千代の真実(ちよのまこと)
緋那真意
第一章 千代と女烏
第1話 白雲の女烏
遠い昔のこと。
赤ん坊の女の子を抱いた老婆が山を登っている。老婆は名を
赤ん坊の親は千代の孫で、子を産むときに亡くなった。
孫の親、つまり千代の娘も子を産むときに亡くなっていて、不幸が二代続けて起きたことから、近隣にこの家にはたちの悪い呪いがかけられているのではないかという噂が立つようになった。
しばらくはそれに耐えていた千代であったが、ひ孫の父親が噂にいたたまれなくなって一人で家を離れるに至り、着の身着のままでひ孫と共に住んでいた家を離れ、天狗が出るという言伝のある険しい山へと入っていった。
どうにか山の奥深くまで辿り着いた千代は、疲れ果てた表情でたまたまそばにあった木々に背中を預けるようにして腰を下ろす。
腕の中で抱かれている赤ん坊はしんとした様子で眠っている。住居を離れる時には随分と激しく泣いていたのだが、どうしたわけか今は大人しい。
(この子は、これから自分がどうなるかを悟ったのかも知れねぇ……)
そんな考えが千代の頭の中をよぎり、目尻にほんのわずか涙が滲んだ。
千代とて自分のひ孫をみすみすこのような場所で死なせたくはない。若くして亡くなった娘や孫娘の分までこの子には生きてほしいと心の奥底では思っている。
しかし、一度『呪われた家』の子という汚名を着せられてしまっては、もうその地で満足に生きることは叶わない。千代の住んでいた里は閉鎖的な土地柄で迷信深く、不幸なことが続くと悪い
千代自身も長い人生の中でそのような目で他人を見てきたことが何度かあったが、己がその立場に立たされてようやくそのことの理不尽さが身に染みた。
ひ孫の父親がせめて子供も連れていってくれていれば、とも思うが結局は身一つで何処かへと去っている。母親の死後に自分の子の面倒も見ずに後を追って命を絶った孫の父親を含めて、これだから男は頼りにならないと千代は憤ったが、ここでそんな愚痴を言っても仕方ない。
住居を出てきたはいいものの、既に齢が八十近くにもなる千代に身寄りなどあるはずもない。娘が亡くなって以後手塩にかけて育てた孫娘も亡くなってしまい、孫娘の知己に頼ろうにも『呪われた家』の子を引き受けてくれるものなどまずいない。
老い先短い自らが『呪われた家』の者と蔑まれるのはまだ我慢できる、と千代は思う。だが、まだ産まれたばかりのひ孫にまでそのような業を背負わせなければならないのは、どうしても納得がいかなかった。
それに老婆がいなくなってしまえば、ひ孫は一人きりでそれに耐えていかねばならなくなる。何の罪もない幼子にどうしてそんな過酷な運命を強いることが出来ようか。それならせめて、自分諸共、苦しまないように母親のいる冥府へ旅立たせてやるのがせめてもの情けであろう、と千代はそう考える。
名残を惜しむように赤ん坊を強く抱きしめると、起こさぬようにそろりと地に下ろした。そして黙ったまま懐に携えてきた小刀を取り出すと、刃の先を赤ん坊に向ける。
(……堪忍しておくれ……! こうするしかねえんじゃ……)
千代の手が小刻みに震える。どうにか手の震えを抑えながら赤ん坊の胸に小刀を突き立てようとするが、肝心の腕が千代の思うように動いてくれない。
しばしの間、動かない腕と格闘していた千代の目にふと、赤ん坊の穏やかな寝顔が入ってくる。そんな赤ん坊の顔を見ているうちに、千代は段々と赤ん坊を殺めることがとんでもなく億劫なことに思えてきて、やがて諦めたように小刀を投げ捨てるとと赤ん坊を抱き上げた。
振り出しに戻ってしまった千代は依然として眠り続ける赤ん坊を抱きながら疲れ果てた天を見上げる。日はとうに沈んでいて、美しい上弦の月と数多の星のきらめきが夜空を彩っている。
娘や孫娘も空のどこかで星となって赤ん坊を見守っているのだろうか。千代がぼんやりとそんなことを思ったときだった。
不意に、そこかしこで鳴いていた虫の声がぱたりと止んだ。同時に凄まじいまでの威圧感が千代の背に突き刺さる。
千代は声も出ず、息を呑むことすら忘れて体を硬直させるが、それでも本能的に腕の中の赤ん坊をきつく抱きしめた。
千代の背後から声が響いてくる。
「なんだい、結局その子を殺すつもりはないんじゃないのさ。拍子抜けしたよ」
言葉ほど残念でもないような気安い調子で響いてきたのは、逞しそうな女の声だった。
千代は何者であるかも知れぬ、己の背後にある存在へ向けて強い訛りのある声をかける。
「……どなたさまでごぜえますだ?」
「あたしかい? あたしには色々と呼び名があるけどね。まあこの辺りで一番良く聞くのは、
