笑顔にさせたことの正否

 寝返りを打つたびに腰や関節が痛むので、ほとんど寝た気がしないまま夜を越えた。窓から微かな光が入ってきている。夜明けのようだ。

「役人さん、起きてください。水浴びの時間ですよ」

「ん……」

 急かされて嫌々ベッドを出た。ヴィクトーは既に身なりを整えており、結わえられた黒髪がキッチンに立つ彼の背中で揺れている。朝日がまっすぐに伸びた鼻梁を照らしていて、理知的な顔立ちを際立たせた。我ながら良いキャラデザだなあと寝起きの頭で考える。

「役人さん、そろそろ行かれませんと」

「はいはい」

 不満げなヴィクトーに先導されて俺は水浴びのために家を出た。


 ヴィクトーは無駄なことを喋らない。俺も世間話は苦手だから沈黙のまま並んで歩く。

 鳥のさえずりを聞きながら考えるのはこの後のシーンのことだ。次は水浴びをしていた川で大蛇の魔物に襲われるリザを勇者が助けるシーン──後藤君に描写の甘さを指摘された場面である。

 ふとそこで『ヴィクトーは聞き分けがよすぎる』と言われたことを思い出した。折角登場人物に直接話を聞ける機会だ。俺は横の青年に尋ねる。


「ヴィクトー君は、リザちゃんのどんなところが好きなんだ?」


「はっ? えっ、はぁ? いっ、いきなりなんなんだよ!」


 何気なく呟いた一言は思いがけず、礼儀正しい青年の外面を破壊したらしかった。理知的にデザインしたはずの顔は真っ赤に染まり、動揺のせいで普段のゆったりとした口調から一転、流れるような早口が唇から零れる。その場で固まった彼につられて俺も足を止めた。

 なんだ、年相応なところもあるのか。

 『村の若きリーダーである立派な青年』と彼を描いていたから、見るからに慌てふためく姿に可愛らしさすら感じてしまった。思わず声を出して笑えば気に障ったのか非難の言葉が俺に投げられた。

「何笑ってるんですか。というか、そもそもなぜ僕がリザのことを好きだと思うんですか。あなたは昨日この村に来たばかりでしょ」

「それは、ほら。おじさんの勘というか、昨日の様子見てそんな感じしたっていうか」

「そんな……、今まで誰にもばれなかったのに」

 ──確かにそんな描写は一切しなかったな。

「リザにも意識してもらえたことは一度もないし、それどころかお兄ちゃんって言われるし。僕ってそんなに男として魅力ないんでしょうか……」

 ──確かにリザがヴィクトーのことを話す描写もほとんどないな。勇者に会ってからずっと勇者に夢中なところしか描いてないかもしれん。

「はぁ……。こんなこと聞くのはおかしいですが、役人さんから見て僕はそんなに田舎者のやぼったい男に見えますか?」

「えっ?」


 弱った声が問いかけだと認識して、やっと俺は思考から目の前の彼に意識を戻した。ヴィクトーは眉間にしわを寄せて俺を見つめる。まっすぐなその瞳を見たら、誠実に答えなきゃいけない気がした。

 でも、なんて答える? ネームはリザが勇者と共に旅立つところまで書いたからそこまでの流れは決定事項だ。リザは勇者に夢中だしヴィクトーに振り向くことはない。しかし、そのままを伝えられても彼には理解不能だろう。未来を知っているのは作者である俺だけだから。

 悩んだ挙句出てきたのは、


「お前は、十分魅力的だと思う。リザちゃんもきっといつか、気付くはずさ」


 という月並みな励ましだけだった。

 件のヴィクトーはというと、そうですかと何とも言えない相槌を打ったきり、そのまま黙りこくってしまう。

 結局、俺もそれ以上かける言葉を見つけられないまま、先に水浴びをしていた勇者と合流したため、これ以上この話が進むことはなかった。

「カガリビとヴィクトー! 遅いぞ!」

「遅くはないが。勇者君は早朝から元気だねえ」

「勇者様おはようございます、リザは森ですか?」

「ああ、水浴びから上がって温まるための焚火用にって、薪を取りに行ってくれているぞ」

 勇者の言葉に、ヴィクトーは心配そうに川の向こうの森を見つめた。

 正確な時刻は分からないが、そう時間が経たないうちにリザと魔物がここへ来るだろう。俺は勇者と聖剣の位置関係を確認し、逃げるときに手間取らないように靴紐を強く結んだ。


「ん? 何か聞こえないか?」


 勇者がそう言った次の瞬間、「助けて!」と悲鳴をあげるリザと共に森から魔物が飛び出してきた。

「リザ!」

 ヴィクトーが護身用に携えていた槍を構えると勇猛果敢に前に飛び出た。

 だがそれよりも速く、言葉も発さぬほど冷静に、上空に飛んだ勇者が自身の倍以上の大きさはある大蛇の魔物に向かって、聖剣を振り下ろした。

 黒板を爪でひっかいたような不快な金切り声をあげて大蛇が一刀両断される。

 見上げるほど大きい水飛沫を上げて大蛇の死骸が川に倒れこみ、美しく澄んでいた川の水が青く醜い液体に侵されていく。その光景を俺は声も出せずに見ていた。続いて青臭く嗅いだことのない臭いに息が詰まる。これが蛇の臭いなのか魔物の臭いなのか、想像もしたくなかった。

 生き物を殺す描写は、今までにも何度も様々な作品に登場させてきた。特にバトル物は殺生のシーンなんてあって当然だし、そのことを疑問に思ったことすらなかった。けれども、殺したことで生じる景色の異変や臭いや音については無意識で排除していたように思える。

 漫画では音もにおいも表現できない。一コマきりの景色の変化なんて細かい描写は、エンタメには必要ない。そう思っていた。けれど、その意識のままでいいのか?

