第2話 千代の決意

 白雲はしばらく無言だった。千代の語った言葉をじっくりと吟味しているかのようであった。

 その間、千代はじっと目を閉じつつその両手でしっかりと赤ん坊を抱き、白雲の次の言葉を待ち続けている。

 やがて、白雲はゆっくりと言葉を選ぶように千代に語り掛けた。


「千代、あんたの気持ちは理解したよ。だけど話を続ける前に少しだけ事の次第を整理しようか」

「……はあ……」

「……まず、あんたはその子にどうにかして生きていて欲しい。しかし、もう里には戻れないうえ、あんた自身もいつまで生きられるか知れたものじゃない。そうだね?」

「……その通りでごぜえます……」


 白雲は淡々とした口調で千代に確認し、千代も異論をはさむことなく素直に返事をする。


「……ということは、誰かが親代わりになって里に戻ることなくこの子を大人になるまで育てれば良いわけだ……とはいえ、助けようにもおいそれと助けるわけにもいかなくてね」

「な、何故でごぜえますだ……?」

「つまり、助けを求めるのならばそれなりのものを寄こせという話さ……ま、特に確認せずとも今のあんたから貰えるものは何もなさそうだしねえ……」

「……そんな殺生な……!」


 思わず千代は情けない声を上げてしまう。話を聞く限り、白雲は事の次第によっては千代たちを助けても良いと思っているようではある。ただ、そのためには必要な対価を差し出さねばならないらしい。白雲の言葉通り、ひ孫とその身一つで家を飛び出してきた老婆には、己が命くらいしか差し出すものはない。

 そこに追い打ちをかけるように白雲から無情な言葉がかけられる。


「そうそう、命と引き換えに……なんて話は無しだからね。あたしがあんたの命を奪ったところで何の利益にもなりゃしない」

「……」

「大体、あんたが死んだら誰がその子を育ててやれるんだい? あたしは師匠として弟子を取ることは出来ても、一からよそ様の子供を育てる母親の代わりにはなれないよ……やることが多くてね」


 機先を制された格好になった千代は何も言えずがっくりと両肩を落とす。抱かれていた腕から力が抜けたのを感じ取ったのか、赤ん坊が目を覚ましてぐずり始め、間もなく大きな声で鳴き始めた。

 千代は気を取り直して懸命に赤ん坊をあやしたが、家を離れる時と同じように容易には泣き止もうとしない。

 白雲の声が背後から響いてくる。


「元気の良い、可愛い子じゃないか」

「……」

「……その子が何故泣いているか、あんたは分かるかい?」

「……え……?」


 思いがけない言葉を投げかけられ、千代は思わず後ろを見てしまう。

 そこには、千代が見たことも無いほど美しく白い肌をした、修験僧のような格好をした短髪の女性が立っていた。逞しくも美しいその姿は山の女神かと見紛うばかりで、老若男女を問わず見た者を虜にしてしまう魅力に満ちているように千代には感じられた。


「こっちを向くなと言っただろう……仕方のない婆様だね……」


 姿を見られてしまった白雲の女烏はやれやれというように肩をすくめる。


「ま、いいさ。……いいかい、その子はあんたに死んでほしくないから泣いているんだ。あんたに生きてほしいから泣いているんだ」

「……そんなこと……」

「あるはずもないかい? ……そりゃあんたの勘違いだよ。生まれたばかりの赤子でも人を気遣う優しさはあるものさ。しかも、その相手が実の母親も同然の存在であるならばなおさらだろう?」

「……白雲さま……」


 白雲の言葉を聞いた千代の目に今度こそ大粒の涙が浮かぶ。情けなさと嬉しさとが混じり合い、白雲の前でなかったら千代は恥も外聞もなく号泣してしまったことだろう。

 肩を震わせながら涙を流す千代を白雲は静かに見据え、千代が落ち着くのを待ってからゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……それを踏まえてだ。このあたしと契りを結ぶつもりはあるかい、千代?」

「……契り……?」

「そう。……あたしが要求するものをあんたが捧げるのならば、代わりにあんたに今必要なものを与えよう」


 唐突な白雲の提案に、千代は赤ん坊をあやすのも忘れきょとんとした表情を浮かべる。そんな千代の姿を見た白雲は思わず苦笑いを浮かべる。


「ははは……ちょっと話についてこれないかね。つまり、あたしたちは対価も無く人の手助けは出来ない。しかし、あんたには命の他にあたしに捧げられるものを持ち合わせていない。けれど、このままではあんたもその子もここで死んじまう。流石のあたしもそれを捨ててはおけないという訳さ」

