失せている。半周もしないうちにあえぎ始めた。結局、五周を走り終わったときの疲労感は、前回に比べて勝るとも劣らないものだった。
そのあとは腿上げダッシュだ。「ペース配分を考えれば大丈夫」と片山あゆみが言っていたが、腿上げは一層ハードになっていた。三〇回の足踏みが揃わなければダッシュの合図が出ないのだ。その回数は約三〇メートル分のダッシュに相当する。つまりそのあとの三〇メートルダッシュを加えると六〇メートルを全力で走ることになる。詐欺だ、聞いていないぞ、皆は悶々とした状態で耐え続けた。
部員に譲歩するとばかり思っていたがこの内容だ。ここまでくるともう理解の範疇を超えている。津村は荒木の暴走ぶりを、ただハラハラしながら見守るしかなかった。
第二章 訳ありの部員たち
一
三日後、卓球部には七人の一年生が入ってきた。初日のこの日は、全員を練習場に集めての部紹介である。
津村は自己紹介を兼ねて卓球部の現状を紹介した。新入部員の表情から察すると、たいした実績を持たない部であることは知った上で入部したようだ。しかし三年生が県でベスト4に入らなければ練習場が取り上げられると聞いて、少なからず驚いている。
次に荒木が自己紹介をした。例によって「一緒に夢を追いかけよう」と熱く語った。一年生が引き込まれるように目を輝かせて聴いている隣で、三年生は冷めた目をしている。あたかも、うんざり、と言わんばかりの表情だ。夢を語るより現実の厳しさを正しく伝えてちょうだい、と言ったところだろう。
そして部員相互の紹介が終わると、津村からこの日の練習メニューが発表された。二・三年生はそこに『ランニング』『トレーニング』のパネルがないことを喜んだ。もちろん先輩が放った歓声の意味が分からない一年生はキョトンとしている。
すかさず津村が説明をする。
「今日は歓迎を兼ねた顔合わせなので、ランニングやトレーニングをしません。でも一年生は明日からランニングシューズを用意すること。このあと二・三年生は一年生の相手を務めてあげてちょうだい」
八台を使用するのは久しぶりだった。二・三年生も一年生を相手に張り切っている。津村は、腕組みをしてこれを眺めている荒木の傍に行った。
「どうですかコーチ、新入部員の手ごたえは?」
「見たところ、三人は上手そうですね」
「すごい、それが分かりますか?」
「ここで一週間近く卓球ばかり見ていますからね。もっとも、ずぶの素人が見ても分かるんじゃないですか?」
荒木の指摘は無理もない。あとの四人は全く動けていないのだ。
「一応あの四人も卓球部員だったようです。でも安田楓、本山笹音、葛城千里の三人は個人戦で県大会に出場しているんですよ、さっき名簿で確認しました」
「それって、すごいことなんですか?」
「県内の中学生女子卓球部員は約千四百人です。その中で県大会出場者は一二八人なので、一〇人に一人の確率です。その上、高校に入ると別の部に変わる人もいるので貴重な存在と言えます。現三年生は片山さん、二年生は小野さんだけが県大会経験者です」
「それじゃ、この三人を鍛えれば県でベスト4も夢ではありませんね」
「そうなんです。トップに君臨する私立の二校は別として、一校に三人も固まる学校は数少ないと思います」
「ふーん、なるほど……」
琴線【きんせん】に触れたようだ、荒木はしばらく腕組みをしたまま三人を眺めていた。
やがて練習が終わり、皆が引き上げた後、二人の一年生が津村のところにやってきた。
「相談したいことがあるんですけど」
口を開いたのは、そのうちの小柄で眼鏡を掛けたおさげ髪の子だ。津村が「何かしら?」と訊くと、うつむきがちにもじもじしている。よほど話しにくい内容に違いない、津村は「遠慮なくどうぞ」と促してみた。しかし尚もためらっている。たまりかねたのだろう、もう一人の女子が右手で彼女の背中を突っついた。おかっぱ頭で、こちらもおとなしそうな顔をしている。これでようやく彼女が話し始めた。
「私は生まれつき心臓が悪いんです。お医者さんに相談したところ、軽い運動はできるって言われて……それで中学に入って卓球を始めたんです。ですから部ではランニングみたいな激しい運動は免除してもらっていました」
津村は卓球を軽い運動と言われて一瞬ムッときた。しかしそれを表情に出すこともなく相手を続けた。
「試合に出た経験は?」
「三年生の時に個人戦は出してもらったんですけど、団体戦は出たことがありません」
「そう、それで……いえっ、いいわ」
戦績は? と尋ねようとしたが、先ほどの練習姿を見て、訊くだけ野暮だと悟った。ここで荒木の顔をちらっと見る。相変わらず腕を組んだまま憮然としいるように見える――こっちにも、話を振るだけ野暮か……。
「さっき説明した通り、コーチまで付けてもらっているので強い部を目指さなくてはならないの。申し訳ないけどあなたの要望に応えることはできないわ。そうねぇ、無理しなくても本校では文科系の部も充実しているわよ」
これを聞いて「そうですか」と一旦は引き下がりかけたのだが、再び相棒に背中を突っつかれたため言いにくそうに口を開いた。
「できれば舞ちゃんと一緒の部でやりたいんです」
そう言うと隣の子に目配せをしたので、津村はそちらに話を振ってみた。
「あなたはどうして卓球部に入りたいの?」
「中学校で三年間続けてみて、面白かったからです」
「あなたはランニング大丈夫なの?」
「はい」
「ランニングと言っても、毎日グランドを五周も走るのよ。それにそのあと、この練習場を端から端まで一〇本もダッシュするの。今の二・三年生でさえふらふらになっているわ」
仲良しこよしの遊び場じゃない、と言わんばかりの口調だ。
ところが躊躇することもなく「頑張ってみます」と返ってきた。
何だこの子、空気が読めないのか? ――そう思いながら念押しをする。
「中学校の部活ではどれくらい走っていたの?」
「ずっと佐和ちゃんと打っていたので、ランニングをしたことは無いです」
「佐和ちゃんて? ああこの人ね……それじゃ走れるかどうか分からないでしょう」
「でも特に体が悪いわけじゃないので、走ろうと思えば走れます」
「あなたね……」
こちらのややきつい口調に対して、全くひるむ様子がない。津村はあきれてものが言えなかった。どうしたものか、と思案しているところに荒木が横から入ってきた。
「津村先生、まあいいじゃないですか。最初から決めつけるのはよくありません。一度走らせてみれば分かりますよ――」
言い方からして、彼もこの二人に期待している様子はなさそうだ。
「――それから君ね、心臓が悪いとか言っていたけど、どんな事情があれランニングは譲れないな。明日は一度見学をして、みんなの様子を見てから決めればいいよ」
荒木にしては随分寛大な提案に思えた。しかしこの場で無理やり説き伏せるよりも理に叶っている。津村も「それがいいわね」と同意した。
次の日の放課後、部員たちはグランドに集まった。ストレッチを済ませるといよいよランニングだ。三年生を前に、二年生を後ろに配置し、その間に一年生を挟んだ。心臓が悪いと申し出た藤坂佐和は、横に出て見学を決め込んでいる。
先頭の片山あゆみがいつもより大きな声を出している。三年生だけでなく二年生もそれに続く。みな新入部員を抱えて張り切っているのだ。その分いつもよりペースが速い。
半周の手前あたりで全体の中でも特に目立って横幅のある、一年の番原知美が列から後ろにこぼれた。ゆっさゆっさと巨体を揺さぶっているが、すでに顎が上がり、足はほとんど回転していない。
次に脱落したのは同じく一年の米井加奈美だ。足を引きずっている。
そして三人目は、昨日申告してきた秋元舞だった。必死の形相だ。
ここまでは、昨日の練習で明らかに動きの見られない四人の内の三人だった。いかにもという感じだ。しかしそのあとも次から次に一年生が置いて行かれた。
二周を走り終え「ここから競争だ!」と荒木が声を張り上げたとき、すでに一年生の一番早い葛城千里も二年生のかなり後方を走っていた。中学三年の七月に引退し、そのあと受験勉強のためさしたる運動をしていない彼女たちにとって、いきなりのランニングは厳しい洗礼と言えよう。
ランニングが終わり、息絶え絶えの彼女たちを待ち構えていたのは地獄の腿上げダッシュである。二・三年生が並んで疾走したあとは一年生の番だ。
「腿上げ始め!」
荒木ががなる。六人の中にはかろうじて腿上げに見える者もいる。県大会に出場した三人だ。あとは足踏みレベル、いや、米井加奈美と番原知美は、上げた足が床から離れているのかさえ怪しい。荒木の檄が飛ぶ。しかし駄目だ。「上げている三人の頑張りを無駄にするな」とさらに発破をかける。だが効果がない。それぞれに限界のようだ、泣きそうな顔をしている。荒木がついに折れた。この状態で「ダッシュ!」の合図を出す。六人はよれよれになって進み始めた。そして壁にたどり着くなり番原知美が崩れ落ちた。あとの五人は壁に両手をつき、ゼイゼイと荒い息をしながらかろうじて立っている。体中びしょ濡れだ。床に汗がしたたり落ちている。容赦なく折り返しダッシュが彼女たちを襲う。振り直って足踏みを始めたのは県大会三人組だ。ここでも荒木が檄を飛ばす。秋元舞と米井加奈美が何とか壁から手を放して振り直った。しかし番原知美は立ち上がることさえできない。荒木が執拗に声を掛けるが、四つん這い状態で動く気配がない。仕方ない、とまたもや荒木が妥協してダッシュの合図を出す。五人はよたよたと進み始め、青息吐息で壁にこぎ着けた。
「ようし、よく頑張った。今日は初日なので一年生はここまでにしておこう」
さすがの荒木も鬼にはなりきれなかったようである。
そして練習の締めに待っていたトレーニング、ここでも一年生の顔は悲痛に歪んだ。腕立て伏せができない。腹筋で体が起こせない。
一年生にとって衝撃的な一日が終わった。ここで荒木が締めくくる。
「君たちはいろいろな可能性を秘めている。しかしそれを開花させようと思えば、それに見合った努力をしなければならない。『天才は一パーセントのひらめきと、九九パーセントの努力だ』と言った人がいる。俺にとって卓球は専門外なので、君たちにどれほどの才能があるか見つけてやることはできないかもしれない。しかし九九パーセントの努力をする手伝いならできると思っている。一パーセントでも自分に才能を感じている者は、それを咲かせるために頑張って欲しい」
これを聞いて、理解できていないかもしれない、と津村は補足した。
「つまりね、コーチが言いたいことは『やる気だけではだめ、やる気があるなら覚悟してついて来い』ってことなの。今日の練習を通して分かったと思うけど、うちの部は単に台について打つだけじゃありません。アスリートに必要な強い肉体と精神力を育てるためにハードな練習をしています。だからレクのような楽しい活動を期待している人には向いていないと思います。他の部を当たったほうが賢明です」
言った直後に津村は後悔した――ここまで言う必要があったのだろうか。これではまるで、昨日相談に来た二人に当てつけているではないか、あれだけ言いにくそうな表情で打ち明けてくれたのに……。それに巨体の番原知美と、足を引きずっていた米井加奈美が今の言葉でうつむいた。とても悲しそうな目をしている。彼女たちにも何か事情があったのかもしれない。せめて一人ずつ相談に乗りながら、納得の上で断念させるべきだった。
二
ところが次の日グランドに出てみると、喜ぶべきなのかは分からないが、一年生が七人とも揃っていた。心臓が悪いと言っていた藤坂佐和までがランニングシューズを履いている。そしてこともあろうに、動けない四人が仲睦まじく固まっているではないか。
「あなたたち、よく来たわね」
つい笑顔で声を掛けてしまう津村だった。
「昨日、帰りながら話をしとると仲良くなっちゃって……私は辞めようか、と思っとったんですけど、加奈ちゃんが『一度始めたことは最後までやり抜くことにしとるの』って言うもんじゃから、もうちょっと頑張ってみようかと思い直しました」
巨体の番原知美が、足を引きずっていた米井加奈美の顔を見て言った。
「私は舞ちゃんと番長が頑張るって言うたんで、それならチャレンジしてみようかと思って走るつもりで来ました」
心臓の悪い藤坂佐和がいたずらっぽく笑いながら番原知美に目をやると「『番長』は、中学校の時に付けられたあだ名じゃけん言うちゃいけんて言うたじゃろ」と番原知美が苦笑しながら藤坂佐和の肩を叩いた。これを見て津村としても言わずにはいられない。
「でもあなた、ランニングはドクターストップがかかっているんでしょ?」
「少しくらいなら大丈夫です。昨日の番長を見て、あれなら私でもいけるなって思いました」
「じゃから『番長』って言うなってば」
また番原知美が、じゃれるように藤坂佐和の肩を叩いた。
有り得ない。すでに意気投合しているではないか。この人たちの神経はどうなっているのだ。ここに来るまで罪悪感を抱いていた自分は何だったのだ――津村はあきれた。
そこに荒木がやってきた。昨日のランニングが長引き、迷惑をかけた件を野球部監督に謝罪に行っていたのだ。戻って来るなり四人の姿を見て目を白黒させている。一体どうなっているのだ、せっかく詫びてきたばかりなのに、と言わんばかりの表情だ。
「それじゃ、ストレッチを始めよう」
合点がいかないまま、荒木が本日の練習開始を告げた。
そして部員にとっては憂鬱な、コーチにとっては気が重いランニングが始まった。
片山あゆみが勇ましい掛け声を掛けて皆を引っ張っていく。昨日同様に張り切った気持ちがそのままペースに現れる。
スタート直後に列を離脱したのは米井加奈美だ。顔を歪めて最初から足を引きずっている。よほど苦痛を我慢しているに違いない。とっさに「大丈夫?」と津村が駆け寄った。
しかしその三〇メートル先ではもっと激甚な出来事が起こっていた。
「先生、大変です!」
部員たちの叫ぶ声が聞こえる。見ると足を止めて輪になっている。津村も荒木も慌ててその中に駆け込んだ。事もあろうに、藤坂佐和が胸を押さえてうずくまっているではないか。
「おいっ、大丈夫か?」
荒木が肩に手を掛け、顔を覗き込む。ハアハアと聞こえる荒い息遣い。眉間にしわを寄せ額に脂汗をにじませている。その真っ青な顔に緊急事態を悟った。
「津村先生、救急車をお願いします」
「は、はいっ」
おろおろしながら、津村はポケットからスマホを取り出した。そのとき「大丈夫ですから」とかすれた声がした。藤坂佐和のものだ。さらに「このまま、しばらくじっとしていれば落ち着きます」と続けた。
「そうはいくもんか。さあ津村先生、急いでください!」
荒木の、このけたたましいわめき声を受けて津村は救急車を呼んだ。
活動中だった野球部員や陸上部員までが「何事か?」と寄ってくる。みるみる人だかりができていく。そのとき津村のスマホに着信音が鳴った。見ると学校からだ。何がどうなっているのか理解できないまま、とにかく応答する。
「はい、津村です」
「校長の種田です。今、校長室からグランドを見ています。何が起こっているのか説明しなさい」
「あっ、はい。卓球部の一年生がランニング中に倒れました」
「それで容態は?」
「本人は苦しそうなんですが、大丈夫だと言っています。でも荒木コーチが心配しているので救急車を呼びました」
「なるほど、そうですか……とりあえず各顧問に協力をお願いして、野次馬を元の活動場所に戻させなさい。私もすぐにそちらに行きますから」
「はい、分かりました」
津村はスマホを切ると、すぐさま校長の指示に従った。たちまち群衆は解散し、藤坂佐和は津村と部員に抱えられるようにしてグランドの一番端に移された。
時を置かずして校長が駆けつけ、津村の背中に話しかけてきた。
「どうですか、具合は?」
津村はしゃがんだままの姿勢で振り返った。
「ご心配かけて申し訳ありません。顔色がやや戻り、落ち着きかけています」
「そうですか、それは良かった――どうかな君、大丈夫か?」
「はい」
藤坂佐和のこの返事を聞いて安心したのだろう「ちょっとこちらへ」と校長は聞き取りの対象を荒木に切り替えた。少し離れたところで背中を向けているため、津村には二人の会話を正確に聞き取ることはできないが、荒木が「元々心臓が弱い」とか「本人の意思で」とか説明している内容が聞こえてくる。どうやら校長がこれまでの経緯を確認しているようだ。しかしそのあと看過できない言葉が校長の口をついて出た。
「例の件もまだ片付いていないのでしょう? 厄介なことにならないうちに、こちらだけでも……」
例の件? ――津村はそこにただならぬ意味を感じた。しかしここで救急車が到着したため、悶々とした感情を抱いたまま藤坂佐和に付き添うしかなかった。
病院に到着すると藤坂佐和は集中治療室に運ばれた。
津村が廊下の長椅子に腰かけ、壁に貼ってある院内での注意事項に目を通していると荒木がやって来た。
「どうですか、藤坂の様子は?」
「現在、この中で検査を受けているところです。でも救急車の中ですでに普段の状態に戻っていましたから、心配することは無いと思います」
「それは良かった」
荒木が安堵の表情で隣に腰を下ろしたので、津村は気になっていたことを訊いてみた。
「あのあと、校長先生とはどんなお話を?」
「リスク管理とか言っていましたね。『些細な不信感が命取りになりかねない。早速、明日には緊急保護者会を開き、今回の出来事を保護者と共有したほうがよい』だそうです」
「そうですか、校長先生らしいですね。日頃から口癖のように『先手必勝』と言っていますものね」
「先手必勝ですか、それであんなに対応が早かったんだ。すぐ現場に駆け付けるなんて驚きました。普通、高校の校長はそんなことしませんよ」
「あの人は普通じゃないです。手腕を買われて、民間企業から本校の校長に大抜擢されたんですよ。ですから経営に関してはエキスパートみたいです。でも教員の大変さは理解していません」
「ふーん」
共感するでもなく、荒木は考え込むように腕組みをした。
「今後の対策以外に、何か校長とお話しされていませんでしたか?」
「ああ、藤坂が倒れるまでのいきさつですよ。こちらに落ち度がなかったか知りたかったのでしょう」
「それだけですか? 何か意味ありげな雰囲気を感じましたけど……あっ、私の勘違いならいいです」
荒木の怪訝【けげん】そうな表情を見て引っ込めたが、その所作がかえって重い空気を作った。
そこに藤坂佐和の母親が駆けつけてきた。荒木が事情を説明しながら、過剰と思えるほどに頭を下げて謝罪を繰り返すので、津村もそれに合わせて頭を下げ続けた。
しかし母親は理解のある人だった。「そんなに気になさらないでください」と二人にいたわりの言葉を掛けてくれた。
「佐和は虚血性心疾患の中の遺伝性狭心症という心臓病なんです。私の病気が遺伝しているのです。ですから私には心臓が痛くなった時の苦しみも、その回復状況も分かっています。限界を超える前に息苦しくなって動けなくなりますので、余程のことがない限り命を落とすことはありません。私は臆病なせいで全く運動らしいことをしませんでした。そのため随分と肩身の狭い思いをしてきました。佐和には私と同じ辛い思いはさせたくない、これを克服してたくさんの友達を作らせてやりたいと思っていましたので、中学校で卓球部に入ると聞いた時、私には不安よりも喜びの方が大きかったです。中学校の先生もその気持ちを汲んで協力してくださいました。そのお陰で舞ちゃんという、同じ高校に通うまでの親友ができました。佐和は高校での話もしてくれました。熱いコーチがいて『誰でも可能性を秘めている。一緒に夢を追いかけよう』と言われて感動したそうです。それに『卓球部には運動が苦手な一年生がいてすぐに友達になれた』と喜んでいました。足手まといになることを承知でお願いします。どうか今回のことに懲りず、本人が望んでいる間は温かく見守ってやってください」
責任を追及される覚悟をしていたがこの内容だ、津村は荒木を気にしながら「はあ……」と曖昧な返事をした。荒木も下唇に力を入れ戸惑った表情をしている。
仕方ない、ここはまた自分が悪役になるしかあるまい――津村は覚悟した。
「でも中学校の部活動と違って、本校の卓球部には大きな使命が与えられています。そのために、今後も厳しい練習を余儀なく行わなければなりません。とても佐和さんが望む部活動にはならないでしょう」
「それも伺っています。だから佐和は走る覚悟をしたのです。試合に出してもらおうなんて思っていないはずです。とにかく、どこまでできるかチャレンジしてみたい、それだけだと思います。運動をするチャンスを残してやってください」
「そちらの気持ちはよく分かります。でもこちらにもこちらの都合があるんです」
「そこをなんとかお願いします」
「……第一、今日倒れたことによって佐和さんの気持ちに変化が起こっているかもしれないじゃありませんか」
「それはそうですけど……」
母親は悲しそうな目をしてうなだれた。これを見て津村は胸が押しつぶされそうだった。ここで荒木がようやく重い口を開いた。
「まあ津村先生、今すぐに性急な結論を出すのは止めておきましょう。もうすぐ検査が終わって藤坂が出てきます。そのあと親子でしっかり話し合いをしていただけばいいじゃないですか」
その言葉に、母親がすかさず食いついてきた。
「それは、佐和が望めば部に残れる可能性があるということですか?」
「ええ、まあ、そうですね」
「有難うございます。佐和としっかり話し合ってみます」
このやり取りを見ていて、津村は口惜しい思いがした――これではまるで自分一人が悪者ではないか。
しばらくすると看護師に呼ばれ、母親が診察室に入っていった。これで荒木と二人きりだ。津村は我慢できずに不満を口にする。
「一体どういうつもりです? 私が無理をしてまで頑張っていることが分からないんですか? 彼女が残ると困るでしょう」
「ふーん」荒木は腕組みをした。
「分かっていないのはあなたの方だ。明日、緊急保護者会があると言ったでしょう。何のためですか? 今回の事故について、保護者に納得してもらうためでしょう。それじゃ当人は誰ですか? 藤坂佐和でしょう。あなたはその母親を敵に回して保護者全員と戦うつもりなんですか? 今なら『うちの子が迷惑をかけて申し訳ありません』というスタンスで私たちの弁護をしてくれるはずです。これに勝る味方がありますか?」
「あ……」振り上げた拳の納めどころがない「すみません、軽率な発言をして……」断りをするしかなかった。
藤坂佐和が母親と診察室から出てきた。別条はなく、これまで通り適度な運動は医者が認めてくれたようである。自宅に帰ってしっかり話し合いをするよう促すと、津村と荒木は親子と別れた。
学校に戻って校長に報告をすると、例によって「先手を打っておく必要がありますね」と返してきた。もし明日の保護者会で、藤坂佐和の母親が卓球部への残留を希望してきたなら断り切れないだろう、と言うのだ。そうかと言って、他の部員と同じメニューを強いることはできない。次に倒れると大問題となる。同じ過ちは許されないのだ。そうなると、今後の活動内容について特別な手立てを講じておくしかない。ついては藤坂佐和の出身中学校に連絡を入れ、中学時代どのような措置が取られていたのか卓球部の顧問に確認することになった。
早速、津村が電話をしたところ、ここで意外な情報を知ることとなる。卓球部の顧問が言うには「用心すべきは藤坂佐和の母親ではなく、秋元舞の母親だ」と忠告してくれたのだ。
秋元舞は自閉症だった。何かに関心を持つとそこから離れることができない。周囲に合わせることがないため、園児のときから浮いていた。「舞」の名前に引っ掛け、いつしか「舞菌」と呼ばれて疎外されるようになった。何とか改善しようと保育士たちも努力したが、本人が変わろうとしないため事態が好転することは無かった。年が行き、分別がつくようになれば周りの子ども達が理解できるようになる、と小学校に託すことにした。
秋元舞が上がった小学校は、一学年一学級の小規模学校だった。保育園からの申し送りを受け、ベテランの女性教師が一年生の担任になった。所詮六歳の子どもたち、と高をくくっていたその教師は、ふたを開けて慌てることになる。入学式の翌日から「舞菌」は「バイキン」扱いとなり児童たちの共通の敵となっていたのだ。秋元舞が落書きされたノートを家に持ち帰る。母親が憤慨して学校に押し掛ける。次は破れた教科書を持ち帰る。その次は鉛筆が折られている。消しゴムが無くなっている。指導の甲斐もなく似かよった出来事が繰りかえされ、母親の怒りはエスカレートの一途だ。昼夜を問わず抗議の電話が鳴り続ける。ついに担任は精神疾患で病休になった。
二年生に進級してもクラス替えは無い。学校側とすれば、満を持して配した男性教諭のはずだったが、二学期半ばでやはり病休となった。
三年生ではこの学年を二人担任制にした。監視の目を光らせ、あれもだめ、これもだめ、と容赦なく児童に制限をかける。今度は他の保護者達が学校の指導方針に不満を感じて乗り込んできた。学校は改善策として、秋元舞の特別支援教育を打ち出そうとする。しかしこれに納得がいかない母親は弁護士まで立て、いじめにより子どもの権利が阻害されようとしている、と学校を提訴する構えを見せた。委員会が介入し、視察と調査を繰り返し、校長に指導改善を迫る。果てに校長が心労で倒れた。
四年生になると、この規模の小学校では稀有なケースとなるが、市の予算が投じられ、生徒指導の加配教員が配置された。また学校を上げて人権教育に取り組み、障がい者理解に力を入れた。その成果と言えるのかは明白でないが、秋元舞への誹謗中傷と、露骨な嫌がらせは影を潜めた。ただそれは表面上のものであり実質の解決には至っていない。このころから秋元舞に近づく児童はいなくなり、こともあろうに卒業するまで誰一人として彼女と口をきく友達はいなかった。
のど元過ぎれば熱さ忘れる、である。時が経ち、小学校の教員たちは油断していた。ここまでの申し送りをしていない。秋元舞が中学校に進学した時、パンドラの箱が再び開けられた。同じ小学校に通っていた者たちが、面白半分に各クラスで「バイキン」の呼称をまき散らしたのだ。一学年八クラスもある大規模な中学校にも関わらず、瞬く間にそれは蔓延した。業間になると秋元舞を見ようと野次馬が集まってくる。掃除時間になっても彼女の机だけは後方に運ばれず、ポツンと取り残されていた。「バイキン」がうつる、と誰もそれに触りたがらないのだ。秋元舞が廊下を歩くと、モーゼの十戒で海が割れる如く、人混みが両脇に分かれていった。いたずら心で男子に押され、彼女に肩を接触させられた女子は「死ぬ」と言いながらうずくまって本気で泣いた。異常な事態だ。
近所のうわさでこれを聞きつけた母親が、小学校の時と同様中学校に乗り込んできた。しかし学校側とすれば現状把握ができていない。大規模な学校にとって、いじめは発見が難しい。どうしても非行や校内暴力、授業妨害に目が向きがちだ。文科省が打ち出す「いじめ防止対策推進法」に基づき「校内いじめ対策委員会」なるものを設置はしているが、形骸化している。漠然と対処を約束してその場を収めるしかなかった。ここで学校が取った措置は担任による観察だった。従って日を置いても母親のところに具体的な手立てや成果の連絡が入ってこない。業を煮やした母親は再び委員会に訴える。これによってようやく本腰を入れて学校が動くこととなったが、その代償として、母親はモンスターペアレント扱いになってしまった。
ここまで詳細ないきさつを知らない卓球部顧問は、電話の向こうで次のように語った。
「母一人子一人の母子家庭のせいか、母親はちょっとしたことでも過敏に反応して、学校に文句を言って来るみたいです。小学校の時なんか、弁護士まで立てて訴訟を起こそうとしたとか聞いています。気を付けた方がいいですよ。まあ一年生の時点で担任からそれを聞いていたので、うちの部では本気で関わっていませんよ。そこは藤坂佐和がいたので助かりました。隅の方に一台置いて二人の世界を作ってやったら、喜んで三年間過ごしましたものね。お陰で私は両方の母親から感謝されました。母親が苦情を言ってきて手に負えないと思ったら私に相談してください。少しはお役に立てるかもしれません」
津村は当然これを鵜呑みにした。早速、校長と荒木が揃っているところでこの内容を報告すると、校長は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「訴訟ですか。どちらかと言えば私の得意分野ですね。少しでもそのようなそぶりを感じたときは早めに相談してください。私にはスクールロイヤーも必要ありません、顔なじみの弁護士がたくさんいますからね」
津村はこれを聞いて、保護者との真っ向勝負もいとわないとする校長のこの姿勢に、危険なにおいを感じた。
校長室を出ると、今度は荒木が津村に言った。
「やはり本人を見ただけでは分からない事情があるものですね。実は、米井加奈美についても気になっています。彼女はなぜ足を引きずっているのでしょう。本人は大丈夫だと言っていますが、こちらも確かめてもらえませんか?」
言われてみればその通りである。津村は早速、彼女の出身中学校に電話をし、卓球部顧問に問い合わせてみた。そしてこちらからも意外な情報を入手することができた。
米井加奈美は三歳の時、交通事故に遭っていた。母親と一緒に買い物をした帰り、路側帯の左側を歩いていた母親が、うっかり右手に加奈美を連れていたため、加奈美だけが車に引っ掛けられたのだ。すぐに救急搬送されて手術が施されたのだが、彼女の右足は数センチ短くなってしまった。日常生活に支障はないが、ランニングのように足に負担をかけ続けると、右足付け根に炎症を起こし痛みを伴うらしい。
藤坂佐和に特別な措置を許すなら、米井加奈美の母親に頼まれてもそれを断ることはできないだろう。荒木は困窮した表情をした。
さらにもう一人、極端に遅い番原知美がいる。見たところただの肥満体に思えるが、こちらさえも特別扱いにすると収拾がつかなくなる。さりとてこのまま皆と一緒に走らすと、野球部に迷惑が掛かってしまう。とても悩ましい問題である。結局のところ、特別な事情がない限り、ついてくることができないならば辞めてもらうしかあるまい、と相談がまとまった。
三
翌日一九時、中会議室に一六名の保護者が集まった。皆母親だ。全員が揃ったことから見ても、今回の件への関心の高さがうかがえる。これに対して教員側は津村と荒木、それにこの会の開催を勧奨した校長を加えて三名となった。
津村の司会で会が進行される。出席者全員の自己紹介が終わると、荒木が事故に関する概要を説明し始めた。保護者たちは無表情で聞いている。何を考えているのか分からない。どことなく醒めたこの雰囲気は津村にとって圧迫感があった。このあとすぐ質疑応答を考えていたが、手厳しい意見が飛び出しかねない。咄嗟の判断で藤坂佐和の母親に発言を求めることにした。
「このたびはうちの佐和がご迷惑を掛けて、大変申し訳ありませんでした――」
それは、津村と荒木にとって期待通りの内容だった。心臓の病気を抱えていること、見学をした上で部への加入を検討するよう勧められたこと、自分の判断でランニングをしたことなど、学校側に非がないことを説明してくれた。
ここでようやく保護者の間に反応が現れる。ちらほらとうなずく姿があるのだ。津村は人心地ついて次に進むことができた。
「では質疑応答に移ります。みなさんからご意見やご質問があればお伺します」
すかさず手が挙がった。秋元舞の母親だ。来たな、と津村は構えた。しかしクレームではなかった。
「学校の方針を重々承知でお尋ねするのですが、藤坂佐和さんの今後の扱いはどうなるのでしょう? 私といたしましては、ここにこうやってお母さんがわざわざ足を運び、皆さんへのお詫びを述べられていることから、活動の継続を望まれるのであればそれに応えてあげていただきたいと思っているのですが」
想定通りの質問に校長はしたり顔だ。その横で荒木が立ち上がった。
「本校は私学ですので、その活動目的を成果に特化し、ハードな練習に取り組むことも許されることをご理解ください。ただし教育の一環という側面も有していますので、過酷な内容と知りながら一緒に夢を追いたいと願う部員であれば、少々運動が苦手でもサポートしていきたいと考えています。そしてそれが身体的な問題であれば、幾分配慮する必要があると思っています。グランドのランニングになりますと他の部活動のご迷惑にもなりかねませんので、藤坂さんが部への存続を願うのであれば、校舎周りを自分のペースで回っていただこうと考えています」
