青を貫く

月並海

第1話

 目が覚めて、博物館に行こうと思った。

 体温の染みた布団を恋しく思いながら、青いシャツに腕を通す。私は快晴の日の空の色みたいだと気に入っていたが、彼からは「もっと女の子らしい色を着ればいいのに」と不評だったことを思い出した。

 火曜日の十四時。電車の中はくたびれたスーツに身を包んだサラリーマンか、萎びた色をまとうおばちゃんばかりだ。少し下に視線をずらしてお気に入りの色を見ると、なんだか私だけが悪いことをしている気分になる。頭を振って出入口の脇に身を預けた。

 意味もなく、通学していたときの癖でSNSを開く。ついこの間までは何もかもを共有していた友人たちの投稿が画面の上を流れていく。私の知らない彼らが遠い世界で構築されていくことに、心臓のあたりがざわざわちくちくと小さく鋭く痛んだ。

 親指でスマホの画面を無造作に叩く。タイムラインに流れてきた彼のアイコンと親指の打点が重なってしまい、有無を言わさず彼のアカウントのページが開く。私は咄嗟にSNSごと強制終了した。今はまだ、私と別れてから更新された彼を見たくなかった。

 博物館の最寄り駅に降りる。改札に向かう人は電車の中以上に疎らで、どんどん社会からはみ出していっているような居心地の悪さが増す。

 博物館へ入り、受付のお姉さんからチケットを一枚買う。チケットは一瞬でもぎられて、不完全な紙切れに変わった。切り取り線だったギザギザのはしっこをなぞる。

 博物館は閑散としていた。想像通りの環境を得た私は、安心から深呼吸を繰り返す。

 この世界から隔絶された空間を求めていた。誰も私を見ない。私も誰かを見ない。静謐で明瞭で整然とした空間。そう感じたのは、比較対象として卒業したあのキャンパスが浮かぶからだろう。

 繰り返した深呼吸のおかげか、朝からずっと、胸を占めていたざわざわとした痛みが少しだけ和らいだような気がした。

 当初の目的はしたが、折角多くはない所持金で入館したのだ。何か見ていこうかと、私は博物館の奥へと足を向けた。


 最初のコーナーは海の生き物の展示だった。

「わぁ」

 角を曲がった瞬間、目に飛び込んできたそれに思わず感嘆の声が零れた。

 そこには、シロナガスクジラの骨格標本があった。

 巨大な下あご、身体の中心を貫く背骨は無数の小さな骨がひしめく。弓なりのあばら骨はそこに収まっていた内臓の大きさを否応なしに想像させる。天井から吊るされた白い骨の全てが、生きていた頃のクジラの大きさを物語っていた。

 クジラは好きだ。広い海を悠々と泳ぐあの姿を見ていると、私の悩みなんて些末に感じられる。地球のたった三割ぽっちの場所でしか生きられない私たちが、酷く小さいことを認識させられるから好きだ。

 見上げた骨格標本のその先、天窓から零れる光が眩しい。

 なんだかいい気分になって、私は更に奥へと進んだ。


 そこから動物のはく製の展示を流し見して、次のコーナーに入る。

 そこは古代の生物の展示だった。最初のシロナガスクジラと同じく、大きな骨格標本が天井や床に並ぶ。

 その中の一つに、私は引き寄せられるように近づいた。

 見上げるほど大きな骨格標本は長い首が特徴的だった。ブラキオサウルス。およそ一億五千年前に生きていた恐竜だそうだ。

 私はその大きさに心を奪われてしまった。なんて大きな生き物なんだろうと。クジラと同じかそれよりも大きいかもしれない。

 こんな生き物が本当にこの地上を生きていたんだろうか、と疑問すら湧いてくる。ブラキオサウルスの短い脚の近くにあった説明書きには、絶滅以前のこの恐竜のイメージ図が描かれていた。

 骨格だけ見ればキリンの祖先かと感じたが、実際のブラキオサウルスはトカゲやワニに近い見た目だった。

  太古の昔に生きていた――そして絶滅していった地上の生き物。人類が誕生したのは二十万年前だから、誰も恐竜たちが生きている姿を見たことはない。

 けれども、私はこうして彼らの生きていた証を目の当たりにしている。彼らが持つ雄大さを、彼らが生きていたエネルギーを感じている。

 一億五千年の途方もない時間を経て、今、私は彼らの生から何かを得ている。

 急速に回転する思考に脳がオーバーヒートしそうだ。

 イメージ図から目を離し、ふらふらと脇にある椅子に座る。

 そして、もう一度骨格標本を仰ぎ見る。

 クジラが好きだ。海に生きるその姿に偉大さを感じるから。絶対にできないことに憧れることで、私は私のことを考えることから目を逸らしていた。

 狭い地上に生きる生き物を矮小だと決めつけていた。私の知っている世界こそが全てだと勘違いしていた。

 そんなのは、間違いだった。

 スマホを取り出し、SNSのアイコンをタップする。

 そこには新しい生活を営む友達の記録が、思いが綴られている。

 置いていかれたと思っていた。私だけが大学生のままの古い状態で、社会に出た彼らが突然別の世界へ行ってしまったと思っていた。

 でも、そうじゃない。

 クジラが海の世界で生きるように、恐竜が遠い昔を生きていたように。世界は続いている、時間は繋がっていく。

 私は私の、世界を生きていく。

 目を閉じて、ブラキオサウルスが動く姿を想像する。空を貫かんばかりの長い首を揺らした恐竜が、地平線に向かって歩いていた。

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青を貫く 月並海 @badED_

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