事実は小説(漫画)より奇なり

 ***


 爽やかな風に頬を撫でられる心地がした。窓を開けたままで寝たっけな、と瞼を閉じたまま考える。やけに身体も頭も重い。風邪でもひいたんだろうかと考えてから、背中の感触がベッドにしては硬すぎることに気が付いた。ついでに強い草の匂いがする。三年住んでいるマンションの十四階でこんな匂い、一度も嗅いだことはない。


「なあなあ、おじさん大丈夫か?」


 少年の声がして勢いよく身体を起こした。

 次の瞬間、自分はまだ夢の中にいると思った。


 目の前には、森が広がっているのだった。

 明らかに日本の雑木林や山、竹林ではない。似たような見た目の針葉樹がひしめき、垣間見える空は明るいのに周囲は薄暗く、時折聞いたことのない鳥の鳴き声がする。俺が寝転がっていたのは、人が通るために整備された道のようだった。

「おじさん、だいぶ上等な格好してるけどもしかして王都から来た人?」

 上等な格好? と自分の着ているものを見れば、昨日編集部に行ったままのシャツとスラックス、それに革靴だった。自分の姿に記憶との違和感はない。おかしいのはこの状況だ。

 上半身を慌ただしく動かして周囲を見回す俺に、少年が再度尋ねてきた。

 そして、俺はもう一度己の頭と目を疑った。


 こげ茶色の髪に翡翠色の瞳、控えめなボーイソプラノから想像するよりも強い意志を感じさせる面立ち、上半身を覆うマントと見ただけで薄い布だとわかるぼろいズボン。そして、頭の上からは、背負われた巨大な聖剣せいけんが顔を出す。

 少年の見た目は、頭のてっぺんからつま先まで全て、俺の次回作の主人公である勇者そのものだった。

「お、まえ」

「ん? 俺の事知ってるの?」

 不思議そうに俺を見つめる瞳が陽光を受けて輝いた。その宝石のごとき瞳は間違いなく日本人のものではない。

 俺は深呼吸をして寝る前のことを整理する。昨日は、編集部に行ってネームのやり直しをくらって、それから……。

 そこまで考えて、俺は急速に全身の血の気が引くのを感じた。


 俺は、死んだはずだ。出版社を出た直後にトラックに跳ね飛ばされて。跳ねられた瞬間の景色や痛みは覚えていないから即死だったんだろう。ということは、ここは死後の世界か走馬灯、あるいは夢の一種か何かだろうか。


 死んだっていうのに自分の描いた漫画の世界にいるなんて漫画大好きかよ、と苦笑する。

 身体に目立つ外傷はなかった。そもそも今がどういう状況かも分からない。このまま自分で考えても埒が明かないから、俺の顔の前で掌を振る少年に答えを求めることにした。

「お前、名前は」

「俺? 俺は勇者のネロ」

「じゃあ勇者君、どうして俺を見つけた?」

「おかしなこと尋ねるんだね、俺が王都に行くために森に入ったらおじさんが道の真ん中ですやすや眠ってたんだよ」

「なるほど……。では、ここはどこだ」

「セウォール王国の端にあるリノアの森。おじさんは王都から国境を超えるためにここに来たんじゃないの?」

「俺は……」

 勇者の名前も、地理についてもネームで考えた通りだ。

 驚くほど自分で考えた設定と合致したこの場所は明らかに日本ではないのに、なぜか日本語が通じる。そして、よくあるファンタジー作品に出てくるような彼の見た目。考えたくはないが、どうやら本当に自分の考えた物語の世界にトリップしてしまったらしい。

 思考の容量は既にオーバーしているが、動かなければ自分がこのまま生きていける保証はない。確かこの森にも魔物はいたはずだ。だとすれば、身を守る術は一つしかない。

 頭の中で再構成した自分の設定を勇者に説明する。

「俺は、隣国の役人だ。セウォール王国の王都に重要な伝言を届けるためにこの森に入ったのだが、魔物に襲われてしまい荷物を全て奪われてしまった。だから、俺を勇者君の旅に同行させてもらえないだろうか?」

「役人か! それは災難だったな、俺で良ければ一緒に行こう」

 すらすらと並べられた真っ赤な嘘を、勇者は少しの疑う素振りも見せずに信用した。

 ここはファンタジー世界だし彼は勇者。ましてや男一人旅とはいえ、もう少し用心深さがあっても良かったか、と差し伸べられた勇者の手を取りながら考える。立ち上がって横に並ぶと、

