苺味の飴玉

川上毬音

【1】

「森下、ノート見せて…って、寝てるし」


 頭上から降ってきた声によって、現実に引き戻される。

 窓から射し込む昼下がりの光がやたら眩しくて、そして絶妙に眠気を誘う暖かさで、俺は大きなあくびを一つかましながら、それまで突っ伏していた机から身体を起こした。


 いつのまにか五限の授業は終わっていて、俺の一つ前の席の雨宮が、座ったまま後ろを振り返っていた。そして呆れた顔をして俺を見ていた。


「よくそんな堂々と大きな口開けられるね」


「人間の生理現象にケチつけられてもな」


「今日も相変わらずの熟睡ぶりだったよ」


「いや雨宮も人のこと言えなくね?」


 俺は確かに授業中よく寝てしまう。特に、午後。


 二週間前の席替えで場所が窓際の席に変わり、ガラス越しに射し込む直射日光を容赦なく浴びることになった。これが夏場だったら、教室全体に冷房が効いていると言ってもなかなかの地獄だっただろう。 

 でも今は十月も終わりかけ、季節はすっかり秋へと入れ替わり、むしろその次の気配すら空気の中に忍ばせているように感じる。つまり少し寒い。けれど窓のすぐ傍なら暖かい。そんな位置に座っていると眠くなるのは、何も俺に限った話じゃない。


 要するに俺のすぐ前、同じ窓際族の雨宮だって授業中よく寝ているのだ。真後ろにいるとその様子がよく分かる。

 だんだん俯きがちになり、わずかに揺れ始める後頭部。あ、また寝てるよ。そんな風に思うのはしょっちゅうだ。

 意図的に観察しているわけでも何でもない。嫌でも視界に入ってきてしまう。不可抗力だ。


「私は森下みたいに机を枕にしたりしないもん。たまに意識が飛ぶ程度だから」


「寝てること自体は認めるんだな。じゃあ同罪だ」


「やめて、一緒にしないで。罪は一人で償って」


「誰に対して償えばいいんだよ…」


「私に聞かれても困る。言い出したのは森下でしょ」


 他愛のない会話をしつつ、教室前方に目をやると、日直当番がせっせと黒板の文字を消していた。


 授業中の居眠りに関してさらに補足すると、言うまでもないことかもしれないけれど別に窓際限定というわけでもない。昼ご飯を食べた後に受ける授業なんていうものは、基本的に教室のどこに座っていようが眠い。よって俺と雨宮以外にも寝ているクラスメイトなんてあちこちにいる。


 そんな奴らは大抵慌てて「あーちょっと待って」と日直当番を引き留めて、黒板をスマホのカメラで撮り始める。寝ている間に書き写せなかった板書を、後でノートに書き足すためだ。


 俺自身もよくやる手法だけれど、今日はとにかく眠くて写真を撮るという何てことのない動作すら億劫に感じてしまった。机の上に広げられたノートには、授業冒頭の内容しか書き写せていない。


 すると雨宮が俺のノートを勝手に手に取り、くるりとその向きを変えて「ええー…、書けてない所大体同じじゃん…」とぶつぶつ文句を言い始めた。知るかよ、と内心思いつつ、「黒板撮れば?今ならまだ間に合うだろ」と例の手法を提案した。


「私がそれ嫌なの知ってるでしょ。ていうか森下は?撮らないの?」


「あー、後で誰かのノート借りて写すわ。先週の分とかも書いてない所あるし」


「じゃあ写し終わったら森下のノート貸して」


「何でだよ、自分で誰かから借りればいいだろ。何で俺待ちなんだよ」


 少し言い過ぎたか、とも一瞬思ったけれど雨宮は特に気にした様子もなく、「雨宮専属のノート係でしょ、森下は。忘れたの?」とにっこり笑いながら、俺にとっては全く心当たりのないことをさらっと言った。


 まずそのにっこりは何に対しての笑顔なのか意味が分からない。けれどそこに関しては触れないことにする。雨宮の行動原理は、理解の範疇から外れていることがたまにある。それは、雨宮と席が前後になり、言葉を交わす機会が増えたことによって学んだことの一つだった。


