第3話 真千と実代
白雲はそんな千代の姿を僅かな間だけ憐れみを込めた目で見つめ、すぐに気を取り直すと、神々の末席にもその名を連ねる誇り高き『白雲の女烏』の顔になり、告げる。
「相分かった! この白雲の女烏、確かに汝の願いを聞き届けた! 我が命数を保ちし神仙の霊薬、汝の名と引き換えに授けん。面を上げよ」
千代は言われるがままに顔を上げる。視界に入ってきたのは先程までの険しさを備えた鬼女の姿とはまた違う、神秘の雰囲気を漂わせる女神の姿であった。
「受け取るが良い」
その言葉と共に白雲が千代の前に差し出したのは一房の果実であった。薄桃色の小さな粒の詰まっていて、
「……これが……?」
「古き民に代々伝えられし神仙の霊薬なり。実を食した者の身に神通の力を与え、その身を悪疫や破傷より守らん。なれど、その加護は年をひとつ経るごとに弱まり、十も年を重ねれば消え失せる。我は霊峰の奥底に在る霊樹よりその護持と引き換えにこれを授かり、定められし時に霊薬を食み、命脈に永き時を徴してきた」
厳かな白雲の語りに千代は大きく息を呑む。
「それを……わっしに……」
「本来であれば容易に授けし供物にあらず。然れど、
千代は白雲から差し出された果実を、恐る恐る受け取った。
「……これを食べればよろしいのでごぜえますか?」
「然り。先に明かした通り、一度霊薬を食めば十の年を過ごすまで、汝には神仙の力が宿らん。その御力を以て、赤子を育むが良い」
「承知いたしましてごぜえます……わっし、千代はその名をあなた様に捧げ、御力をお借り申し上げますだ……」
千代は改めて白雲に誓約すると、震える手で果肉を数粒つまみ、静かに口の中に含み入れた。
果肉は口に含んだその瞬間にすぅと溶けていく。歯応えのあるものを想像していた千代は拍子抜けしたが、特に体に変化を感じられなかったこともあり、さらに数粒を口へと運ぶ。それが終わったらまた数粒。
そんなように千代が霊薬を食べているうち、千代の体は少しずつ変化を始めていた。
皺だらけの肌は少しずつ柔らかさと潤いを取り戻し、白く硬かった髪も艶のある滑らかな黒髪へと変わっていく。曲がっていた背骨も真っ直ぐに伸び、老いて痩せこけていた肉体にも弾力が戻る。
しばしの時の後、白雲の前にいたのは生に疲れ果てた顔をした老婆ではなく、人として盛りを迎えたと思しき一人の女であった。女は若々しさを取り戻した己の肢体を不思議そうに眺めている。
女の変化を確かに見届けた白雲は満足そうに小さく頷く。と同時に、その場を支配していた己の気配を緩める。
白雲の気配が緩まると同時に、女は口を開いた。
「白雲さま、あの、私は一体……」
「……見ての通りさ。霊薬の力であんたの体は神仙の力を宿し、活力を取り戻した。十の年が過ぎるころまでは何事もなく過ごすことが出来る」
「十の年まで……」
女はその言葉を反芻する。十の年という言葉を己に刻み込む。
「だけど……注意しな。あたしと違ってあんたは霊薬の在処を知らない。あたしもあんたにそれを教える義理はないし、これ以上の霊薬も渡せない……この意味は分かるね?」
「……もう霊薬は手に入らねえのでごぜえますね……」
「そうさ。更に言うならば、十の年って言うのも厳密な話じゃない。一年ぐらい前後することも在り得るからね、霊薬の効能が完全に失せる頃、それまで感じることのなかった疲労や発熱に悩まされることが増えるはずだから目安にするんだよ」
「ありがとうごぜえますだ、白雲さま」
白雲は素直に頷く女を見て目を細め、それから少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「良い心掛けだね。……時にあんた、自分の名前を言えるかい?」
「え……? 私は……あれ……? 名前が……わからねえ……?」
白雲に指摘されて、女は自分の中から『名前』が消えていることに気が付く。否、正確には忘れているわけではなく、頭のどこかで小さく隠れているような感覚はあるのだが、どうしても自分の『名前』を思い出すことが出来なかった。
「……約束通り、あんたの『名前』はこの白雲の女烏が頂いたよ。少なくとも霊薬の効力が尽きるまでは、あんたは自分本来の名前を口には出せないからね」
「……そんな……」
女は呆然となった。決して交わした契約を軽く見ていた訳ではなかったのだが、自らの名前が自分の中から抜け落ちてしまうというのは、想像も出来ないほどの虚ろな感覚を伴っていた。気付けば女の目から儚げな涙が一筋流れている。
白雲は女の様子にも動じることなく淡々と言葉を続ける。
「……おやおや、あんた、泣いている場合かい? 側にいる宝物の面倒を見てやらないといけないんだろう?」
「……えっ?」
女が慌てて側に目をやると、静かに寝息を立てて眠っている赤子がいる。その赤子に何故か愛おしさを感じた女は優しい手つきで抱き上げた。
「……はっきりとは分からねえですが、私の子でごぜえますか?」
「惜しいがそうではないさ。あんたと同じ一族の血が流れているのは確かだけどね」
白雲は女をはぐらかす。当然、白雲は赤子と女の関係を知っているが、それを教えてしまっては女と交わした契りに反する。女がその名を捨てる覚悟で交わした契約を安易に反古とするのは、女の決意を汚す行為に他ならないと白雲は考えていた。
そんな白雲の心中を覗けるはずもない女は、赤子と白雲の顔を見比べながら口を開く。
「……なら、私の血縁の者でごぜえますか?」
「ま、あんたがその子の血縁で何も間違ってないね」