 ぐるぐるぐるぐると思考が回る。考えすぎて吐き気すらしてくる。たまらず俺はその場にしゃがみこんだ。

 頭にはこの世界に来る直前に言われた後藤君の言葉が蘇る。


 ──かがり火先生のキャラは、もっと執着があっていいと思うんです。


 俺はずっと自分の描きたい世界を表現することが、最も漫画の魅力に繋がると考えていた。現実には存在しない世界の物語に読者は魅了されると。登場人物とは、物語の中へ引き寄せるため要素の一つだと考えていた。

 けれども、俺は自分が重要視していたものすら満足に描けていないことに気が付いてしまった。登場人物も、世界観も、俺が描いていた漫画には足りないものばかりだ。

 プライドが、漫画家である自分を支えていた部分が、瓦解していく。

 離れたところではリザの身を案ずる勇者とヴィクトーと、それに答える彼女が話をしている。その会話こそ、後藤君に指摘された場面だ。本当ならちゃんとそれを聞いて、リザが勇者に惚れるポイントを、読者が納得する理由を見つけなきゃいけない。

 だけど、足は動かず顔を上げることもできなかった。



 そうこうしているうちに日が完全に昇ってしまった。禍々しく濁った色に変わった川で水浴びは結局できず、俺たちは急いで村に戻る。

 リザは嬉々として勇者の活躍を村中に話して回った。魔物の貴重な鱗を手に入れるために多くの男たちが川へと行った。鱗は武器や鎧の材料にもなるから、村にとっては喜ばしい収穫だ。すっかり気を良くした村長が今夜は宴だと言ったので、女たちも朝から忙しくは準備に追われている。

 俺はというと、早朝のショックから未だ立ち直れずベッドに逆戻りしていた。布団を頭まで被りながら、外から聞こえてくる賑やかな声に耳を澄ませる。

 ほとんどが聞き覚えのない女の声ばかりだが、時折気合の入ったリザの声もそこに混ざっていた。勇者の活躍のことをまた話しているのかもしれない。ここは描写していないから俺にも分からない。

 リザは女の自分にはない、勇者の分かりやすい強さに惹かれたのだろうか。それとも普段のあどけなさと戦闘時の凛々しさとのギャップ? それとも単純に顔が好みとか? どれもしっくりこない。いっそ一目ぼれということにでもしてしまったほうがいいのだろうか。

 目をつむって考え込んでいると、不意に「役人さん? 体調どうですか?」とヴィクトーの声がした。


「なんだ、お前は川へ行かなかったのか」

 毛布を顔から避けると、一仕事してきた風の彼の姿が見えた。

「ええ。宴の準備を取り仕切るのは僕の役目ですから」

 そうなのか、と初めて知った情報に納得する。魔物を倒してから宴までの時間なんて数コマ分しか描かなかったから、その間彼らがどうしてたかなんて考えてなかった。

 窓の外からは女たちの声に混じって、またリザの声が聞こえてきた。俺がヴィクトーを見上げれば、彼の視線は窓の外へと向いていた。

「あのさ」


「リザは、きっと、勇者様に恋をしたんですね」


 俺が言おうとしたことを遮るようにヴィクトーは言葉を被せた。まるで、慰めなんて聞きたくないとでも言うように。

 ぐっと強く眉根が寄った顔でこちらを見る。悲し気な瞳には諦めに似た色を読み取れた。

「……、なぜそう思うんだ」

 それが事実だと知っているのに、わざと問いかける俺は意地悪だろうか。

 何も知らないヴィクトーは言葉を慎重に選んで吐き出した。


「物心ついた頃から隣にいますから、そりゃあ分かりますよ。元々村を出ていきたいと言っている子です。村の外の、強くて優しくて生き生きとした性格の勇者様を好きになるのもなんら不思議ではありません」

 と言ってカーテンを閉めた。部屋が途端に薄暗くなる。明かりはカーテンの隙間から入ってくるわずかな光だけだ。数歩分ほどしか離れていないヴィクトーの表情もほとんど見えなくなった。

 なぜか焦りの気持ちが強くなり、俺は思い浮かんだままを口に出す。

「お前だって彼女のことが好きなんだろ? それならお前が彼女に好きだと言って彼女を幸せにしてやればいいじゃないか」

 とまくしたてると、間髪入れずに反発はきた。


「僕はこの村を出ることはできません。この村を治めるのが村長になる家系に生まれた僕の役目です」

 ──そうだ。彼にその役目を与えたのは、他ならぬ俺だ。

「でもリザは村を出ていきたがっている。彼女の希望を曲げさせてまで得られる幸せがここにあるとは、僕には思えません」


 ヴィクトーは最後に苦笑を滲ませて言葉を締めくくった。

 俺は暗がりの彼を見上げながら、ネームに描いたリザを見送るヴィクトーの笑顔を思い出していた。旅立ちを祝う爽やかな別れにしたかったから、見送る彼の表情は笑顔にした。けれど、そこには彼の本当の胸中は表現しきれていなかった。隠しきった恋心、見ないふりをした寂しさ、無かったことにした村の外に広がる己の未来。そういう複雑な感情を、もっと表情で、描写で、シーンで表してあげることが作者の役目なんじゃないか。

 沈黙した俺が眠ったと勘違いしたヴィクトーは「宴が始まる頃に起こしに来ますね」と言い残して、家を出て行った。

 賑やかな声に一つだけ男の声が混じる。幼馴染との楽しげな話声を聞くまいと、俺は毛布に潜り込んだ。

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