これを聞いて藤坂佐和と秋元舞の母親は笑顔を交わした。
「あのう……」遠慮がちに手が挙がった。米井加奈美の母親だ。
「実はうちの子も、他のお子さんと一緒には走れない身体的な問題を抱えているんですけど、卓球部は続けたいと言っています」
荒木が心得ているとばかりに、首を縦に振って立ち上がった。
「そのようですね。先日の走り方を見て、失礼ながら中学校に問い合わせをさせていただきました。プライベートなことなのでこちらから詳細を申し上げることはできないのですが、皆さんも知っておいてください。米井さんは右足にハンディを背負っていらっしゃいます。活動の継続をお望みでしたら、藤坂さんと同じ参加方法を考えています」
「有難うございます。そこまで気を配っていただいているとは思いませんでした」
米井加奈美の母親が、座ったままだが深々と頭を下げた。
シナリオ通りの展開だ。「他の方で何かありませんか?」と投げかける津村の頬もつい緩む。その時、また別の保護者から手が挙がった。
「別件でも良いでしょうか?」番原知美の母親だ。
「うちの子は、私に似て肥満体なもんで、走るのがとっても遅いでしょう。『ダッシュもへばってしもうて、途中で動けんようになった』って家で笑っとりました。ご迷惑でしたら、一緒に校舎周りを走らせてもらってもええんですけど」
何ともあけすけなもの言いだ。すかさず荒木が答える。
「先ほど説明した通りです。身体的に特別な事情を抱えている生徒には配慮いたしますが、そうでなければ頑張ってもらうしかありません。その活動方針をご理解いただいた上で、しっかりお子さんと相談し、継続するのか辞めるのかを決めてください」
「そうじゃろうね、了解しました。ご迷惑をおかけすると思いますがよろしゅうお願いします」
どうやら娘と相談するまでもなく、継続と決め込んでいるようだ。これはこれで気が重い。しかしこれもまた想定内であり、覚悟していたことだ。やはり問題を感じ、一年生を対象に備えていたことは正解だったと言える。津村は山場を乗り切った気でいた。
ところが皆が皆、敷かれたレールの上をおとなしく走る訳では無かった。保護者が全員集まっていることには理由があったのだ。ここまで沈黙を守っていた三年生のグループの中から手が挙がった。川北真澄の母親だ。特に無表情を貫いていたので、津村も気にはなっていた。
「コーチは今『身体的に特別な事情を抱えている者以外は配慮しない。過酷な練習内容であることを覚悟の上で卓球部に入ってこい』とおっしゃいましたよね。一年生ならそれで納得するかも知れませんが、勝手に部活の方針を転換しておきながら、今までいた部員にそれを求めるのはいかがなものでしょう。その方針が向かない二・三年生だっているんですよ。辞めろとおっしゃるのですか?」
これを受けて荒木が立ち上がった。
「そうではありません。どうせ同じ時間、同じ空間で活動するのであれば、目的を持った、やりがいのある部を経験させてやりたい、そう思っていますので、二・三年生にも最初にそれを説明し、納得の上で活動を始めたつもりです」
これを聞いて腑に落ちないのだろう、指名もしていないのにその隣の母親が座ったままで発言を始めた。三年生田町きららの母親だ。
「高校生を相手に『夢だ』『青春だ』と魅力のある言葉を並べたくれば、みんなその気になるじゃありませんか。ところが蓋を開けてみると、体力を使い果たして動けなくなった者にさらに無理強いをしているそうですね。これはしごき以外の何ものでもないと思います」
これに対しても荒木が弁明をする。
「コートに着く前に三キロほどランニングをして、ダッシュをやっているだけです。やり慣れていないので最初の内はきついですが、すぐに慣れますよ。他の部でもアップにこれくらいのことはやっています。それに少しくらいの負荷を掛けなければ体力も付きませんし、メンタル面も強化できません」
「それはご自身の経験を元におっしゃっていますよね、確かラグビーが専門だと聞いていますが。ここは卓球部の集まりです。それに女の子なんですよ、あんな粗野なスポーツと一緒にしないでください」
今度は戸村優奈の母親だ。こうなると売りのつもりだったラグビーが仇となる。荒木が窮した顔をした。援護をしなければ、と今度は津村が立ち上がった。
「皆さんがおっしゃりたいことはよく分かります。でもコーチが言っている通りなんです。他の部でも結構ランニングはやっていますし、卓球経験者の私も高校時代は本気で走りました。これまでが運動部らしくなかっただけなんです。それに先日一年生を入れて走らせてみると、すでに二・三年の方が相当速かったんです。明らかに体力も付き、慣れてきているのだと思います」
「それはうちの子にもプライドがあるので、後輩の手前無理をしたんですよ。『これがずっと続くのかと思うと、憂鬱で神経症にでもなりそうだ』と嘆いています。だいたい一年生が倒れて救急搬送されたと聞き、何か改善策でも打ち出すのかと思って期待して来たんですよ。がっかりです。私たちが来る必要ないじゃありませんか」
川北真澄の母親が、再び立ち上がって捲し立てる。
「それに、言っていることが矛盾しているんじゃありませんか?」田町きららの母親だ。相変わらず座ったままだ。
「三年生は先日『ついていけないので辞めたい』と先生に申し出たそうじゃありませんか。それを泣いて止めたとか聞いています。コーチは『指導方針に向かない者は辞めろ』と言い、先生は『辞めるな』と言っている、明らかにお二人はちぐはぐしていますよね。そちらこそ、どちらかが身を引かれた方がいいんじゃないですか?」
この発言に、三年生の保護者グループが顔を合わせてうなずき合っている。
荒木のサポートをしたつもりが、こちらに矛先が向いてしまった――津村は気が動転して頭が回らない。
「いえっ、あれはですね……せっかく頑張ってきた三年生が……そのう……もったいないと言いますか……」
「少しよろしいでしょうか」これを見かねたのか、校長が右手を軽く挙げて立ち上がった。
「今回は様子を伺うだけのつもりで同席させていただいたのですが、学校の責任者として一言申し上げます。皆さんもご存知かと思いますが、荒木コーチはラグビー界で名を馳せられた大変優秀な指導者です。その卓越した手腕を買って本校にお招きしています。従ってその指導方法に間違いはないと信じています。そして津村ですが、こちらも採用二年目とは言え、親身になって生徒に関わり合いを持とうとする熱意溢れる教師です。頑張ってきた三年生が目の前で挫折しようとすれば、励ましの言葉を掛けるのは当たり前の行為ではありませんか。感情的になるあまり、それを歪曲【わいきょく】に捉えないでいただきたいものです」
ここまで聞いて、津村はそれまで抱いていた校長への不満や不信感を払拭し、尊敬の念さえ感じた。しかしこれで終わりではなかった。このあと過激な発言が飛び出したのだ。
「この二人が組めば、最強の部ができるのではないかとさえ思っています。そのコンビを卓球部に投じているのです、そこのところを十分ご理解ください。従って二人は辞める必要もありませんし、現在打ち出している方針を変える必要もありません。考えを改めるのは保護者の皆さん方だと思っています。我が子を思うあまり過保護になっていませんか。二年生も三年生もありません、甘い考えで今後も卓球部に籍を置こうとすれば、それこそちぐはぐな部になります。打ち出した指導方針を受け入れられないのであれば、即刻退部すべきです」
「そんな! 聞き捨てなりませんね。最高責任者が、そのような事をはっきり口にしていいんですか?」
田町きららの母親が喰いついてきた。
「私が何か間違ったことを言っていますか? 遠慮なくご指摘ください」
校長は悠然と構えている。三年生と言わず、二年生の保護者までもがざわめき始めた。ここでついに田町きららの母親が立ち上がった。
「部活動は生徒のためにあるのではないですか? ないがしろに考えているとしか思えません」
しかし校長に慌てるそぶりはない。
「それは見解の相違ですね。この二人は生徒のために本気で何とかしたいと考え、現在の方針を立てたのです。そしてその内容は、客観的に見ても十分理に叶っています。決して無茶な提案ではありません。ごねて従来のだらけた部に戻そうとする方がどうかしています。正すべきだと思います」
「まあ……そんなこと言って、部員が全員辞めたらどうするんですか?」
「それはそれで仕方のないことです。これだけの指導力を持った二人ですので、別の部に回って活躍してもらいます。特に学校が困ることはありません」
「校長がそんなことを平然と言って、ただで済むと思っているんですか?」
「ただで済む? 穏やかではありませんね、脅し文句はまかり間違えば罪に問われますよ。冷静になって考えてみてください、どこに訴えると言うのですか? 校内人事権は私にあります。どこにも泣きつくことはできませんよ。それともSNSで拡散しますか? そんなことになればそれこそ裁判です。いざというときのために、私は最初からこの会の一部始終をこれに録音しています。話を盛れば名誉棄損になるだけです」
校長は左手を開き、ボイスレコーダーを見せた。これには保護者も参ったようである、うかつなことが言えなくなった。
いくら何でもやり過ぎだろう、津村がそう思っているところに、校長がダメ押しをする。
「ご承知いただけましたか? 部活動の主導権は指導者側にあるのです。それに納得がいかない人は無理をして続ける必要はないのです」
高圧的な態度で保護者をねじ伏せてしまった。教育者としては信じがたい方法だ。保護者は、戸惑いと怒りが入り混じった複雑な表情をしている。しかし誰一人、声を発する者はいない。
「津村先生、他に何もないようでしたら閉会にしましょう」
どこまでもマイペース、一体どんな神経をしているのだろう――津村は校長に、ある種の畏怖を覚えた。
津村の閉会宣言によって保護者が席を立ち始めると、校長は津村と荒木の間に入って耳打ちをした。
「一人一人の我儘【わがまま】に付き合っていたのではきりがありません。自信をもって自分の考えを貫いてください。ではこれで」
ポンと両手で両者の背中をたたくと、涼しい顔をして退室した。
津村が唖然としていると、荒木がボソッと言った。
「タヌキめ!」
「どういう意味ですか?」
津村は首をかしげながら荒木の顔を見た。
「いえ、その内に分かりますよ。それよりも三年生の保護者が何か言いたそうにして固まっていますね。聞いてあげたらどうですか?」
「ええっ! ……何だか怖いです。私には無理です」
「大丈夫です。あの様子からして、悩みごとの相談だと思います。校長が強大な敵になっていますから、こちらに噛みつくことは無いでしょう。そうかと言って、私には不快感を持っているはずです。だから向こうから近づいて来ようとはしないんです。ここは津村先生しかいません」
「そうでしょうか……自信ありません」
「恐らく部への残留を頼まれるんじゃないですか。いくら何でも子どもの思いも聞かずに辞めさせる訳にはいかないでしょうからね」
「それならこちらに相談する必要、無いじゃありませんか」
「プライドの高い母親たちのことです、一応こちらに釘でもさして収めようと言ったところでしょう。適当に聞き流しておけば溜飲が下がるのではないでしょうか」
「もしも残るために変な条件を頼まれたらどうしますか?」
「判断に困ったときは『考えさせて欲しい』と保留にすればいいじゃないですか」
「そうですねぇ……」
津村はまだ煮え切らない。宙を見つめる表情に困り感が現れている。
「やはり、あなたからは行き辛そうですね。分かりました、それじゃ俺は退室します。そうすれば恐らくあちらから近寄ってくるはずです」
津村の意思を確認することもなく「それでは」と保護者に聞こえるように声を張って荒木は出て行った。
何と薄情な――心細さに、荒木が出て行ったドアを恨めしく見ているとどうだろう、まさしく彼が言った通りではないか。母親たちが津村に近づいてきたのである。
四
「校長、一体どうなっているんですか?」
校長室のドアを開け、けたたましく入ってきたのは北谷事務長である。
「どうなっているとは、どういう意味でしょう? それは卓球部のことを言っているのですか?」
校長は例により、椅子にふんぞり返ったまま落ち着き払った様子で答えた。
「もちろんそうです」
「ふふん。それでは、ランニングをしている卓球部員がいることに驚いているのですか、
それとも走っている人数が激減していることに驚いているのでしょうか?」
「もちろんランニングをしている者がいることに、ですよ。だってあなたは、昨日の保護者会で卓球部を潰すと言っていたではありませんか」
「もちろんそのつもりですよ。そして保護者を敵に回すというリスクを承知で謀略を施しました。その結果が人数の激減です。ゼロにならなかったことは残念ですが、時間の問題でしょう」
「随分と自信がおありなんですね」
「気になったもので、放課後の活動に入る前に外から卓球部の様子をうかがったのですが、私が思っていた以上の成果があったようです」
「何ですか、それ?」
「こともあろうに、津村先生と荒木コーチが生徒の前で言い争いをしているのです。荒木コーチは、津村先生が保護者に押し切られ、自分に相談もなく条件を聞き入れたことに腹を立てていたようです。どうやら三年生は最後の大会に向け、ランニングを免除して技術の向上に専念させるようですね。津村先生は津村先生で、多くの部員が辞めたことを嘆いていました。確か二年生が二人、一年生は三人が辞めたとか言っていました。もっともこれは、私が放った艱険【かんけん】な発言が原因なのでしょうけどね。彼女とすれば荒木コーチに当たるしかないのでしょう。それを受けて、彼は彼女に宣戦布告のようなことを言っていましたよ。『俺のやり方でこの一・二年生を育てる。総体までに三年生よりも強い選手が出て来たなら、容赦なく入れ替えてもらう』ってね。完全に決別ですよ」
「すごいことになっていますね。本当にあなたは恐ろしい人だ」
「賛辞として受け取っておきましょう」
校長は口元を緩ませ、事務長に紅茶を勧めた。
グランドでは荒木の下で四人の卓球部員がランニングをしている。もともと走ることが得意だった二年生の小野春香と弘崎瑞穂、それに一年生の秋元舞と番原知美である。これと並行して校舎周りを走っている者もいる。一年生の藤坂佐和と米井加奈美だ。校舎周りは距離が短いため、グランドよりも一周増やして六周走ることになっている。体にハンディがあろうとも緩めない、それは同じ苦労を味わってチームが一つになれるワンチームから来る考えでもあり、特別扱いは本人のためにならないという荒木の信条でもあるのだ。
校舎周りを走る者が二人いることは荒木にとってメリットがあった。ずっと自分が張り付いていなくても、どちらかに異変があればもう片方が知らせてくれるからだ。それに既定の時間を過ぎても番原知美がグランドを走り終えていなければ、この二人に合流させることができる。
この六人以外の一・二年生は辞めた。あの保護者会で、校長の話に立腹していたのは三年生の保護者だけでは無かったのだ。午前中に二年生の二人が、昼休みには一年生の三人が津村のところにやってきてそれを告げた。説得を試みたが、彼女たち自身も現在の練習を続ける自信がないようだ。
団体戦には四人の選手が必要である。その点で言えば今の二年生は理想的だった。このメンバーならベスト4も夢ではない、そう期待していただけに、二人の離脱者は津村にとってとても残念でならなかった。加えて県大会に出場経験のある一年生三人が辞めるとは思わなかった。お先真っ暗、まさに絶望的と言わざるを得ない。
こうなれば頼みの綱は三年生しかいない。何が何でも残留させて頑張らせるしかない。やすやすと練習場を明け渡してなるものか――津村にあるのはそれだけだった。
「門脇さん、回り込めば打てるでしょ。ツッツいてばかりいないで、もっと積極的に攻撃しないと勝てないわよ」
これまであまり口にしなかった「勝つ」と言うフレーズを頻繁に使うようになった。
三年生自身の目の色も変わった。大会で活躍するためと言うより、荒木を見返したい気持ちが強い。津村と言い争っているとき「こんな根性のない連中に何ができると言うんですか――君たちがやっているのはただのお遊びだ。スポーツを舐めるんじゃない」と罵倒してきたからだ。
練習場はいびつな様相を呈していた。同じ部の一員でありながら、津村率いる三年生と荒木率いる一・二年生、その間にあるものは先輩後輩の「絆」などでなく、殺伐とした「バーサス」という文字だった。そしてこれを機に、一・二年生は三年生と部室を共有するのを辞め、器具庫を利用するようになった。
「さあここからだ、根性を見せてくれ。この卓球部の歴史を変えるのはお前たち一・二年生なんだ」
ランニングを終えて練習場に戻ってくるなり、荒木が二年生の小野春香と弘崎瑞穂、それに一年生の秋元舞の三人を焚き付ける。それから見せつけるように一声かけながらのダッシュが始まる。
さらにそのあと番原知美を含めた校舎回りの三人組が戻ってくると、こちらにも荒木の温かい声掛けと、三年生への当てつけが待っている。
「ようしよく頑張ったぞ。お前たちは常に自分にチャレンジできている、そこがどこやらの根性なしと違ってすごいんだ」
そして同じようにダッシュが始まる。しかしとても全力疾走には程遠い、一歩一歩足を置きに行くような走り方だ。
ほぼ毎回のようにこれを繰り返されると、三年生と荒木の板挟みになって苦しんでいた片山あゆみも反感を覚える。
「優秀な一年生を辞めさせておいて、あんな連中しか残っとらん。あのコーチはとんでもないあほじゃ。自分が間違っとることが分からんのかな」
他の三年生がコーチを陰で非難すれば、頷くようになっていた。
しかし三年生のこの言動の裏には、不安な気持ちから逃れたい気持ちが隠されていた。彼女たちは恐れているのだ。一年生は論外として、残留した二人の二年生は卓球の技量が相当高い。他の競技とは言え、指導者としての実績を持つ荒木が本気で育てたなら、県大会までに抜かれるのではないか。現にランニングを終えてからのダッシュだと言うのに、一〇本を走りきっても肩で荒い息をしているだけで、二年生は平然と練習に取り組もうとしている。不気味極まりない。
その上にもう一つ気がかりなことがあった。それは荒木が自らラケットを持ってボールを送り続ける、多球練習のノッカーをやっていることだ。
最初の頃は大男に小さな卓球ラケット、そのアンバランスさと、素人ならではのゆっくりとしたノックテンポを嘲笑していたのだが、いつまでも馬鹿にはしていられなくなった。いつの間にか自分の手元を見ないで送球できるようになっているかと思えば、下回転を混ぜたり、相手のスイング速度に応じて速さを変えたりできるようになっている。これが荒木の、生まれ持った運動神経がなせる業なのか……。
荒木がノッカーを務めることによって、一・二年生の練習は格段に効率が良くなった。部員が奇数のときはすかさず荒木がペアのいない部員を捕まえるので、空いた者がいなくなるのだ。卓球の技量が素人であろうとも、ノッカーであれば相手としての代役を果たすことができる。いや、もはや練習相手の域を超えていた。
「右足のステップが小さいから、フォアへの飛びつきができないんだ」
「肩の回転を使え、弧を大きくしろ、そんなことじゃ切れた下回転は持ち上がらないぞ」
具体的なアドバイスを加え、卓球のコーチングをするまでになっている。
「浩美先生、コーチはどこで卓球の知識をマスターしとんですか?」
田町きららが気になって訊いた。
「さあ、ユーチューブか雑誌じゃないかしら。あの日以来、口を利いていないんだけど、あの人の研究熱心さは半端じゃないのよ。以前、小脇に何冊ものマニュアル本を抱えていたし、夜通しインターネットで卓球の試合を観戦したって言いながら、分析したメモ帳を見せてもらったことがあるもの」
これを聞いて三年生は、驚きのあまり顔を見合わせた。
彼女たちの不安を逆なでするように、二年生の小野春香の声が耳に飛び込んでくる。
「コーチ、次は私にノックしてください。回り込んだ後の戻りを早くしたいんです」
さらに弘崎瑞穂が追い打ちをかけるように言う。
「コーチ、そのあとは私にお願いします。バックのボレーミスが多いんです」
仕方なくやっている感のある三年生と違って意欲満々ではないか。しかも具体的な課題を持って取り組んでいる。
「よしっ、分かった。それじゃ秋元、あと二分で交代するぞ」
「はいっ!」
あの覇気が感じられなかった秋元舞が、一丁前にアスリートのような返事をしている。それよりも何よりも、荒木が一・二年生から慕われている雰囲気が伝わってくる。これをジェラシーと呼ぶのだろうか……。とにかく、何もかもが気がかりで仕方ない。
「浩美先生、私たちも多球練習お願いできませんか?」
「フォア前のレシーブがうまくできないんですけど、どうすればいいんですか?」
とてもシャボン玉をやっていた三年生とは思えない変わりようだ。
そして四月中旬の金曜日、いよいよもって聞き捨てならない内容が三年生の耳に飛び込んできた。荒木が二年生に提案しているのだ。
「お前たちの知りたい欲求、強くなりたい欲求に応えようと頑張ってはいるんだが、所詮俺は卓球に関しては素人だ。限界がある。ここは津村先生にお願いし、技術面のアドバイスをしてもらってはどうかと思っている。そうかと言って、先生が三年生の相手をしている時は無理だろうから、練習時間が重なっていない時にお願いするしかない。そうなると土曜日の午後か日曜日、これまで練習をやっていなかった時間帯を選ぶしかない」
これを受けて小野春香の声がする。
「やりたいです。でも、コーチは津村先生と仲直りしたんですか?」
「いや、実はまだなんだ。しかしお前たちを相手にしていると、俺のプライドなんかどうでもよく思えてきた。今はお前たちをもっと強くしたい、それが一番だ。だからこの際、頭を下げようと思っている」
「私もやります。土、日の両方を一日潰しても構いません」
これは弘崎瑞穂の声だ。
「そうか二年生二人がその気なら頼んでみることにしよう……。うん? 番原どうした、浮かない顔をして。大丈夫だ、一年生までつき合わそうとは思っていない」
「そうじゃありません。うちもやりたいです」
「そうなのか? 練習がきつくて大変だろう、無理をしなくていいんだぞ」
「うちだけじゃないと思います。みんな体にいろいろハンディ抱えとるもんで、本気になって相手にされたことなんてありませんでした。じゃから今が一番楽しいんです。褒められたこともなければ、本気になって怒鳴られたこともありません。『生まれて初めて人として扱われとる気がする』って、いつもみんな言っとります。お願いします、やらして下さい」
驚いたことに、彼女たちは中学校時代のないがしろな扱いについて理解していた。
「ようし分かった。それじゃこのあと、三年生が帰ったら津村先生に頼んでみよう」
何たること、看過できない内容がこちらに関係なくまとまりかけているではないか――三年生はみなあきれた、そして怒りにも近い表情をした。
「浩美先生、コーチには今でも腹が立っとんですよね。いくら頭を下げてきても取り合わんでしょ?」
川北真澄が言った。
「ごめんなさい、本当はずっと悩んでいたの。もとはと言えば彼に断りもなく、保護者と勝手な約束をした私に責任があるから。コーチの方から声を掛けてもらえるなら嬉しいわ」
「そんなことをしたら余計に二年生が調子に乗るじゃないですか」
三年生はここで輪になって相談を始めた。そして一分も経たないうちに話がまとまった。
「浩美先生、私たちも土、日の二日間、一日練習をします。だからコーチが頼みに来ても取り合わんといてください」
こうして両陣営の抗争は、休日返上の過密練習を実現していった。
それ以降も柱を挟んだ奥側と手前側では、決別した両者による熱のこもった練習が続けられていった。ただし荒木は練習場に常駐できる環境にあるが、津村は学校業務を抱えているため、顔を出せない時間がどうしても出てくる。いつしか三年生は津村を頼るのを止め、練習メニューも自分たちで工夫するようになった。
皆の心にあるのはただ一つ――ここまで来て、誰一人も二年生に入れ替えられてたまるものか。最後の総体は必ずこの五人で臨むんだ。
五
練習の成果を試すチャンスがきた。五月一日、岡山県高校総体のシングルス予選会と、翌二日、同ダブルスの予選会だ。中国大会や全国大会につながる予選会なのだが、岡山県は二強の私立によって上位を独占されてしまうため、他校にとっては雲の上の目標となっている。とは言え六月に予定されている団体戦の力関係を推し量る絶好の機会には違いない。
一回戦を終え、一年生の四人は揃って観客席に戻って身を寄せていた。四人とも全くと言ってよいほど試合にならなかった。中でもひどいのは番原知美だ。遠目にも体が固まっているのが分かる。まるで岩だ。いや、それでも多少はボールに反応しようとしているのでせめて動物にたとえよう、熊だ。ウサギかリスを思わせるほどの小柄な選手にいいようにあしらわれている。実に痛々しい。自然界では考えられない出来事だ。
二・三年生は全員が意地を見せ、揃って二回戦を突破した。これでようやくベスト128になる。半数以上の選手が姿を消したことを思えばよくやったと言える。いや、この学校の従来の戦績を思えば考えられない出来事だ。
しかしここから次々に敗退し、ベスト64に残った二年生は小野春香ただ一人、三年生は片山あゆみと田町きららの二人となった。それは他校とて同じだ。二強の私立を除けばエース級のレギュラーしか残っていない。
津村が三年生の二人に発破をかける。二人もその気満々だ。それもそのはず、両者とも次の対戦相手は公立高校の選手だったのだ。しかし一セットも奪うことなく敗退した。
あとは小野春香だけとなった。だが相手は第二シード、二強私立の中でもエース級の選手である。誰からも注目をされるはずのない試合が一番隅のコートで始まった。
ところがここで小野が大接戦を演じた。結果的には0―3のゲームカウントで敗れたが、
試合内容は五分五分に近いものがあった。恐らくツッツキ、つまり相手の下回転ボールをきちんと攻撃できてさえいれば、一ゲームくらい取れていたに違いない。三年生は皆、二年生に活躍されなかったことに胸をなでおろした。だが、このひと月で恐ろしく成長をしている小野春香を確認したのは確かだ。第二シードの選手でさえ手こずったのだ、もしかすると他のゾーンにいたならもう少し勝ち上がっていたのではないか。彼女と団体の出場枠を争って勝てる者なんか、この三年にいるのだろうか。不気味さを超して脅威を感じた。
翌日のダブルスも同じような結果になった。敗れはしたものの小野春香と弘崎瑞穂の二年生ペアが、二強私立のエース格ダブルスと好勝負をした。三年生はこれを目の当たりにして平常心ではいられない。場内でまだ試合が行われているにもかかわらず、口数少なく会場を後にした。
試合の翌日、いつものように荒木は二年生に発破をかけている。しかし今回の彼女たちの飛躍がどれほどすごいものなのか分かっていないようだ。「もう少しだ、もう少しで三年生を抜けるぞ」と相変わらずターゲットを三年生にしているではないか。それに対して実感があるはずの二年生も「はいっ!」と従順に返事をしている。これ見よがしに自慢されるとばかり覚悟していた三年生にとっては複雑な心境だ。
その後も荒木が柱の向こう側から三年生に発する内容は容赦ない。「球遊びの集団」と見下し、激しいプレッシャーをかけてくる。これを受けて、一・二年生も露骨に三年生への対抗心を口に出すようになってきた。
三年生は心が折れそうだった。いつまでこの苦しみが続くのか。一日も早くこの地獄のような精神状態から解放されたい。
それならば、と考え付いたのがわめくことだった。とにかく練習中は大きな声を出そう。それによって不安な気持ちが少しでも払拭できる。
「さあ来い」「まだまだこれからじゃ」意味のない言葉でも、腹の底から発することによってストレスの解消になった。それに柱の向こう側からの声がかき消され、こちらに届いてこない。半ばやけ気味に始めたことだが思いのほか効果があった。それからというものまるで狂ったようにはしゃぎ続ける三年生、二年生からすればまるで正気の沙汰とは思えない世界だ。
そして気が付けば五月の末日、学校対抗戦の前日となった。三年に押され、片山あゆみが津村に訊いた。
「浩美先生、いよいよこれから二年生と決着をつけるんですか?」
「それがね、事情が変わったみたいなの。二年生がここに来て急に怖気づいちゃって『三年生とは争いたくない』って言っているようなの。きっとみんなの活気ある声に押されたのね」
津村が言い終わるや「やったー」と三年生が奇声を上げた。川北真澄は感極まって涙ぐんでいる。虚勢を張っていたが、二年生が団体戦のメンバーに割り込んだ場合、真っ先に試合に出場できなくなる可能性があるのは自分だと思っていたからだ。
「こうなったらもう怖いもんなしじゃ。私らの団結力のすごさを見せちゃろうで」
片山あゆみが言うと、皆も「おーっ」と右手を高く突きあげた。
いよいよ三年生にとっては最後となる学校対抗戦の当日を迎えた。本来であればコーチである荒木も二年生二人もベンチに入るところなのだが、この日もやはり観客席に上がって静観する立場を取った。
高体連が主催する学校対抗戦は、四シングルス一ダブルスの五ポイントで争うインターハイ方式である。ダブルスとシングルスは兼ねることができるが、ダブルスに出た選手の少なくとも一人は必ず後半の四番か五番に出なければならない。そのため強い選手でもメンタル面を鍛えておかなければ後半で崩される可能性がある。また岡山県総体は独自のルールを適応しており、ベスト16、ベスト8、ベスト4と、勝ち進んだところまでで順位決定のリーグ戦が始まる。
これまで実績のない緑豊学園にとって、試合の組み合わせは残酷なものだった。準々決勝で二強私立の一角となる朱日高校と当たるのだ。こうなるとベスト4は不可能と言える。しかしベスト8でリーグ戦になれば、6校に与えられる中国大会の切符が手に入る可能性がある。荒木と対立している彼女たちにとって、後輩のために練習場を確保する必要はないのだから、中国大会に出ることができれば十分荒木を見返す目的が果たせると言える。
「ベスト8までは、これと言って強いチームは見当たらんで」
三年生が学校名を指でなぞりながらはしゃいでいる。これまで適当な練習を繰り返していた彼女たちにとって、初めて自信を口にした大会となった。
そして試合は始まった。しかしその展開は三年生のイメージ通りにはならなかった。苦戦の原因はオーダーミスと言える。津村は異を唱えたのだが、全員を試合に出させて欲しいとの申し出から、実力的には一番劣る川北真澄を一番に登用した。勝ち進めば彼女の出番が無くなるので初戦しかないと言う考えだ。それにトップにはエースが起用されることが多いので、そこに当たって負けても惜しくはない。いわゆる当て馬的な意味合いも兼ねている。ところが相手チームもトップに当て馬を出してきた。見るからに力の劣る選手だ。しかしそれを指摘すればするほど、川北真澄は緊張して凡ミスを繰り返した。いつもの元気はどこに消えたのか、まるで先日の番原知美状態だ。彼女が熊なら川北真澄は借りてきた猫とでも言おう。一度も爪を立てることなくいそいそと引き上げてきた。
こうなると流れが悪い。全員にプレッシャーがかかってくる。川北真澄と並行して隣の台で対戦していた二番手片山あゆみの相手は、向こうのエースだった。声を出し気力を振り絞って立ち向かったのだが、一セットを取るのがやっとだった。これでもう後がない。
そして三番ダブルスとなる。片山あゆみと門脇凛がここで奮起し、手に汗握るシーソーゲームをフルセットでものにした。しかし後がない状態に変わりはない。四番、五番ともに負けられない重圧を背負ってプレーをするしかないのである。