「役人さんのことはなんて呼べばいい?」

 と聞かれた。本名である加賀かが理人りひとを告げそうになったところで、自分の作品のキャラに本名で呼ばれることに何となく気恥ずかしさを覚えた。

「かがり火、と呼んでくれ」

「よろしく、カガリビ! 王都はあっちだ!」

 勇者は声高らかに俺の名前を繰り返すと、太陽のある方へと歩き始めた。



 聖剣が背負われた勇者の背中を追いかけて、不慣れな森の中を進む。たびたび魔物のような、あるいは獣のような足音や鳴き声がしたが、勇者の的確な判断で事なきを得た。そうしてまもなく日も暮れようという頃、ようやく俺たちは森を抜けることができた。

「はぁ、はぁ」

 俺はすっかり疲れ果てていた。運動不足の現代人にいきなりこの運動量はきつすぎる。汗は頬を流れ落ち、膝は疲労でガクガクと震える。もう今日はこれ以上歩きたくない。

「大丈夫かカガリビ?」

「いや……、正直もう今日は進めない気がする」

 俺とは対照的にエネルギッシュな勇者は、俺の様子を伺うと「んー」と悩むような声を出す。

「役人さんは体力ないんだなあ。俺がおぶってやりたいけど聖剣があるし……、今日はここらへんで野宿をしようか」

「はっ? 野宿? 断固拒否なんだが」

 周囲は次第に夜になろうとしていた。凍えるほど寒い季節ではないから、最悪の場合には野宿ということも考えないではないが、昼間と比べて明らかに魔物の声が活発に聞こえる森の近くで寝るなんて考えられない。それに、ファンタジーの世界とはいえ、虫は普通にいるだろうし。描いてないけど、なんか常識的に。

「そんなこと言ったってカガリビがもう歩けないって言うんだからしょうがないだろー! どっか村か町でもあればいいけど」

 村か町。不満げな勇者の言葉を聞いて俺は思い出した。ネームの通りなら、きっとあるはずだ。


「ここからもう少し歩いたら、カイウーいう名前の村があるはずだ。今日はそこで休ませてもらおう」

「カイウー村か、いいぞ。で、どっちの方向だ?」

 方向? そんなことまで考慮して描いてねえよ。ネーム通りならお前は暗くなる前に村に着いて、今頃は村人から歓迎されてるはずなんだから。


 文句は喉元まで上がったが、俺に合わせていたからこその遅れだと思うとそんな言葉も口に出せない。そもそも予言者でもないのにこんなことを言ったら怪しがられる。

「お前はこの後どっちに向かおうとしていた?」

「俺? 俺はあっちだけど」

「よしじゃあそっちに村はある」

「はぁ? ちょっとよくわかんないよカガリビ!」

 勇者が示した方に早速歩き始める。困惑した彼が大声を発したが振り返る元気もない。今はただただ早く清潔なベッドで眠りにつきたかった。



 予想通り、カイウー村はあった。森から二時間離れたところに。


 夜はすっかり更けていて吹く風は冷たさを増している。森からの距離なんて考えてもいなかったが、これは俺の描いた世界だから俺の脳内で決められた距離なんだろう。こみ上げてきた怒りのやり場を探したが、今はそれを吐き出す余裕もない。

 カイウー村は木の杭で出来た塀で囲まれており、俺たちは唯一の門の前に立っていた。門の上に位置するやぐらに向かって叫ぶよう、勇者に言う。

「別にいいけど、こういうときは役人さんの方が話が通りやすかったりするもんじゃないの?」

「いいから早く」

 そもそも彼一人で話が進むようにネームを描いたんだから、俺が手出しすることなんてない。俺はこの夢が覚めるのを待つだけ。ここが死後の世界だと言うなら、魔物に襲われる心配がない王都に行ってから身の振り方を考えればいい。そもそも勇者が王都に行くまでのストーリーはまだ考えていなかったからたどり着けるのか怪しいが。


 勇者がうるさいくらいに通る声で上へ声をかけた。

「誰かいるかー? 俺たちを一晩泊めてくれないか?」

 すると、見張り番がぬっとやぐらの奥から姿を現した。俺たちを一瞥すると、今度は門がゆっくりと開き始める。

 出てきたのは壮年の男たちが数人。確か村の見張り番だったはずだ。明らかに怪しげな二人組に対して警戒心はむき出しである。手に持っている槍は構えこそしないものの、いつでも使えるように携えられていた。


