魔女の眠れない午後
月並海
第1話
──子どもの頃の夢は『魔女』だった。
お昼の休憩を知らせるチャイムが鳴った。パソコンと見つめあっていた人は背伸びをして立ち上がり、会議室からはゾロゾロと人が出てくる。
私はキリの良いところまでメールを返信してからパソコンの画面を閉じた。
お気に入りの飴色の二つ折り財布を持ち、オフィスを出ていく。
エレベーターは同じようにお昼ご飯を買いに行く人が溢れていた。最高気温が三十度を超えたあたりからポロシャツの人が目立ち始め、八月に入った今ではほとんどの社員が半袖を着ている。
私は手のひらにまでかかるカーディガンの袖をそっと握りしめた。デスクワークばかりの自分にとっては、常に設定温度二十度の風があたるあの席は寒すぎる。かといって一人の希望でオフィス全体の冷房の温度を上げるわけにもいかず、結局会社に来てから上着を羽織るというおかしな習慣が出来てしまった。
混みあったエレベーターを降りる。最寄りのコンビニまでは徒歩一分。自動ドアを抜ければすぐに眩しすぎる直射日光が私を襲った。
ジリジリと照り付ける光は白く熱い。季節に不似合いな長袖のせいで更に暑い。
「はぁ」
思わずため息を吐いた。不満を言ったところで雲一つない天気は変わらないし冷房の当たらない席に変わるわけでもない。
堪えるしかない不満ばかりが募るから、夏は苦手だ。
コンビニでいつも買うサンドイッチを手に取り、会計に並ぶ。すると、聞き覚えのある声に呼ばれた。
「有村さんおつかれー」
「お疲れ様。小坂さん」
声をかけてきたのは同期の小坂さんだった。人懐っこく明るい性格の彼は同じ部署に配属されていることもあり、何かと声をかけてくれる。
二言三言、世間話をしていればレジの順番になり会話はそこで終わった。
「これと、あとアイスコーヒーのMサイズ、氷抜きでお願いします」
いつもと同じ注文に店員さんは空っぽのプラスチックカップをサンドイッチの横に並べた。
電子決済のポップな音を聞いて私はサンドイッチの入ったビニール袋とカップを手に取る。
温いコーヒーがカップに溜まるのを待っていると、同じように会計が終わった小坂さんがペットボトルのコーヒー片手に話しかけてきた。
「有村さんってさ、どうしていつもアイスコーヒーに氷いれないの? みんなでランチ行ったときとかもそうじゃん?」
丸い瞳が興味津々に問いかけてくる。
──鬱陶しいなあ。
心の中では何を思っていてもそれを口と表情に出さないよう、細心の注意を払って私は笑顔のまま言葉を発する。
「熱すぎても冷たすぎても、飲むのに時間かかるでしょ? その時間勿体ないから」
見上げた彼は呆けたような、よく言葉の意味を理解していないような顔をしていた。
別にそれでいい。理解してほしくて言ってない。
やっとコーヒーがプラスチックのカップに溜まった。私は素早くカップを手に持ち、
「じゃあ、お先に失礼します」
と言い出来るだけ早く会社に歩みを進めた。
きっかけは高校受験に失敗したことだった。
それまでの私はのんびり屋で夢見がちで、ファンタジーの世界に夢中だった。世界中で大ヒットを博したファンタジーの児童小説。偉大な魔法使いの後継者に選ばれた主人公が魔法学校で成長していくその物語が幼い頃から大好きだった。小学校低学年までは将来の夢に『魔女』と言うくらいには、その世界に憧れていた。
ある程度年齢が上がるにつれて、あの世界はフィクションだと理解した。悲しかったけれど、同時に次の夢もできた。小説家になること。私が魅了されたように、素晴らしい物語を多くの人たちに読んで欲しいと思った。
暇があれば小説を書いていた。才能があるかどうかなんて考えたこともなかった。ただ、楽しいから。書いてさえいればいつか小説家になれるとでも思っていたのだろうか。
マイペースな性格が災いした。気付いた頃にはもう周りの子のほとんどが受験勉強に必死に取り組んでいた。朝起きてから夜寝るまで頭の中にファンタジーを住まわせてる人間は、私一人きりだった。
夏に行われた三者面談で
「このままだと希望の高校には行けません」
と担任に言われた。母の顔色は学校に来た時から悪かった。それだけで、もう夢を見ていていい年齢ではないと悟った。私は白紙の原稿用紙も書きかけの小説も全部捨て、勉強に全力を費やすようになった。