四番の門脇凛と五番の田町きららが同時に台に入った。門脇凛はダブルスでひと汗かいているため体の切れが良い。今日初めての試合となる相手選手に対して終始リードし、危なげなく勝った。これでようやくのこと2―2のイーブンだ。泣いても笑っても五番手の田町きららで勝敗が決まる。
この時点で田町きららはフルセットになっていた。冷静沈着で、緊張していても力を発揮するタイプなためラストには持って来いと信頼されていた。しかしこれまでの試合に比べてその重圧たるや尋常ではない。その上に、相手選手はダブルスに出ているエース級の選手だ。一進一退の攻防が続く。そしてついに10―9の王手をかけた。田町きららのサーブだ。勝負とばかりに相手の一番深い場所にロングサーブを放つ。しかし力んだためオーバーミスをしてしまった。悲鳴のような声が緑豊学園側から上がった。田町きららの顔面から血の気が引いている。動揺は隠せない。結局、そのまま息を吹き返した相手の攻撃に屈してしまった。これで終わった。三年生のこれまでの取り組みはこの一試合で終結したのだ。
泣き崩れる田町きらら。それを抱きかかえる津村。相手チームへの挨拶を済ませると、皆はフロアから通路に出した。
五人とも泣きじゃくっている。そこに「惜しい試合だったな、お疲れさま」と声を掛けてきたのは荒木だった。それに対して津村が「すみません、こんな結果になってしまって」と返している。
「どうして浩美先生がコーチに……?」
違和感を抱いた川北真澄が顔をあげた。これに津村が目頭をハンカチで押さえながら説明を始める。
「実はね、コーチと私はずっと喧嘩のお芝居を続けていたの。有力な一・二年生が辞めたでしょう、ここは三年生に奮起を促すしかないってことになったの。でも今のままじゃあなたたちは変わらない。そうかと言って無理やり厳しい練習に付き合わせると辞めるかもしれない。そこでコーチが憎まれ役を買って、みんなにプレッシャーをかけ続けることにしたのよ。みんなは私がいないときでも必死に頑張ったし、休日も返上して練習するようになった。この二か月は本当によく頑張ったと思うわ。それから後輩たちも恨まないでね。私たちのお芝居に付き合ってくれたのよ」
津村がそう言うと、後ろに立っていた二年生がこれまでの三年生への非礼を謝り、試合を通して受けた感動を口にした。これを聞いて片山あゆみが涙声で言った。
「それでも勝てなんだ。なにも残せんかった。この二か月の練習は無駄じゃった」
これを聞いて荒木が優しく語り掛けた。
「最初に俺が言ったはずだ、努力の先に無意味なものは無いって。君たちは今まで負けて泣いたことがあるか? 恐らく二か月前の君たちには想像もできないことだったに違いない。それだけ君たちは変わったんだ。懸命になることを小馬鹿にしていた君たちが、いつの間にかその世界に入り込み、必死で夢を追いかけたんだ。素晴らしいことじゃないか。この感動はきっと一生忘れられない思い出になるはずだ。つらかっただろう、苦しかっただろう、みんなで励まし合って、今日まで本当によく頑張った」
これを聞いて、五人は再び声を上げて泣いた。
六
練習場を倉庫に追いやられた津村は校長室に直談判に行った。
「校長先生、約束が違うじゃありませんか。倉庫に入ってみたんですが狭すぎます。どう工夫しても卓球台は四台使えません」
「何を言い出すのかと思えば……私は『詰めれば四台並べることだってできる』と言ったんですよ。プレーができるかなんて触れていません。何でしたら、その時の会話を録音していますから聞いてみますか? 今回の場合、明らかに非があるのはあなたの方です。あなたは私の言葉を鵜呑みにし、ご自身で確認することもなく契約に応じた。その点、私はメジャーを持って中を計測し、体育主任に中にある用具の移転が可能かどうか確認まで取りました。どうですか蛍光管は六本あったでしょう?」
「……何とかなりませんか?」
「なりませんね。それに現在の部員は六人でしょう。三台あれば十分じゃないですか」
「今のままでは新たに部員が入ってきたとき、台が足りなくなります」
「おや、それは次年度のことを言っているのでしょうか? それまでに県でベスト4に入れば取り戻せるではないですか」
「そんなの無理です。有望な部員が辞めてしまって、そんな状態ではなくなりました」
「でもあのコーチはまだその気でいると思いますが?」
「あの人は卓球の難しさが分かっていません。ラグビーのような簡単な世界ではないのです」
「いいんですか、そんなこと言って。お二人の間にトラブルがあったとしても知ったことではありませんが、そのはけ口をこちらに求めるのは止めてください。あなたにとって世の中の厳しさを知る良い機会だったでしょう。今後どのような詐欺に遭わないとも限りません、授業料だと思うことですね。私が道理に合わないことを言っていますか?」
ぐうの音も出ないとはこのことである。重い足を引きずるようにして校長室を後にするしかなかった。
津村がグランド奥の倉庫に戻ってみると、荒木は部員を集めて何かを説明していた。
「すみません、ダメでした」
そう報告して津村は頭をぺこりと下げた。
「そうでしょうね。あの校長のことだ、何もかも計算ずくめで事を進めているに違いありません。こうなったら我々も気持ちを切り替え、前に向かって進みましょう。な~に、こいつらがベスト4に入るまでの辛抱です、今までが恵まれ過ぎていたんですよ。今、部員たちにこの練習場の使い方についてレクチャーしていました。まずランニングはこれまで通りグランドと校舎周りに分ける。番原はもうグランドだけで十分でしょう。この二か月で結構走れるようになりました。さっき聞いたところ体重が一〇キロ近く落ちたそうです」
「いやじゃコーチ、大きな声で言わんようにしてよ」
「番長、何照れとるんなら、嬉しいくせに」
皆に冷やかされている。
「ダッシュは倉庫内が狭いのでグランドの隅を活用する。荷物は置くところがなくて邪魔なので卓球台の下に入れる。トイレはグランドの校舎寄りにあるものを使用し、更衣もそこで行う……くらいですかね」
「すごいですね、荒木コーチ……」
どこからそのバイタリティーが湧いてくるのか、津村はついため息をついた。
「住めば都ですよ。それより俺にも卓球の面白さが分かってきました――なっ、みんな、俺たちはできる。必ず天下を取ることができるんだ」
「はいっ!」
このメンバーでどうやって? ――あきれて突っ込む気にもなれなかった。
それからしばらくして荒木が質問をしてきた。いや、どちらかと言えば提案だ。
「卓球は左利きが有利らしいですね」
「ええ、まあ。特にダブルスではそうですね。右利きとペアを組めば交差しなくて済みますし、レシーブだって思い切って前に踏み込むことができるので、二本くらい得だとか言われています」
「それじゃ、うちも左利きを作りましょう」
突拍子もない申し出に津村は目を丸くした――一体何を考えているのだ、この人は。作戦用のボードを作るのとは訳が違うんだぞ……。
「米井加奈美なんですがね、どうもいけない。結局右足をかばうのでフォア側に動けないんですよ。どうせこのままいっても一流になれないなら、思い切って変身させてはどうかと思うんです。卓球の機関誌を読んでいると、左利きの選手の中には結構右利きを矯正して成功した例が載っていました」
「それは幼いころの話でしょう。物心がついて、しかもこの年まで右でやってきたんですよ。どう考えても無茶です。無理に決まっています」
「俺は無理と言う言葉が嫌いです。まだ一年生、これからです。時間さえかければ何とかなる。俺は決めました」
なっ……決めたって? これだから素人は恐ろしい。思い付きでやられる米井の身にもなってちょうだい――しかし興奮気味にはしゃぐその姿を見て何も言い返せなかった。
またしばらくすると荒木から提案があった。
「うちには守備型の選手がいませんね。カットマンて言うんですか、後ろに下がって下回転のボールを入れ続ける、あれですよ」
「ええ、まあ。特にピッチの速い選手の中には、カットマンを苦手とする人もいるようです。それに団体戦の後半にそんな戦型の選手を入れておけば、相手が緊張して攻撃できなくなった時、心強いことがあります」
「それじゃうちもカットマンを作りましょう」
今度はそれか――右利きを左に変えることを思えば大した問題でもないように思えるが、それでも思い切った提案に違いはない。
「実は秋元舞なんですがね、相手に対して攻撃的な面が見えないんですよ」
「それは彼女に障害があるからではないですか? それに長い間、ずっといじめられていたので我慢強くなったのでしょう」
「それ、それですよ。今のままではどうせ攻撃マンとして大成することはありません。ここは思い切って戦型を変えましょう。ネット検索をすればいくらでもノウハウが手に入ります。俺が何とかしますよ」
何とかするって? その自信はどこから来るのだ――しかしその意欲を削ぐほどの強さを持ってはいない。首を縦にも横にも降らない、それがせめてもの抵抗だ。
またまたしばらくすると荒木が言ってきた。
「うちにはツブ高の攻撃選手がいませんね。ほらバック面にイボイボが付いたラバーを貼っているやつですよ。変則って言うんですか、相当武器になるみたいですね」
「ええ、まあ。特にスイングの大きなドライブマンの中には、ツブ高を苦手にする選手もいるようです」
「それじゃ、うちもその戦型を作りましょう」
「今度は誰を?」。
「番原知美なんですがね、体系のせいでどうしても回り込みをしたがらない。回り込むとフォアががら空きになり、潰されることを本人も自覚しているんですよ。それならいっそのこと真ん中近くに構えて、バック側に武器を持たせてはどうかと思うんです」
津村も次第に分かってきた――この人は部員を実験台にして楽しんでいるのだ。素人がやりそうなことだ。卓球が全く分かっていない、やれやれ……。しかしもはやここまで来て反対する気にもなれない。
そしてまたまたまた、これで通算四度目である、荒木から申し出があった。
「うちにはフォア面に表ソフトを貼っている選手がいませんね。ツブ高ではなく、低いイボイボのラバーですよ。あれって変わったボールが打てるんでしょ?」
「ツブ高ほどの変化は有りませんよ。でも普通のラバーは摩擦系なので回転を武器とするんですが、表ソフトはあまり回転を生み出さないので、多少ナックル系のボールが打てますね。そこで主に弾くことを目的にする人が多いです。スマッシュを打つと取られにくいので、比較的少ないラリーでポイントが決まります」
「それいいですね、藤坂佐和にピッタリじゃないですか。彼女は心臓が弱いので長丁場には向いていません」
「でも前陣速攻型の選手は相当な反射神経が要求されますよ。パンパン打ちまくるので、一歩間違えると自滅型になります」
「それがですね、意外なことに彼女は反射神経がいいんですよ。中学校時代は戦力外としてずっとほったらかしだったでしょう、俺から見るとダイヤモンドの原石です」
あのじっと真ん中で構えて手だけでボールを追っている藤坂佐和の、どの部分を磨けばダイヤモンドになると言うのだ。開いた口がふさがらない。
しかしこれで一年生は四人とも荒木の趣味につき合わされて改造人間になった訳だ。どっちみち運動には向いていない四人だ、夢を追いかけるという楽しみがなくなった今、そっちの方向にやりがいを見つけて没頭するのも悪くはないか――津村は背負った大きな荷物を降ろすことができて気が楽になった。
だが荒木は趣味とは思えないほど熱のこもった練習を続けていった。常時一年生二人を捕まえて、一番奥の台で多球練習を行っている。
学校業務を終えた津村が練習場に近づくと、荒木の鼓吹する声が耳に飛び込んできた。
「ガードが下がっているぞ。隙がある。もっと脇を締めて左右にフットワークを使うんだ」
今は藤坂佐和の特訓を行っている。荒木の声だけを聞くと、まるでボクサーを育てているのではないかと勘違いしそうだ。それにしてもピッチが早すぎる。彼女は例によって手だけでそれを追っているように見える。それに大丈夫なのか心臓は。あまり激しい運動はできないだろう。夢中になるあまり、忘れてしまっているのではないだろうか。
次は米井だ。こちらは走れないと言っても倒れる心配がない。安心して見ていられる。なるほどラケットを左に持ち替えて打っている。しかしボールがラケットの角に当たってばかりいる。やはり感覚として捉えている打球感が左右ぶれているのだ。それに左サイドに動こうとするとき、肝心の左足を踏み出すタイミングがぎこちない。これでは痛かろうが、右に向かってボールを追う方が遠くに飛べるのではないか。
手前の二コートでは二年生がそれぞれ一年生の相手をしている。多球練習用のコートを奥に詰め込んでいるので、こちらのコートは思ったより横幅が確保できている。いいアイデアだ。
「津村先生、秋元さんにアドバイスをお願いします」
声を掛けてきたのは二年生の小野春香だ。カットマンもどきの秋元舞に手を焼いている。それはそうだろう、先日まで攻撃マンとしても怪しかった一年生にダウンスイングをさせ、早々にラリーが続くわけない。何とも気の毒だ。二年生にとっていい迷惑だろう。
「そうねぇ、もっときちんと素振りをして、フォームを整えてから台に付いた方がいいんじゃないかしら」
「やっぱりそうですか。でも素振りを見てくれる人がいなければ、適当にやっても正しい型はつかないでしょう?」
「それもそうね……でも私は攻撃マン専門なので、カットマンはねぇ……」
そう言いながら真ん中のコートを見てみると、こちらも二年生の弘崎瑞穂がツブ高に替えたばかりの番原知美に悪戦苦闘している。とにかくバック側に打ったボールが返って来ない――これでは二年生の練習にならない。どう見ても座礁した船だ。全体が沈没しかかっている。どこから手を付けろと言うのだ。荒木自身はこの状態を理解しているのだろうか――津村は途方に暮れそうになった。しかし放っておくわけにもいかない。
「こうしましょう、私が二年生の相手を交互にするの。空いている二年生は一年生を一人捕まえてその相手をする。コーチには申し訳ないけど、残り三人の一年生を多球練習で見てもらいましょう」
こうして二年生の犠牲を最小限にくい留めることはできた。あとは荒木次第だ。本当にこのまま自分の趣味を楽しみたいのだろうか。そこに「勝利」と言う文字もなければ「希望」という心の支えもないように思える。いくら鍛えても先は見えている。卓球の素人でもそれくらいは分かりそうなものなのに……。
七
夏休みに突入した。相変わらず荒木は、まるで何かにとり憑かれた様に一年生の改造に没頭する日々を送っていた。
ところがこの日は練習場の外に部員を並べ、グランドの端まで響き渡るほどの声を張り上げて叱っているではないか。津村は慌てて駆け寄った。聞けば、荒木が午前中所用でいないことをいいことに、彼女たちが倉庫にペンキで塗り絵をしていた、と言うのだ。
「これじゃシャボン玉をしていた三年生と変わりない。これまでの取り組みは一体何だったんだ。がっかりもいいところだ」
荒木の嘆く声を受けて、部員たちは皆うなだれている。
「何か事情があるんじゃないでしょうか?」
「訊くまでもありません。遊んでいた以外の何ものでもない」
荒木の顔は興奮で紅潮している。
「そうでしょうか、コーチとこの人たちのこれまでのつながりを見ると、私にはそうは思えないんですけど――どうなの小野さん、事情があるなら代表で説明してちょうだい」
「そのう……」今にも泣きだしそうだ。
「昨日、練習が終わって帰りがけのことです。みんなで『来年たくさんの新入部員が入るといいな』って話していたんです。そしたら、もうすぐ中学生向けにオープンスクールが始まることに気付いて……この一年生も昨年のオープンスクールで部活動の見学をして、それで気に入って卓球部に入ったようなんです。それなのに私たちの練習場はこの倉庫になってしまっているでしょう。『今のままじゃと、きっと誰も見に来てくれんな。うちらこんなに頑張っとるのに気付いてももらえんな』って一年生が……それで、せめて倉庫の外側だけでもきれいにして『卓球部練習場』って書こうとしたんです」
「そうだったの」
荒木を見ると目をしばたたかせている。意外だったに違いない。
「でもこれは学校の建物なのよ。勝手にそんなことしちゃ問題になるわ」
「どこに頼みに行けばいいのか分からないので校長先生に掛け合ったら『あれはずっと卓球部のものだ、好きにしていい』と言われました」
「まあ、そんなことを……」
「くそっ、タヌキめ!」荒木が声を荒げた。
「お前たちの言い分は分かった。だがこれは練習じゃないだろう。時間の無駄遣いだ。今、お前たちがやらなければならないのは県のベスト4に入り、先輩たちの無念を晴らすことだ。もう夏休みに入っているんだぞ。八月の終わりにある新人戦で必ず目標を果たす。それによって卓球部の活躍を広めれば部員は集まってくる。つまらない小細工をするな」
「…………」
「なんだその顔は、俺の気持ちが分からないのか?」
「いえ、コーチには感謝しています。でもそれとこれとは別です。うちらは女の子です。どうしても見た目を気にするんです。こんな薄汚れた倉庫じゃと、きっと誰も寄り付きません」
「馬鹿なことを……それじゃお前たちは外見で人を判断するのか? 肝心なのは中身だ。もっと自分たちに自信を持て」
「ですけど……」
「もういい、これ以上話し合ってもそれこそ時間の無駄だ。練習を始めるぞ」
荒木は強引に部員を中に入れた。
しこりが残るのではないかと心配したが、練習を始めると部員はきびきびと活動した。やはりこれが荒木との信頼関係なのだろう。自分ならどうしていただろう。あんな、幼子の手からお菓子を奪い取るような薄情な真似ができるだろうか――津村はここでもラガーマン荒木とのギャップを感じた。
翌朝八時前、練習場に向かおうとグランドを渡りかけて津村は驚いた。何と、遠目に見る限りあの古ぼけた倉庫がきれいに塗装され、リニューアルされているのだ。
「一体どうなっているの?」
駆け寄って部員に訊いてみた。六人とも揃っている。
「私達にも何がどうなっているのか分かりません。来てみたらこうなっていました」
二年の弘崎瑞穂が答えた。
外壁は窓枠を境に上部が黄色、下部が青色のツートンに塗り分けられ、青色の壁面に「卓球部練習場」と赤色で太く記されている。
「もしかすると――」津村が言いかけると、そこに荒木が「おはよう」といつもと変わりない挨拶でやってきた。
「コーチ、これコーチがやったんですか?」
番原知美が訊いた。
「なんで俺がそんなことしなくっちゃならないんだ。きっと足長おじさんでもやって来たんだろう」
「足長おじさん? それじゃ校長先生かな?」
彼女は素直に信じたようだ。
「コーチ、靴の淵にペンキが付いていますよ」
津村が指摘すると「あっ、気を付けたつもりだったんだがなぁ」と荒木が顔をしかめた。
「なんじゃ、やっぱりコーチですか。騙されるとこじゃった」
番原知美が屈託なく笑った。
「実は三年生の協力もあるんだ。昨日補習の帰りに立ち寄ってくれたんだが『私たち、後輩に何も残してあげられなかったから、せめてこれくらいはやらせてください』ってことだった。お陰でいろんな話もできたよ。みんな『一年生の時からやり直したかった。負けたけどこんなに充実したことは無かった』とも言っていたな。俺はそれを聞いてとても嬉しかった」
昨日「つまらない小細工をするな」と言っていたのは誰でしたかね。この人、無骨かと思えばこのように気の利いたこともする。本当に予測不能な人だ。きっと亭主関白になりきれない、親馬鹿な父親になるんだろうな――津村はふっと笑みを漏らした。
「これで心置きなく練習に専念できるわね。さあみんな県のベスト4を目指して頑張りましょう」
津村の呼びかけに「はいっ!」と気持ちの良い声が返ってきた。
その後は来る日も来る日も、ひたすら練習に明け暮れた。とにかくトタン板で囲まれた倉庫内は暑い。普通、まぶしさと風は卓球にとって天敵のようなものなのだが、入り口も窓も開け放した上に、足元だけでも涼しくしようと四台の扇風機を設置した。それでもうだるような暑さだ。気温は常時四〇度を超えている。これだけ暑ければ大概熱中症で倒れそうなものなのだが、これまでランニングとダッシュを重ねてきた成果がここに来て発揮されている。しかし、ついに一人ダウンした。よりによって津村だ。
「先生大丈夫ですか?」
しゃがみ込んだ津村に声を掛けてきたのは心臓の悪い藤坂佐和だ。
「あ……ありがとう……少しめまいが……」
「熱中症かも知れませんね。無理をしないほうがいいですよ」
何と言うことだ、藤坂にこんな言葉を掛けられるとは……。しかし体は動かない。これが限界なのだろう――ボーっとする意識の中で津村は情けなく思った。
「コーチ、津村先生が大変です」
藤坂佐和が声を張り上げる。全員が手を止めて駆け寄ってきた――本当にみじめだ。
「先生、大丈夫ですか? すぐに救急車を手配しますから」
耳元で荒木の声がする。
「あ……それだけはやめてください。少し涼しいところで休めば落ち着きますから」
これでも教師だ、プライドがある。それに高校の時、同じような経験をしたことがあるので対処方法も分かっている。
「それではとりあえずここを出ましょう」
そう言うと、荒木は躊躇なく津村をお姫様抱っこした――恥ずかしい。よりによって部員たちの目の前で――しかしどうすることもできない、荒木の太い腕に身を任せるしかなかった。そしてそのままグランドの隅にある桜の木の陰に移された。
「しばらくここで様子を見ることにしましょう」
荒木の声に「はい」と小さくうなずく。
朦朧【もうろう】とする意識の中で、しかしこれだけははっきりと認識していた。津村にとって男性の腕の中に身をうずめたのはこれが初めてだ。このような状況下にあって「はしたない」と思いながらも、今まで感じたことのない情動を打ち消すことはできなかった。
それにしても肌をなでる微風が心地よい、倉庫の中と外ではこうも違うものか――そんなことを思っている間に、いつしか眠っていたようだ。はっ、と腕時計を見ると四時を回っている。小一時間眠っていたことになる。頭はすっきりとしていた。
グランドで活動をしている部は無かった。しかし倉庫からは相変わらず荒木のテンションの高い声と、ピン球のコンコンという音が聞こえてくる。
津村がむっくりと起き上がり倉庫に向かって歩いていると、それに気づいた二年生の小野春香が「コーチ、津村先生が戻って来られました」と練習場の奥に向かって叫んだ。
津村は一瞬ドキッとした――荒木に対してどのような顔をすればよいのだろう。
しかし彼は無頓着だ。「おう、それは良かった」と言ったきり、チラッと津村の姿を確認しただけで再びノックに没頭している。
えっ、そうなの? ――一人浮足立っていたことに気付いた
まあそれはそれでいいか、変に気を遣わなくて済むもの――虚しさと安堵感の入り交ざった、何とも言えない心境を味わった。
しかしあの根気強さには感心する。毎日同じことを繰り返して良く飽きないものだ。恐らく練習量だけ比較すれば県内、いや、もしかすると全国で一番練習しているかも知れない。この部員たちのどこにそんな魅力があるというのだ――津村が荒木を見る目は普段のものに戻っていた。
八月二三日、岡山県高等学校秋季卓球選手権大会が始まった。いわゆる新人戦だ。女子は八ブロックに分かれて予選リーグを行い、各リーグの上位二チームが後日の順位決定戦に進むことができる。ちなみにこれまで緑豊学園がそこまで勝ち進んだことは無い。
リーグの初戦は私立二大巨頭の一角をなす山城学園だった。
「来るべき時が来た。今まで好き勝手に勝たせていたがそうはいかない。同じ人間だ、必ず弱みもある。さあ、お前たちの実力を見せてやれ。緑豊パワーで震え上がらせてやるんだ」
「はいっ!」
ロッカールームか人目に付かない通路でやるならまだよいが、荒木はフロアの上、しかも相手を目の前にしてこれをやっている。常識を疑わないではいられない。津村は隣にいて顔から火が出そうだった。
一番手の小野春香がコートに立った。そして一本取るごとにベンチに向かって「よーし」とガッツポーズをする。それを受け、荒木が両こぶしを頭上に突き上げ「よーし!」と絶叫すると、ベンチの部員も揃ってそれを唱和している。
いつの間にこんな応援の練習を? いや、いや、感心している場合ではない。天下の山城学園を相手に恥ずかしくないのか――津村はどうしても加わることができないでいる。
結局、ずっとこの調子で荒木と選手は咆哮【ほうこう】し続けたが、小野春香が負け、二番米井加奈美、三番の二年生ダブルスも取られ0―3で敗れてしまった。
相当ショックを受けたに違いない、と思いきやそうでもないようだ。
「さすがだな。全国のトップを目指しているだけのことはある。気にするな、後の試合を全部ものにすれば二位だ。リーグ戦を突破できる」
まだ言っている。懲りないと言うか自分たちが見えていない、もう後がないと言うのに――津村には、いささか可哀想な集団に見えてきた。
しかし二試合目、この応援団の迫力が明らかに相手の戦意を喪失させているのが分かった。一点取られ、緑豊学園のベンチに雄叫【おたけ】びをあげられるごとに相手選手が苦笑いをしているのだ。一セットを失い、自チームの監督に叱られて気持ちを入れ直した相手選手だったが、こちらの勢いを止めることができず、立て続けに三セットを献上してくれた。これが何と、真ん中で仁王立ちしている番原知美の手柄となる。緑豊学園のベンチは異常なほど沸き返った。
そのまま二番小野春香、そして三番ダブルスも取ることができた。これで3―0、新チームの公式戦初勝利だった。
「きゃー」「やったー」歓喜に湧いている。
たかが一勝にまるで優勝したかのような喜び方。これを周囲の人たちはどんな目で見ているのだろう――津村は少し引いていた。
しかしこれを引き金としてチームに勢いが出てきた。それ以降一年生の勝ち星は無かったが、二年生の二人が躍動感のあるプレーで安定した力を発揮し始めた。一本取るごとにガッツポーズをしながら吠えまくる。そして勝ち続けた。この大車輪の活躍はベンチを熱狂させ、気が付けば津村もなりふり構わず声を張り上げる人になっていた。
初日の対戦が終了した。結局、最初の一敗のみで緑豊学園はリーグ二位となった。この学園初となる順位決定戦進出だ。
「山城学園に負けたことは残念だがとりあえずベスト16だ。四日後のトーナメントに向けて明日からも猛特訓するぞ」
「はいっ!」
荒木の隣で部員の返事の波動を肌に感じ、津村は最初と打って変わりわくわくした。
そしてベスト16以降の決勝トーナメントを迎えた。一回戦で敗退すればベスト16、二回戦で敗退すればベスト8、それぞれに勝ち残ったチームでの順位決定リーグ戦となる。
この日も荒木は吠え続けた。そして二年生はガッツポーズをして跳ね続けた。周りから見れば異色のチームだ。そして快進撃は止まらない。予選を二位で上がったため不利な組み合わせになっていたが、シード校を二つ潰し念願のベスト4に入った。
弘崎瑞穂が最後の一本を決めた瞬間、ベンチの選手は「やったー!」と全員飛び上がって奇声を発した。津村は興奮のあまり涙が出そうになった。
「これで練習場に戻れる」
選手は抱き合って喜びを分かち合っている。しかしすかさず荒木がこれを諫めた。
「まだだ、まだいける。ここまで来たらあの私立を潰すんだ」
四日前もこれと同じようなことを言っていた。あの時は荒木にドン・キホーテを感じ、隣にいることさえ恥ずかしかった。それがどうだ、彼はナポレオンだった――津村は荒木の横に立っていることを誇りに思った。
そして迎えた優勝候補の朱日高校戦、勢いそのままに一番手の小野春香が相手エースからいきなり一ゲームを奪った。ベンチはもうお祭り騒ぎだ。
しかし相手は百戦錬磨、監督の指示でストップレシーブを多用してきた。以前、長く切れた下回転のツッツキが打てなくて苦汁をなめた小野春香は、その克服にずいぶん時間を費やしてきた。だが短いボールの対策はできていない。ここで彼女の勢いは止まった。見応えのあるラリーは鳴りを潜め、台上の小技に翻弄【ほんろう】された。荒木も何とか盛り立てようと懸命に声を掛けるが及ばなかった。
そのあと二番とダブルスも取られ、結局0―3で完敗した。卓球は奥が深い、そして二大巨頭は果てしなく上の存在であることを思い知らされた。ベスト4に入った喜びも忘れてベンチは静まり返っている。
本気で勝とうと思っていたのね――津村は部員たちを不憫に思った。
「なにをしょげているの。相手は小学校の時から全国で活躍した選手を集めているのよ。中学校の時からその強さは知っていたでしょう。わずか数ヶ月でよくここまでの力を付けたわ。ベスト4なのよ、目標は達成した。これで三年生の無念を晴らすことができたし、練習場を取り返すこともできたのよ」
この言葉を聞いて部員たちは荒木に目をやった。
「津村先生の言う通りだ。お前たちはよくやった。ベスト4は上出来だ。あの私立を倒すのは次の楽しみにとっておこう。次こそ優勝だ」
「はいっ!」
荒木と部員は強い信頼関係で結ばれている――津村には少し羨ましかった。
しかしこのとき皆は大事なことを忘れていた。3位決定戦があるのだ。だが完全燃焼したチームに再びその勢いは戻って来ない。結果0―3で敗れた。相手チームは公立ながらベスト4の常連校だ、勝って当たり前のような表情をしている。最後の最後に味噌をつけて終わった大会となってしまった。
八
津村と荒木は県大会の結果を報告するために校長室に行った。
校長は恵比須顔でソファにふんぞり返ったまま「ご苦労様でした。まあ、そこにお座りください」とねぎらいの言葉をかけてきた。その隣には事務長もいる。こうなれば話が早い。津村は腰を落ち着けると早速要件を切り出した。
「校長先生ベスト4に入りました。約束通り練習場は戻してくださるんでしょ?」
これを受けて校長の顔が取り澄ました表情に変わった。
「あなたもせっかちな人ですね、物事には順序と言うものがあります」そう言うと、コホンと小さく咳払いをして続けた。
「現在あの場所で改修工事が行われていることはご存知ですよね? いくらかかっていると思いますか? 三千万ですよ、三千万」
「それが何か? 私たちの関知するところではないように思いますが」
「よくそのような無責任なことが言えますね。あなたが『倉庫は狭い』と言って泣きついてきたとき、私は『一・二年生で取り戻せばいいじゃないですか』と契約内容の確認をしましたよ。しかしあなたは『もうそのような状態ではなくなった』と契約破棄とも思える言葉を述べたじゃありませんか。その上、私が『荒木コーチは部員を信じて頑張っているんでしょ』と言ったら『あの人は卓球の素人だ、何もわかっていない』と完全否定した。だから私はあなたの言葉を信じて着工に踏み切ったのです」
「そ、そんな……」
こんなところで荒木への不信感を暴露されるとは思わなかった。津村の顔は恥ずかしさでカーっと熱くなった。
いつもなら校長のこの饒舌【じょうぜつ】にうっちゃられる流れである。しかし今回は荒木が付いている。
「津村先生に責任転嫁することで話をすり替えるのは止めていただきたい。有能な部員が去り、勝てる状態で無くなったことは事実です。それはあの保護者会での、あなたの暴言とも取れる発言が原因だと俺は思っています。しかしそれはさて置くとしましょう。津村先生が現状を憂いてあなたに泣き言を言おうが、そんなことは関係ないはずだ。今年度中に県でベスト4に入ることができれば練習場は卓球部に戻される。これがここで交わされた、人と人との信頼関係の上に成り立つ『約束』と言うものです。そうではありませんか?」
「ぐっ……」
珍しく校長の顔が曇った。
「ガラス張りの練習場なんか卓球部には向いていません。即刻工事を中止して明け渡していただきたい」
荒木は大上段に口撃し続けた。
「そう言われましても……すでに機械を設置するための床の基礎工事も終わっていますし、到底元に戻すことなんてできません。そうですよね、事務長」
「その通りです。あと半月もすれば完成です。これを元に戻すとなるとさらに数千万円掛かります。そんな、お金をドブに捨てるような真似は絶対にできません」
「それはそちらの都合だ、こっちの知ったことではありません」
「しかしあなたね……」どう見ても旗色が悪い。校長は眉の間に縦線を入れて腕組をした。
