第7話 指切りの後に

 それから三年の月日が過ぎ、実代は真千のことを変わらず母と慕っていたが、気にしているのは真千が白雲に授かったという霊薬のことである。真千の話していたことに嘘が無いのなら、実代が十の歳を数えるようになった今は、もう霊薬の加護はほとんど失われていることになる。ことによっては完全に失われているのかもしれない。

 そうなったらどうなるのかは真千にもよく分かっていないようであったが、きっと何かしら良くないことが起きるに違いないと実代は思っていた。実代が物心ついた頃からほとんど病を知らず、荒事に巻き込まれても怪我の一つもしなかった真千ではあったが、今後もそうだとは限らない。

 それでなくとも真千はあまり自分の体を大切にしないところがあり、今日も事前に一座の仲間に根回しをして座長に約束を取り付けていなければ、こうやって温泉でゆっくり体を休めることも無かっただろう。

 今日実代が一座の仲間たちに根回しを行って真千を連れ出したのは、真千にもう一度霊薬のことを問い質すことの他、少しは骨を休めることを覚えてほしいという実代なりの孝行の表れだった。

 真千の方も実代の言わんとしていることを察して、俯いている実代の手を静かに握る。湯のせいか、実代はその手を少し熱く感じた。


「そうね。白雲さまの仰っていた十の年はもうまもなく過ぎるわ。霊薬のご加護もほとんど失せているのでしょうね。……あるいは、とうの昔に消え失せているのかも知れないけれど……」

「じゃあ、お母さんはそのうち……」

「……実代、勘違いをしては駄目よ?」

「えっ……?」


 たしなめるような真千の言葉に実代は顔を上げる。そこには実代の大好きな、ここまで自らを育ててくれた『母』の優しい微笑みがあった。


「確かに、霊薬の効果は十の年で失せると白雲さまは仰っていたわ。でも、効果が尽きた後、直ぐに命そのものが尽きるとまでは仰られていなかった。……つまり、霊薬のご加護が失せてしまっても、その後をどう生きるかは私が決めることなの」


 真千は静かに実代にそう語る。真千自身も、十の年が過ぎた後のことを考えていなかったわけではない。実代には語っていなかったが、ただの老婆に過ぎなかった自分が若返って新たな名と共に生きるようになってから、ずっとその時の終わりが来ることを恐れていた。

 だから真千は懸命に生きた。懸命に生きて、過ぎゆく日々に思い残しがないようにしたいと考えていた。実代のことも、一座のことも、真千にとっては大切なものであり、大切なものの為に懸命になることは真千にとっては何ら不思議なことではなかった。

 ただ、一つだけ真千にも考えが及ばなかったこともあった。


「その割に……お母さんは自分を大切にしないのね」

「……私を大切に?」

「そ。前にも言ったけど、お母さんは人には手前勝手になるなと言うのに、自分は手前勝手な考え方ばかりするのだもの。人には心配するな心配するなって言うくせに、自分がどれだけ人に心配をかけさせてるかにはこれほども気付かないで」

「……そうかしら……?」


 実代の鋭い指摘に真千は咄嗟にごまかしたが、内心ではずきりと痛みを感じていた。真千自身は十分に気を遣っているつもりであったが、本当に相手にそれが伝わるように振舞えていたかどうかは自信がない。

 真千は実代が来る前の座長の困っているような表情を思い浮かべる。


「そうに決まってるでしょ! 今日だって、私がこうやって連れ出さなければ休もうともしなかったでしょうし……いつもお母さんの頑張りに私も皆も助けられてはいるけれど、少しでいいからその頑張りをお母さん自身を助けるために使ってあげて! お願いだから……」

「私自身を、助ける……?」

「だって、お母さんがもしこのままいなくちゃったら、私はどうしたらいいの……? 親孝行も何もすることも出来ないまま……一人ぼっちになっちゃうんだよ? ……私、そんなの嫌! まだお母さんと一緒に居たい!」

「実代……」


 実代はとうとう堪え切れずにその場で泣き始め、真千はどうして良いのかわからずしばらく硬直して動けなかった。

 少し経って冷静さを取り戻した真千は、少しふらつく体を励まして実代の顔を優しく抱いた。


「お母さん……?」

「ごめんなさい実代。私はまた、あなたのことをちゃんと分かってあげられていなかったわ……あなたのために、皆の為にと頑張っていたのが迷惑にもなっていたのにも気付けていなかった。少し一途すぎたかしらね?」

「……そうだと思う……」

「でも、あなたがそうだと教えてくれたのなら、少しは遠慮も必要ね。……これからは少し自分を労わっていくようにするわ」

「……約束してくれる?」

「ええ、約束よ」


 真千は実代の頭を抱いていたの片方を下ろし、小指を実代の小指と合わせて指切りをする。

 実代の方も既に泣き止み、指切りするところをぼんやりと眺めていた。


「これで大丈夫ね」

「お母さん……ちょっと熱い」

「あら、ごめんね実代。ちょっとのぼせちゃったかしら」


 実代からそう言われて真千はそっと実代から体を放す。実代が見た真千の顔は随分と赤く見えた。


「お母さん、顔が真っ赤……少し休んで来たら?」

「……そうね、少しだけ休んでくるから、実代はもう少し温まっておきなさい……」


 真千はそう言って湯船から上がったが、数歩も歩かないうちにゆらりとその場に崩れ落ち、それを見ていた実代は悲鳴を上げる。


「お母さん!」

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