第一志望の高校には行けなかった。家から近くて設備が整っている私立の代わりに、私は電車で三十分、そこそこの進学実績のある公立に行くことになった。
高校に入学してからはずっと勉強をしていた。同じ轍をふまないために、大学受験は失敗しないために。
時間は有限だ。そして誰に対しても平等だ。みんなが勉強をしている間に私は漫然と時間を浪費してしまった。その遅れを取り返さなければならない。
部屋の本棚に並んだ件の児童小説は大学進学で家を出るまで一度も開かなかった。登場人物の名前も忘れるほどに、私の頭の中からは存在が薄れていた。
大学は自分の学力に見合って希望の学部のあるところに受かった。父も母もとても喜んでくれた。私はほっとした。高校三年間が無駄にならなかった証明だと思ったから。あの三者面談で見た大人のがっかりした悲しい顔を見なくて済んだことに、安心と喜びを感じた。
次の目標は就職だった。勉強だけやっていても企業へのアピールにはならない。クリーンなイメージがあって覚えてもらいやすいサークルを探して陸上競技部のマネージャーになった。
一度だけ、文芸部の見学に行った。人の好い先輩たちに部誌を見せてもらったり好きな本の話を聞いたりした。久しぶりの高揚感のまま家に帰り、小説を書こうと買ったばかりの原稿用紙に向かった。
何も書けなかった。一文字も。
頭の中にストーリーが浮かぶ。けれども、それを私は文字に起こせない。
キャラクターが何かを訴えている。けれども、その声は私には届かない。
もう小説は書けないのだと理解した。中学生の頃、勉強のタイミングを逸したように、どこかで私は小説を書くタイミングを逸していたのだ。
本棚もない一人暮らしの部屋で私は、誰にも伝えられない物語を思い描いては消すことを繰り返した。
就活では第一志望の企業に内定をもらった。やっと、一番行きたいところに行ける。今までの努力が報われた瞬間だった。小説家になりたいと思っていた自分をやっと消化できるような気がした。
お昼と同じ終業を知らせるチャイムが鳴った。会議中の私は終業時間から三十分ほど過ぎてから自分の席に戻ることができた。
閑散期のこの時期は定時後、一時間も二時間も残業する人はほとんどいない。加えて今日は金曜日だ。オフィスには半分ほどしか人が残っていなかった。
いつもは気にならない冷房の風の音がやけに耳につく。風が頬に直撃して体温が強制的に下げられる。そのせいか頭も痛い。
会議が延びたせいで後回しになった作業を終わらせたらすぐに帰ろう、そう思っていた矢先のことだった。
「有村さん」
課長に呼ばれて席を立ちあがる。
課長は申し訳なさそうな声と表情をわざとらしく作り、薄い唇を開いた。
「これ、月曜日の会議までに必要なんだ。資料にまとめておいてくれる?」
肯定をする以外に良い方法が、頭痛の増した頭では考えつかなかった。
資料の整理を始めてから二時間が経った。夏とはいえ、既に外は真っ暗だ。オフィスにも見えるところに人はおらず、みんな憐れみの目でこちらを見ながら帰って行った。
ガンガンガンとこめかみに痛みが走る。頭痛のせいか疲れのせいか、頭は働かず作業も進まない。
今日中に終わらせたい作業を思い浮かべて、その数に頭を抱えた。
一旦気持ちを切り替えるのに、コーヒーでも買いに行こうかとオフィスの出入り口に視線を向けたとき
「あっ」
見知った人物に思わず声が出た。それは向こうも同じだったらしく、ばちりと視線が合う。
「有村さん、残業おつかれー」
「お疲れ様です」
彼も残業していたところだろうに陽気な声音で小坂さんはこちらに来た。手にはコンビニのビニール袋が提げられている。
「あれ、有村さんのグループって今そんなに忙しんだっけ?」
「いえ、たまたま今日中に終わらせたい作業が溜まってて」
「そうなんだ。それって今日終わらせなきゃいけないの?」
「はっ?」
──どういう意味それ。
彼の不可解な発言についつい思ったままが口から出てしまった。小坂さんは気を悪くした様子もなく、そこ座っていい? と隣の先輩の席に腰かけた。
「俺、新入社員研修のときから有村さんのこと、この子めっちゃ生き急いでなんでかなーって思ってたの」
生き急いでる? 私が? 考えたこともなかったことを言われた驚きから黙っていると、彼の言葉が続けられる。