「仕方ありません、それではこうしましょう。あの倉庫の壁をぶち抜いて、もう少し拡張するのです。そうですね、二倍、いや三倍の広さにしましょう」
「今更そんな子どもだまし……あなたはあの中がどれほど暑いか分かっていないようですね。トタン屋根ですよ、まったく運動には向いていません。健康面でどうのと言うレベルを超えています。危険です。そのうち死人が出ますよ。現に熱中症で倒れた者もいるんです。まっぴらです」
隣でこれを聞いて津村は顔から火が出そうだった。
「うーん……」校長は再び沈思黙考を始めた。そしてしばらくして重い口を開いた。
「これから新たなものを建てる予算は有りません。今、思い当たる建物と言えば歴史記念館くらいですかね。中を見てもらえば分かりますが広さは元卓球場と同じ、いや、真ん中に柱がない分こちらの方が広いでしょう」
これを聞いて津村は目を輝かせた。
「ええっ! あの建物を卓球部に使わせていただけるんですか? それはすごいです。何回か入ったことがありますが、天井も高いし綺麗だし、その上に冷暖房完備じゃありませんか。夢のようなお話です」
「そうでしょうね。しかしあれは前身の青雲高校から緑豊学園に至るまでの様々な資料を展示しています。他の目的で使用するとなると、理事会を招集して可決されなければなりません」
「何だ、例によってまた自分に都合のよい口舌を述べていますね。俺たちが入り込めない世界だ、そんな会、開かれるかどうも当てにならない」
荒木が不愉快そうに顔をしかめた。
「いや、そこのところは信用してください。いざとなれば特別参考人としてお二人を参加させることだって可能です。ただ、これだけの施設を賭けるのです、新たな条件を加えても良いでしょうか?」
「何ですか、それ?」
荒木の右眉がピクリと上がった。しかし動じることなく、校長はしれっと言う。
「次の大会で優勝することです」
「笑わせないでください。誰がそんな条件を飲みますか。あなたは一歩間違えば詐欺師だ。
できそうにない条件を提示して、あたかも正当な主張しているように思わせている。今度ばかりはそうはさせません。県で4に入った。ここで約束を果たされるべきだ」
「それじゃ3位はどうですか。今回3位決定戦で敗れたのでしょう。相手は公立の商業高校でしたよね。そこに勝つことは非現実的ではないでしょう」
「あなたもしつこいですね。俺たちは目標を達成したんだ。これで一旦けりを付けましょう」
荒木には校長の提案を頑として受け入れる様子がない。これには校長かも戸惑いの様子が見られる。
「ちょ、ちょっと待ってください……」そうなだめると少し考えて言った。「それじゃこうしましょう。いざと言うときのために、あなたには優秀な弁護士を紹介しましょう。現在抱えていらっしゃる案件できっと役に立つはずです」
弁護士? 現在抱えている案件? ――話が飛躍しすぎていて津村はついて行けない。
「それは俺に釘を刺して、暗に脅しているのですか?」
「そんな人聞きの悪い。私はあなたの力になりたい、そう言っているだけです――どうですか津村先生、私が何か彼を脅しているような発言をしたでしょうか?」
「さあ……私には全く理解できません。荒木コーチ、何がどうなっているんですか?」
「あなたには関係のないことです」
荒木が怪訝そうな表情で視線を下に向けた。
「まあ、ここは穏便にいきましょう」
そう言うと校長は自分のデスクに戻り、引き出しから名刺を取り出すと津村と荒木に一枚ずつ渡した。見れば岡山県弁護士会の代表者のものだった。
「3位ですよ、3位。それが実現できれば記念館を使えるよう働きかけましょう。もし3位がだめでも、あの倉庫を増改築することだけはお約束します。それで手を打とうではありませんか」
荒木は口を歪めて不快感を表している。しかしなぜかそれ以上食い下がろうとしなくなった。これを見て、よほどの事情があるに違いないと察した津村は、代わりに返事をするしかないと思った。
「3位ですね、今度こそ約束は守ってくださいよ」
「おお、さすが津村先生、話が分かる方だ」
校長が目を開き、晴れた表情をした。
「ただし一つ条件を加えてください」
「何でしょう?」
今度は一変ムッとした。
「次の大会でだめだった場合、もう一度チャンスをください」
「いくら何でもそれは虫が良すぎるんじゃないですか?」
「本来ならここで練習場を返していただけるはずだったんですよ。それを撤回するのです。もう一つくらい条件を認めていただいてもよいではないですか」
「それは有り得ませんね。世の中そんなに甘くはありません」
「それじゃ優勝はどうですか? 次の大会で3位が果たせなくても、今から一年以内に優勝できればあの記念館を譲ってください。県で優勝となれば校長先生も鼻が高いでしょう」
これは荒木の屈辱感を汲んで一矢報いたいとする、津村の気遣いだった。内容はどうでもよい、とにかく校長に対して我を通すこと、それ自体に意味があると思えた。
「優勝ですか。あなたの口からそれを出しますか。ベスト4には入れたからと言って少し調子に乗っているのではありませんか? 第一、それさえも実現したのはこちらの荒木コーチでしょう。あなたはコーチのことを信用していなかったのでは?」
「それを言われると耳が痛いです。でも今は心から信頼しています。どうか二度のチャンスを認めてください」
「やれやれ困った人だ……しかし実質、二つ目の内容は実現不可能でしょ、だから先ほど私が提案しても取りあってもらえなかった。なぜそんなものを改めて提示する必要があるのでしょう、ごねているとしか思えません。せいぜい次の大会を頑張ることですね」
「実現不可能だと思われているなら、承諾していただいても構わないじゃないですか」
「あなたも変わった人ですね」
「曖昧な言葉ではぐらかさないでください。二回チャンスを下さい。はっきりした返事をお願いします」
「分かりました、優勝ですね。認めましょう。しかしどうしたって言うのですか、まさかあなたがそのように強気でぐいぐい来るとは思ってもいませんでした。これも誰かの影響でしょうか?」
校長は苦笑いをした。
津村と荒木が校長室を出て行くと、事務長が心配そうに校長に声を掛けた。
「記念館を差し出そうだなんて、随分と思い切った提案をなさいましたね。勝算はあるのですか?」
「本当のところ言いますと、倉庫の拡張までは考えていたのですがあの記念館は急な思い付きです。そうでもしない限り『練習場を返せ』の一点張りで収拾がつきそうになかったですからね。それにしてもあの荒木って男、侮【あなど】れませんね。よくもあのメンバーでベスト4に入ったものです。とんでもないメンバーですよ。でもまあ大丈夫でしょう。優勝は論外として、3位も相当高い壁のはずです」
「随分自信がおありなんですね」
「まあね。経営コンサルタントの力量は『リサーチ力』と言っても過言ではありません。私は大会当日卓球の会場に足を運び、うちの試合を観戦するばかりでなく、他校の観客や監督などいろいろな人を捕まえて各校のチーム事情を調査してきました。恐らく津村先生も荒木コーチも、準決勝に敗れて勢いが止まったために3位決定戦に敗れた、と思っているでしょうがそうではないのです。岡山西商業の浅野という選手は、親戚が岡山にいると口実を作って昨年度末に四国から引っ張ってきた選手のようです。全国高等学校体育連盟規程に『転校後六ヶ月未満のものは参加を認めない』と記されているため、これまで公式戦に出場できませんでした。いよいよ解禁です。今回がデビュー戦だったので誰も知らないのです。いやあ強かったです。うちが朱日と準決勝を戦っている時、隣で山城と試合をしていたのですが、山城のエースと互角の試合をしていましたよ。結局フルセットで負けたのですが、とてもうちの選手では歯が立たないでしょう。実際、3位決定戦でうちの小野と一番で当たりましたが一セットも取れませんでした。その選手はダブルスにも出ていましたから当然それも完敗です。次の大会は二か月後のはずです。到底間に合いません。もう一度やったって結果は変わらないでしょう」
「恐れ入りました。そのようなデータがあるとは思いもしませんでした」
「あの二人には気の毒ですが今後も今の練習場で頑張ってもらいましょう。そう言う訳で、倉庫の増設工事についてだけ準備を進めてくだされば結構です」
「今更ながらに恐ろしい人だ」
「またまた私への褒め言葉ですか? 事務長さんのその言葉を聞くと、私はヒトラーにでもなった気がしてきます」
校長は後ろに手を組み、悠然と自分の席に戻った。
校長室を出た津村は、深刻な表情をした荒木にどう接していいのかわからず、ただ黙々とそのあとを付いて練習場に向かうしかなかった。
練習場に近づくと、ピン球が跳ねるコンコンと言う音が聞こえてきた。まだ八月、この暑さの中で部員たちは言いつけを守って真面目に練習をしているのだ。
「あーっ、コーチと先生じゃ」
いち早く気付いた番原知美の快活な声が聞こえてきた。それに反応して部員たちは開け放した窓から鈴なりになって二人を迎えた。
「どうでしたか?」
小野春香が顔をほころばせて訊いてきた。皆の目も輝いている。
荒木はその場に立ち止まるとうつむき、両こぶしを固く握りしめて歯を食いしばった。津村はこんなにも悔しそうな、そして悲しそうな彼の表情を見るのは初めてだった。
この異変に気づき、部員たちは「どうしたのか」と不思議そうな表情をしている。
「あのね」と津村が気を利かせた。
「元の練習場はトレーニング施設に生まれ変わるために、すでに大掛かりな工事に入ってしまっているの。だから卓球場には戻らないらしいわ」
「えーっ、そんな! 約束が違うじゃないですか」
皆からのブーイングが飛んだ。
「その代りね、歴史記念館があるでしょ。あれを卓球部に譲ってくれるって」
「歴史記念館って、あの校門を入ってすぐ右にある建物?」
「私、入ったことあるで。できたばっかりで中はものすごう綺麗じゃった」
「うちも入ったで。天井が高かいんで、すっげー広う感じた。最高じゃが」
一転、皆は喜んでいる。
「ただしね、あの建物は特別なものなので理事会の承認がいるんですって。そこで理事さんたちを説得するには、もう一つ上の実績が必要らしいの。それで校長先生が提案されたのは、次の大会で3位入賞、それか一年以内に優勝するかのどちらかなのよ」
「何ですか、それ。おかしいじゃないですか」
「そうですよ、ベスト4は何だったんですか。目標は達成しましたよ」
再び不満の声に戻った。
「みんなすまない」ここで荒木が深々と頭を下げた。
「俺のせいだ。俺の力不足だ。本当に申し訳ない」
部員たちは互いに顔を見合わせた。
「何かあったんですか? コーチが謝るなんておかしいでしょう 」
「そうですよ、勝手に工事を始めた校長先生に責任があるんでしょう?」
困ったことになった――津村は頭を抱えた。
「それを一歩踏み込めなかったのは俺の力不足なんだ。だから責任は俺にある。みんなあんなに頑張ったのにそれに応えてやれなかった。恨むなら俺を恨んでくれ」
「そんな……」
部員たちは不満のはけ口を持って行くところが無くなり、荒木の沈んだ表情をただ見つめている。ここで口を開いたのは小野春香だ。
「3位に入ればいいんでしょ? じゃったらやってやりましょうよ。今までほとんど勝てなかった緑豊学園がベスト4に入ったんで。3位くらいどうってことないわ」
「そうじゃな、春香の言う通りじゃ。どうせやるんなら目標があった方がええ。次は3位じゃ。岡山西商業を倒すで」
弘崎瑞穂だ。すると「うちも頑張ります」「うちもじゃ」と次々に一年生が力強く名乗りを上げた。これを受けて荒木が再び深く頭を下げた。
「みんなすまない……有難う」
やはりこの信頼関係には勝てないな――津村は改めて羨ましく思った。
第三章 コーチの秘密
一
その後も卓球部は猛練習に明け暮れ、十月二六日の新人大会を迎えた。
この日は一旦団体のベスト4までを決め、翌日に改めてベスト4リーグ、ベスト8リーグ、ベスト16リーグを行うことになっている。この大会でベスト4に入れば中国大会、さらに中国大会で上位5チームに入賞すれば全国大会へと駒を進めることができる。
「俺たちはやれるだけのことをやってきた。あの暑さの中で百パーセントの練習だ。恐れるものは何もない。あるのは自信と野望だけだ。さあ見せてやろうじゃないか俺たちの力を。そして勝ち取るんだ、栄光を」
荒木がまた相手チームを前にしてこれをやっている。津村は隣で苦笑していた。やはり抵抗感は否めないが、誇らしさもあるのだ。
前回は一年生から番原知美と藤坂佐和の二人しか出せなかったところを、今回は左に変えた米井加奈美とカットマンに変えた秋元舞も起用した。別に二人が力を付けた訳ではない。誰を出してもさして変わりないことを悟っているのだ。予想通り勝つのは二年生だったが、全員を出すことによって全体の士気が上がり、ベンチは以前にも増して盛り上がった。その勢いであれよあれよと勝ち進み、再びベスト4入りを果たした。
翌日、ベスト4のチームによるリーグ戦が始まった。緑豊学園の第一試合は二強の一角である朱日高校だ。
荒木は例のごとく相手チームを前に大きな声で選手に発破をかけた。しかし力の差は埋まっていなかった。頼みの小野春香も押されっぱなしだ。
そのとき「あれ見てください」と津村が荒木に声を掛けた。そこには二大巨頭のもう一角である山城学園の選手から二セット奪い、三セット目もリードしている岡山西商業浅野の姿があった。その反応の速さに荒木も唖然としている。「こんな選手だったのか」そんな表情だ。
津村が「これが前回の対戦記録です」と記録ノートを差し出す。それを見て、ようやく荒木は3位決定戦の敗因を知った。
こうなるともう優勝どころではない。気持ちは最終戦として予定されている商業戦に向いている。朱日高校に敗れ、山城学園と対戦している時もずっと浅野のプレーに注目した。
「小野さんがもう一度対戦して、勝ち目があるでしょうか?」
「いや、難しいでしょう。ここはオーダーをいじるしかありませんね。それでもダブルスは避けられません。一番とダブルスを捨てましょう」
事態は深刻だ。
そしていよいよ商業戦となった。ところが蓋を開けて驚いた。何と、浅野が二番にオーダーされているのだ。小野春香と当たってしまった。荒木の顔から色が失せた。
こうなれば開き直って浅野を潰すしかない。幸い小野春香は彼女の強さを意識していない。荒木は必死になって小野春香を奮い立たせようとする。しかし必死でくらい付いていったものの力は及ばなかった。そのあとダブルスも落としたため、結果的には0―3で団体戦完敗と言う形になってしまった。
挨拶が終わった後、選手は呆然と立ち尽くしている。涙も出ない。荒木も放心状態だ。
「残念でしたね。でも中国大会ですよ、頑張った甲斐があったじゃないですか」
津村が元気づけようと荒木に声を掛ける。しかし荒木は沈んだままだ。
「中国大会ですか……何だかどうでもよくなってきました」
「そんなこと言っていては部員たちが悲しみますよ。ここでコーチが元気づける声掛けをしないと報われないでしょう?」
「……そうですね」
そう返事をすると無理をして表情を切り替え、荒木は部員を集めた。
「お疲れさま。目標には一歩及ばなかったが、念願の中国大会だ。先輩たちもきっと喜んでくれるぞ」
「練習場はどうなるんですか?」
小野春香が訊いてきた。
「ああ、今回は残念だったが一年以内に優勝すればいいんだ。一年生も少しずつ練習の成果が出て来ているし、俺は必ず達成できると信じている」
「それじゃぁみんな、頑張るしかないな」
「そうじゃね」
小野春香の力のない声掛けに対して、皆の気の抜けた受け答えが返ってきた。どう見ても実現できるとは思っていないやり取りだ。
中国大会は十二月二〇日から三日間の日程で開催された。場所は広島県の呉【くれ】市体育館、広島駅から徒歩数分の場所にある。
競技方法は出場校を八ブロックに分け、一ブロック三チームによる一次リーグを行い、一位通過した八校による決勝リーグとなる。
初日の日程は十一時から監督会議、その三〇分後に組合せ抽選、そして午後二時に一次リーグの内の二試合が行われる。
「この広陵南高校って強いんですか?」
組み合わせ抽選の結果を持って帰った津村に荒木が訊いた。
「さあどうなんでしょう。でも広島は開催県なので出場枠が広く、ランキング7位の学校だと言っていました。逆にもう一校は山口県で1位の学校です。全国大会出場の常連校らしいです。すいません、こんなくじを引いてしまって」
「仕方ないですよ、うちは県で4位なんですから。それよりも初戦ですね。この広陵南高校にまず勝つことです。今日はこの一試合しかないんですからここに集中しましょう」
「そうですね」
「ついてはご相談なんですが、一年生を一・二番に起用してはいけませんか?」
「随分思い切ったオーダーですね」
「商業戦で懲りました。もし相手チームに一人強い選手がいて、それに小野が倒されるともう勝てません。どうせダブルス勝負になるのでしたら、前二つを捨てて後半勝負にしましょう。それに、リーグ戦なので負けても二試合できるのですから、この方法を取れば一年生を四人とも出してやることができます」
「なるほど、いいかもしれませんね。それにしても意外です、コーチは一年生に優しいですね。ラグビーで全国大会出場と聞いた時は、もっと勝負に徹する人なのかと思いました」
「時と場合によりますよ。県の時もそうでしたが、今は一年生の誰を出しても同じだ。それなら平等に扱ってやりたい。俺は頑張るやつを見ると放っておけないんです。あのできない軍団が汗だくで一心不乱に練習をしているのですよ、その輝く瞳を見ていたら情が湧いてきますよ」
これを聞いて津村はほっこりとした気持ちになった。
そして広陵南高校戦、中国大会とあって初めて観客席には緑豊学園の保護者の姿もある。これに刺激され、部員はいつも以上に張り切った。
結果は3―2だ。荒木の思惑通り、前半の一年生二人を落としたが、ダブルスから後半を盛り返して勝った。中国大会初出場での一勝にベンチも保護者も大喜びだ。
この試合で、いつものごとく荒木は大胆なガッツポーズで吠え続けた。しかしそれが多くの者の注目を集め、このあととんでもない事態を招くことになる。
二
午後六時過ぎ、予約していた広島駅前のホテルにチェックインすると、部員たちは荷物を持って部屋に移動した。今日の一勝にまだ酔いしれている。そして夕食を済ませ部員たちが部屋でくつろいでいる頃、津村と荒木はラウンジで明日の対戦に向けて作戦を練っていた。その時だ、二人に近づいて声を掛けてきた人物がいる。
「本当だったんですね、荒木先生」
荒木は声の主を見るなり目を全開にした。それはロングヘアを肩の下まで垂らした二十歳前後の女性だった。青いワンピースにフラワーをモチーフにした白いエナメル製のベルトを巻き、オレンジ色のパンプスを履いている。
何だ、荒木のこの驚き方は……一体この女性は? ――津村は胸騒ぎを覚えた。
「どうしてここへ?」
荒木の目はその女性に釘づけだ。
「昼間に呉の体育館で先生を見かけたって人が教えてくれました。てっきり教師はお辞めになったのかと思っていたのに、岡山県で先生ですか。そして隣には若い女性、どうなっているのでしょう?」
「いや、教師ではなく今はコーチです。それからこちらにいるのは、現在俺がコーチを務めている高校の卓球部監督です」
「あっ、津村と言います。荒木さんがおっしゃった通りです。卓球の中国大会がここで行われているので、明日に備えて打ち合わせをしていただけです。特別な関係ではありません」
なぜ自分がこのような言い訳をしなくてはならないのか――津村には、言った後で少し悔しさに似た感情が湧いた。
荒木と彼女はしばらく口を閉じたまま身動きしないでいる。
「あのう、何でしたら席をはずしましょうか?」
津村は抵抗を感じながらも、空気を読んで気を利かせた。
「そうしていただけますか」と彼女は言ったが、すかさず「いや」と荒木がそれを否定した。
「居てください。いつまでも隠し通せるものではない。この際だ、津村先生にも知っておいてもらいましょう」
これを聞いて津村の心臓は躍った――これから何を聞かされるのだ。荒木が何か秘密を抱えていることは察していたが、それと関係あるのだろうか。もしそうだとして、女性絡みだとなるとそれを自分にも知っておいてもらいたいとはどういう意味だ。聞きたい気もするが怖い気もする。
「そう、それじゃこのまま話を続けます」
ロングヘアの女性は落ち着き払っている。
「よろしかったら掛けませんか?」
津村が隣の席を勧めたが、彼女は「結構です。そのような気分にはなれません」ときっぱり断った。
この言い方、どう考えても自分に敵対心を持っている――津村はいたって居心地が悪い。
このままこの場所が男女間のもつれによる修羅場と化した場合、自分はどうすればいいのか――津村が、そんないたたまれない気持ちで二人の出方を見ていると、彼女の口から予想もしなかった衝撃的な言葉が発せられた。
「この人は犯罪者ですよ。教師なんかやる資格ありません」
津村は思わず「ええっ⁉」と絶句した。構わず彼女は淡々と話しを続ける。
話は今から一年前にさかのぼる。
荒木は広島県の私立川中南高等学校で体育の教師をやっていた。素行上の問題を抱えている生徒が集まりやすい学校で、年中トラブルが絶えない。他の教師に比べてひときわ体が大きく、その上ラグビーで鍛えたパワーもある荒木は、生徒指導主事として全教員から頼られ、生徒からは一目置かれていた。
「荒木先生大変です。また伊藤たちが例の校舎裏に固まって何かやっているそうです。たった今、生徒からの通報がありました」
一週間前にも伊藤を含める一年生の男子グループを捕まえ、指導したのは荒木だった。校舎裏でタバコを吸っていたのだ。
荒木は「了解」と言い残すと一目散に現場に向かった。それでなくても足が速い上に、彼は生徒と対峙できるよう常にシューズを履いていた。スリッパ履きの教員がついて行ける訳がない。
「こらっ! お前らそこで何をしている」
いち早く到着した荒木の怒号が響く。
「あっ、荒木だ。まずい」
一人の生徒の叫び声を合図に一旦建物の裏に全員の姿が消えた。しかしすぐ戻ってきた。
「ははは、馬鹿め。前回手こずったからな。お前らが停学中に、反対側は金網で封鎖したんだ。袋小路なんだよ、そこは」
そう言いながら荒木が生徒に近づいていくと「くそー」と一人の生徒が突進してきた。
「おっ、何だ、抵抗するのか?」
荒木は余裕の表情でそれを受け止めると、ほらよ、とひねって脇に転がした。
「そんなタックルじゃ、一ミリだって前に進めないぞ」
冗談まで飛ばしている。
しかしこれを皮切りに束になって生徒が荒木に向かってきた。だがまだ一年生、体格もできていなければ力もない。かたっぱしから地面に転がされていく。それでもすぐに立ち上がって荒木にへばりつこうとする。たちまち大勢の生徒が面白がって見物に集まってきた。
「よせよせ、無駄な抵抗をするな」
荒木はどんどん校舎裏に向かって進んでいく。そして男子生徒ともども校舎の陰に姿を消した。
これを野次馬が追おうとしたとき「おい! 大丈夫か」と叫ぶ声が皆の耳に飛び込んできた。荒木のものだ。同時に「荒木じゃ、荒木がやったんじゃ」とはやし立てる男子生徒の声も聞こえてきた。
慌てて何人かの教員が校舎裏に回ってみると、そこには青ざめた顔をして横たわっている男子生徒と、はいつくばってその呼吸を確認している荒木の姿があった。
「大至急AEDを。それから救急車の手配をお願いします」
荒木の表情から一刻の猶予も許されないことが分かる。教員たちはすぐに手分けをし、荒木はその場で救急車が到着するまで心肺蘇生を続けた。
ほどなく男子生徒は病院に搬送されCT検査を受けた。そこで下された診断結果は「急性硬膜下血腫」だった。つまり頭部の打撲によって脳の表面の血管が損傷し、脳を守る硬膜と脳の間に血液の塊ができたのだ。すぐさま手術を行ったが血液の凝固障害なのか意識は戻らずじまい、そのまま今日に至っている。
この男子生徒の名前は川上海斗、ホテルを訪ねて来た理恵の弟だ。
「それは不可抗力ではないのですか?」
説明を聞いて津村が恐る恐る言った。
「不可抗力? そんな言葉で片づけて欲しくないわ。一部始終をスマホで撮っていた生徒がいたので見せてもらったんだけど、この人、最初は笑いながら生徒を引き倒していた。それが次第に熱を帯び興奮してきたんでしょうね、最後の方になると力任せに地面にたたきつけているように見えたわ。どう考えても教師がすることじゃない、ただの暴行よ。それはこの人も認めているわ、そうでしょ?」
「あの時は、かわしても、かわしてもきりがないのでついむきになってしまった。弁解のしようもない。とんでもないことをしてしまったと反省している」
「どう? 分かったでしょう。すぐに警察に訴えたんだけど、裁判は待ってもらっているの。だってこのまま死ぬ可能性があるのよ。傷害と殺人では罪の重さが違うでしょ。弟にもしものことがあったら、絶対許さないから」
「ご両親もそれを望まれているんですか?」
「ふん、生憎ね。うちは母子家庭なの。その母もあの事件をきっかけに心労で倒れたわ。もう私の家庭はめちゃくちゃなの。全部この人のせいなのよ」
津村はうつむいたまま何も言えなくなった。
「刑は確定していないけど、あなたは自分で罪を認め、教職から身を引いたはずでしょ。それなのに他県に逃げて学校に勤めている。おかしいでしょ、そんなこと」
「海斗君には本当に申し訳ないと思っている。しかしそれとこれとは話が別だろう。とにかくあなたの望み通りあの学校を辞め、教師からも身を引いている。他県で何をしていようが、そこまで口を挟む権限はないはずだ」
「まあ、何て言い草なの。それじゃなぜ病院に見舞いに来たとき、あなたが現在何をしているのか、口を濁したの? 今の仕事に後ろめたさを感じているからでしょう?」
「いや、変に誤解されたくなかったんだ」
「この期に及んでまだそんなことを……あなたが体育館で生徒の応援をしているって聞いて、私がどんな思いをしたか分からないでしょうね」
「そうか……それはすまなかった」
「許せない、絶対に許せないわ。こうなればどんな手段を使っても、あなたからすべてを奪い取ってやる。今の仕事もできなくしてやるわ」
彼女はそう言い残して二人の前を去っていった。
三
ラウンジに残った二人は、しばらく気まずい雰囲気を宿したままうつむいていた。
「困ったことになりましたね」顔を上げて津村がぽつりと言うと「彼女にきちんと説明していなかった俺が悪いんです。あなたにも嫌な思いをさせましたね」荒木はうつむいたままだ。
「私はいいんです。それより彼女はどうするつもりでしょう?」
「さあね。もしかすると俺が生徒と取っ組み合いをしている動画を、ネットで拡散するつもりかもしれません。以前もそれをやりかけたので、俺が条件を飲んで教師を辞めたんです」
「まあ、それって脅迫じゃないですか」
「彼女が弟を思う気持ちを考えれば、責めることはできませんよ」
「でも、実際にそんなことされたら致命的でしょう。世間にさらされ、マスコミの注目を浴び、もしかするとコーチを止めるどころか、生活をしていくことさえままならなくなる可能性がありますよ」
「天罰ですかね」
「駄目ですよそんな弱気じゃ。荒木さんが過ちを犯したとしても、それを裁くのは法律でしょう、あの人じゃない……そうだ、校長からもらった名刺がありましたよね。この際、弁護士に相談してみましょう」
「弁護士ですか……」
「立場的に戸惑う気持ちは分かります。でもあの調子では一刻の猶予もない気がしますよ」
「……そうですねぇ……」
荒木は気が進まない様子だ、川上家に対する罪悪感があるのだろう。しかしこのまま放っておくわけにはいかない。
「こうしましょう、事情を知って見過ごせなかったという理由で、私が勝手に動いたことにするのです」
「いや……それじゃあなたに迷惑が掛かります」
「迷惑だなんて、これまで散々荒木さんにお世話になってきたのは私の方です。少しでもそのお返しがしたい……いえ、私のお節介だと思ってください」
「しかし……」
荒木はなおも躊躇している。
「それに、ここで荒木さんにもしものことがあると困るのは卓球部員です。もう決めました、これは彼女たちのためにやるのです。荒木さんに止めることなんてできませんよ」
「……申し訳ない」
荒木が恐縮顔でうつむいた。これほど意気消沈した姿を見せるとは――これが先ほどの若い女性によるものかと思うと、津村は余計に許せなかった。
翌日の土曜日、中国大会の二日目である。九時に第一試合が始まった。
山口の優勝校とあって力の差は歴然としていた。緑豊学園の一・二番に出た一年生はまるで赤子の手をひねられるような負け方をし、二年生ダブルスも、一セット目はデュースまで持ち込んだが結局0―3で負けた。この試合で緑豊の全日程は終了、一勝一敗で予選敗退となり、昼過ぎまで試合観戦をして過ごすことになった。
これで手が空いた。津村はアリーナの外に出ると名刺を取り出し、校長から紹介された弁護士会の代表に連絡を取ってみた。受付を介して電話に出たのは中年の男性だった。
「土曜日ですよ。今日、明日に動けとはさすがに無理がありますね。だが種田さんには日頃から大変お世話になっていますし、ここは頑張ってみますか。とりあえず会員の事務所を片っ端から当たってみましょう」
初めて校長の名前が役に立った気がした。
午後三時過ぎ、ホテルで帰り支度をしていると、弁護士会の代表から返事が戻ってきた。明日でよければ対応できる事務所が見つかった、という内容である。
はやる気持ちを抑えることはできない。早速、荒木に報告をすると彼の表情が再び恐縮色に曇った。
「本当に申し訳ない……だがその時間は部の練習があります。俺はどうすれば……」
戸惑っている。
「大丈夫ですよ。昨日言った通り私が単独で動きます。コーチは練習に専念してください」
貸し、という表現は使いたくないが、津村は陰で支える以上の貢献ができている自分にことさら喜びを感じた。
四
翌日一〇時、津村はカーナビを頼りに弁護士会会長に紹介された平松事務所を訪ねた。それは国道二号線沿いの貸しビル内にあり、二階の大きな窓に事務所名が掲げてあるのですぐに分かった。
事務所の扉を開けるとドアチャイムが鳴り「いらっしゃいませ」と女性が出てきた。
年のころは二十歳前後か、それもここに勤めていることから推察できる年齢であって、街中で会えば高校生くらいにしか見えない。それにしても悪意があるのではないかと思えるほど派手だ。グレーのスーツはこの事務所から支給されたものだろう、無理やり着用させられている感がある。それを除けば、まるで渋谷か原宿あたりでガールズファッションを楽しむマニアだ。茶髪のショートヘア―には真っ赤で大きな髪留めがちょこんと乗っている。ネイルカラーもタイツもピンク。さらに足元を見れば、真っ赤なエナメル製のローファーが光っている。思わず体を引いて表札を確認した――間違いない、ここは法律事務所だ。
「あのう、弁護士会の紹介できました、津村と言います」
「伺っています。中へどうぞ」
客の対応は普通だ。良かった「お帰りなさいませ、ご主人様」と言われなくて……。
勧められるまま接客用のソファに座ると、彼女は衝立の向こうに消えた。それが仕切りになっているためそこから事務所内は見えない。しかし彼女の甲高い声はこちらに駄々洩れだ。
「良かったなぁ貝阿弥君、今度のクライアントは若い女の人じゃで。私よりちょっと年上じゃけど、顔はまあまあかな」
余計なお世話だ。それにしてもひどい事務所に当たってしまった。外れくじもいいところだ。たぶん昨日の今日なので、こんな所で間に合わせたのだろう――津村は後悔していた。
「お待たせしました」
衝立から姿を現した男性を見て津村はさらに驚いた。若い、美形、前髪を少し垂らしたその容姿は、まるでマイクを片手に歌って踊るアイドルではないか。
なんなのだ、ここは。事務所は事務所でもタレント事務所なのか? ――津村は再度表札を確認したくなった。
「貝阿弥駆【かいあみかける】と申します」
男性が名刺を差し出したので慌てて立ち上がり、それを受け取った。
「緑豊学園の津村浩美と言います」
一応形通りのあいさつはしたが得心できてはいない――本当にこの人で大丈夫なのか? この事務所にはチェンジというシステムはないのか?