 要するに、ちょっと変な奴ということだ。


 雨宮専属のノート係って何なんだ。百パーセント初耳のはずなのに何故だか既成事実になっている。


「何だよ、忘れたのって。誰がいつそんな約束したんだよ。言ってみろよ」


「あ、それめんどくさいやつだ。何月何日何時何分地球が何周回った頃?とかいう小学生が言いがちな質問」


「よくそんなの覚えてるな。あと言っとくけど誰よりもめんどくさいのはそういうことを言い出す雨宮だからな」


「うん、ちょっと何言ってるかよく分からないけどとりあえず後でノート貸してね」


 俺に有無を言わせる隙すら与えないこのマイペースぶり。そしてまた笑っている。その笑顔で諸々ごまかせるとでも思っているんだろうか。


 席替えをして以来、雨宮はちょくちょく俺からノートを借りるようになった。

 雨宮は、黒板の写真を撮ってそれを見ながらノートに書き起こすのが嫌いらしい。以前そんな話をしたことがあった。指先でいちいち画面を拡大しなきゃいけないのが手間なんだよねと不満げに漏らしていた。よって、クラスメイトからノートを借りて写すのが雨宮の主流スタイルらしい。


 だから俺自身、口ではぶつくさ言いながらも、雨宮にノートを貸すこと自体にはすでに慣れ始めていた。


 ただ、疑問ではあった。


 本来ならおそらく仲の良い女子から借りていたはずなのに、ここ最近はどうしてその矛先が俺に向けられているのか。


 単純に、席が近いから。それだけの理由なのかもしれないけれど、妙に気になった。

 気になるならば直接聞いてみるのが一番だ。あくまで他愛のない会話の延長線上として、俺はその疑問を雨宮に投げた。


「そもそもさ、ノート貸してって俺にしょっちゅう言ってくるのは何なの?何で俺ばっか?」


 聞き方が直球すぎただろうか。けれど雨宮はきょとんとした表情で「え、だから、雨宮専属のノート係ってさっきから言ってるじゃん」とズレた返答を堂々と投げ返してきた。

 

 俺が確かめようとしているのはそういうことじゃないのに。こいつはわざと言っているんだろうかと心の中で毒づきたくなる。


「俺は真面目に質問してるんだけど」


「私だって真面目に答えてるんだけどなー」


 ふい、と俺から視線を外した雨宮は、おもむろに机の横に右手を伸ばした。


 フックに引っ掛けてあるトートバッグの中を手探りでがさごそと軽く荒らし、取り出したのはギンガムチェックの柄が入った巾着袋。


 それが何なのか、中に何が入っているのか、俺はすでに知っていた。と言うか、おそらくクラスメイトの大半が知っている。


「そもそも、聞くまでもないことでしょ。字が綺麗で読みやすいから、これはまさに雨宮専属のノート係に適任だって思ったんだよ。自覚ある?」


 やっぱり微妙にズレてんだよなとは思ったけれど、要点は大体掴めた。


 男にしては上手だね、と字を褒められる場面は確かにこれまでもあった。

 

 ただ、自分ではいまいちピンと来ないのが正直な所だった。

 上手いとも下手とも思わないというか、そもそも関心が無いというか。無頓着、としか言いようがない。


 仮に今の雨宮の発言が誉め言葉なのだとしたら、素直に喜べばいいのだろうけどそれも何だかなと変にひねくれた気持ちになっている俺をよそに、雨宮は巾着袋の紐をゆるめ、その中から『ある物』を一つ手に取って、俺の机の上に置いた。


「今日は特別。前払いね」


 ノートを写させてくれたことに対する、ささやかなお礼。今回に関しては『写させてくれる』と未来形ではあるけれど、と言うより一方的に口約束をさせられたのが実情ではあるけれど、とにかく雨宮なりの感謝の気持ちを形にした結果が『ある物』なのだそうだ。


 でも普段なら、それは後払いのはずだ。


 雨宮はそのまま席を立ち、友達の元に駆け寄り談笑し始めた。


 ざわついた休み時間の風景の中に溶け込んでいくその姿を横目でちらりと捉えながら、俺は『ある物』を口の中に放り込んだ。


 通常は、写し終えたノートを返してくるついでに渡される。よって後払い。


 あの雨宮のことだから、単に気分の問題なのかもしれない。ありがとうの気持ちさえ伝えられれば、そのタイミングは前だろうが後だろうが、どちらでもいいのだろう。


 そんな風に適当に考えながら、俺は雨宮がくれた飴玉を舌先で転がした。


 甘酸っぱいその苺の香りはあっという間に口いっぱいに広がり、そのまま鼻腔へと抜けていく。くすぐられるような、満たされるような、何とも言えない不思議な感覚に襲われる。


 別に取って喰われるわけでもないから襲われるという言い方はおかしいのかもしれないけれど、その感覚を日に日に脅威に感じるようになっている自分がいることに、俺は気付き始めていた。

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