「朝来るのも帰るのも課題出すのも全部一番。コミュニケーションが嫌いな子なのかなって思ったけどそういうわけでもない。すごい謎だったんだけどこの前の氷抜きコーヒーのとき言ってたことで腑に落ちたんだよね」
熱すぎても冷たすぎても、飲むのに時間かかるでしょ? その時間勿体ないから。確かに私はそう言った。眠気覚ましにそんなに時間かけるなんて馬鹿らしいから。
「だって、時間は大事よ。無駄に過ごした時間が及ぼす影響はどこにあるのか分からない。だから私は前倒しで仕事を進めて時間のロスを減らしたいの」
カーディガンの袖を握りしめながら訴える。彼の目を見れず閉じられた唇を見る。
うーーーん、と唸り声をあげた彼の口が大きく開いた。
「俺は無駄な時間って今まで感じたこと一度もないけどな」
「……そうなの?」
漏れ出た問いかけに彼は力強く頷いた。
「俺、中学は部活を中三の夏までやってたせいで高校受験だめだったし、大学は二回留年してるんだけどさ。部活やってたことも大学六年行ったことも全部後悔ないんだよ。だって楽しかったし」
あっけらかんとした声で話される彼の思い出は、いわゆる失敗の歴史だった。私なら悲しくて恥ずかしくて隠してしまいたいことを、彼は包み隠さず大切そうに話す。
「部活の仲間は今でも大事な友人だし、大学で他人より長く学んだおかげで今の仕事で活かせてる知識もいっぱいある。ゴールに早く到着することだけが重要じゃないって俺は思ってる」
暑い日にキンキンに冷えたアイスコーヒーを飲むとすっきりするし、寒い日に淹れたてのコーヒー飲むとほっと安心するじゃん? 彼は付け加えるように言った。
──そうなんだろうか。
私は今までゴールに到着することが一番大事だと思っていた。それ以外のことは無用と切り捨ててきた。でも、本当に? あの時書きかけの小説を捨てずにとっておいたら、いつか続きを書けていたかもしれないのに? すぐには書けなくても、文芸部に入って毎日書くようになったら新しく物語が生み出せていたかもしれないのに?
「ねえ。小坂さん」
「うん?」
「本当に無駄な時間ってないの?」
私の小さなつぶやきに彼は笑って答えた。
「ないと思うよ。それに、それが本当に無駄だって分かるのはきっと何十年後だから。今の俺たちはただがむしゃらになんでもやるしかないんじゃないかな」
「そっ、か」
手のひらの中の袖は強く握りしめたせいでくしゃくしゃに皺が寄っていた。明日、洗濯をしなきゃいけない。一週間、この冷たさから私を守ってくれた感謝も込めて。
腕時計を見た小坂さんが慌てて立ち上がった。思ったより道草が長引いてしまったらしい。
「色々言っちゃったけど一緒に頑張ろうぜって言いたかった! あとこれ! カフェインの摂りすぎは頭痛の原因になるらしいし美味しいから俺のおすすめ」
と言ってビニール袋からミルクティーの缶を手渡すと瞬く間に去って行った。
私は彼が去った後、しばらくぼぅっとしていた。まだまとまりきらない思考の中で、缶の温かさだけが明らかだった。手のひらにじんわりと広がる温度を頬にくっつけた。冷気に奪われた温度を戻すかのようにゆっくりと温かさが頬に染みてくる。
プルタブを開けて一口飲んだ。甘さが身体全体に巡りいくらか元気が湧いてきた。
もう一度、今日中に終わらせたい作業を思い浮かべる。そのいくつかを月曜の自分に託すことにして、また作業を始めた。
月曜日。天気は快晴だ。朝一番で課長に資料を提出し、何事もなく日々の業務を進めている。
いつものコンビニでサンドイッチと氷の入ったカップをレジに置く。
「お願いします」
いつもと違う注文に空っぽのプラスチックカップを手に取っていた店員さんの動きが止まる。
「氷は?」
「今日は暑いので、たまには飲んでみようかと思って」
そういえば店員さんは笑みを浮かべて、
「いいですね。今日は降水確率ゼロパーセントらしいですよ」
と教えてくれた。
いつもと同じようにコーヒーが満たされるのを待つ。持ち上げたカップはいつもより重く冷たい。
店を出てから一口飲めば、すっきりとした苦みが口いっぱいに広がった。
夏らしいお天気を楽しむべく、私は手近なベンチへ向かう。
眩しくて暑いこの季節もあともう少し。
魔女の眠れない午後 月並海 @badED_
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