「どうぞお掛けください」
こちらの不安をものともせず、目の前の男性は弁護士顔【づら】で応対している。抵抗を感じずにはいられない。
「早速ですが、ご用件を伺いましょう」
愛想も何もない。顔に似合わず随分と単刀直入だ。社交的な会話でもしてくるのかと思った津村にとって、やや意外な感じがした。
そこに先ほどの女性がお茶を運んで来た。
「ようこそ、当法律事務所をご利用いただきまして有難うございます」
またしても普通の接客だ。貝阿弥の顔をチラ見して意味ありげな含み笑いをすると、彼女はそのまま衝立の向こうに引っ込んだ。
「今の方は?」
訊かないではいられない。
「うちの事務員です。派手ないで立ちなので驚かれたでしょう。私以外は中高年の男性ばかりなので、うちではまるでアイドル扱いです。社会人になって二年目だと言うのに、いつまでも子どもっぽいところが消えなくて困ったものです」
どの口が言っているのだ。あなただって大差ないではないか――口には出さないが津村はあきれていた。しかしここまで来て何もせずに帰る訳にもいかない。とりあえず相談を持ち掛けてみることにした。
「事情は分かりました」説明が終わると、貝阿弥はメモを止めて津村に向き直った。
「ネット上で他人の画像を許可なく公開した場合は、肖像権の侵害が問題になります。今回は荒木さんだけでなく多くの男子生徒さんも被写体になっていますので、全員が被害者の対象となります。精神的な苦痛を訴えることによって損害賠償、つまり慰謝料の請求ができます。それに荒木さんはまだ法的な裁きを受けていない一般人ですので、ある種の意図をもってこれを行ったことが立証されれば、名誉棄損になる可能性もあります。それよりも、一旦公開されるとどんどん拡散されてしまいますので、未然に防げるものであれば一刻も早く手を打つことです」
「どうすれば良いのでしょう」
「それは明確です。今回の場合相手がはっきりしていますので、直接本人に働きかけることができます」
「角が立たないでしょうか、荒木はそれを心配しています」
「目の前で罪を犯そうとしている人がいる。それを止めるのですから相手の方も理解してくださるはずです」
「あっ、なるほど。そうですね」
返答を聞けば思ったよりもしっかりしている。テレビのどっきり系の番組に引っかかっている訳ではないようだ――津村は半疑な気持ちを抱きながらも頷いた。
「それでは早速、広島に行ってきましょう」
「えっ、すぐ動いてくださるんですか?」
「動画が公開されると厄介なことになります。『今日の一針【ひとはり】明日の十針【とはり】』と言うでしょう。最初の段階でほころびを縫っておけば一針で済みます」
自分の欲するところをよく理解している。それにしても終始無表情、やはりアイドルではなさそうだ――津村はまだ疑っていた。
その日の五時過ぎ、津村のスマホが鳴った。貝阿弥が今日の報告をしたいと言ってきたので、学校近くの喫茶店で待ち合わせた。
約束の六時半、津村が喫茶店に入ってみるとすでに貝阿弥は席に着いて待っていた。
「お待たせしてすみません」
津村が急ぎ足で席にたどり着くと「いえ、定刻です」と素っ気ない。
「貝阿弥さんは何にします?」
定員が注文を取りに来たので尋ねると「私は結構です。すでに頼んでいますから」と無表情で言った。――何か良からぬ報告を受けそうだな――津村には嫌な予感がした。
「では本日入手しました情報を、順を追って説明します」
愛想も何もない、向き直るや、やはり単刀直入に切り出してきた。依頼した内容が内容だけにこの無表情な口から何が飛び出してくるのか、いよいよ怖くなってきた。「は、はい」と無意識に固唾【かたず】を飲む。
「まず一件目の報告です。川上さんのネット公開ですが未然に防ぐことができました。彼女自身、ネットにあまり詳しくありませんでしたので、どの方法で公開するのが効果的なのか、またコメントはどうするか手間取っていました」
「まあ、危なかったですね。間にあって良かったです」
「二件目の報告です」
えっ、この件はそれで終わり? 一番の懸案事項をこれだけ円満に解決したのだ、もう少し自慢してもよさそうなものだが――津村は呆気にとられた。
「その画像を入手してきました」
そう言うと、貝阿弥は持っていたスマホを津村に向けた。
「へえ、彼女がよく応じてくれましたね」
感心しながら覗いてみると、荒木が「こらっ! お前らそこで何をしている」と怒鳴っているところから写っていた。以前聞いた通りだ、荒木と男子生徒が絡み合っている。やがて生徒ともども建物の裏に姿が消えたかと思うと、荒木の「おい! 大丈夫か」という叫び声が、次いで「荒木がやった」とはやし立てるような生徒の声が画面から聞こえてきた。
「いかがですか?」
貝阿弥が感想を訊いてきた。
「確かに衝撃的な映像ですね・・・・・・でも川上さんは『荒木さんが力にものを言わせて、生徒を地面にたたきつけた』みたいな過激な表現をしていたんですけど、これを見る限りそこまで激しくはありませんね。確かに少しずつエスカレートしているようには見えますが」
「他に違和感はありませんでしたか?」
「えっ? 違和感ですか・・・・・・よく分りません」
津村は首をかしげた。
「なぜ荒木さんは前に進む必要があったのでしょう。男子は皆、自分に向かってきているのですから、その場で相手をすれば済むのに」
「そう言われてみればそうですね」
「それによく見ると生徒たちも変です。前方から来る者は荒木さんを押していますが、後方から腰にしがみついている者は彼の体を引っ張っています」
「えっ、そうでしたっけ? もう一度見せてください」
津村がスマホを手にとって再生してみると、確かに背後の生徒はあごを上げ、引っ張っているように見える」
「ほんとですね。一体どういうことでしょう?」
「不自然だと思ったので警察へ確認に行ったのですが、全く問題にしていませんでした」
「警察もこの映像を知っているんですね?」
「ええ、川上さんが訴えて裁判になれば物証になりますからね」
「それじゃ逆に『暴行』という過激な表現を覆す証拠に使えるんじゃないですか?」
「川上さんは『傷害か殺人を見極めるために裁判を待ってもらっている』と言っていますが、今回の場合、警察も『暴行』として扱うつもりはないようです。『暴行』であれば被害者の訴えがなくても逮捕できますからね。私からすれば『過剰防衛』が相当だと思えるのですが、いずれにしてもこの映像の受け止め方により多少扱いが変わってくるでしょう。このシーンについて荒木さんは何か言っていませんでしたか?」
「そう言えば『むきになって力が入った』みたいなことを言っていました」
「やはりそうですか。裁判になると重要なポイントになるでしょう」
「えっ? 『やはり』ってどういう意味ですか?」
「三件目の報告です」
えーっ、それはないだろう。こちらの質問を無視して次に進んでしまった――津村はまたもやあきれた。
「病院に行って担当医から説明を受けてきました。救急車で病院に搬送されたとき重篤な状態でしたので、体への負担を少なくするために穿頭【せんとう】術、つまり頭部に穴をあけて血腫を排出させる方法を取ったそうです。術後に意識が戻っていないのは、血腫が完全に取り除けていないことに原因があるかもしれない、とのことでした」
「それじゃそれを取り除くことができれば、意識が戻るんですか?」
「脳自体に障害がある可能性もあるので、一概には断言できないそうです。しかし稀に血腫が自然消退することもあるそうなので、川上さん母娘は手術直後からそれを期待していたようです」
「でも一年が経過しているんでしょう、このまま待っていても仕方ないじゃないですか。 思い切って手術すればいいのに」
「脳のことですからね。開頭手術となると廃人になったり、命を落としたりする危険性もあると医師に説明され、悩んでいるのでしょう」
「そうですか、無理もないですね……でも運が悪いですね。転び方が悪かっただけでこんなことになるなんて……」
「それなのですが、少し厄介な事実が判りました。海斗君は頭のほかに左顔面と腹部に打撲痕があったようです」
「ええっ! 転んだだけじゃないんですか? あの映像では、荒木さんがそのような暴行を働いたようには見えませんでしたが……」
「映像が不鮮明な上に、校舎の裏に姿を消したところから先は写っていませんから第三者には判断がつきません。それより問題は、警察の聞き取りに対して『その打撲は自分の責任だ』と荒木さんが認めていることです」
「ええっ、そんな……それで貝阿弥さんはさっき『やはり』といったのですね……」
「とりあえず明日もう一度広島に行き、そのあたりの情報を集めてみます」
「私はどうすればよいでしょう?」
「ネットへの公開を未然に防ぐことができたことだけ、荒木さんにお伝えください。それ以外の情報はあえて伏せていただく方が助かります。二・三日中には連絡を入れますから、その時は荒木さんに同席をお願いするかもしれません」
終始マイペース、その上に不愛想なところは気になるが、無駄がなくてきぱきとしている。それに頼みもしないのに警察や病院にまで行ってくれている。最初受けた印象とはかなり違うな――津村の貝阿弥を見る目は変わっていた。
五
三日後の木曜午前一〇時過ぎ、貝阿弥がメールで今日の都合を訊いてきた。今回は荒木にも同席の要請がある。そこで部活が終わってひと段落した七時半を待ち合わせ時間に指定した。場所は前回の喫茶店だ。
約束の時間、津村と荒木が喫茶店に行ってみるとすでに貝阿弥は席に着いていた。
「お待たせしました、貝阿弥さん」津村がそう言うと「いえ、定刻です」と相変わらず素っ気ない。このとき貝阿弥を初めて見た荒木は、驚いた表情で津村に目配せをしてきた。恐らく自分が思い描いていた弁護士像と、あまりにもかけ離れていたからだろう。期待通りのこの反応に、津村は思わず含み笑いをした。
「貝阿弥駆と言います」
立ち上がって名刺を渡されると、いぶかしそうにそれに目を落とし、改めて荒木は自分を名乗った。
「早速ですが、これまで挙がったいくつかの疑問点を聞いていただきます」
社交的な挨拶も、荒木への慰撫【いぶ】の言葉もない、相変わらず貝阿弥は実直だ。しかし荒木は「はい」と返事をすると、神妙な面持ちですでに受け入れ態勢に入っている。こちらも切り替えが早い。
「まず例の画像を確認していただきます」
そう言うと、貝阿弥は二人に向かってスマホを見せた。覗き込むとばかり思っていたが、荒木はこれに冷めた視線を送っている。やはり初めてではないのだろう。
「もし裁判であなたの処分が決まるとすれば、この映像が物的証拠として大きく影響してくる可能性があります。そこでお尋ねするのですが、川上さんはこれを見て『感情的になって生徒を地面にたたきつけている』と表現したのに対し、津村先生は『そこまでの過激さは感じない』とおっしゃいました。あなた自身、このとき怒りの感情はありませんでしたか?」「いや、全く……正直なところ最初は驚きました。俺から逃げようとする生徒はいても、向かってくる者はいませんでしたからね。窮鼠【きゅうそ】猫を噛むって言うやつですかね。追い詰められるとこいつらもこうなるんだ、と思いながら相手をしました」
「それではなぜ川上さんの言葉を否定しなかったのですか?」
「大切な弟をあんな目に合わせたのです、その気持ちを察すると弁解じみたことは言えないでしょう」
「しかしその証言が、結果的に彼女の怒りを助長する格好になりました。これについてはどうお考えですか?」
「軽率でしたね、まさかこのように追い込まれるとは……」
「裁判になった時は撤回する気がありますか?」
「いや、罪を軽くしてもらうために言い逃れをしていると思われます。そのような無様【ぶざま】なことはできません」
「ふーむ」口を一文字に閉じると、貝阿弥は荒木の顔をまじまじと見た。
「では次に移ります。あなたは生徒を相手にしながら前に、前に、と進んでいます。そこには建物の裏に回ろうという意思が感じられますが、それはいかがでしょう?」
「奴らは以前、校舎裏でタバコを吸っていたことがあるんです。今回もその証拠があるのではないかと思って突き進みました」
「そう思わせたのは彼らの態度だったのではありませんか? つまり単に向かってくるのではなく、なぜか校舎裏に行かせまいとする彼らの力の入れ具合に気付いたのでは?」
「どうでしたかね、よく覚えていません」
「それでタバコの痕跡はあったのですか?」
「それが……確認していません。なにせ海斗君があんなことになりましたから……それに、そのあとも心肺蘇生に精一杯でした」
「私が警察に確認したところ『現場検証では一切タバコの痕跡は見当たらなかった』と言っていました」
「そうですか……俺の思い過ごしでしたか……」
そう言いながら荒木が少しうなだれた。
「では次です。病院に運び込まれたとき、海斗君は左顔面と腹部に打撲痕があったようです。警察には、それがあなた自身によるものだと認められたそうですね?」
「はい。最初は余裕を持って相手をしていたんですが、奴らがあまりにもしつこいので、その内こちらも体力的に限界を感じ荒っぽくなりました。転がすだけでなく、振りほどいているうちに腕や足が当たっていました」
「ふーん」貝阿弥は顎に手をやり、少し考えこむ仕草をした。
「次に移ります。学校で確認したのですが、彼らは七人でつるんでいるそうですね。しかしこの映像を見る限り六人しか映っていません。残りの一人はどうしたのでしょう?」
「ええっ!」荒木が驚いて「もう一度確認させてください」とスマホの画像を再生し始めた。そこで津村も一緒にそれを覗き込んだのだが、組【くん】ず解【ほぐ】ぐれつ動き回っているので実に数えにくい。いくつかの場面を停止画像にしてようやく確認できた。
「確かに六人しかいない……今まで気が付きませんでした」
荒木は信じられないといった様子だ。
「誰がいなかったのか分かりませんか?」
「どうでしたかね……とにかく一年前のことですから……」
「先生方にも確認してもらったのですが、この映像だけでは人物の特定ができませんでした。なにしろ被写体のピントがぼけていますからね。どうやら少し離れた場所にいて、動きながら写したもののようです。拡大もしてみたのですが、さらに判りづらくなるだけでした。こうなるとあとは直接生徒本人に訊くしかありません。そこで一軒一軒生徒の家を回っていたのですが、実に不可解なことがありました」
不可解なこと? 津村と荒木の体が前のめりになる。
「最初に伺ったのは伊藤元弥君の家でした。彼らのリーダー格のようですね。伊藤君は最初に突進している人物を指さして『これが自分だ』と教えてくれました。そこで『七人の中で誰がいないか分かるか』と訊いたのです。そうすると『映像がぼやけているのでよく分からない』と答えました」
「それが何か?」と津村が首をひねると、貝阿弥が珍しく反応した。
「ここからが不可解なのです。次に高山君のお家で本人に尋ねたのですが、今度は映像を見ても『ぼやけていて、自分がどれなのか分からない』と返ってきました」
「それは変ですね。自分が突進して転がされたのだから分かりそうなものなのに」
「丸山君からも同じ答えが返ってきました。次の鳥越君も菊井君も林田君そうです」
「ということは、最初の伊藤君が先回りして、ラインか何かでみんなにとぼけるよう言ったのでしょうか?」
「恐らくそうでしょうね」
「なんだ、貝阿弥さんもそう思っていたんですか、それじゃ不可解なことは無いじゃありませんか」
「ポイントはそこではありません。よく考えてみてください、最初の伊藤君には『七人の中の誰がいないか分かるか?』と訊いたのですよ。それに対して『分からない』と返ってきたのです。従って七人いたことは確かです。そしてそのあとの生徒からは『映像がぼけていて、自分がどれなのか分からない』と返ってきました。つまり映像の中に含まれていることは否定しなかった。すなわち聞き取りをした六人は六人ともこの映像の中にいます。それでは救急車で運ばれた海斗君はどこにいるのでしょう?」
「えっ? えっ? ……それじゃずっと校舎の裏に潜んでいたということですか?」
「何をしていたのでしょう?」
「ええっと、タバコの痕跡を消そうとしていたとか」
「先ほども言いましたが、警察の現場検証ではその痕跡は見つかっていません。それに病院でも、海斗君が身につけていた物からも、そのようなものは出て来ていません。これについて何か思い出したことはありませんか?」
貝阿弥は荒木の顔に視線を移した。
「そう言えば校舎裏に回ったとき、背後から海斗君が急に飛びかかってきたような気がします。今思えば柱の陰に隠れていたのかもしれません」
これを聞いて津村が声を弾ませるように言った。
「それじゃ、海斗君は荒木さんに不意打ちをしたんですね。それに驚いた荒木さんが咄嗟に振り払った。これって完全に不可抗力じゃありませんか?」
「ふーむ」貝阿弥はまた唸った。
「現場を確認したのですが、確かに建物の角には柱部分の出っ張りが五〇センチ程度あるため、それが死角を生み出していますね。荒木さんが角を曲がってもすぐには海斗君に気が付かなかったのかもしれません。もしそこに潜んでいた彼が初めて荒木さんに飛びかかってきたのだとすれば、彼の打撲痕は倒れる直前に受けたものとしか考えられません。どうですか荒木さん、その感触を覚えていますか?」
「どうでしたかね、一年前のことですから……てっきり格闘をしている間に当たったものだと思っていました。もしかすると振り向きかけた俺の肘が彼の腹部にヒットし、転倒する際、他の生徒の頭にでも顔をぶつけたのでしょうか?」
「無我夢中でも打撲痕ですよ。それが原因で倒れたのなら、あなただって当たった感触は覚えているでしょう?」
「申し訳ない、思い出せません」
「ふーむ……」
眉間にしわを寄せる貝阿弥を見て、津村が遠慮がちに言った。
「でも不意打ちをかわした不可抗力なら、荒木さんの責任は軽くなるでしょう?」
「論理的に説明できないことが多すぎます。私にとって不意打ち自体が理解できません」
「どうしてですか? 仲間が苦戦しているんですよ。正面からかかっていくより効果がありそうじゃないですか」
「それでは不意打ちをするまで、海斗君は校舎裏で何をしていたのでしょう? 先ほど言った通り、何かを隠していた痕跡は有りません」
「隠れて荒木さんを待ち伏せしていたんですよ。みんなで仕組んだのでは?」
「そうなると矛盾が生じます。彼らが荒木さんを校舎裏に行かせまいと抵抗していたことの説明が付きません。それにあの状況で、七人が咄嗟にそのような作戦を練るとは考えられません」
「そうか……そうですよね……それじゃ、海斗君が何かまずいものを跡形【あとかた】もなく始末し終えたので、六人に加勢したとか……」
「よく考えてみてください、見つかってまずいものが処分できたのに、あなたなら先生に飛びつきますか? もうその必要はないでしょう?」
「なるほど……でも、よほど恨んでいればやったかも……」
「あの映像を見る限り、彼らの荒木先生に対する憎しみは感じられません。一人も拳を振り上げていませんからね」
「へえ、すごいところに気が付きましたね……まさか、薬をやっていたのでしょうか?」
「病院側がそれを見過ごすとでも思いますか?」
「そうですよね……だめだわ、もう思いつきません」
「校舎裏に何かあり、それを隠したがっていたことはほぼ間違いないでしょう。そして海斗君はそこにいた。しかし病院に担ぎ込まれたときそれに該当するものは身につけていなかったし、現場にも何の痕跡も残っていなかった」
「そう考えると実に不思議……ミステリーじみてきましたね」
「荒木さんはどうも思われますか?」
「いや、何とも……ただ、この映像からここまで考えが及ぶなんて、あなたの観察力と推理力には驚いています。俺も警察も、それにあれだけいた野次馬も気づかなかったことですからね――」これを聞いて、津村も深く頷いた。
「――しかし今となっては手遅れな気がします、何せ一年も経っていますから……もし貝阿弥さんの言う通り奴らが何か隠していたとして、彼らの中の一人でも口を割らない限り、あの時見つからなかったものが今更見つかるとは思えません。それにそれが何か分かったとしても、俺が海斗君にしたことが消える訳ではありません」
荒木がうなだれ気味に言うと、津村がそれを見て声を張った。
「貝阿弥さん、ここまで新事実が判ったんです、何とかならないのでしょうか?」
「不可解なものが不可解なままです。まだ何も判明していません」
「でも海斗君が格闘の中にいなかったことはほぼ間違いありませんよね。もし裁判になったら、罪が軽くなるのではないですか?」
「裁判所がこちらの証言をどれくらい受け入れてくれるかですね。荒木さんが一度は非を認めていますから、検察はそこを突いてくるでしょう。前にも言いましたが、警察も暴行で告訴していませんので、川上さんが提訴しても過失傷害か重過失傷害かで争うことになるでしょうね」
「どれくらい差があるのですか?」
「これまでの例に照らし合わせますと、過失傷害罪だと三十万円以下の罰金、重過失傷害罪だと五年以下の懲役もしくは百万円以下の罰金になります」
「それじゃ過失傷害だと罰金だけで済むんですか。大きな差ですね」
「ですから、川上さんの発言を安易に容認することには問題があります」
「荒木さん、聞いたでしょう? 教師に戻れるかもしれないんですよ。ここは戦いましょう」
「いや、海斗君はまだ意識が回復していません。このまま亡くなる可能性もあります。川上さんの胸中を察すると、とてもそんな気は起りません」
貝阿弥のお陰で事態が幾分好転しているように思えるが、荒木がこの考えでいる限り大きな前進は望めそうもなかった。
その二日後、貝阿弥から津村に電話が入ってきた。事情が変わりつつある、と言うのだ。 今回は荒木への要請がなかったので、津村独りで喫茶店に足を向けた。
席に着くなり、貝阿弥がいつものごとく社交辞令もなく切り出してきた。
「川上母娘は、海斗君の開頭手術を考えています」
「どうして急に?」
津村が首をかしげると貝阿弥が言った。
「今のままただ待っていたのではらちが明かないと思い『一年経っても海斗君の容体は変わっていません。荒木さんの現状を見て、このまま自分の家庭の時間だけが止まっていることに、納得をしているのですか?』と問いかけてみました」
「問いかけたって、何とも大胆な……」
あなたは加害者側の弁護士でしょ? と言いたくなったが止めた。そのお陰で話が進展しそうなのだ。津村がややあきれていると、構うことなく貝阿弥は続けた。
「結果がどうあれ、川上母娘は術後いよいよ裁判を起こす構えでいるようです。早ければ年明け早々手術に踏み切るかもしれません」
「もし手術で亡くなった場合、荒木さんが殺人罪に問われることは無いのですか?」
「元々それは有りません、故意の犯罪により被害者を死亡させた訳ではありませんからね。あのまま亡くなっていたとしても、過失致死か重過失致死でしょう。今回の場合、一年間も安定した状態が続いていますから、手術をすることによって死に至ってもそれを全て荒木さんの責任に結びつけることは難しいと思われます。それこそ裁判で争うことになります」
「貝阿弥さんの腕の見せ所ですね」
「それはどうでしょう。全く別の真相が隠されている可能性もあります」
「ええっ、それはどんな内容ですか? 貝阿弥さんには分かっているのですか?」
「まだ仮説の段階なので明かせません。手術が成功し、海斗君の意識が戻ればはっきりするはずです」
「海斗君は隠し立てせずに本当のことをしゃべるのでしょうか?」
「私の仮説が正しければね」
貝阿弥はずいぶん含みのある言葉を残して帰っていった。
六
年が明けた。卓球の練習場となっている倉庫は、その作りが運動向けに設計されていないため部員による数か月間の振動に耐え切れず、あちらこちらにガタがきている。いたるところから隙間風が入り、戸外と気温が変わらない。いや、太陽光の恩恵を受けない分、中にいる方が底冷えする。午前中、気温が上がりきらぬ三度や四度の状態では、倉庫と言うより冷蔵庫の中で過ごしているかのようだ。ランニングとダッシュのおかげで体は温まっているのだが、指先はいつまでも冷たい。部員はかじかみそうな指に、またしては息を吹きかけながら一月三日から白球を打っていた。
そんな時、津村に貝阿弥から連絡が入った。一週間後の日曜日に川上海斗の手術を行うことが決定したらしい。手術の翌日には意識が戻るかしれないということだ。成人の日なので学校は休みだ。部活の練習予定をキャンセルし、二人で広島に向かうことにした。
荒木の車に乗り込み二人が向かった先は、広島県の安芸【あき】にある病院だった。笠岡インターで高速に乗り、病院に到着したのは八時半過ぎだった。
病室を訪ねるとすでに海斗はベッドに戻っていた。その向こう側には姉の理恵と中年の女性――これが母親だろう――が椅子に座っている。海斗を覗き込むようにしていたのだろうが、津村と荒木がドアを開くと、母娘とも背中を丸めたまま目だけをこちらに向けた。何とも冷たい視線だ。貝阿弥はベッドから少し離れたこちら側に立っていたが、津村と荒木に向き直って「おはようございます」と軽く会釈をしてきた。
「どんな状態なんですか?」
荒木が声を殺して訊いた。
「ベッドに戻ったのは昨日のようです。私も連絡をいただいてこの病室に入ったのは三十分ほど前なのですが、すでに覚醒していて、ちょうど心電図モニターや酸素マスクが外されていました」
「話もできるんですか?」
「ええ。話しかけてみたらどうですか?」
貝阿弥のこの働きかけに「えっ? ……」と戸惑っていた荒木だが「川上さんの了解も取っていますから」と促されて「それじゃあ」とベッドに近づいて川上母娘に一礼した。そして穏やかに言った。
「海斗君、分かるかな、荒木だ」
この声に反応し、海斗は荒木に視線を向けた。そしてかすれた声を出した。
「なんで、こんなことに?」
目はうつろだが、冷ややかに荒木を睨んでいるようにも見える。
「えっ?」荒木が驚いている。「『なんで』ってどういう意味だ? 思い出せないのか?」
荒木は前かがみになり、海斗の顔を覗き込んだ。これにすかさず貝阿弥が「そうなのです」と静かな口調で声を掛けた。
「意識は戻ったのですが記憶がありません。記憶どころか考える力もありません」
「でも、今しゃべったじゃありませんか」
「私の言葉をオウム返ししているだけです。川上さんにお断りをして、先ほど練習しましたから」
「なぜそんなことを?」
「その内に分かりますよ」
貝阿弥は意味ありげなことを言ってはぐらかした。
そこにドアをノックする音がしたかと思うと、誰の許可を得ることもなく、六人の男子生徒が入ってきた。そして荒木の顔を見るや「荒木がなぜここに……」そんな表情で互いに顔を見合わせている。それを察して荒木が言った。
「海斗君の意識が戻ったと言うので急いで駆け付けたんだ。だが――」
そこまで言いかけると、貝阿弥が遮るように横から入ってきて催促した。
「よく来てくれたね。さあみんな、せっかく来たのだから海斗君に顔を見せてあげなさい」
六人は戸惑いながらもベッドに近づいた。だが「何か話しかけてごらん」と貝阿弥に言われて皆尻込みをしている。
「君、どうかな?」
貝阿弥がその中の一人に呼びかけた。すると他の五人に目で確認を取ったその男子生徒が海斗に呼び掛けた。
「伊藤じゃ、海斗分かるか?」
これに反応して海斗が声の主に視線を向けた。そしてひくくかすれた声を出した。
「なんで、こんなことに?」
六人は驚いて顔を見合わせている。
「それは荒木のことを言っとるんか?」
伊藤元弥が恐る恐る訊いた。しかし海斗の口を衝いて出る言葉は同じだった。
「なんで、こんなことに?」
うつろな目は伊藤元弥から離れない。彼にとって、それは不気味に映ったことだろう、顔がこわばり、体が震え始めた。
「……ごめん……お前が気を失ったもんじゃけん怖くなって、咄嗟に荒木に罪をかぶせたんじゃ」
伊藤元弥のその言葉を聞いて「ええっ?」とどよめきが起こった。荒木と津村だけではない、川上母娘も含めた四人のものだ。
逆に男子生徒は四人のこの反応に驚き、目をぱちくりしている。ここで貝阿弥が言った。
「どうやらこれが真相のようですね。みなさんご理解いただけたでしょうか?」
「えっ……これは一体どうなっているのでしょう……」
川上理恵が狐につままれたような顔をしている。その隣では母親も口が半開きになったままだ。
「今、伊藤君が言った通りです。海斗君に暴行を加えたのはこの六人です。荒木先生はその罪をなすりつけられたのです」
「ええっ……どういうことですか?」
理恵はまだ当惑している。それを見て貝阿弥が右に顔を向けた。
「荒木さんには分かりますか?」
「いや、俺にもまったく……」
「そうでしょうね」そう言いながら貝阿弥は伊藤元弥に向き直った。
「実はね、海斗君は意識が戻ったものの記憶を無くしているんだ。だからさっきしゃべった言葉に全く意味はない。君たちの罪悪感が強かったため誘発されたんだ。つまり、ここに荒木先生がいる。そして海斗君が問い詰めるような言葉を発した。そこで勘違いしたんだ。騙すような真似をして悪かったね」
これを聞いても六人は混沌とした表情をしている。理解の範疇を超えているのだろう。
「その様子だと、まだ十分に状況が飲み込めていないようだね。それじゃ順を追って整理してみよう。あの事件があった日、君たちは校舎の裏で何をしていたのかな」
貝阿弥のこの問いかけに「いや……よう覚えとらん」と伊藤元弥が口を濁した。
「そうか、まだとぼけるつもりだね」
貝阿弥が問い詰めるも「いや、本当に……」と彼はうろたえている。その時、背後にいた五人の一人が言った。
「もうやめとこう元弥。俺らぁずっと後悔しとったんじゃ。本当のこと言えばええよ」
それを聞いて伊藤元弥はうなだれた。
「それじゃ話してくれるかな」
貝阿弥が穏やかな口調で促すと、伊藤はポツリポツリと話し始めた。
「あの時は……海斗を呼びつけてみんなで責めとったんじゃ。一週間前にタバコ吸って見つかったとき、海斗だけが校舎裏に来てなかったけんな……。あとで他の者に訊いたら、海斗は職員室におったって言うもんじゃけん、てっきり俺らぁを裏切って先公にチクったもんじゃとばかり思っとった……」
「それはお前たちの誤解だ」荒木が口を挟んだ。「海斗君はあの時、職員室で数学の近藤先生に授業態度を指導されていたんだ」
「そうみたいじゃな、海斗もそう言うとった……。じゃけど、そん時は誤魔化しとると思い込んどったもんじゃけん、みんなどんどんエスカレートして……突いたり叩いたりしとったら、海斗がよろけたはずみで転んでコンクリートの角に頭ぶつけたんじゃ。そんで倒れたまま意識がなくなった。まずいことになったとオロオロしとったら荒木が来たんじゃ」
「君たちに確かめてもらった映像は、そこから写されたものだね?」
貝阿弥が訊くと「ああそうじゃ」と伊藤がうなずいた。
「あの時はもう頭の中がパニックじゃった。それでも、とにかくこの状態で海斗を見せる訳にゃいかんと思った。そこで咄嗟にみんなで海斗をかかえて柱の陰に隠したんじゃ。そのあとはやけくそな気持ちで荒木に向かって行った。本気でやっつけるつもりはないんじゃ。時間を稼ぐことができりゃええと思うとった。そのうち海斗の意識がもどるかもしれんけんな。じゃけど荒木の力は強かった。どんどん海斗の方に近づいてくる。これ以上進まれたら海斗が発見される、そう思ったもんじゃけん、みんなに気を取られて荒木が向こうを向いとる隙に海斗の後ろから腹に手を回して抱きかかえ、俺ともども荒木に突っ込んでいったんじゃ」
「そうだったのか……全然気が付かなかった……」
荒木がボソッと言った。
「先生にゃ本当に悪いことしたと思うとる。まさか学校を辞めさせるなんて思わんかった。それに……そのあとラグビー部の連中が泣いとるのを見て、俺らぁ大変なことになったと後悔しとったんじゃ……じゃけど怖くて、どうしても本当のことは言えんかった」
伊藤元弥がぽろっと涙をこぼした。それを見て貝阿弥の視線がベッドの向こう側に移った。
「お分かりいただけましたか、これが真相です。川上さんから何か訊いてみたいことは無いですか?」
「それじゃ私たち、今まで誤解をしていたということですか? 全く罪のない先生を憎み続けていた……と……」
母親が弱々しいかすれた声を出すと、それを受けて貝阿弥が言った。
「今更このようなことを言うべきではないのかもしれませんが、荒木先生の心肺蘇生がなければ、恐らく海斗君は亡くなっていたでしょう。病院の先生から聞きました」
「ああ、なんてこと……逆に命の恩人じゃったなんて……」
母親は震える両手で顔を覆った。
理恵はその横で、少しうつむきがちに深刻な表情をして目の前のベッドを見つめている。一年も荒木を恨み続けてきたのだ、にわかには受け入れられないのだろう。
やがておもむろに口を開いた。
「この生徒たちの仕業だと知っていたら、もっと早く手術に踏み切っていたかもしれない……私たちにとってこの一年間は何だったの?」
まるで独り言のようだ。放心したような理恵の表情。目は一点を見据えている。そしてその目からも涙がこぼれ落ちた。
七
数日後、津村は謝金を持って再び平松法律事務所を訪れた。
「いらっしゃいませ」
ドアチャイムとともに元気な声で出迎えてくれたのは例の女性だ。相変わらず赤い髪留めが浮いている。TPOに合っていない。同じ社会人として警鐘を鳴らしてやりたかったが、かつて校長室で自分も同じような指摘をされたことを思い出し、そのあどけない笑顔を敵に回すことを恐れて止めた。それに、もしかするとそのキャラだからこそ、お堅い弁護士たちにとって癒しになっているのかもしれないと思えた。
「貝阿弥先生をお願いします」