「……で、では……!」

「ま、このあたしが妥協することになるとは思ってもみなかったけどさ。その代わり、生易しい要求はしないから覚悟することだね」


 白雲の言葉に、千代は既に疲れ切っている老体をどうにか奮い立たせる。

 ともあれ、ひ孫が助かるかもしれないのである。千代には白雲が何を要求してくるのか想像も出来なかったが、それでもひ孫を助けるためならばと、千代は改めて覚悟を固めた。

 一方、白雲の方はそんな千代の覚悟など吹き飛ばさんばかりに鋭い視線で冷たく見据えてくる。


「覚悟はいいかい、千代とやら」

「……この老いぼれの身など、惜しむこともごぜえませぬ。わっしは……少々生きすぎました……」

「そうかい。そいつは大儀なことだ。だが、これからあたしがあんたに貸すものも、代わりに頂くものも今のあんたにはちと酷な話かも知れないよ? ……本当に良いんだね」

「構いませぬ」


 よく考えろと促す白雲の言葉に迷いなく千代は答える。こんなところで怯んでいるようでは先に逝った娘や孫娘に申し訳が立たぬとばかり、懸命に白雲の顔だけを見つめていた。

 しかし、そんな千代の視線など相手にしていないかのごとく、白雲は冷たく千代の顔を見下ろしながら話を続ける。


「ふうむ……それじゃあ、あたしがあんたに求めるものとあんたに与えるものを話そうか。それを聞いたらあんたも考え直すかもしれないからね」

「……」

「まず、あたしがあんたに求めるものはあんたの名前だ。勿論、名前を変えろだの何だのっていう生易しい話じゃない。あんたが『千代』という名前でで生きてきた『時』も丸ごと頂くよ」

「……それは……?」

「分かり易く言うならば、あんたは金輪際『千代』と名乗ることが出来なくなるってことさ。『千代』として培ってきた一切合切も捨ててもらうことになる……そう、その赤子の曾祖母であることも、ね……」

「……!?」


 その言葉に千代は喉から悲鳴が出かかるのを何とか飲み込んだ。白雲はその様子に気付いていたが、知らぬふりをして話を続ける。


「その代わりに、あたしがあんたに与えるのはあたしの命数。丁度あたしは不老長寿を授けてくれる神仙の霊薬を近隣の霊峰から採ってきた帰りでね。全てを授けるわけにはいかないが、あんたが『千代』として生きてきた時と引き換えるに足りる分くらいは分け与えられる……そしてそれを用いれば、あんたの体に刻まれた老いは薄れ、その赤子を育てるだけの命と力を取り戻せる……というわけさ」


 白雲が言葉を終えた後も千代は押し黙ったまま考える。


 白雲が千代に与えてくれるのは命の猶予。不老長寿を得られるという神仙の霊薬を千代に授け、その薬を用いれば千代は赤ん坊を育てる力を得られる。

 一方で白雲が千代に求めるのは『千代』として生きてきた時間そのもの。名を捨てるだけにとどまらず、可愛いひ孫に肉親と名乗ることすら許されず、赤の他人として接していかなければならない。

 言うなれば、命以外の全てと引き換えに命を永らえるに等しい。己の命を賭して命より大切な宝物を護ろうとしていた千代にとって、それはあまりにも皮肉な契りだった。


 だが、それでも千代の決心は揺らがない。今護るべきなのは赤ん坊、己と娘と孫娘が繋いだ命の繋がりなのだ。たとえ千代が『千代』でなくなったとしても、ひ孫にひいばあさまと名乗れなくなったとしても、子が大人に育ち新たな命を繋げることが出来るのであるならば、千代にとっては本望だった。

 ふと気が付くと、腕の中の赤ん坊は泣き止み再び安らかな眠りについていた。もう危ないことは何もない、とでもいうように。

 千代は可愛いひ孫の寝顔を惜しむように一目見ると、ひとときの間だけと側に降ろし、すぐに白雲の顔を真っ直ぐに見つめてこうべを垂れた。


「……白雲さま、おねげえでごぜえます。何卒、この千代にお力をお貸しくだせえませ……この通りでごぜえますだ……」

「いいんだね、千代……応じたからには後戻りはできないよ?」

「構わねえでごぜえます……何卒、何卒……」


 白雲の翻意を促す言葉にも自分を曲げず、千代は何卒、何卒と念仏か何かの様に唱え続けた。

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