「ま、まさか……白雲さまとは……!」
仰天した千代は慌てて後ろへ振り向き、赤子を抱いたまま平服しようとする。白雲の女烏といえば、この山の周辺一帯を根城とする天狗の棟梁として知られ、白雲の様に美しい肌を持つ絶世の美女であるとも伝わっている。
人に危害を加えてきたという言伝こそ残されていないが、千代の住んでいた地域では子供に「悪いことをすれば白雲さまにお仕置きをされる」としつける習わしがあり、山のふもとにある神社にも神々の末席に位置づけられ祭られている。
その白雲の女烏を名乗るものが不意に現れたのだから千代がひどく動揺したのも無理はない。
「と、とんだご無礼を致しまして……何卒お許しのほどを……!」
「ああ、良い良い。そんなに畏まるな。それからこっちを向くな。あたしゃ姿を見られるのは苦手でね」
白雲の女烏を名乗る声は千代を気遣うように落ち着いた声で制止する。千代はそこで荒くなってしまっていた息を一度整えて、再び白雲に背中を向ける形で姿勢を正し改めて赤ん坊を抱き直す。
「……みっともねえ所をお見せしました、白雲さま」
「ま、あたしも気にしないからあんたもそうしときな。……時にあんたたち、名は何ていうんだい?」
「千代でごぜえます。それから、こちらの子には未だ名がありませぬ。お産で母親を亡くし、そのすぐ後に父親も行方知れずとなりますれば……」
「ふうむ……」
千代の言葉に白雲は少し考えるような声を上げる。千代からは背後の様子はうかがえないが、それからしばらくの間白雲は黙っていたので、何かを考えているように千代には思えた。
ややあって、白雲の女烏は再び口を開く。声色はやや厳しい。
「あんたは何でまた名前も無い赤子をこんな場所で殺めようとした? 名も貰えずに冥府送りにされる自分のひ孫が不憫だとは思わないのかい?」
「この子を大人になるまで育ててやれる者がおらんのでごぜえます。それに家が『呪われている』と噂が立ちました故、他人にも頼れませぬ」
「……呪い? 少し詳しく聞かせてもらうよ。話してみな」
白雲に乞われるがまま、千代は娘と孫娘を共にお産で失くしてしまったこと、それを周囲に悪い呪いだと噂されて仕方なく住居を離れたことなどを話した。
「ふうん……また厄介な話だねえ。産みの苦しみは死と隣り合わせだ。亡くなることだって当然あるだろうに、それが二回同じ家で続いただけで呪いだなんだと騒ぎ立てるたぁ、随分と料簡の狭いこと……」
白雲は呆れたような口調で言い、それを聞いた千代は恐る恐る話しかける。
「あの……では……これは呪いではねえと……?」
「呪いでなんかあるもんかい。あたしは呪術の専門家じゃないがそれだけは断言できる。大体、人里に伝わる呪いの伝承ってのは九割がたが嘘っぱちさ」
千代の質問に白雲はつまらなそうな声で応じる。
「千代とやら、あんたはどうなんだい? その子の母親……あんたの孫は本当に呪いとやらのせいで死んだと考えているのかい?」
「それは……その様なはずもごぜえませぬ。呪いを受けるような不躾な子ではごぜえませぬ故」
白雲の問いかけを千代ははっきりと否定する。ややあって、千代の後ろにいるはずの白雲の雰囲気がやや和らいだように千代には感じられた。
「なら、呪いの一件についてはそういうことさ。……けれど、問題はその子だね。あんた自身はともかくとして、その子にだけは死んでほしくはないんだろう?」
「もちろんでごぜえますだ……! この子は大切な宝物でごぜえますから……わっしが言えた分際でもごぜえませんが……」
白雲の問いかけに、千代は顔をうつむかせながらも答える。一度はその宝物の命を摘み取ろうとした身で何を言っているのか、と千代自身も思ったが言葉そのものに偽りはない。
血を分けた娘も、その娘が残した子供も亡くした今となっては、ひ孫の存在だけがだけが千代の生きてきた証だった。
芸事とも学問とも無縁の貧しい家に生まれ、毎日のように畑仕事の手伝いに明け暮れ、そんな中でも良縁に恵まれて、嫁いで子宝にも恵まれている。
その後は夫に先立たれ、娘も孫娘も失くす不幸に見舞われたが、それでもかろうじてひ孫となる子供だけは生きている。夫も、娘も、孫娘も、その子の中で今も生き続けていると思えば、千代にとってはまさに一生をかけて得た宝物だといっても過言ではない。
今更ながらその宝物を自ら殺めようとした己の愚かさを思うと、己の身が張り裂けそうな思いに囚われるが、とにかくひ孫の無事が千代にとっては一番の願いであった。
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