津村がそう言うと「伺っております、どうぞお掛けになってお待ちください」とソファを勧められた。やはり接客は普通、メイド喫茶の店員を目指している訳ではなさようだ。計算づくに軽薄な女の子を演じているとすれば相当したたかだな、そう思っていると、衝立の向こうから甲高い声が聞こえてきた。
「またじゃ、あんたのこと先生と呼んどるで。いっちょまえに弁護士として扱われとるがな。良かったなぁ貝阿弥君」
そうだった、これは素なのだ。賢明な弁護士たちが、作為的な振る舞いに気付かぬ訳がない――津村は自分には関係ない人間模様を勝手に想像して、一人で納得していた。そしてあの人間味を感じさせない貝阿弥が、どんな顔をしてこの言葉を受けているのか見てみたいと思うのだった。
「お待たせしました」
何事もなかったように、貝阿弥がすました顔をして衝立の向こうから現れた。
「このたびは大変お世話になりました」津村が立ち上がりかけると「いえ、そのままで結構です」と手のひらをこちらに向けた。にこりともしない。
二人がソファに落ち着くと彼女がお茶を運んで来た。
「津村さんでしたね。当事務所をご利用いただきまして、誠にありがとうございました」
表と裏の切り替えが実に見事だ。津村はもう少しで吹き出しそうになった。
「高い弁護料をいただきながら大してお役に立つこともできず、申しわけないです」
しかも姉さん気取りだ、貝阿弥に代わって謙遜までしている。
「役に立たないだなんてとんでもありません。こんな優秀な方をご紹介いただいて、弁護士会の会長さんにも感謝しています」
「そんなに気を遣わないでください、この人にお世辞は必要ありませんから」
「お世辞じゃありません、心からそう思っています」
「いえね、会長さんから電話を受けたときは簡単そうに言っていたんですよ。『ネットに動画をアップするのを止めるだけだ』ってね。だからこの人にでもできるかと思って引き受けたんですよ。それが何回も広島に通うじゃないですか。どれだけ要領が悪いんだって思いましたよ」
「えーっ! 今回の事件はそんな単純なものではありませんよ」
「ええ、分かっています、後で報告書を見ましたからね。加害者だと思っていた男性の身の潔白が証明されたんでしょう」
「そうなんです。下手をすると一生その人が償っていたかもしれません」
「でも少年の意識が戻ったので真犯人が分かったんでしょ? 裁判もしないで決着がつくなんて、この人よほど運がいいんですよ。以前にも似たようなことがありました。うちには他に優秀な弁護士がたくさんいますから、これに懲りずお困りの際は何でもご相談くださいね」
「そんな馬鹿な! あなたは勘違いをしています。この人はとんでもない人ですよ」
「えっ、どういう意味ですか?」
津村の言葉に意表を突かれ、彼女の表情が変わった。
「まっ、まっ、そのくらいにしてください」貝阿弥が二人の会話を止めた。
「江見さん、まだこの方と大事なお話がありますからこれで遠慮してください」
「なに、それ。今この人、気になることを言ったで」
「私のことをかばってくださっただけですよ。あなたは先ほどまで『忙しくて事務の仕事が追い付かない』とぼやいていたではありませんか。どうぞ自分の仕事に戻ってください」
「じゃって――」
「クライアントとの会話を邪魔しない、と平松所長に言われているでしょう。またあとで話しますから」
「……分かりましたよ」
納得できていないことはその表情から分かる。「どうぞごゆっくり」彼女はそう言うと、まるで子どものように口をとがらせ、頬を膨らませて衝立の向こう側に姿を消した。
「随分怒っていたように見えましたが、いいんですか?」
津村が気遣った。
「大丈夫ですよ。感情をすぐに表に出してしまうのですが、その分さっぱりとしていて根に持つことはありません」
「へえ……」
この人は他人の性格を分析する能力に長けている。だから常に冷静な態度で相手と接していられるのだ――あれほど貝阿弥に対して不安を抱いていた津村だったが、いつの間にかすっかり崇【あが】めている。
「でもさっきの会話を聞いたでしょ? 彼女は完全に勘違いをしています。運なんかじゃありません、あなたでなければ今回の事件は解決していませんでした」
「大袈裟に言わないでください、海斗君の意識が戻ればはっきりしていたことですから」
「でも実際は、意識が戻っても記憶をなくしていたではありませんか。あの状態で真相を明らかにするなんて誰も思いつきませんよ。そもそも他に真相があるだなんて誰が考え付くでしょう。一体いつから、あの六人が海斗君に危害を加えた犯人だと思ったのですか?」
「彼らが私の家庭訪問に対して、素直に応じてくれたことに違和感を持ちました。仲間がやられたのです、普通、荒木さん側の弁護士だと聞けば反感を持つでしょう。その上、荒木さんの『不可抗力』を受け入れかねない感触があったのです。にもかかわらず肝心なところは誤魔化そうとする。明らかに変ですよね。彼らが何かを隠そうとしていることは明白です。そのあとあなたたちの話を聞いているうちに一つの仮説が浮かんできたのです。『彼らが隠したがっていたのは校舎裏にある何かではなく、海斗君自身だったのではないか』というものがね。そう考えると疑問に思っていたことの辻褄【つじつま】があってきます。いくら無我夢中だったからとは言え、打撲痕が付くほどの衝撃を与えておいて、荒木さんがその感触を覚えていないなんておかしいでしょう」
「でも荒木さんは『海斗君が物陰から飛びかかってきた』と言っていましたよね。海斗君が倒れていたと仮定しているのなら、有り得ないと思いませんでしたか?」
「あの時荒木さんは、私の話に瞠目【どうもく】していました。こうなると記憶は怪しくなります。筋道に合うよう上書きされ、思い違いをしているのではないかと思いました。ですから、本当に背後からぶつけられていると知った時は驚きました。彼らが口を割らなければ判らなかった真相です」
「そうだったんですか。あれには私もびっくりしました。でもそれ以上に、海斗君のオウム返しを相手に、伊藤君が受け応えているのを見て鳥肌が立ちました」
「人の深層心理を突いたまでのことです」
「よくあんなことを思いつきましたね。それにあの母娘がそれを許してくれたことも信じられません」
「心電図のモニターを外しているとき『海斗君は一年間も眠っていたので、体の機能を回復させるためには時間をかけてリハビリをしていく必要があります。指を動かしたり、口を動かしたりするところから始めましょう』と医師が言っていたので思いついたのです。オウム返しは、喋るためのリハビリを行っているように思えるでしょう?」
「でもあのフレーズを聞いて、川上さんは不思議なことを言っているとは思わなかったのでしょうか?」
「あらかじめ川上さん母娘には『海斗君にはタバコを吸っていた嫌疑が掛かったままです。それを晴らすことができるかもしれません』と説明しておきました。従って、海斗君が『なぜ、このようなことに?』と問えば、それに関係があるに違いない、と解釈してくれると思ったのです。例えばそのあとに『僕はタバコなんか吸っていないのに』と言う文言を想像して、荒木先生を責めているように受け止められないこともないでしょう? 半信半疑な顔をしながらも任せてくれました」
「そのフレーズを聞いて荒木さんは『記憶がない』と解釈をした……」
「そうですね。あの後に『思い出せない』と言う文言を想像したのでしょう。あの母娘が責任を追及するような厳しい視線を向けていましたので、海斗君の体の異常に意識が行ったのだと思います」
「それじゃあの六人は?」
「荒木さんがすでに来ていましたので、海斗君に現状を説明したものだと思い込み『なぜ荒木先生がやったことになっているのだ?』と解釈したのでしょう」
「まるで魔法のようなフレーズですね」
「私の仮説が正しいとは限りませんので、受け止める側にとってどうにでも解釈できる曖昧な言葉を考えただけです。心理学で言うところのバーナム効果、占い師がよく使用する手法ですよ。つまり誰にでも当てはまりそうな内容を伝えると、その人にとって一番気になることが頭に浮かぶのです」
「そうなると、海斗君がしゃべることができたことは幸運でしたね」
「海斗君がしゃべれなければ、川上母娘のどちらかにその役目を果たしていただいたまでです。肝心なことは『真相は一つ。三人の秘密は秘密にならない』ということですよ」
「まあ、そんな方法まで考えていたんですか……荒木さんも言っていましたが、あの映像を見てここまでたどり着くなんて、すごいとしか言いようがありません」
「裁判では本人の自白よりも物証が重視されますから、証拠が残っていれば徹底的に調べますよ。その道の関係者なら誰でもこうします」
「そうでしょうか。大勢の目撃者がいた上に、荒木さん自身も罪を認めていた事件なんですよ。人物さえ認識できないあんな不鮮明な映像を掘り返す人がいるなんて思えません。もしあのまま貝阿弥さんに出会うことなく裁判が行われていたらと思うと、ぞっとします。お恥ずかしい話、あなたを最初見たとき、こんなにもすごい人だとは思いませんでした」
「もうその辺で辞めておきましょう。私を買いかぶりすぎです」
「また謙遜ですか。もう少しご自身の功績をアピールされればよいのに――」そこまで言いかかると津村は話題を切り替えた。冷めた貝阿弥の表情に気付いたのだ。
「――ところで、海斗君はあのままリハビリを続ければ、元の状態に戻るのでしょうか?」
「医師によると、記憶障害は残る可能性があるとのことでした」
「そうですか、そうなるといよいよ真実は分からず仕舞いになっていたかもしれませんね……こうしてみると川上さんが不憫【ふびん】に思えてきます。最初はなんてきつい人かと思っていたのに……気の毒です」
「川上さん一家の行く末も心配ですが、荒木さんの処遇は気に掛からないのですか? 容疑が晴れましたので、元の学校に戻られるのでは?」
「ええっ! ……考えてもみませんでした……」
「あと二ヶ月ほどで年度が替わりますから、そこが転換期となるのでは?」
「そ、そうですね。こうしてはいられません、確認しなくては」
津村はすぐさま謝金を渡すと、謝辞もそこそこにして学校へ急いだ。
第四章 捲土重来【けんどちょうらい】
一
津村と荒木が今回の一件を報告しようと校長室に入ると、そこにはいつものように事務長もいた。校長はいつも以上に愛想が良い。このようなときは腹に何かを持っている――津村にもそれが分かってきた。
荒木は「ご心配をおかけしました」と言いつつも仏頂面、彼も十分心得ているようだ。
校長は弁護士の話題から切り出してきた。どうやら自分が紹介した名刺が役に立ったことを、恩に着せようとしているように思える。
津村も承知の上で、少しそれに乗っかった。貝阿弥の敏腕さは、それほどに自慢したかったのだ。だが、校長がそれをさらに掘り下げようとしたとき「本当にすごい弁護士さんに当たって運がよかったです」と切り上げた。ここから深入りすると、気が付かない間に校長のペースにはまり、意に反することまで押しつけられかねないからだ。
そして「それではこれで」と早々に退散しかけようとすると「せっかくお二人がお揃いになったのですから、時期的には少し早いのですが次年度の展望などお話しできれば」と投げかけられた。
このタイミングで次年度の話となれば、荒木の去就が絡んでいるに違いない。津村にとっては現在一番の関心事項ではないか。彼女は立ち上がりかけた腰を再びソファに預けた。
これを見た校長の目じりは下がり、ゆったりとした口調で話し始めた。
「まず津村先生ですが、一年間の学級担任業なかなかお見事でした。この一年間にあなた自身、授業の指導力だけでなく人間的にも随分と成長をされた気がします」
初めて校長に認められた気がする。嬉しくない訳がない。「有難うございます」と礼を述べながらも、津村にとっては荒木を差し置くことはできない。
「お恥ずかしい話ですが、以前校長先生に指摘された通りでした。私は教師として甘い部分が多かったです。それに気付かせてくれたのは荒木さんです。この方は指導力だけでなく、思考力、判断力、実践力など教師としての高い資質を備えられています。随分勉強になりました」
津村のこの言葉を受けると校長は「へえ、そうなのですか」と相槌を打ちながらも、意味ありげに事務長とアイコンタクトを交わし、再び津村に向かって言った。
「先生には期待していますので、このまま二年団に持ち上がっていただこうと考えています。それに卓球部の躍進ぶりは目を見張るものがありました。次年度もぜひ頑張ってくださいよ」
気味が悪いほどの賞賛ぶりである。しかし津村の表情は硬い、荒木の処遇が気になるのだ。
「それも、ここにいらっしゃる荒木コーチのお陰です」
「そうそう、それは重々承知しています。荒木さんがいればこそ安心して担任業に専念でき、部活動との両立が果たせるというものですよね……あなたから見て、荒木コーチと部員との関係はいかがですか?」
「それはもう、私が嫉妬するくらい厚い信頼関係で結ばれています」
「そうですか。しかし荒木さんの専門はラグビーでしょ、卓球の指導に関しては物足りないのでは?」
「そんなことはありません。研究熱心で、卓球の知識だけでなく部員一人一人の個性を良く把握されていますので、これ以上の指導ができる人はいないと思っています」
「でも、部員の練習相手は務まらないじゃありませんか」
「それは必要ありません、部員同士で打ち合えますからね。それにボールをノックする技術が卓越していますので、多球練習で十分補えます」
「なるほど……そうなりますと、卓球部にはいよいよ荒木さんが欠かせない存在ですね」
「ええ、そうなんです」
津村は飛びつくように相槌を打った。
「『部員のために記念館を練習場にする』と宣言もされているので、優勝するまで途中辞めもできないでしょうし……仕方ありません私も校長です、ご活躍をされた方にはそれなりの待遇を考えさせていただきましょう。荒木さんさえよろしければ、本校に教師として正式採用させていただきます」
「ええっ、本当ですか?」
思わぬ校長の提案に、津村はつい喜びの声を発して荒木に目をやった。
懲りない人だな――種田マジックに陥っていく津村の姿を、向かいの席で事務長は憐れに感じていた。
実はここに二人が入る前、校長から事務長に相談があったのだ。荒木の身の潔白を知った広島の川中南高校が、彼を返してほしいと申し出てくる前に、引き留めたいという内容だ。
校長とすれば、川中南高校で生徒指導主事として学校の風紀を管理し、教師からの人望が厚かった荒木は、まさに緑豊学園にとって切要としている教員だと言う。その上に、わずか一年であの弱体卓球部を中国大会に導いた指導力は、卓越していて類を見ないと絶賛している。ここに津村を同席させたのは、彼女が引き留め役になってくれるかもしれない、という期待からだった。
しかし荒木の一言がこの流れを断ち切る。
「それには及びません」
えっ? と皆が荒木に目をやると、彼はそのあときっぱりと言い切った。
「この学校で教師として契約をするわけにはいきません」
「しかし、あなたは部員との約束を果たしていないじゃありませんか」
校長が身を乗り出した。このとき津村も校長の後押しをしようと荒木に正対しかけた。だがその表情を見て止めた。彼の胸中を推し量ると、それは我儘以外の何ものでもないことを察したのだ――荒木は前任校に、自分のために泣いてくれた生徒を残している。そして何よりも彼はラガーマンだ、ラグビーに戻りたいに決まっている――ぐっと我慢して口をつぐむしかなかった。しかし荒木の口から出た内容は意外なものだった。
「このままこの学校を去ろうとは思っていません。ベスト4に入りながらも倉庫での練習が続いているのは俺の責任ですからね。何としても県優勝の目標を達成し、部員たちには新しい練習場を与えてやりたい。そして『努力すれば夢は叶うものだ』と教えてやりたいのです。それこそ、今辞めるとこれまで部員と頑張ってきたことが無駄になってしまいます。すでに前任校から声を掛けられていますが、時期を問わず、俺が目標を達成したらいつでも戻れるようお願いしてあります。校長さえ許してくださるなら、このままコーチで置いてください」
「それだと荒木さんを待っている前の学校の生徒さんが、部を引退してしまっているんじゃないですか? 間に合わないでしょう」
たまらず津村が口を挟んだ。しかし荒木はそれも承知の上での決断のようだ。ためらうことなく返した。
「このまま去ると、今度はここの生徒を置き去りにすることになります」
「本当にそれでいいんですか――」
津村が念を押し掛けると校長がそれを遮った。
「おおっ、まさしく生徒思いの荒木さんらしい決断です。さすがです。それでは常勤はいかがですか? 給与体系が全く違ってきます」
「いえ。常勤となれば学校での公務などが入ってくるため、練習に出られない日も出てきます。是非、今のまま非常勤扱いでお願いします」
これを聞いて津村は驚いた――何と、校長は非常勤の待遇で荒木を雇用していたのか。人の弱みにつけ込むなんてひどい話もあるものだ。
「分かりました、それではあなたのご希望通り次年度もコーチとして契約いたしましょう。津村先生、良かったですね」
「えっ、ええ……」
複雑な思いで校長の言葉を飲み込んだ。荒木には申し訳ないと思いつつも、安堵感を抱いたことは否定できない。
二人が退室したあと事務長が言った。
「してやったり、と言う顔をされていますね」
「分かりますか? こんな最良の結果になるとは思いませんでした。彼に義侠心があって良かったです。やはり練習場の件で部員たちに負い目があるのですね。彼は教師の中の教師です。そして現状が見えていない愚か者です。県でベスト4と優勝とでは雲泥の差があります。断言してもいい、岡山県での優勝は不可能です。自分で言いだしたのですから撤回はしないでしょう。それに目標が達成できない限り広島に戻るとは言えないでしょうから、約束の期限が切れた暁には常勤にでもしてやりましょう。その後は一生うちで飼い殺しです。はっはっはっ……」
校長は高笑いをしながら自分の席に戻り、ふんぞり返った。
それからも倉庫内で熱を帯びた練習が続いた。そして三月上旬の金曜日、業務がひと段落して久々に平日の練習場に足を向けた津村は、遠目に窓の外から信じがたいものを見た。何と荒木が渾身の力を込め、誰かに向かってボールを叩きつけているのだ。あの太い鍛えられた腕で思いっきり打たれると、例えプラスチックでできたピン球といえども痛いだろう。乱心か? 大慌てで窓に駆け寄った。するとどうだろう、藤坂佐和に向かってノックをしているのだ。それも決まったコースに打ち分けているのではなく、ランダムに打ちまくっている。いくら何でも目茶苦茶だ。怖いだろう。そう思わずにはいられない。しかし彼女は至近距離からそれに反応し、ほとんどブロックしている。しかも手だけでなく足も動いている。
何なの、この反射神経は――思わず見とれてしまった。
「次は番原だ」
同じように容赦なく過激なスマッシュが撃ち込まれる。ところが彼女もこれを平気でブロックしているではないか。
「フォアのボールはブロックだけじゃなく、少しでも余裕があるならカウンターで弾き返そうとしろ」
余裕があるならって、あの距離から思いっきり打たれてどこにそんなことができる人がいるものか――津村は荒木の無茶ぶりを半ば呆れていた。ところがどうだ、何本かに一本は本当に打ち返しているではないか。そう言えば、自分が練習場にいるときは部員の相手に集中しているので多球練習を見ていなかった。信じられない光景に、ただただ唖然とした。
しかし一月後、津村はさらに驚くべき事実を目の当たりにすることになる。
二
緑豊学園卓球部は八人の新入部員を迎えた。藤坂佐和と秋元舞の後輩が三人。米井加奈美の後輩が二人。番原知美の後輩が二人。全く先輩後輩の関係に無い者が一人だ。
これだけ同じ中学校の出身者が固まることも珍しい。自己紹介を受けて、津村が入部の理由を訊くと、新入部員の一人が答えた。
「もちろん、先輩がいるからで~す。二人の先輩は私たちの憧れでしたから」
そう言うと、その部員は隣の部員に目配せをして薄ら笑いをした。それを受けた二人も同じように冷ややかな笑みを浮かべた。
なに、この異様な雰囲気は――気になった津村は藤坂佐和に目をやった。何と、表情が暗く沈んだものになっているではないか。これで悟った――この三人は先輩にあこがれているのではなく見下しているのだ。恐らく中学時代、隅の方に追いやられて二人でゆるゆるピンポンをやっていた姿を見て、陰で馬鹿にしていたのだろう。
「あなたは?」
別の一年生に訊いてみた。
「私たちも同じですかね。番原先輩が中国大会に出たと聞いて、私にもできるんじゃないかなと思って入りました。でも、あまりにもそのう……スリムになっているのでびっくりしました。体系なんか気にする人じゃないと思っていたのに、ダイエットでも?」
「あんた、言い過ぎじゃろう」
隣の部員に肘で突かれて苦笑いをしている。
当の番原知美は少しうつむいて歯を食いしばっている――これくらいのことなら笑い飛ばしそうなあの番原が……どんな中学時代だったのだ。あれほど新入部員が入ることを楽しみにしていた二年生が、まさかこのような状態になるとは思わなかった。全員がしょげてうなだれているではないか。
「それじゃ今日の予定は顔合わせだけだったのでこれで終わります。一年生も明日から卓球ができる準備と、それにランニングもあるので運動靴を用意するように」
津村がそう言うと「は~い」とまばらな声が返ってきた。
この態度を見て「何だ、その返事は!」と怒鳴り声がした。荒木だ。
「いつまで中学生の気分でいるんだ。それが目上の人に対する態度か。先生や先輩に返事をするときは『はいっ!』と歯切れよく大きな声を出せ!」
驚いた一年生は顔を見合わせておろおろしている。
「『はいっ!』だ、言ってみろ」
「はいっ……」
戸惑いながらばらついた声が返ってきた。
「なんだそれは、全然なっていない! いいか、こうするんだ。二年生返事は!」
「はいっ!」
四人が揃って声を張り上げた。一年生はその声に押されてビクンと体が反応した。
「どうだ、お前たちの半分の人数でこれだけの迫力が出せるんだ。中学生の頃の先輩だと思うなよ。分かったか!」
一年生は面食らっている。
「容赦はしない。できるまでやる」
荒木はそう言うと、それからしばらくの間、返事の練習をやらせ続けた。
やはり親馬鹿だ――津村は心の中で笑った。
翌日放課後、藤坂佐和と米井加奈美が荒木に何か言い寄っている。気になって津村が訊いてみると、二人とも校舎周りでなく、皆と一緒にグランドを走りたいと言っているようだ。
「どうしてまた急に?」
津村が二人の顔に目をやると、米井加奈美が言いにくそうに口を開いた
「いえ、そのう……中学校の時とは違うってところを見せたいので……」
――ははあ、昨日の荒木の言葉に触発されたな。
「気持ちは分かるけど、そんな無理をする必要はないのよ。あなたたちがどんなに頑張ってきたか、それはこれからおいおい彼女たちも理解するはずです。それよりも体調管理が一番。普段通り自分のペースで行きましょう」
これを受けた米井加奈美の顔には「でも……」と口惜しさが滲んでいる。
「もし万が一のことがあって、また救急車を呼ぼうってことになると大変でしょう?」
この言葉で米井加奈美がうなだれた。それを見て藤坂佐和が言った。
「私なら大丈夫です。自分の限界は分かっています。絶対倒れるようなことはしませんから」
「あのね、一年生の手前いいところを見せたいのは分かるけど、無理をして途中で走れなくなったら元も子もないじゃないの」
尚も津村が説得を試みていると、二人の表情を見かねたのだろう荒木が言った。
「分かった。お前たちにもプライドってもんがあるからな。二人だけ特別扱いされていたんじゃそりゃ辛いだろう。みんなと一緒に走れ。ただし他人の目を気にせず、飽くまでも自分のペースで走るんだぞ」
「はいっ!」
余程嬉しかったのだろう、二人は顔を見合わせると満面の笑みをたたえて返事をした。
「いいんですか?」
去っていく二人の背中を見ながら津村が言った。
「仕方ないですよ、先輩と言うより、人としての尊厳を守りたいんでしょう。考えてもみてください、入った頃は卑屈で自信なさそうにしていた彼女たちですよ。それが自分を出そうとしている、成長以外の何ものでもありません。それを我々が止めるなんて馬鹿げています。まあ一年生も初めて走ることだし、野球部の監督には俺が頭を下げに行きますよ」
こうして全員が揃ってのランニングが始まった。先頭は番原知美と秋元舞、次を一年生。その後ろを三年生。最後尾には米井加奈美と藤坂佐和がついていくことになった。
「先頭の二人は初めて走る一年生のことを配慮し、少しペースを落としてあげてください」
「分かりました」
番原知美がそう答えると、一年生の中からクスリと笑う声が聞こえた。番原知美もそれに気づいたようだ、少し顔をしかめている。そしていよいよランニングだ、津村のスタート合図があるや否や「緑高ファイト」と言いながら結構なスピードで走り始めた。後続の二・三年生が「はい」と合の手を入れるも、一年生はそれどころではない。半周も行かないうちに八人がことごとく列の後ろにふるい落とされた。
「やはり番原さんと秋元さんはやってくれましたね。先頭をあの二人にして正解でした」
津村が荒木に笑いかけると、荒木は「それどころではありません」と真顔だ。えっ? と荒木の視線を追って津村は驚いた。藤坂佐和と米井加奈美が先頭集団にくっ付いて走っているのだ。あのスピードで……まさか――津村は唖然とした。
先頭の二人には後ろの様子が分からない。一年生を振り落とそうとまだ頑張っている。間もなく一周を終わろうとしているのに、スピードは落ちない。
「番原、後ろを見ろ!」
たまりかねて荒木が声を張り上げた。何が? と言う顔で振り向いた番原知美は、一変驚きの表情になった。いるはずのない二人がそこにいる。しかも藤坂佐和は苦痛に顔を歪めて付いてきている。一年生は? と確認すると、はるか後方に置いてきている。ここでようやく状況が飲み込めペースダウンした。それでも一年生のスピードより速いため、さらに差が開いている。その集団に藤坂佐和と米井加奈美はまだ付いてきている。
「三周目、ここからは自分のペースで走れ」
荒木のこの声でようやく縛りから解放された。藤坂佐和は自分の責任が果たせた、と満足そうな表情でややスピードを落とした。しかし米井加奈美はスピードを上げた。一番速い小野春香にくっ付いている。
四周目に入った。完全に二人のデッドヒートになっている。小野春香にとっては初めての経験だ。負けてなるものか、と必死の表情をしている。五周目、いよいよ最後の一周に突入した。周遅れの一年生がまるで止まって見える。ラスト一〇〇メートル、ついに米井加奈美が小野春香を抜いた。そしてそのままゴールラインに飛び込むと、地面に四つん這いになって体全体でゼイゼイと荒い息をしている。小野春香もすぐあとゴールし、膝に手を当て呼吸で体が揺れている。そしてそのまま間を置かず、米井加奈美に歩み寄った。
「すごいな加奈美。完敗じゃ。いつの間に?」
「毎日走っていたので足の付け根に筋肉がついたみたいです。炎症が起こらなくなりました。だからいくら走っても足は痛くなりません」
「じゃったら、校舎周りを走る必要もなかったのに」
立ち上がろうとする米井加奈美に、小野春香が手を差し伸べながら言うと
「いえ、佐和にはやはり誰か付いていないと……でも、もうその心配もないようですね」
米井加奈美の眼がグランドを走っている藤坂佐和を捕らえた。驚いたことに藤坂佐和は周遅れの一年生を抜こうとしている。
次々にゴールを果たした二・三年生もそれに気づき、皆が藤坂佐和に声援を送り始めた。
「すごいぞ、佐和」「がんばれ、佐和」
また一人、藤坂佐和がもがきながら一年生を抜いた。「やったー」と言う歓声があがる。
一年前のことを思い出すと全く考えられない光景だ。
「大丈夫でしょうか?」
部員の声援とは裏腹に、悲痛な表情で走る藤坂佐和を案じて津村が荒木に声を掛けた。
「……どうなんでしょう……」
荒木も気が気ではないといった表情をしている。
最後のコーナーに差し掛かった。藤坂佐和は青ざめた表情で喘【あえ】いでいるように見える。今にも倒れるのではないか、津村と荒木の目にはそう映っている。
「あと一〇〇メートル!」「ラストじゃ佐和!」
部員たちのボルテージが一層大きく上がった時「あっ、ばかっ」つい荒木が声を張った。
何と皆の声援に応えて彼女がラストスパートを始めたのだ。顔を歪め、体を大きく左右に揺らしている。
お願い、倒れないで――津村は思わず胸の前で手を組んで祈った。
荒木の声、津村のこの姿、これに気付いた部員たちはあおるのを止めた。
「無理するな佐和!」「ペースを落とせ!」
しかし藤坂佐和のスピードは落ちない。必死の形相だ。そこには彼女なりの意地がある。この一年間、自分の体と戦いながら、地道に、そして黙々と走り続けてきた意地だ。
ハラハラと見守っていた部員たちだったが、彼女の懸命な姿に打たれ、再び声援に変わった。しかしその声掛けに笑顔はない。
「もうちょっとじゃ、佐和」「ここじゃ、ここまで来い!」
必死に手招きをしている。そして足がもつれそうになり一瞬ハッとしたが、彼女はそのままついにゴールを果たした。
きつかったに違いない。ゼイゼイと大きな息をしながら眉間にはしわが寄っている。しかし、完走できたことがよほど誇らしかったのだろう、皆が「やった、佐和!」と取り囲むと、口元をほころばせながら小さく右手でガッツポーズした。
「ホントにもう……馬鹿なんだから」
ホッとした瞬間、津村の涙腺が緩んだ。荒木を見ると、向こう向きになり上空を見上げている――鬼の目にも涙……こんな時くらい見栄を張らなくてもいいのに……。
三
六月一日、それは三年生にとって県内で最後の学校対抗となる高校総体の日である。
第四シードの緑豊学園は順調に勝ち上がっていった。だがこれまでと違い、小野春香と弘崎瑞穂の二枚看板に頼ることがなくなっていた。新二年生が力をつけてきたのだ。
藤坂佐和がポイントを取る。番原知美がポイントを取る。また米井加奈美が、秋元舞が……。そのたびに一年生の間で「キャーッ」と歓声が湧く。あれから二か月が経つが、その間にすっかり一年生は二年生に頭が上がらなくなっていた。いや、むしろ二年生を尊敬し、あこがれるようにさえなっていた。校内で試合をしても全く歯が立たないからである。
こうして緑豊学園は、無難にベスト4入りを果たした。津村としては、荒木の手腕を称えずにはいられない。
「まさかあの人たちが勝てるようになるなんて思ってもいませんでした。これも荒木さんが、個人の特性を生かして戦型を変えたお陰です」
しかし荒木の表情はさえない。
「とにかく明日です。三年生が引退してしまうと、もう優勝の可能性はなくなりますから」
そうだった。緑豊学園には優勝しかないのだ――津村は、改めて自分たちが置かれている厳しい現状を思い知るのだった。
そして翌日、ベスト4によるリーグ戦が始まった。
朱日戦でのオーダーは、荒木の読みがぴたりと当たった。小野を相手のエースから外すことができたのだ。ここで彼女が一ポイント取れば、後半で奇跡が待っている……はずだった。
だが、善戦むなしく小野が破れてしまった。一セットを取るも、そのあと相手選手の多彩なサーブに翻弄され、ペースを乱されたのが敗因だった。素人監督の弱点が露呈した、と言わざるを得ない。荒木は多練習のノックでしか選手の相手を務めることができない。サーブはからっきし素人なのだ。
結局団体戦は0―3で敗退してしまい、残りの二試合を残して緑豊学園が優勝する可能性は無くなった。
負けた瞬間、小野春香と弘崎瑞穂はその場にしゃがみ込んで泣いた。ベンチの選手が駆け寄り二人を慰めている。岡山県ではとても稀【まれ】な光景だった。私立二校には負けて当然とあきらめている風潮があるからだ。
とにかくこれで三年生は引退だ。小野春香と弘崎瑞穂の二枚看板を失う緑豊高校に対して、私立二校はすでに一・二年生が個人戦の上位に食い込んでいる。このままいけば、新人戦も今大会の二の舞になることは明らかだった。そして八月末にあるその新人戦が、校長とかわした約束を果たす最後のチャンスとなる。荒木はこれまでに見せたことがないほど意気消沈していた。
四
あれから一週間経つが「部員を頼みます」と津村に言ったきり、荒木からは何の音沙汰もない。携帯は電源を切っているのか通じない。部員たちは不安のあまり「このまま辞めるのではないか」と気をもんでいた。
こんなことなら住所を聞いておくべきだった。直接会って話すことができれば彼の心を癒すこともできたのに――津村がそのような悔悟の念に苛【さいな】まれているとき、何の前触れもなく荒木がひょっこり練習場に戻ってきた。しかもスーツ姿で。
部員たちが喜びのあまり入り口に駆け寄ると、荒木に「お前たちは練習を続けていろ!」とたしなめられた。だがそんな言葉で収まるはずがない。
「じゃって、コーチこそうちらに黙って長いことどこに行っとったんですか?」
と食い下がる。
「ああそうだな、それは悪かった。後で事情を話すから、今は津村先生と話をさせてくれ」
部員たちは荒木を信頼している。納得はしていない様子だが、活動場所に戻った。
「折り入ってご相談したいことがあります。ちょっとこちらに」
荒木は体の向きを変えて、津村を練習場の外に誘った。
神妙な雰囲気、スーツ姿。津村には荒木の辞任が頭に浮かんだ。どう話しかけようか迷っていると、荒木の方から切り出してきた。
「俺は思いあがっていました。情熱があれば何でも叶う……しかしそれは錯覚でした。俺の指導では、例えあと一〇年やったって岡山県で天下を取ることはできないでしょう」
やはり挫折している――津村は焦った。