「何者だ」


 端的に発せられた問いに勇者が答えた。

「俺は勇者のネロ。魔王討伐のために王都に行く旅をしている。彼は隣国の役人のカガリビ、彼も王都に行くところだ」

 勇者? と男たちがざわめき立つ。何人かが村の奥へ走って行ったからもうすぐ話も進展するだろう。

 しばらく様子を見ていると、老人と年若い青年が見張りの男たちに先導されてやってきた。

 白いひげをたくわえた老人が俺たちを凝視する。そして、重々しい声色で話し始めた。

「聖剣の方をお見せいただけますかな?」

「おういいぜ」

 勇者は軽い調子で背後の柄を掴むと、その巨大な剣身を皆の前に披露した。

 どこからともなくほうっと感嘆の声が聞こえた。それもそのはずだ。この剣は天啓とともに魔王討伐のための武器として、神が勇者に与えた唯一無二のものだからだ。

 星明りでも煌めく美しさと普通はお目にかかれない規格外の大きさ。それを年端のいかない男の子が持つというのは、主人公として強いアイデンティティになると思っていた。

 自分の考えた設定が上手く活きていることにほくそ笑む。

「まさしくこれは伝説に登場する魔封じの聖剣です。わが村へようこそ勇者様、歓迎いたします」

「良かったなカガリビ! 歓迎してくれるってよ!」

「……いいんですか?」

 勇者の言葉を聞いてから俺は確認のために、村人たちの方へ問いかける。

 すると、白いひげの老人──村長が口を開いた。

「天啓があり東の村の若者が勇者に選ばれたという話は、私どもも聞き及んでおります。聖剣を携えているのがその証、勇者様もそのお連れ様も無下に扱うわけにはいきません」

 どうやら俺は勇者のおかげで屋根のあるところで眠れるらしい。自分の功績をよく分かっていない彼を心の中で拝む。

 村長が話し終わると今度は青年が前に一歩進み出でた。


「勇者御一行様、僕は村長の孫のヴィクトーと申します。村に滞在している間に何かあれば、僕にお申し付けください。早速ですが今夜泊まる家について、」

 ──彼が出てきたということは、次はあのシーンか。

「ぜひわたしのうちに泊まってください!」


 ヴィクトーの話と俺の期待に被さるように飛んできた声のもとに全員の視線が集まった。

 声の主は俺の期待していた人物だった。


 村長たちがやってきた方から長いスカートと栗色の髪を揺らして走ってきた少女は、村人たちの横を駆け抜け俺たちの目の前に来た。

 赤い頬に満面の笑みを浮かべる彼女こそが、のちに勇者の仲間となるリザだ。

 ここは、彼女と勇者の邂逅のシーンである。村の外のことを知りたいリザが勇者を自分の家に招こうとするが、母親と村長の反対により勇者は村長たちの家に泊まる。けれど、翌日に勇者が大蛇の魔物からリザを救ったことで二人は親しくなり、決意を固めたリザは勇者とともに旅を始める、というのが二、三話の流れだ。──そして、俺が後藤君に文句をつけられた話でもある。


「こらリザ、夜に一人で家を出ては叱られるよ」

 突然飛び出してきたリザをヴィクトーがたしなめた。

「でもヴィクトー、大人の男の人を二人ともあなたのおうちに泊めるにはベッドが足りないでしょう? うちならお父さんのベッドがあるわ!」

「それはそうかもしれないけれど。でも、お母さんに許可は取ったのかい?」

「うっ、それはこれからだけど……」

 記憶にある通りの会話が目の前で繰り広げられる。幼馴染で想い人である彼女の暴走を止めようと、おろおろとしたヴィクトーの視線がこちらに向けられた。

「いかがいたしましょうか……」

「どうする? 勇者君」

「俺はどっちでもいいよ。ベッドを貸してもらえるだけでありがたいから」

「じゃあ俺が村長のお宅にお邪魔しよう」

 どうせ明日には勇者とリザは親しくなるのだから、一日早くなっても問題ないだろう。リザの家は父親が出稼ぎに行っているため、母と娘の二人暮らしだ。そんな家には俺よりも少年の勇者が行った方が世間体も気にならない。

 喜ぶリザの声を聴いたヴィクトーは一瞬がっかりした表情を浮かべたが、すぐに元の真面目な顔に戻して俺たちをそれぞれの家へと案内した。


 村長の家で軽く夕食を食べてすぐにベッドに入る。残念ながら風呂はなく、明日近くの川で水浴びをすることになった。着替えもないため、着の身着のままで布団に包まる。

 野宿よりはマシだが、固い寝床に辟易する。身体が沈むマットレスや清潔なパジャマが恋しかった。なぜファンタジーなぞ描いてしまったんだろうと後悔が頭に満ちる。だが不平を並べたところで生き返るわけではない。今はこの悪夢が覚めてくれることを祈るばかりだった。

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