「名は……?」
「その子の名かい? 名は……」
そこで白雲は少しだけ考えを巡らし、すぐに朗々とした声で女に告げる。
「
「実代……しっかと覚えましてごぜえます」
女は微笑みながら白雲に応じる。
「それと……ついでと言ったら悪いかも知れないけどね、名を無くしたあんたが名乗るに相応な、新しい名を授けようじゃないか」
「私の名前……?」
「名を失った名無しのままでは不都合も多いだろうからね。あんたの名前を預かる者として、過不足のないようにしてやろうということさ」
白雲はそこで初めて自分から女に歩み寄ると少しかがむようにしてその顔を見つめた。白雲にまじまじと顔を覗かれた女は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
女の表情を見た白雲は、慈愛に満ちた表情を浮かべ女に新たな名を告げた。
「いいかい? ……今からあんたの名前は
「……真千……? 私の名前が、真千……」
「気に入ったかい? それとも別の名の方が良いかい?」
「とんでもごぜえません。真千という名前、とても良う馴染みまする!」
白雲の試すような口振りに真千と名付けられた女は慌てて答える。
とっさに出た言葉であったが、確かに真千という名は女の心のどこかでよく馴染んでいた。全てではないにせよ、名前を失うことで生じた虚無が薄らいだような気がするのだ。
「そいつは結構! これで問題はなくなったわけだね」
これで気掛かりは無くなったとばかりに、明るい声で白雲はそう言うと真千と実代に背を向けて林の中へと歩み去ろうとする。それを見た真千は慌てて白雲に声をかけた。
「お待ちくだせえ白雲さま。……私とこの子はこれからどうすれば……?」
「真千、それはあんたと実代が決めることさ。どこかの里に住まうなり何なり、好きに生きれば良い」
「しかし、このような山の中で赤子と二人では、どこへ向かおうにもままなりませぬ」
「そうでもないさ。あんたが含んだ神仙の霊薬は神通の力をあんたに授けてくれたはずさ……試しに立ち上がってこちらへ来てみな」
白雲のその言葉のまま、真千は実代を抱えたまま柔らかな動きで立ち上がり、天女の様に軽やかな足取りで瞬く間に白雲の下へと辿り着く。己の体がこんなにも軽やかに動くことに真千は驚く。
「私の体が……このように軽く……」
「今のはまだまだ序の口。本当に霊薬の力が馴染めば、天をも駆けるように動くことだってできるだろうさ……あんたに必要かどうかは置いておいてね」
それを聞いた真千は少し無念というような面持ちで実代の顔を見ながら白雲に話す。
「その様な力、私にではなくこの子にこそお授けになられれば……」
「あたしが約定を交わしたのはあんたであって実代じゃない。それに……」
「それに……?」
「子を良く育てるには良い親が必要なのさ。我が子の為なら己が身を投げ捨てる志を備え、その上でなお我が子と共に生きようとする愛ある人がね。そして、それが出来るのはその子の血縁であるあんたしかいないんだ」
真千は白雲の語る言葉の一つ一つに苦しそうに顔を歪める。真千の中で言葉が暴風のごとく吹き荒れているというのに、なぜそうなのかが理解できない。実代のことも大切に思えるのだが、何故大切なのかが分からない。己の中にある『何か』が泣き叫んでいるように真千には思えてならなかった。
赤子を取り落とさぬように腕を硬くさせながら苦悶する真千の姿を目にした白雲は、目を伏せながら思案を巡らせる。
「どうやら……少しばかり霊薬がきつすぎたみたいだ。あんたの中で失われたものが多すぎて、支えるべきものを支えられない」
「……」
「……仕方がないね。真千、あんたに交わした契りとは別にこれを託そう」
「え……?」
未だに止まぬ苦しみからそれでも何とか自分を留めた真千は顔を上げて白雲の方を見る。その白雲は難しい表情で懐から紙と筆を取り出し、さらさらと何かを書き記した。
白雲は記した紙をそのまま真千へと手渡す。紙には『誓』という文字だけが記されている。
それを見て首を傾げる真千に、白雲がその意を伝えた。
「ちょっとしたお守りだよ。何か、どうしてもあんたの力だけではどうにもならない出来事が起こったらのなら、その時はその紙を真二つに破って捨てな。その時はこの白雲の女烏がどこに居ようとあんたと実代の下へ馳せ参じ、力になろうじゃないか」
「そのような……恐れ多い……」
「このあたしが珍しく損得無しであんたにくれてやろうって言ってんだから、ありがたく受け取っておきな。滅多にないことなんだからさ」
「は、はあ……」
真千は白雲の勢いに押されて目を白黒とさせながらそのお守りと称される半紙を受け取る。白雲は更に何やら中身の詰まった巾着を取り出すと中身を雑に辺りへ投げ捨て、それも真千に渡す。
「半紙を入れるものがないと大変だろう。中に気付け用の丸薬を詰めていたから少々匂うだろうが、あいにく他に持ち合わせも無くてね。後で洗濯でもしておいておくれ。そいつを返せなんて言うつもりも無いからさ」
「何から何まで……ありがとうごぜえます」
「
白雲は真千にそう告げると今度こそ踵を返し、夜の闇に閉ざされた木々の間へと歩み去っていく。真千ももう白雲を呼び止めることも無く、その姿が見えなくなるまで見送ると実代をしっかりと腕に抱き、忘れてしまった自分が来た道とは反対の方角へと歩んでいった。
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