「そんなことはありません。あなたの指導力は抜群です。わずか一年で中国大会に出場できたではないですか」
「下手な慰めはよしてください。自分なりに分かるんです、これが限界だと」
「限界なんかじゃありません、あの二年生のダメ軍団をここまで育てたのです。そんなことができる人は全国を探してもいないと思います。優秀な生徒さえ集まれば、きっと全国制覇だってできるはずです」
「それですが、彼女たちはダメ軍団なんかじゃない。それこそ俺の錯覚でした。四人は、あえて例えるならば高野豆腐のようなものです。元々卓球の素質はあったのですが心臓病、足の負傷、肥満、発達障害など、それぞれが体に事情を抱えていたため、その才能を封じ込められ、凍結させていたのです。それがランニングやダッシュ、筋力トレーニングを重ね、基礎体力の増強と言う名の水を吸ったお陰で、膨張して本来の姿に戻りつつあるのです」
「それが分かっているなら最後まで面倒を見てやってください。途中で投げ出すなんてあなたらしくないじゃありませんか」
津村は説得に必死だ。
「投げ出す? ああ、ずっと留守にしていましたからね、本当にすみませんでした。実は、自分の限界を補うための方策を練っていたんですよ。これを見てください」
そう言うと、荒木は日頃から記録用に使っている卓球ノートを開いた。
「これは……」
驚いた。ノートの両面にびっしり、夏休みに入ってからのスケジュールが書き込まれているのだ。それも、よく見ると練習場所が県外になっている。
「次のページにも続きがあります」
一枚めくると同じように両面文字で埋め尽くされている。
「どういうことでしょう?」
津村には訳が分からない。
「俺が言うのもおこがましいんですが、奴らはこの一年で基礎・基本を身につけるところまではできています。あとは実戦力の向上です。しかし俺にそれを付けてやる力はありません。短期間で飛躍的な成長を望むなら、もう外部の力に頼るしかないでしょう。とは言え、県内は大学生や社会人でもあの私立二校にはかないません。そこで考えたのがこのノートの計画です。県外の大学、実業団、中にはプロのTリーグも含まれています。夏季の強化練習や合宿の日程を教えていただき、参加の許可を得てきました」
「ええっ!」
改めて見ると確かにそこに高校名は無い。
「よくそんな……じゃあこの一週間は、このノートに記載されたところを回っていたんですか?」
「そうです。電話で頼める内容ではないですからね。もちろん断られたところもありますが、岡山県で優勝を狙っていると言えば興味を持ってくれました。皮肉なことに、あの私立二校が全国でも名を馳せていますからね」
「移動はどうするんですか? 九州や四国、それに関西を超えて関東にも及んでいるようですが」
「本当は日本全国を廻りたかったのですが、俺の車なのでそれは止めました。あっと、言い忘れましたが二年生の四人に限定しています。宿泊場所は合宿所や寮の宿舎などを利用させていただくので、費用も主に食費程度で済みます。そこで先生には大変心苦しいお願いをするんですが、その間、残った部員の相手をしていただけないでしょうか」
「えっ……ええ、それは構いませんよ。逆に夏季休業日とは言え、これだけの期間、学校を空ける訳にはいきませんからね」
「そうですか、そう言ってもらえると嬉しいです。有難うございます。置き去りにするみたいで気が引けていたんです」
まるで子どものように無邪気な笑顔をのぞかせた。
「でも、当の本人たちも知らないんでしょう? 家族の了解も取らないといけませんよ」
「そうなんですよね。この間ずっと家を空ける訳ですから、部員はともかくとしてお家の人がそれを許してくれるかどうか……女の子ですし、理解を得るのに少し時間がかかるかもしれませんね。それで一刻も早いほうが良いと思って、東京からの帰りなんですが直接ここに寄りました。先生の了承さえ得られれば、明日にでも保護者向けの承諾書を作って生徒に渡してみます」
ああ、それでこの姿か――納得した。
しかし次の日、不安をよそに、荒木が配った案内文と承諾書を見て二年生は大喜びした。そしてその翌日、申し込み締め切りの一週間を待たずして、四家庭の承諾書が揃った。
夏休みの初日、まだ明けきらぬ早朝に、津村に見送られ二年生の一行は荒木のワンボックスカーで九州に向かった。
九州は大学巡りだ。福岡から始まり、大分、宮崎と南下し、一旦福岡に戻ると、今度は佐賀、長崎、そして最後にまた福岡に帰る北九州中心の行程になっている。このあたりには九州学連で活躍している大学が多い。
荒木の狙い通り、大学での練習は他の高校に練習試合を申し込むよりメリットがあった。レベルが高いだけではなく、緑豊学園とはライバル関係に無いので惜しみなく選手を指導してくれるのだ。「サーブが単調すぎる」「レシーブのコースが対戦相手に分かりやすい」など、多球練習でしか相手を務めることができなかった荒木にとって、目から鱗【うろこ】が落ちる指摘が多かった。これを改善したいと頼めば、入れ代わり立ち代わり時間をかけて付き合ってくれる。
反面、覚悟していたとは言え、四人にとっては相当過酷な日程だった。早朝ランニングやトレーニングはもちろん、夜間練習があればそれにも参加し、その上に合宿所の掃除や参加者全員の洗濯を初め、学生に言いつけられた雑用は全てやらなければならなかった。
また環境の違い、それに緊張感や興奮が手伝って、最初の頃はなかなか寝付くことができず疲労が取れない。練習あい間のほんのひと時の休憩時間にうとうとすることも多かった。それに長期休業日ともなると学校から出された宿題も多い。余暇をくつろぐ余裕などなく、荒木の監視下で容赦なく机に向かわされた。
しかしこの四人の忍耐力は半端ではない。小・中を通し、人間関係で虐【しいた】げられていた精神的苦痛を思えば、肉体的なそれは取るに足らないものだ。どんなに疲労困憊していても、学生に声を掛かられると二つ返事でそれに応じた。むしろ人から当てにされることに自分の存在価値を感じ、喜んでさえいる。そのお陰で学生からの受けが良く、中には地元の強豪高校を呼んでくれたところもあり、思わぬ練習試合もできた。
ゆく先々で別れ際に「進学するならぜひわが校へ」とあたたかな勧誘を受けながら、七月の九州ロードを無事終えた。
本州に戻ると広島に寄った。ここには実業団の一部で活躍している社会人チームが二つある。男子学生や中国人選手を招いて個人のスキルアップを図っていたが、いずれも実戦形式で、ひたすらコートに入って試合を行った。
一試合終わるごとにアドバイスがもらえるのだが、ここでは試合の駆け引きに関する内容のものが多い。「プレー自体がおとなしすぎる。時には奇抜な戦術を入れたほうがいい」「リードしているとき、気持ちが守りになると逆転される」云々。やはり選手経験のない荒木に把握できていない領域だった。
そのあとしまなみ海道を渡り、四国は愛媛県と香川県の実業団、大鳴門橋と明石海峡大橋で本州に戻り、近畿では関西リーグで活躍している大学、そこから三重、静岡、岐阜に移動していずれも実業団、そして関東の一部リーグで活躍している大学を回り、最後に女子Tリーグの強化練習会に参加させてもらった。
想像をはるかに超える過酷なケジュールだった。息つく暇もない。「挑戦!」と銘打った四人それぞれの記録用ノートは、全頁びっしりと埋め尽くされた。
五
全日程を終了し、あとは帰路の途に就くだけだった。高速道路を利用すれば九時間程度で岡山に帰ることができる。一晩自宅で休養し、翌日、一日かけて緑豊学園で調整したあと大会を迎える予定だった。ところがここで思わぬ事態が起こる。雨を伴う大型台風が四国から上陸しつつあるのだ。すでに近畿から東海地方にかけて暴風雨警報が発令されている。このまま西に向かうと台風とぶつかる可能性がある。余儀なく出発を一日遅らせるしかなかった。これで予定していた調整日が消えたことになる。
翌朝六時、気象情報を確認すると予報通り台風は日本海に抜けていた。ここで出発すれば夕刻には帰宅できる。ところが再び予期せぬ事態が起こっていた。台風がもたらした大雨により、高速道路のいたるところが通行止めとなっているのだ。現在、道路の点検や路面付着物の除去作業が行われている。復旧作業はいつ終わるか分からない。
このまま様子を見ていて、万が一高速道路が開通しなければ大会に間に合わなくなるかもしれない。そう考えた荒木は一般道を選択した。
急いで四人を起床させ、カプセルホテルを出ると近くの大衆食堂で朝食を済ませた。時刻はすでに七時を回っている。国道を帰れば十七時間かかると計算して、このままいけば帰宅は深夜に及ぶ。念のために交通情報を確認するがやはり状況に変化はない。意を決し出発することにした。
しかしこの時間、一般道は朝の通勤ラッシュのため思うほど進めなかった。その上に、恐らく他の者も高速をあきらめ地道に切り替えているのだろう、まるで牛歩だ。イライラが募る中、昼過ぎにようやく東海道に出ることができた。高速はまだ開通していない。ここから普通に進めたとしても十六時間かかる。四人には申し訳なく思いながら、通りすがりのコンビニで昼を済ませるとそのまま再びノロノロ運転の仲間入りをするしかなかった。
津村は気をもんでいた。よりによって大会の会場は総社市の「きびじアリーナ」だ。岡山からさらに西方に車で一時間かかる。荒木から「帰宅をあきらめ、直接会場に向かう」と連絡があったものの、開場の八時半になってもまだ一行は到着していない。保護者も心配して駆けつけている。
受付が始まった。大会本部に事情を説明し、開会式に出られないことは了承してもらったが、試合に間に合わなければ規定により棄権になると念押しされた。
その開会式も終わり、タイムテーブル通り第一試合が始まった。緑豊学園は第3シードのため一試合目は無い。しかし一つの団体戦に二コート当てがわれるので、よほど試合がもつれない限り予定通り一時間後には試合が回ってくるだろう。
ここでようやく電話がつながった。運転中の荒木に代わり番原知美の声だ。「岡山県まで戻ってきた。今、備前インターを抜けた」と言う。そうだとすれば総社インターを降りて、渋滞がなければ一時間前後で到着する。微妙な時間だ。一年生を体育館に残し、津村は保護者とともに体育館入り口で荒木の到着を待つことにした。
試合開始の時間が迫る。皆が気をもんでいると、会場内に偵察に行っている保護者から「前の試合が終わり、両校、試合後の挨拶を終えました」と情報が入る。しかし荒木の車はまだ見えない。次に「対戦相手の赤嶺高校がベンチ入りしました」と伝えられる。
今ならまだ間に合う――皆がやきもき、はらはらしている。
ところがついに残酷な知らせが入った。
「赤嶺高校が役員の説明を受け、荷物を持ってベンチから引き上げてしまいました。そのあと、うちの次に予定されていた試合がコールされました」
万事休す! まさかの展開に皆の表情がこわばった。ここまでの努力が水の泡となって消えたことになる。津村は一瞬、目の前が真っ暗になり、その場に崩れかかった。それを後ろにいた番原知美の母親が「大丈夫ですか、先生!」と抱えてくれた。
その時だった。「あれじゃないですか?」と保護者の一人が叫んだ。
指さす方向に津村が目をやると、遥か前方に黒いワンボックスカーが見える。確かに荒木の車だ。焦っている様子が分かる。信号のない十字路を一時停止もしないで皆の待っている場所に直進してきた。そして到着するなり車から出て来て後部ドアに手をかけ、選手を降ろそうとしている。
「荒木コーチ、ダメでした。一歩遅かったです。先ほど棄権扱いになりました」
津村が涙声で荒木の背中に向かって言った。
「そ……そんな……」
荒木は動作を止めてこちらに振り向いた。
「どうにもならないんですか?」
「もう、次の試合が始まっていますから……」
うなだれたまま津村が答えた。
「何てことだ。俺だ、俺の責任だ。途中で仮眠さえしなければ……取り返しのつかないことをしてしまった……保護者の皆さん、本当に申し訳ありません」
荒木もうなだれた。
そんな二人を見かねて番原知美の母親が口を開いた。
「先生もコーチもそんなにがっかりしないでください。私たちなら大丈夫ですから。特にうちの娘なんか甘えん坊で、なーんも取り得がないどころか、自堕落な生活のためぶくぶく太って運動とは縁のない体になっていました。それがいっぱしに、いえ、普通の生徒さんよりも動ける体を作ってもらい、中国大会にまで行かしてもらいました。そして今は新たに目標を作って、こうして誰もやったことのない経験をさせてもらっています。感謝こそすれ、恨むだなんてそんな気持ちは全くありませんよ」
「私も同じです」米井加奈美の母親だ。
「交通事故で娘の片足が短くなった時、私は責任を感じて死のうとさえ思ったことがあります。この子は障がい者として、一生運動とは縁のない生活を送るものだと覚悟していました。それがわずか一年で、まるで生まれ変わったみたいです。部の中で一番速い先輩にも走り勝ったと聞いてびっくりしました。コーチがいなければ全く違う人生を送ることになっていたでしょう」
「それならうちの子の方が深刻です」今度は藤坂佐和の母親だ。
「生まれつき心臓が弱く、ずっと家にこもりっきりで運動どころか友達もできませんでした。うちの子の心臓病は遺伝なので、私はずっと責任を感じて暗く重い日々を過ごしていました。あのままだと恐らく生涯にわたり、この胸がえぐられるような気持から解放されることは無かったでしょう。それが、まさか走れるようになるとは信じられない話です。その上、県を代表して中国大会出場だなんて……コーチとの出会いは神様が起こしてくれた奇跡だと思っています」
「実はうちも同じなんです」秋元舞の母親がか細い声で言った。
「表面的には分からないでしょうが、うちの子は発達障害なんです。運動が云々と言う以前の問題で、幼稚園のときからいじめにあい、中学校で藤坂さんと出会うまでは全く友達に口を利いてもらったことがありませんでした。少しのことでもくよくよと気にするので、それが友達を寄せ付けない原因だと思い、学校では平然としているように努めさせました。その反動で家の中は大変でした。悩みを聞いているうちに私もノイローゼ状態になり、病院通いになりました。家事が回らなくなり、お恥ずかしい話ですが離婚し家庭は崩壊してしまいました。こうして目標に向かって一緒に過ごせる友達ができるなんて、夢のようです。これもコーチのお陰だと心から感謝しています」
これを聞いていた荒木が神妙な顔で言った。
「皆さんのお言葉はとても有り難いと思っています。しかし彼女たちがここまで来ることができたのは俺の力なんかじゃありません。彼女たちの頑張りと、何より保護者の皆さんの温かな支え、そして後押しがあったからです。子どもが体にハンディを感じていれば、無理をさせないようにブレーキを掛ける親が多い中を、今回もこうして俺の我儘を聞いてくださいました。にもかかわらず俺は取り返しのつかない失敗をしてしまった。ここで優勝しなければ、今回の無謀なチャレンジは意味のないものになると言うのに……どんなことをしても彼女たちには新しい練習場を与えてやりたかった。いや結果はどうあれ、あれだけの努力をしたんだ、その成果は試してやらなければならなかった……本当に申し訳ありません」
荒木は深々と頭を下げた。とその時、体育館の入り口から男性の声がした。
「実にいいお話ですね」
皆が声の方向に目をやると「反省会は、それくらいで良いでしょうか?」そう言ってその男性が微笑んだ。
「あなたは?」
津村が首をかしげるとその男性は、さらに苦笑いしながら言った。
「私をご存知ないとは残念です。県の卓球部長を務める藤岡です」
「あ……すみません……」
津村はとっさに頭を下げた。
「いえ、いいんですよ。話はここで聞かせていただきました。いろいろ事情を抱えられた部員さんたちのようですね。これまでのご苦労が偲ばれます。ところで、いつまでその部員さんたちを狭い車の中に閉じ込めておくつもりですか? 長旅で体がなまっているでしょう。このままでは優勝どころか、最初の試合にさえ力が発揮できませんよ」
「えっ、最初の試合って? ……」
「ですから、試合をしに来たのでしょう? さっきから放送を掛けて先生を呼び続けていたのですよ。そうしたらお宅の一年生が本部席に来て『先生は玄関で選手の到着を待っています』と教えてくれたので、こうしてやってきたのです」
「でも、棄権になったんじゃないのですか?」
「お役所じゃあるまいし、少し遅れたぐらいで高体連がそのような非情な措置をとるものですか。それに今回は台風による交通機関の乱れが原因でしょ、先ほど受付の者から聞きました。正当な理由があるにもかかわらず誤った説明をしてしまったことをお詫びに来ました。ただ、タイムテーブルが一箇所でも遅れると全体に影響が出ますので、順番を一つあとにずらさせていただきましたよ。相手チームにもきちんと説明して理解してもらっています」
「あっ有難うございます」津村は感激のあまり、震える手で顔を覆った。そして保護者も「有難うございます」と涙を溜めている。
「それにしても優勝ですか。私も長年卓球に関わってきましたが、あの私立二校以外の優勝は五〇年近く見たことがありません。実に半世紀ですよ。この二つを潰すことができれば全国制覇だって夢ではありません。そんな奇跡が起こるなら見てみたいものです……あっと、これは皮肉ではありませんからね。それじゃ健闘を祈っています、頑張ってください」
部長は丁寧にお辞儀をすると会場内に戻っていった。その後姿を見送った保護者は「キャー、良かったわね」とまるで中学生が高校の合格発表を見たときのように手を取り合って喜んでいる。
「そうと分かればこんなことをしている場合ではありません。コーチ、みんなを降ろして試合の準備をしましょう」
涙をぬぐいながら津村が言うと、荒木もハッと我に返った。そして、やにわにドアを開き四人を車外に出した。
ひと月ぶり、それは保護者にとって感動の対面である。だがこの瞬間、信じがたいものを目の当たりにして唖然とした。この一ケ月で髪が伸びたことは理解できる。しかし車中泊したせいか四人の頭はぼさぼさだ。その上、顔と言わず腕や足が出発時よりも浅黒くなっている。それに着ているユニフォームも手洗いを繰り返したのかよれよれだ。オレンジ色があせて毛皮を着ているように見える。まるで社会科の教科書に見る猿人ではないか。
六
会場内に緑豊学園をコールする放送が流れた。いよいよ試合開始だ。荒木を先頭に選手がフロアに入場してきた。これを見て、次第にざわめき始める客席。それは波紋のように会場全体に広がっていった。無理もない、どう見ても卓球の選手とは掛けはなれた風貌をしている。試合途中の者までがその野卑な姿態に気づき、手を止めて注目している。ほんの数秒間だが、それまで活気にあふれていた体育館の中が静止画像に変わった。動いているのは当の本人たちだけだ。皆が注視する中を威風堂々と防球フェンスの間を抜け、緑豊学園のベンチに座った。これを機に館内は徐々に元の熱気を取り戻しているのだが、こと対戦相手の赤嶺高校に関して言えば当てはまらない。唖然と四人を見つめるその表情からは、明らかにカルチャショックから立ち直れていない様子が窺える。
遅れて迷惑をかけたために自重したのだろうか、荒木の口から名物となっている口上は聞かれない。「やるだけのことはやった、思う存分暴れて来い」それだけの声掛けで選手を送り出した。
一・二番は藤坂佐和と番原知美の前陣速攻型コンビだ。トスを終えて同時に試合を始めた。この二人を見て津村は驚いた――プレーが随分と荒々しくなっているではないか。相手選手がつないだボールを、ことごとく狙い撃ちしている。多球練習で荒木の打ち込むボールをブロックしていたが、あれがカウンターに進化しているのだ。それにしてもすごい反射神経だ。動きが早い上に可動範囲も広い。まるで相手選手がパンチを受けて揺れるだけのサンドバッグに見える。六月の総体でも一応勝ってはいたが、あのときの接戦を思うと全く別次元の試合展開だ。それに一本取るごとに飛び出す声も「よーし」という一般的なものから「よっしゃー」と女子には珍しい蛮カラなものに変わっている。その雄叫びは他の選手のものよりもひと際大きく、館内の隅々にまで響き渡っている。そう言えば、車から降りて母親の歓迎を受けたときもやや目が据わり、いつもの無邪気な表情は見せなかった。疲労のせいかと思っていたのだが、これを見る限り違っていたのかもしれない。まるで別人だ。身内の自分でさえ近寄りがたいオーラを感じる。
その風貌、その動き、その雄叫びは相手選手から戦意を喪失させ、場内多くの観客の目を奪った。
初戦は勝敗に関わらず五番の選手まで試合ができる。3―0で勝負はついたが、四番米井加奈美、ラストの秋元舞まで試合は行われた。そして四人ともが余すところなくその変貌ぶりをパフォーマンスで証明した。
これを見て感激にうち震えているのは彼女たちの保護者である。見間違うばかりの強さに熱狂している。
緑豊高校の勢いは止まらない。残り三試合も3―0で快勝し、予選リーグを一位通過した。これでベスト16だ。これ以降のトーナメントは翌日に行われる。
観客席に戻ると、母親たちが興奮冷めやらぬ顔で娘たちの労をねぎらった。だがやはり彼女たちの顔からは無邪気な表情は見られない。
「うちらは勝つ、絶対優勝する」
まるで何かにとり取憑かれているようにさえ見える。
一夜明けた。上位校にとってはここからが本番だ。
四人を見るとさすがに整髪していた。それにユニフォームも青色に替え、アイロンが掛けてある。あの容姿がそれなりに異様な効果を醸成していたのに、と津村は少し残念に思った。しかし親の立場からすると無理もないことだ。その代り父親も駆けつけ、一年生の保護者も呼び出し、大応援団が結成されていた。
津村が「おはよう」と声を掛けるも、四人からは形だけの挨拶が返ったきり皆素っ気ない。外見は変わったが中身は昨日のままだ。内に秘めた闘志がその据わった目つきから窺える。
試合が始まった。やはり荒木は過剰な口上を止めていた。だがベンチでの応援は相変わらず派手だ。選手が一本取って「よっしゃー」と叫ぶごとに「よーし」と両腕を上げ、大きなガッツポーズで返している。
こうなれば津村も加勢しない訳に行かない。ベンチの選手を二分し、二台別々の応援を始めた。これを見て発奮したのだろう、観客席の応援団も二手に分かれてガッツポーズと声援を始めたではないか。
これを受けてコート内の選手はさらにボルテージを上げた。それまで相手に対して発していた雄叫びを、観客スタンドに向かってやり始めた。
「よっしゃー」とガッツポーズすると、ベンチとスタンドからこだまのように大合唱が返ってくる。まるでマエストロとオーケストラだ。
「声に惑わされるな、自信を持ってプレーしろ」
相手ベンチから監督の悲痛な叫びが聞こえてくる。しかし声だけではない、動きを見ても力量の差は歴然としている。片や縦横無尽に空を飛び回る鷹、片やひたすら身を屈めて危機が過ぎるのを待っている野ウサギに見える。
相手も予選リーグを勝ち抜いてきたチームなんでしょ。一昨年自分が率いていたチームはこのレベルにも達していなかったのか――津村にそれが分かるほど四人の力は抜けていた。そして油断も加減もない、持てる力を最大限に発揮してそのまま3―0で圧勝した。観客席で今日初めて応援に加わった保護者達は、この卓越した勝ちっぷりに陶酔した。
「荒木コーチすごいです。昨日といい今の試合といい、まるでうちの選手じゃないみたいです。このままいけば本当に優勝できるかもしれませんね」
津村が声を弾ませた。
「いや、これからですよ。油断は大敵です、一戦一戦気を引き締めて戦うだけです」
荒木は冷静だ。しかしゆったりしたその口調からは十分自信のほどが伝わってくる。
津村、そしてスタンドの応援団は、この勢いで一気に駆け上っていく選手の活躍ぶりを想像していた。ところが……準々決勝は全く選手の様子が変わっていた。
「番原どうした、声を出せ」「藤坂、攻めろ、攻めろ」
荒木がベンチでわめいている。恐らくこれ以上目立つとアドバイス禁止で審判員から警告が発せられるだろう。しかし荒木が熱くなるのも無理はない、一・二番に起用された二人は、これまでの戦いぶりからすればまるで別人の試合内容だ。台のほぼ真ん中近くに立って、ツッツキとブロックばかりをやっている。一本取っても声を出さない。スタンドの保護者達も途中で声援するのを止めた。
二番の藤坂佐和が先に1―3で負けた。番原知美はそれでもバック側ツブ高ラバーのブロックと、フォア側のカウンターで3―2と辛勝した。
そのあとの展開もしかりである。ダブルスが落とし、もう後がないという場面で、米井加奈美と秋元舞がかろうじて守り勝ちした。これでベスト4、ひとまず昼休憩となった。
「一体どうしたんだ」
荒木が通路脇にある休憩場所の椅子に選手を座らせて怒鳴った。しかし四人ともうつむいたまま黙っている。
「ここまで来て、まさか緊張した訳でもないだろう?」「ここで負けるとこれまでやってきたことが無駄になるんだぞ」「あの倉庫でずっと練習をしたいのか?」
荒木が何を言っても返って来ない。膠着【こうちゃく】状態だ。
このとき番原が少し顔を上げ、津村をちらっと見た。津村にはこれが救いを求める目に思えた。
「荒木コーチ、少し時間をいただけませんか? 私が訊いてみますから」
瞬時に判断して津村が言った。
「しかし……」
「お願いします。女同士でなければ話せないことがあるのかもしれません」
「うーん……そうでしょうか……」
納得はしていないようだが、荒木は津村に任せてその場を立ち去った。
「お昼休みだと言っても時間は無いわよ。私にできることがあれば言ってちょうだい」
津村が切り出すと「実は――」と番原が話し始めた。
一時間前のことである。
「いやぁ実に見事な試合でした」
トーナメントの一回戦を終え、通路で待機していた四人に話しかけてきたのは校長だった。
「コーチが君たちを連れて長期修行に出たことは聞いていましたが、まさかこんなに強くなっているとは思いませんでした。試合を見ていて感動しましたよ」
四人に笑顔はない。「ありがとうございます」と返す表情には、相変わらず世俗から脱した威風がある。
「このままいけば本当に優勝できるかも知れませんね。そうなると君たちには新しい練習場が手に入り、荒木コーチは晴れて広島に戻れるわけだ。万々歳ですね」
校長のこの言葉で、まるで催眠術が解けたように四人の威容が崩れた。
「えっ、広島って何ですか?」
驚いて番原知美が訊いた。
「おや、聞いていませんでしたか? コーチは元々広島の高校でラグビーの指導をしていたのですよ。それがちょっとしたトラブルがあってうちに来ていますが、先日それも片付きました。そこで彼に言ったのです『このまま広島に帰る訳にはいかないでしょう、練習場が取り戻せていないではないですか』と。だから彼は広島に帰るために優勝しようと必死なのです」
「えーっ、本当ですか?」
「何だ、本当に知らなかったのですか、彼も人が悪いですね。そんなことでもない限り、誰がここまで入れ込んで頑張るものですか。彼はラガーマンですよ、戻ってラグビーをやりたいに決まっているではありませんか。君たちはいい様に利用されましたね」
「信じられません」
「まあその気持ちは分からなくもありません。でも事実です。これは津村先生も知っていることです」
「まさか……」
この話を聞いて津村が驚かないはずがない――何という校長だ。よりによってこのタイミングで――怒りに体が震えている。
「本当なんですか?」
番原が確認してきた。
「えっ……ええ、そうよ。でも――」
津村が言いかけると「ほんとだったんじゃ」と部員たちがざわめき始めた。
「ちょっと待ってちょうだい。話の内容は大半あっているけど……そのう……筋道は全然違うのよ」
「どう違うんですか?」
「コーチは前の学校である事件の罪を着せられていたの。でも無実が証明されて、その学校が彼に戻って来いって声を掛けてくれた。帰ろうと思えばその時点でそれもできていたのよ。でも彼はそれを断った。『せめて卓球部員に練習場だけは取り戻してやりたい』と言ってね。だからコーチが頑張っているのは広島に帰るためじゃなく、あなたたちとの約束を果たすためなの」
「そうだったんですか」
米井加奈美の言葉に皆もうなずいた。
「じゃけど、優勝したらコーチはいなくなるんでしょ。そんなの嫌じゃ」
番原知美が浮かない表情でそう言うと、今度はそれに共鳴して皆の顔も暗くなり始めた。
これはいけない、と津村が言葉を足す。
「それは私だって同じよ。できればずっといて欲しい。でもコーチの身になって考えると、あっちの学校で犠牲になり、今度はこっちの学校で犠牲になるってことでしょう、そんなこととても願えないわ」
「それもそうですね」米井加奈美がつぶやくと「じゃけど」とまだ番原知美は渋っている。
「さあみんな、ゴールは目前よ。ここまで来たのだから迷ってなんかいられない。とにかくまずは優勝! みんなに奇跡を見せてやりましょう!」
津村が皆を奮い立たせようと声を張った。しかし四人は乗って来ない。荒木との絆を断つのが嫌なのだ。練習場とコーチ、どちらかを選ぶとなれば自分でもこうなるかもしれない――津村も辛かった。こうなると押し付ける訳にはいかない。
「分かったわ、あなたたちに任せる。しっかり話し合って決めてちょうだい。私はあなたたちが誤った判断をしないと信じているわ」
そう言うと、津村もその場から立ち去った。
七
昼食休憩も終わり、準決勝のコールがあった。
「どうでしたか」
選手を通路で待っている荒木が訊いてきた。
「原因は分かりました。でも今は言えません。あの子たちを信じるしかないでしょう」
津村がそう答えると「そうですか」と荒木は安堵した表情を見せた。それを見て自分のことを完全に信頼してくれていると思うと、津村は不安になった。
準決勝の相手は第二シードの山城学園だ。トーナメントなので負けは許されない。
一番の番原知美が相手のエースと当たった。
「行けるぞ、お前の力を見せてやれ」
荒木がコートに入ろうとする番原知美に声を掛けた。これを横目で見ていた津村は、彼女に快活で歯切れのよい返事を期待していた。しかし「はい」と声が小さいではないか。
まずい! 彼女はまだ踏ん切りがついていない――津村は瞬間、凍りついた。
思った通り番原知美のプレーには全く覇気が感じられない。台の真ん中でブロックばかりしている。荒木が懸命に声を掛けるも一向に改善の兆しが見られない。
だがその隣の台で二番手の藤坂佐和は生き返っている。「よっしゃー」と叫ぶ声にベンチもスタンドも大喜びだ。
同じチームの選手とは思えない、対照的な試合が展開された。0―3で負けた番原知美に対し、接戦に次ぐ接戦を繰り広げた藤坂佐和が3―2で一ポイントもぎ取った。もちろん、緑豊学園が山城学園から一勝したのはこれが初めてのことである。応援団は湧きに湧いている。
しかしこのあとがいけない。米井加奈美が一所懸命に声を出して番原知美を引き上げようとするが、彼女はそれに応えようとしない。ダブルスがこれで勝てるはずがない。
もう後がない。四番の米井加奈美は今のダブルスを見る限り復活している。そうなると気になるのは秋元舞だ。彼女が番原知美と同じ状態ならば、結果は火を見るより明らかと言える。津村は祈るようにしてコートに入る秋元舞の後姿を見ていた。
ところがどうだ、心配などどこ吹く風だった。彼女は一本目を取るとスタンドに向かってガッツポーズし、雄叫びを上げたではないか。津村はつい「よしっ!」と胸の前で右拳を固く握った。
サウスポーの米井加奈美はスケールの大きな卓球をした。台に密着して速いピッチで打ち合う女子選手が多い中、彼女は中陣から両ハンドでドライブを入れ続けた。準々決勝までは対戦相手の凡ミスが多かったため大したラリーも見られなかったが、さすが山城学園、一本や二本のドライブでは抜けない。それが余計に米井加奈美のフットワークの良さを引き立たせた。その可動範囲の広さには相手ベンチも驚いている。それに元々右利きだったので、回り込めないと判断したボールはラケットを持ち換えて右で打った。まるでサーカスだ。このプレーをやるたびに両校に関係ない観客までが喜んで拍手した。
一方の秋元舞はカットマンだ。後方に下がり、下回転のボールを駆使して相手がミスするまで粘り続けた。日頃から荒木の強烈なボールを受けているので、女子高生の強打に対する恐怖感は無い。ただ相手選手も幼いころからこの競技に浸っているのでミスが少なく、きりがないほど打ち込んでくる。仕舞いにはカットスイングが間に合わなくなり、手を伸ばして当てただけの返球になる。これを相手がスマッシュで打ち込む。しかしボールにはまだ付いて行ける。ここからカットボールを止めて、頭上高々に打ち上げる上回転のロブボールに変わる。スマッシュ対ロビング、女子には珍しいラリーを見てこちらにも観客は大喜びだ。
あの山城学園を相手にすごい試合をやっている、と本部席役員たちの目も釘付けだ。
米井加奈美が接戦をものにして3―1で勝った。これで団体の戦績は2―2の五分となった。いよいよラストの秋元舞で決まる。
その秋元舞はゲームカウント2―1でリードし、四ゲーム目も8―6、あと三本で勝ちだった。ところがここで促進ルールが適用された。これは一ゲームが一〇分経過した場合、試合を速やかに進行させるために用いられるルールで、レシーバー側が13本目を返球すれば得点になる。サーブはそれまで二本交代だったものが一本交代となる。
ここで環境の変化に対応できない秋元舞のもろさが出た。あれよ、あれよという間に逆転され、このゲームを落としてしまったのだ。
荒木はこのルールさえ知らなかった。狼狽を表情に浮かべ、ベンチに戻った秋元舞に与えるアドバイスを探している。ここは自分が何とかしなければ、と津村が横から口を出した。
