第三章 夜道を行く

第8話 昔に背を向けて

 そこからは大騒動だった。実代は湯番の老人に真千の身を任せると、素早く身支度を整えて宿場まで戻ってきた。驚く座長たちに落ち着いて事情を話すと医者と籠の手配を頼むと、自身は同行を申し出た勘助とともに再び温泉場まで舞い戻り、籠が来るまでのあいだ真千の看病にあたった。

 真千の熱はひどいものだった。全身が赤くなっていて、拭っても拭っても汗が吹き出す。籠が来るまでの間、実代は勘助に三度も井戸水を汲むよう頼んだが、それでも全く熱は収まろうとしなかった。


「……ごめんね……実代……私……」

「お母さん……私は大丈夫……だから静かにしていて」

「お真千さん、ここはお実代ちゃんの言う通りだ。医者に診てもらうまでは静かにしてるってのが良い患者に違いねえ」


 普段は軽口ばかりが飛び出てくる勘助も、惚れた女の一大事とあってはそうしてもいられないのか、いつになく真面目で頼りがいがあるように実代には思えた。

 やがて手配した籠が到着し、実代と勘助は籠の中に真千を乗せて送り出すと、自分たちは徒歩で宿場に向かう。最初に宿場を出た時にはまだまだ高かった日は、いつの間にか沈みかけていた。

 実代は提灯を持った勘助と一緒に道を急ぐ。


「お母さん、大丈夫かな……?」

「大丈夫かな、じゃねえよお実代ちゃん。大丈夫なんだ。そう信じろ」


 実代がぽつりと漏らした言葉を聞きつけた勘助は、力強く助言する。


「どうして……勘助さんはそう言えるの?」

「そりゃそうさ。俺たちが心配で心配で夜も眠れねえだなんて、お真千さんの前で言ってみろ。治るものも治らなくなっちまう。俺たちはただ、治ることを信じてりゃいいんだ」


 俯き気味に歩いていた実代は、顔を上げて勘助のことを見る。とても真剣な表情だった。


「勘助さん、ちょっと怖い……」

「怖い……? お実代ちゃんに怖がられるとはとんだ不覚だぜ」

「でも……ちょっと格好いい……かな?」

「おいおい、どっちなんだよお実代ちゃん?」

「どっちもだよ」

「あんまり大人をからかうもんじゃねえぞ」


 勘助は憮然とした表情を浮かべるが、その様子が実代には微笑ましかった。

 勘助と話をしているうちに少し気分のほぐれた実代は、勘助に以前から気になっていたことを訊ねる。


「ねえ、勘助さん」

「なんだい、お実代ちゃん」

「勘助さんはお母さんのどこが好きになったの?」

「ぶっ! ……おいおい、今、それを聞くのかよ」

「今だから聞きたいの。だってお母さんに何かがあったらもう聞けないし、無事なら無事で勘助さんに何かしてあげられるかも知れないじゃない?」

「……よく考えてるじゃねえか、お実代ちゃん」


勘助は空いている手で実代の頭を軽くなでると、改まった表情で実代を見る。


「……ま、そんなに面白い話でもねえ。昔惚れた女に似てるってのが最初よ」

「惚れた女? 昔に?」

「ああ。俺は一座に入る前、一人で芸を磨くために旅をしててな。立ち寄った先の村で千賀ちかという名の娘に出会った」


 勘助は少しだけゆっくりと歩きながら、静かに実代に昔を語る。


「もう、見た瞬間こいつしかいねえと思ったもんさ。あの時はあれほどの女には出会ったことも無かった。勿論、必死で口説いたし一緒に暮らしていた婆様にも何度も頭を下げた」

「婆様?」

「千賀には両親がいなかったんだ。母親は産まれた時に亡くなり、父親も母親の後追いで亡くなったらしい。で、残された婆様が親代わりに千賀を育てていたんだと」

「何だか可哀そう……」


 実代が表情を暗くすると、勘助は実代から視線を外し闇の先を見つめる。


「可愛そう、か……そうだな。……だが、俺はもっと可哀そうなことを千賀と婆様にしちまったんだ……」

「え、勘助さんが……?」


 実代が驚くのも気にせず、勘助は声を一段低くして離し続ける。


「……長いことかかったがようやく婆様からも許しを得て、俺は千賀と結ばれた。千賀の腹には子供もいて、俺も芸事を諦めてその里に骨をうずめる覚悟だった」

「……」

「だが、待ち望んだ子供が産まれた日、千賀はあの世へ旅立っちまった。俺はずっと側にいたのに、千賀の為に何一つしてやることが出来なかった。子供が生まれても、何も喜べなかった。千賀と子供と、その両方が揃っているからこその幸せだろう。その時の俺はそんな様に思ったものさ」

「……」


 実代は黙ったまま勘助の顔を仰ぎ見る。提灯の灯りに照らされたその顔は、実代が見たことも無いほど醜く歪んでいた。


「そうして産まれた子供の面倒もろくにせず、俺は千賀のことばかり考えていた。婆様の説教も耳に入らねえし、子供の名前を考えることすら忘れていた。そうこうしている内に、今度は里の連中が千賀が死んだのは妖の呪いのせいだと騒ぎ始めて、あまつさえ呪いにかかった原因がよそ者の俺のせいだと言い出しやがった」

「そんな……」

「まあ、千賀みたいな気立ての良い娘が幸せの最中に亡くなっちまったんだ。その原因をよそ者の俺のせいにしたい気持ちは分かる。ましてその男が、どこの馬の骨とも知れない流れの芸人崩れで、産まれた子供の面倒もろくにしないような男ならなおさらだ」

「じゃあ、勘助さんは……?」


 実代のその問いかけに勘助は一度立ち止まると、持っていた提灯を道端に置いてから短く答えた。


「逃げたよ」

「えっ……?」

「里の連中も婆様も、子供も、何もかも捨てて逃げ出した」

「……?」


 実代は混乱して、訳の分からないものを見る目で勘助を見ている。人の所業とも思えないような行為を人の好い勘助が行うはずがないと、実代はまだ信じていた。

 動揺する実代の姿に、勘助は済まなそうに俯きつつ言葉を続ける。


「繰り返しになるが、俺は里から逃げ出した。何もかもを放り出してな。俺も己を惨めだと、愚かだと思ったさ。命を賭けて愛そうとした嫁さんのことも、その嫁さんが命を賭けてこの世に産み落とした子供のことも、みんな捨てて逃げ出したんだ。今すぐ殺されたって文句の一つも言えねえよ」

「……」

「勿論、逃げたところで何も変わらなかった。千賀を失った悲しみも、子供たちを見捨てた苦しみも、何もかもが逃げた先でも俺を苛んだ。そうして苦しんだ果てに、身捨てでもしようかと辺りをさまよっていたところを今の座長に拾われて、そしてお実代ちゃんたちに出会った、というわけだ」

「……」


 勘助が話すのを止めても、実代はじっと押し黙っていた。勘助のしたことをどうしても許せないと思う傍らで、言い訳をすることも自分の弱さを隠すこともなく話を打ち明けてくれた勘助の様がどうしようもなく哀れに思えてならなかった。

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