「秋元さん、相手がサーブのときは今のまま粘ればいいのよ。でね、自分がサーブのときは守るだけではだめ。あなた、何種類かしゃがみ込みサーブができるわよね。それを使い続けなさい。もし甘いレシーブが来たら入らなくてもいいから思い切って打つのよ――コーチ、このままじゃ負けは見えています。この作戦はどうですか?」
「あっ、ああ、いいかも知れませんね。そう言えば実業団の選手にも、サーブの切り方を教わっていました。よしっ、秋元それで行け。勝ち負け考えずに思い切っていこう」
このアドバイスによって秋元舞は息を吹き返した。相手がサーブのときはひたすら拾いまくり、自分がサーブのときはサービスエースかスマッシュでの得点が増えた。しかし大接戦に変わりはない。白熱した試合は最後までもつれ込み10―9、秋元舞のマッチポイントで相手サーブとなった。13本目をリターンすると秋元舞の勝ち、それは緑豊高校の勝利を意味する。相手選手はフォア前に横回転サーブを出すと、三球目ドライブを皮切りに攻撃し続けた。それを必死で拾い続ける秋元舞。
「ワン」「ツー」「スリー……」秋元が打つごとに副審のリターンカウントが聞こえる。これまでは無謀な攻撃もできた相手だが、もう後がない。ミスが許されないとなると、プレーも丁寧だ。おのずとラリーが続く。そして終盤を迎えた。
「イレブン」秋元舞はカットを止めてロビングを始めた。あと二本返せば勝ちだ。
「ツウェルヴ」このボールが浅くなって相手コートに入ったので、相手選手が上から思いっきりたたき込んだ。ボールは秋元舞の頭上を越えた。それを秋元舞が後ろ向きに飛びついてラケットに当てた。この瞬間ベンチから「キャー」という悲鳴が上がった。秋元舞が勢い余ってフェンスに突っ込み、コートエリアの外に転がったのだ。
「サーティン」副審がそうコールしたボールがふわふわと空中に舞い上がっている。届きさえすれば秋元舞の勝ちだ。しかし力のないボールだ。ネットまで届くかどうかきわどい弧を描いている。誰もが固唾を飲んで見守っている。秋元舞も倒れたままボールの行方を目で追っている。その中を「コン」と音を立て、ボールはネットすれすれに相手コートに落ちた。 同時に相手選手はへなへなとその場に崩れ落ち、会場内からは「ワーッ」と歓声が沸いた。私立の一角が倒れたのだ。それが世紀の瞬間であることを皆が知っていた。
本部席も騒然としている。皆が立ち上がり、信じられないという表情をしている。その中に藤岡部長もいた。
「ま、まさか本当に山城が負けるなんて……」
呆然としている。
しかし緑豊学園のベンチはそれどころではない、解消されていない問題を抱えたままなのだ。相手チームへの挨拶が終わるや否や荒木が番原に声を掛けた。だが彼女は暗い顔をしてうつむいている。見かねて津村が言った。
「荒木コーチお願いです、もう一度だけチャンスをください。私が話してみますから」
彼のことだ、ここで事情を知ると「自分は緑豊学園に残る」と言い出しかねない。津村はどんなことがあってもそれだけは許されないと思っていた。
「うちらからもお願いします」とあとの二年生三人も頼み込み、番原を会場脇の通路に連れ出した。そこは、奇跡の余韻に浸っている館内とは全く対照的な、森閑な空間だった。
「番原さん、あの山城学園に勝ったのよ。見たでしょ、みんなびっくりしていた、あなたも感動したでしょ?」
津村が切り出した。
「それはすごいことだと思っとります」
番原知美はうなだれたまま顔を上げない。
「次は決勝よ、第一シードが相手なの。どう考えても三人で三ポイント取るなんて考えられないわ。あなたの力が必要なのよ」
「でも優勝したらコーチがいなくなると思うと、どうしても力が湧いてこないんです」
「何のためにここまでやってきたの? 苦しかった練習を思い出すのよ」
津村のこの言葉に「そうじゃで番長」と米井加奈美が加勢した。
「うちらだって辛いんじゃ。じゃけどここまで頑張っておいて、みすみすほかのチームに勝たせるなんてそれは悔いが残る。うちらはアスリートを目指しとんじゃ、私情を挟んじゃいけん。そう思って割り切っとんで」
「そんなことうちだって分かっとるわ。じゃけどベンチでコーチが声を出すたびに、ああ、もうこの関係が無くなるんかなぁ思うたら、いたたまれんのじゃ」
「でもね――」
津村がそこまで言いかかると「そう言う訳だったんですか」とスタンドにつながる階段の上方から声がした。見上げると番原知美の母親だ。その後ろからもぞろぞろと保護者が付いて降りてきた。
「話は聞かせてもらいました。津村先生、コーチがいなくなるって本当ですか?」
番原知美の母親が訊いてきた。
「ええ、校長先生との約束です。この大会に優勝すれば元いた広島の高校に戻り、ラグビーの監督をすることができるんです」
「コーチもそれを望んでいるんですか?」
「いえ、直接それを口に出したことはありません。でもラガーマンなので、きっと未練はあるはずです」
「そうですか、それでうちの娘が――あんた、何ならあの試合は。情けのうて皆さんに申し訳ないわ」
「お母ちゃん……」
番原知美が小さい声を漏らした。
「何が『お母ちゃん』じゃ。このままだったら親子の縁を切るで。それくらいはらわたが煮えくり返っとる」
「じゃけど……」
番原知美のこの言葉を聞いて、母親はツカツカと歩み寄ったかと思うと、思いっきり彼女の頬を平手打ちした。
「あんた、自分のことを何様じゃと思うとるん? 何で自分のことしか考えられんのじゃ。みんなだって辛いのを我慢しとるって言っとるじゃないの。あんた、ここまで面倒見てもらって何かコーチのためにやったことがあるん? よう考えてみ、あんな気の抜けた試合して負けといて、本当にそのあともコーチの顔を真っすぐ見ることができるんかな? 今こそ恩返しをする時じゃろう。あんたの力でコーチをラグビーの世界に戻すんじゃ。コーチのことを本気で思うんなら他の人にやらしちゃいけん。あんたがやるんじゃ。あんたしかおらん。そうじゃろ?」
「お母ちゃん……」
番原知美はぶたれた頬に手を当てたまま涙をこぼした。
「津村先生、どうもご迷惑をおかけしました。これで分からんようじゃったら遠慮なく切り捨ててください――保護者の皆さん方、本当に申し訳ありませんでした」
そう言うと、一人さっさと階段を上がっていった。残った保護者も口々に激励を言い残すと、番原知美の母親の後を追った。
津村が番原知美の肩に手を掛け「どうなの?」と声を掛けると、彼女はボソッと「うちも頑張る」とうなずいた。
これを聞いた三人は「番長、うちらの力見せちゃろう」と嬉しそうによってきた。
それから間もなくしてベンチ入りしている一年生が呼びに来た。ついに決勝戦だ、そう思うと津村は武者震いした。
八
津村が二年生を引き連れてベンチに向かうと、荒木は胡乱【うろん】な目をしてそれを見ている。津村と荒木の目が合った。津村がうなずくと、以心伝心、荒木もうなずき返してきた。そして津村の後ろから、何か言いたそうに近づいた番原知美に「ようし戻ってきたな。ここからが本領発揮だ。お前の本当の力を会場にいるみんなに見せてやれ」とだけ言うと「はいっ!」と嬉しそうな返事をした彼女の肩を叩いて、ベンチに座った。
ついに決勝の火ぶたが切られた。気をもんでいた彼女の母親も、娘のハツラツとした姿に安心したようだ、一本取るごとにスタンドからひときわ大きな声援を飛ばしている。
しかし善戦するも、番原知美は一ゲームを落としてしまった。相手は朱日のエース、まだ三年生が活躍していた五月の総体で個人戦ベスト4に入っている。
「どうだ、強いだろう。気にするな、小学生のとき兵庫県のチャンピオンだったらしい。それでも後半は互角の勝負になっていたぞ」
荒木がベンチに戻ってきた番原知美に声を掛けると、彼女も手ごたえがあったようだ。
「はい。最初は打球点の高さに圧倒されとったんですけど、途中から、これくらいの選手じゃったら実業団にも結構いたな、と思えるようになって落ち着きました。球筋が見えてきたので、ツブ高でバックにプッシュしたあと、次は一か回り込んで狙い撃ちしてみます」
「バッククロスを回り込むのか、随分思い切った作戦だな」
「広島の矢内さんが『時には、はったりも必要だ』と言っとりましたからね」
番原知美のこの策は見事に的中した。わずか数本狙い撃ちをしただけだった。しかし相手はそれを恐れ、無理な攻撃を仕掛けてきてミスを連発した。
「恐らく次はツブ高のプッシュを嫌がり、フォアを狙ってくるぞ」
二ゲーム目を取り返した番原知美に荒木がアドバイスすると「そうなれば両ハンドで待ち伏せてカウンターします。コーチのあの強いボールでも打ち返せたんじゃから、あれくらいの球なら自信があります」と返ってきた。番原知美はすでに相手を見切っているようだ。
どこに打っても番原知美の荒々しいカウンターが炸裂する。ミスのリスクもあるが効果てきめんだ。相手は攻撃を止めてツッツキを増やしてきた。しかしこれもことごとく番原知美が回り込んで狙い打ちした。途中から一方的な試合展開となり、ベンチもスタンドも沸きに沸いている。
これには津村も驚いた――こんなに強かったのね。コーチが彼女をエースとして起用してきた理由が分かったわ。まるで獲物に襲い掛かる虎に見える。異次元のプレーだわ。
そのまま勢いが衰えることなく、番原知美は相手をねじ伏せた。絶対的なエースの敗北に相手ベンチの監督はオタオタしている。こうなると二番手の選手を落とすわけにはいかない。檄を飛ばす声が一段と大きくなる。これを受けて、接戦を続けていた相手選手がようやく味方エースの敗戦に気付いた。まさか、と言う顔をしている。集中力が切れた瞬間だ。ゲームカウント2―2の中盤だったが急にプレーが手堅くなり、藤坂佐和につけ込む隙を与えてしまった。
藤坂佐和は前陣速攻型だ。守りに入るともろい面もあるが、攻撃を始めるとその戦型の効力が発揮される。思い切ったプレーをしなくなった相手に対し、フォアでパンパン打ちまくり始めた。みるみる点差が開き、このゲームを快勝した。
思いもよらぬ試合展開に場内がざわめいている。しかし緑豊のベンチは無我夢中、荒木も必死だ。
「いいか、周囲がどう思っていようがうちのチームに余裕なんかない。とにかく向こうは第一シードだ。油断するな。次だ、次のダブルスで勝負をつけるぞ!」
朱日高校のダブルスも緑豊と同じで、右利きと左利きのコンビだった。先ほどの対戦でツブ高に慣れていた相手のエースが、番原知美のボールを狙い撃ちする。こうなると米井加奈美は防戦一方だ。接戦はしたものの一ゲーム目を落としてしまった。
「今度はこっちの番だ。番原、相手の左選手にお前のツブ高プッシュが効くはずだ」
荒木のこのアドバイスが的中し、二ゲーム目は緑豊が取った。
双方とも知恵と技の出し比べとなったが、基本的にはこのパターンを互いに矯正することができず、勝敗は最終五ゲーム目に持ち込まれた。
「二、四と偶数のゲームを取っている。つまり最終ゲームはどちらかのカウントが5点になり、チェンジコートになった後半がうちにとって有利な組み合わせパターンになる。強気だ、前半に1点でも多くとっておけ」
荒木がこうアドバイスすると番原知美が言った。
「コーチ、まだアドバイスの一分が残っています。もっと何か言ってください」
「えっ、どうした?」
今までに無かったことだ。荒木は驚いた。
「うちがコーチからアドバイスしてもらえるのはこれが最後になります」
「どういう意味だ?」
荒木は怪訝そうな表情をしている。慌てて津村が割り込んだ。
「コーチ、番原さんは弱気になりそうなんですよ。何か二人に自信をつける言葉を投げかけてあげてください。お願いします」
「自信と言っても……そうか、よしっ。お前たちは、健常な奴でさえついてこることができなかった過酷な練習に耐え、本来お前たちが持っている力を呼び覚ました。英才教育を受けたエリートなんかじゃなく本物なんだ。本物の力を見せてやれ!」
「はいっ!」
二人は満足そうな返事をしてコートに向かった。それを確認して荒木が言った。
「津村先生は、彼女の言った意味が理解できているんでしょう?」
「えっ? ええ……」
津村はここでも迷った。しかしこれ以上誤魔化しても仕方がないと腹をくくり、彼女たちが動揺していた真実を明かした。
「なんて校長だ」
荒木は怒りに、握ったこぶしをわなわなと震わせている。
「でも、さっきお母さんに叱られて、番原さんも気持ちを切り替えることができました。今、彼女たちは何のために試合をしているか分かりますか?」
「うん? どういう意味ですか? 優勝して、練習場を取り戻すのでしょう」
「コーチをラグビー界に戻すために戦っているんです」
「ええっ! まさか……」
荒木は言下に、コートの二人に目をやった。
男子の決勝は終わっていた。気付けば女子のダブルスだけがフロアに立っている。シーンと静まり返った館内に、審判の「ラブオール」の声が響いた。
米井加奈美のサーブで試合が始まった。朱日が一本取る。「やー」と言う選手の叫び声とともに、相手ベンチとスタンドから「よーし」の声援が起こった。
二本目、番原知美のスマッシュが決まった。すかさず「よっしゃー」と二人の雄叫び、そして緑豊のベンチとスタンドから「よーし」の声援が起こった。選手同士の気迫と気迫のぶつかり合いだけでなく、体育館を二分する応援団対応援団の熱のこもった激突となった。
いつもであれば常勝する私立二校の対決となり、どちらが優勝しようがさして関心を持たれることのない女子決勝戦なのだが今回は違った。これまで散々私立二校に苦い思いをしてきた他校の生徒が、興味津々に緑豊側のスタンドに集まってきている。
また一本朱日が取った。「よーし」とスタンドが湧く。今度は緑豊が一本取り返した。するとこれまで「よーし」だったスタンドの声援が「よっしゃー」に変わった。ダブルスの叫ぶ声を新たに加わった者たちが唱和したのだ。
これに端を発し、男子も面白がって緑豊のスタンドに移動してきた。いつの間にか緑豊側は大応援団になっている。
試合はシーソーゲームとなり、後半までもつれ込んだ。そしてカウントが8―8になった時だ、米井加奈美のドライブをきっかけに、ドライブ対ドライブの長いラリーが続いた。最後は番原知美が台についてカウンターを決めた。得てしてこういった長いラリーの後には流れが変わりやすい。相手がすぐにそれを取り返そうと、焦って払ってきたレシーブがミスをした。この試合初めて2ポイント差がついた。10―8のマッチポイントだ。あと一点で緑豊の勝利というところまで漕ぎ着けた。
緑豊側としては一気に勝負をつけたいところだが、両者の合計得点が6の倍数になったので、相手選手がタオルを手にした。仕方なく緑豊の二人もコートから外れた。ところがこれがいけない。番原知美がタオルに顔をうずめたまま身動きしなくなったのだ。米井加奈美が異変に気付いて声を掛けると、番原知美はうんうんとうなずいた。「頑張れ番長!」ベンチからも声援が飛ぶ。番原知美はそれにもうんうんと応えた。しかし動かない。審判が見かねて促すと、ようやくタオルを置いた。
「番原どうした。本物を見せてやるんだろ!」
この荒木の声に「はいっ!」と返事をしたものの、このとき番原知美の体には異変が起こっていた。ラケットを持つ手が震えて止まらない。タオルを手にしている間に素に戻り、プレッシャーを感じるようになっていたのだ。
「さあ来いっ!」と無理を押してコートに向かったが、相変わらず手の震えが止まらない。仕方なくツッツキでレシーブを入れにいくしかなかった。これを相手選手も冒険を避けてツッツキで返してきたので、米井加奈美がドライブ攻撃で決めにいった。しかし抜くことができず、相手のブロックが番原知美のフォア側に甘いボールとして返ってきた。
チャンスボール! 番原知美が渾身の力でスマッシュを決める――誰もがその絵を思い描いた。
しかし番原知美が打ったボールはコートから外れ、とんでもなく高いところに飛んでいった。まるで初心者を思わせるような腕が上がりきらないそのスイングに、卓球の関係者は皆、彼女が極度の緊張状態に陥っていることを悟った。
10―9となった。もう一度番原知美のレシーブだ。ベンチやスタンドから彼女への励ましの声が聞こえる。皆が胸の前で手を組んで祈るように見入っている。
番原知美は米井加奈美に肩を叩かれると、その場で足ふみをしながら肩を上下に動かし始めた。しかし一度かかったプレッシャーはおいそれと解けるものではない。審判に促されてコートに向かった彼女の顔面は蒼白、この場から逃げ出したい心境だった――このままだとデュースに持ち込まれ、自分がミスを連発して負けることになるだろう……。
ここで番原知美は荒木の顔を見た。皆が手を組んで心配そうに見守っているのに対し、彼だけが腕を組んでどっしりと構えている。そして目が合うと、あたかも自分を信頼しているようにうなずいてくれた。
何とも温かいまなざしに、思わず「コーチ」とつぶやいた。これで冷静さだけは取り戻した――もし勝つとすれば次の一本に賭けるしかない。しかし手が震えてフォアハンドを振ることができない……。
時間いっぱい待ったなし、相手がついにサーブを放ってきた。一か八かだった。瞬間に右方向に移動し、バックハンドでクロスに弾いた。バックハンドは肘を体に固定しやすいので、フォアハンドに比べてブレが少ない。ツブ高面でのチキータはこの試合これが初めてだった。想定外のプレーに、相手のエースは呆気に取られて動くこともできなかった。
弾かれたボールはコートを抜け、床の上を転々としている。あまりにも一瞬の出来事だった。それにネットすれすれの低いボールだったため、コートをかすめたかどうか遠目には分からない。館内は静まり返った。皆が判定に注目をしている。
その中で主審の手がゆっくりと挙がった。
「イレブン、ナイン、トゥ緑豊」
緑豊学園の勝利を宣言したのだ。途端「やったーっ」とスタンドが総立ちした。保護者は抱き合って大喜びをしている。
その瞬間、番原知美は大きく両こぶしを掲げてガッツポーズをした。そしてベンチにいる荒木に駆け寄るとその胸の中で号泣を始めた。米井加奈美も藤坂佐和も、そして他人の感情を汲み取ることが苦手な秋元舞までもがそれに覆いかぶさって泣いた。幼少の頃から、どんなにつらい目に遭おうとも、悔しい思いをしようとも、耐え続けてきた彼女たちが初めて人前で見せた涙だった。そしてその隣では津村も泣いていた。傍から見ると緑豊のベンチが喜びに感涙しているように見えるが、決してそのような単純な涙ではなかった。
やがて閉会式も終わり、フロア出口に向かう津村に藤岡部長が声を掛けてきた。
「すごい試合でしたね。私自身まだ興奮していますよ。こう言っては失礼ですが、本当に優勝するとは思いませんでした。みんな県内の選手ですか?」
「ええ」
「しかも昨日の話では、いろいろと事情を抱えている選手たちのようですね」
「そうなんですよ。まさかこのメンバーで優勝するとは思いませんでした。入部した時のことを思うと信じられない話です。全く卓球になっていませんでしたからね。デビュー戦なんて全員一回戦敗退だったんですよ」
「またまた、ご冗談を――」部長は笑っている。どうやら信じていないようだ。
「――まあそれだけあのコーチがすごいってことでしょうかね。私だけでなく、役員の誰に訊いても知っている者はいませんでした。一体どこで活躍されていた方なのでしょう?」
「それは無理もないことです。卓球界の人ではありません、あのコーチはラガーマン、元ラグビーの選手です。卓球の指導も二年目です」
ここで初めて部長は真顔になった。
「まさか……有り得ません。もしそれが本当ならすごい手腕ですね」
「私もそう思います。あの人と出会わなければ、選手たちは卓球を楽しむだけで満足していたでしょうね」
「そうですか……いや、いや、どう考えても得心がいきません。コーチが卓球の素人で、育成した選手が体にハンディを持っていて、それで県で優勝するだなんて……やはり彼女たちに才能があったのでしょう?」
「確かに……コーチもそんなことを言っていましたね。でもずっと付き合っていて分かりました。彼女たちが持っているのは卓球の才能ではなく、努力する才能です。それも類【たぐい】まれなほど一心不乱に打ち込み続けることのできる才能です」
「あ……ああ、なるほど……」
うまくはぐらかされたな、そんな顔をして「それじゃ、また次の活躍を楽しみにしています」と彼は去っていった。
津村がフロアから通路に出てみると、荒木が部員と保護者に頭を下げていた。転勤について伏せていたことを詫びているのだ。しかし保護者からは笑みがこぼれ、祝福の拍手が贈られていた。そして津村の姿を見るや、待っていました、とばかりに再び拍手が起きた。温かい、すっかり祝賀ムードだ。
丁度そこに校長がやってきた。
「荒木さん、よくやってくれました。あなたはすごい人だ」
両手を広げ、ハグでもしそうな勢いだ。恐らくこのどさくさにまぎれ、自分へのバッシングを相殺しようという考えなのだろう、津村の目にはそう映った。そして荒木とて同じ受け止め方をしたに違いない、表情はにわかにムッとしたものに変わった。
「どの口が言っている。校長、俺はあんたに言いたいことがある」
だが校長はお構いなしだ。「穏やかではありませんね。優勝したのですから、済んだことはよしましょう――」笑みを崩さない。「――私のしたことで、何かあなた方に不利益をもたらしたでしょうか? 目標を高くすることによって、卓球部は優勝できた。あのままだと3位止まりだったでしょう? 万々歳ではないですか、感謝されてもいいくらいです」
これを受けて、荒木の表情はさらに険しくなった。
「よくもそんなことを……結果で事を片付けるのはよしてもらおうか。あんたはできもしない目標に向かわせておいて、いざそれが達成しそうになると、ぶち壊そうとしただけじゃないか。それが校長のすることか。もう少しで全てが水の泡になるところだったんだぞ」
「おや? 私は一切嘘を言っていませんよ。優勝すればあなたは転勤する、事実を言ったまでのことです。大事なことを伏せていたあなたが悪い」
「思っていた以上にしたたかだな。そうやってこれまで手腕を振るってきたんだろうが、今回はそうはいくもんか。確かに俺の転勤を伏せていたことは反省している。だが、奇跡を起こそうと思えば邪念は不要、心を一つにするしかなかったんだ。それをあんたはどうだ、あのタイミングでそれを生徒に吹き込む必要がどこにある。悪意以外の何ものでもない。そこから立ち直るために、部員と保護者がどれほど葛藤したかあんたに想像できるか? みんなが揃っているこの場で、その申し開きができるものならしてみろ!」
にわかに校長の顔がこわばった。「いや、その……」と狼狽しながら「校長として、飽くまでも彼女たちを励ますつもりだったのですが――」と釈明を始めた。
その瞬間、荒木が「何が励ますだ!」と声を張った。
「あの声掛けが、逆効果になることは分かり切っていたはずだ。あんたのことだ、どうせ歴史記念館のことしか頭に無かったんだろう。学園には、未来にはばたこうとその日、その日を懸命に過ごしている青春真っただ中の生徒が一杯いるんだ。その一人一人の夢を後押ししてやらないで、なにが校長だ」
荒木のこの厳しい指摘に、校長は悔しそうに力を入れて口を閉じている。
「何か言い返せることがあるなら言ってみろ!」
尚も荒木が責める。
「……おっしゃりたいことは分かりました。これ以上申し開きをしても醜いだけのようですね。いいでしょう、私が頭を下げることによって気が済むのであればそうしましょう」
校長が声を押し殺して言った。しかし荒木は緩めない。
「何だ、それは? まさかそれで済まそうと思っている訳じゃないだろうな。今ここで、約束通り、記念館を卓球部に譲ると宣言してもらおうじゃないか」
校長の表情がさらに窮したものになった。
「ほら見ろ、思った通りだ。端から無理な約束をしていたんだな」
「いや……あれは前身の学校勢力を抑えるために建てたものなので、多くの反発が予想されます。この学校の存続さえ、怪しくなって――」
「そんな言い逃れが通ると思っているのか! 一部のOBを敵に回すことと、ここにいる保護者が今回の不義を拡散し、あんたの信用を地に落として学校に居づらくするのとどっちがいい? 今すぐ、ここではっきり返事をしろ!」
校長は青ざめた顔で狼狽している。しかし荒木は容赦しない。「どうなんだ!」とさらに声を張り上げた。
校長の額に汗がにじむ。目はキョロキョロと落ち着きがない。挙動不審そのものだ。それまで感じさせていた精鋭さや敏腕感は見る影もない。
やがて皆が注目する中を観念するように言った。
「分かりました……約束は守ります」
九
八月末日、いよいよ荒木が緑豊学園を去る日が来た。新しい練習場は荒木の送別ムードに染まっている。
一年生も含めた十二人の部員たちは、涙をしたためながら一人一人荒木と別れを惜しんでいる。こうなると情にもろい荒木は我慢できない。目頭を押さえながらそれに応えている。
感動的な場面だ、どう考えても自分の割り込む余地はない――荒木から何らかのモーションがあるのではないかと期待していた津村だったが、あの日から今日にいたるまで何もなかったことを憂いている。内心、弁護士を依頼することにより荒木のトラブルを解決した一助になり、部員の悩みを解消することで今回優勝の陰の功労者にもなり得たという自負があった。
しかしここに来てその自信は喪失し、悲観的になっていた――最初、荒木が抱える事情も知らず、無神経にも「教師を辞めることに悔いはないのか」などと傷口に塩を塗るようなことを平然と言ってしまった。その直後、体【てい】たらくの卓球部を堂々と紹介し、夏には一番活動量の少ない自分が熱中症で倒れ、校長からは荒木への陰口を暴露された。それ以外にも頼りない一面、軽率な言動などが次々に思い起こされる。これで自分のことを好いてもらおうなんて、そんな虫の良い話があるものか……。
やや虚無感に浸りつつ、見るともなく部員たちに囲まれている荒木を遠巻きにボーっと眺めていた。すると気になる声が耳に飛び込んできた。番原知美のものだ。
「コーチには彼女がいるんですか?」
この瞬間、津村の中に緊張が走った――そう言えば、自分もそれを確認したことがなかったな。一体、何と答えるのだろう。
聞き耳を立てていると、彼は「いや、いない」とあっさり答えるではないか。思わずホッと胸をなでおろした。しかしすぐに彼が付け加えた。
「だが、思いを寄せている人ならいる」
すかさず「えーっ!」と部員たちの驚きの声が上がった。
この時、津村の心臓が早鐘を打った――もしかして自分のことなのか……いや、違うか……そうだとして……いや、まさかな――期待と不安が入り交ざり、もうパニック状態だ。
ところが「どんな人なん?」と番原知美が掘り下げると、彼の口から思いもかけない言葉が飛び出した。
「現在、俺の地元で教師をやっている」
これを聞いて部員たちは「な~んだ」と落胆の声を漏らした。だが津村にとっては、そんなことで済まされるはずがない。高層ビルの屋上から真っ逆さまに転落したようなショックを受けた。顔から血の気が引き、めまいがして膝から崩れ落ちそうになった。その後も部員たちから「美人ですか?」「広島に戻ったら告白するんですか?」などと質問攻めにあっているのだが、完全に上の空だ。
やがて荒木の車は皆に見送られてこの学園を後にした。津村には「お世話になりました」と最後に他人行儀な一言と一礼をくれただけだった――こんな別れ方ってあるものか……。
あれから津村は何も手につかなくなっていた。食事もほとんどのどを通らない。学校業務も部活動も形だけは整えているが身も心も萎えている。まるでセミの抜け殻だ。ただの失恋であればここまでの喪失感はないだろう。それだけ荒木と過ごした日々が活気に満ちたものであり、彼の存在そのものが自分に生気を与えていたことを思い知った。もし現在の自堕落ぶりを見かねて「辞めろ」と誰かに非難されれば、教職自体を退いても構わない、それほどまでに落ち込んでいた。
そのような脱力感の中で迎えたその週の金曜日、津村のスマホにメールが入った。見れば荒木からのものである。
「明日、部が終わった頃を見計らってそちらにラケットを取りに行ってもいいですか?」
そういえば練習場の片隅に置き去られていたのを見つけた部員が、どうしたものか相談に来ていた。「コーチにはもう必要ないのだろう」と言ったら「転勤してもうちらのコーチです、宝物にする」と言って、部室に飾っていたっけな……。
会えば傷心がさらに大きなものになりそうな気がしたが、どのみちこのままでは生活の中に威儀を正すことは困難に思えた。そこで津村は「どうぞ」の三文字を返信したのだった。
そしてその日がやってきた。
部活動が終了し、しばらくしてから荒木が予告通りやってきた。
「あっ、コーチじゃ」
目ざとく発見した番原知美の声が館内に響く。見れば紺のスーツ姿で、胸にバラの花束を抱えているではないか。たちまち全部員が荒木に駆け寄った。これは荒木にとって意外だったようだ。
「なぜお前らがこんな時間まで残っているんだ?」
怪訝そうに眉をしかめている。
「じゃって、津村先生からコーチが来るって聞いたんじゃもん」
番原知美が答えると「そうか……」と一瞬ためらいを見せたが、すぐに表情を切り替え「みんな変わらず練習をしているだろうな」とだけ言うと、荒木は一目散に津村に向かって突進していった。
「えっ? えっ?」
津村がドギマギしていると荒木は花束を両手で前にかざした。
「もし嫌でなければ俺と付き合ってください。お願いします」
途端「えーっ!」と部員たちが驚きの声を上げた。津村は目を見開いたまま唖然としている。
「お願いします」
荒木がもう一度差し出した両手に力を込める。
「ど、どうして私に……?」突拍子もない行動に津村はあたふたしている。「――だってあなたは広島に思いを秘めた方がいらっしゃるんでしょ?」声は震えている。
「広島ではありません、地元に、ですよ。そして俺の地元はここです。最初に校長が紹介したではないですか」
「……そんなことって……それじゃ、あれは私のこと……だったんですか?」
「もちろんそうですよ」
「そ、そんな……いや、あの、その……どうしてこんな場所で?」
「女性はサプライズが好きだと聞いたものですから……」
「でも、部員たちの前ですよ?」
「俺にとっても予想外の展開です。しかしこの格好……こうなった以上引き下がるわけにはいきません」
「正気ですか? 私が受け入れなかったら大恥をかくことになりますよ」
「仕方ありません、覚悟の上です」
――無骨かと思えばこんなこともする、この人、一体どんな神経をしているのだ。
「……信じられません……あなたは、私にとって何もかもが規格外です」
「とにかく後には引けません。受け取ってください。お願いします」
荒木が改めて花束を差し出した。いつの間にか二人を取り囲んだ部員たちが、津村の出方を心配そうに見つめている。しかし津村は無言のまま荒木の顔を凝視して動かない。
「だめですか?」
荒木が確認するように眉根を寄せた。だが津村は動かない。
「俺としたことが……」
深いため息をつくと、荒木は花束を降ろした。それを見て津村が声を殺すように言った。
「私があれからどれほど気をもんだか、あなたには分からないでしょう?」
「気をもむ? ……それって?」
荒木が首をかしげると「馬鹿!」そう言って津村は花束を奪い取り、そのまま彼に背中を向けた。
「えっ? ……」
虚を突かれた荒木は、どうしてよいか分からない様子。眉は上がり、口はぽかんと開いた状態で締まりがない。これを見かねた部員たちは、彼に向かって手のひらで「行け」「行け」とせかし始めた。
確信のないまま荒木の右手が津村へと延びる。ごつごつとした男の手が、この時ばかりはいかつさを忘れさせ、彼の心情を表すようにナイーブに震えている。やがてその手が彼女の肩に触れた時、間髪入れず津村は荒木に向かって振り向いた。そして彼の顔を一瞥することもなく、右手で彼の胸を叩きながら「馬鹿、馬鹿、馬鹿」とその中に顔をうずめた。途端、周りから「キャー」と言う歓声と、祝福の拍手が起きた。
エピローグ
水島幸助は津村明彦を相手に、まだスナックでくだをまいている。その時、明彦の背広の内ポケットからメールの着信音がした。
「おっと、失礼」
明彦は水割りのグラスを置くと、スマホを取り出してメールに目を落とした。
「妹からだ。へえ、いよいよ結婚だってよ」
「それはおめでとうございます。相手はどんな方なんですか?」
「ああ、一度会ったことがある。とても体格ががっしりしていてナイスガイと言った感じだったな。広島で高校の教師をしているらしい。元ラガーマンだ」
「そうですか。確か先輩の妹さんも先生でしたよね」
「そうだ。岡山県の高校で卓球部の顧問やっているんだが、全く勝てなかった部を着任四年目で県優勝し、全国三位に導いたんだぞ」
「すごい話ですね」
「その時のコーチがそのラガーマンだったらしい。故事成語に『人ひとたびにしてこれを能【よ】くすれば、己【おのれ】これを百たびす』というのがある。『人が一回でできることなら、自分は百回やってでもできるようにする』という意味だ。お前も一度手掛けたことは簡単にやめるな、癖になるぞ……あっ、悪い、説教じみたことを言ったな……だが、さっきも言った通りだ、弟さんと自分を比較する必要なんてないように思うぞ。自分を信じて頑張ることだ。頑張る者にしか奇跡は起こらない。俺はそう思っている」
「……そんなもんですかねぇ……」
幸助の目は明彦から離れ、手元のグラスへと行った。
翌土曜日、幸助は自宅の倉庫で埃【ほこり】をかぶって眠っていた一輪車を持ち出し、空気を入れた。
一
覚醒Ⅰ~うちらのコーチはラガーマン~ @kokusi2369
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