沈んだ夜の向こう
月並海
第1話
夜の海は宇宙に似ていると思う。この話を僕は何度も色々な人にしたけど、同意されたことは一度もない。
みんなが話を聞いたあとに、すっと距離が離れていく感じがする。つまらない冗談を軽く受け流す感じ。そういう態度を何度もとられたから、悲しくなった僕は中学に上がってからこの話をするのをやめた。意識して呼吸をしなきゃいけない教室や家から逃げて、一人で海にいる時間がうんと増えた。
昼の海は穏やかだ。さざ波が白い砂浜を湿らせるように寄せては返す。ざざーっと波がぶつかる音だけが僕の周りに満ちている。波の来ない砂浜は太陽の熱を吸ってほんのり温かい。僕はそこに座ったり寝っ転がったりして過ごすのがとても好きだった。
昼間の海の底にはなにがあるか知っていた。太陽に照らされた水底。藻が付いた大きな石や仲間からはぐれた魚、沖まで続く畝模様。そこに宇宙はなかった。
だから、いつか夜の海に潜ってみたいとずっと思っていた。夜は危ないとお母さんが言うので外には出られない。チャンスは大晦日の夜だけだ。
友達と二年詣りに行くと嘘をついて、お寺とは反対の方に走る。
誰もいない浜辺は波の音が響いていて、心臓の動きが少しだけ落ちついた。いつもと同じ白い砂浜。限りなく黒に近い濃紺の海も近寄れば、昼と同じ透明の水であることが分かる。
遠くに聞こえる除夜の鐘だけが年明けを感じさせていた。
時間の余裕はない。僕は浜に着くなり、お母さんに着せられたコートとマフラーを浜に脱ぎ捨てた。続いて、スニーカーから足を引き抜き脱げかけていた靴下を放る。
透明な水が揺蕩う波打ち際に遠慮なく踏み入る。つま先から氷点下の水へと僕の体温が流れていく。
一瞬のうちに全身へ冷たさが駆け巡り、首の後ろまで鳥肌がたつ。冷たさをぐっと我慢して脛、膝、太もも、腰、胸と紺色の水へザブザブザブと進んでいった。
浮遊感は唐突に訪れた。砂浜の断崖の先に足を落としたのだった。
寒さで肌がひきつる感覚は、なかった。驚いて閉じた目をゆっくりと開く。
周りは真っ暗な世界だった。黒い、黒い世界が僕の周りに広がる。さっきまで足を置いていたはずの砂浜も月明かりが映るはずの水面も視界から消えてしまった。
頬にチリチリと熱を感じる。大して溜まってもいない唾を祈るように飲み込む。恐ろしさを押し殺して、熱を感じる方をゆるゆると振り返る。
次の瞬間、あまりの光量と熱量に両手で顔を覆った。
そこには、太陽があった。圧倒的な炎によって熱をまき散らす恒星がそこにはいた。
僕はそのとき、宇宙にいた。真空と暗闇の世界に僕はいた。
音は何も聞こえない。匂いもしない。感じるのは、熱と光。それだけなのに、それは圧倒的な存在感と情報量で僕の脳を殴ってくる。めまいがして後ろに倒れそうになるけど、身体の向きは変わらなかった。
全身に充満していた冷たさは気づかないうちに無くなっていた。晒された額から足の先までチリチリと温かさがしみ込んでくる。
僕は薄らに開けた指の隙間から前を見た。メラメラと燃える巨大な火の玉とは25mプールの両端くらいの距離がありそうだった。これが本物の宇宙で、太陽なら僕はきっと一瞬で燃えているに違いない。だからこれはきっと夢なんだ。そう思ったら、悲しいような悔しいような安心した気持ちになった。
どうせ夢なら、太陽に触っても大丈夫なはずだ。もやもやした気分を後ろの暗黒へと投げ捨てて、僕は恒星に向かって平泳ぎを始めた。
しかし、泳いでも泳いでも距離は縮まらない。
むかつく。僕の夢なんだから僕のやりたいことが全部できたっていいのに。
無性に腹が立った僕はクロールのように腕を掻いて前に進む。でも、やっぱり太陽には近づけず石油ストーブの目の前にいるみたいな温かさばかりを感じる。
景色の変わらない中で一時間くらいもがいていたような気もするし、十分くらいしか経っていないような気もする。
とにかく僕は疲れ切ってしまった。ぜーはーと呼吸を繰り返せば求めた分だけ酸素が入ってくる。水の中みたいなのに。真空みたいなのに。そんなことにも無性にいらいらする。
浅い呼吸を繰り返して体に溜めた空気をふぅーっと吐き出した。
「実際にそこまで来いってこと?」
音のしない空間ではっきりと聞こえる自分の声。声変わり直後の耳慣れない低い声で目の前の火球に尋ねた。
次の瞬間、ギラギラとした熱い光が突如として光量を増し始めた。やっと慣れてきた目に光が突き刺さる。最初と同じように両手で顔を覆うが、指の間も瞼の隙間も縫って光は目の中に入り込んでくる。
真っ黒だった視界が白に染まった。
眩しさに目が回る。頭まで揺れて気が遠くなる。
くらくらする気分の中で、夢が覚めちゃうんだなあと不思議と冷静に考えていた。あんなに呼吸がしやすかったのに、つんとする頭は酸欠で潜水から浮上するときみたいな心地がした。
「息を吹き返したぞ!」
耳に入ったのはお父さんの声だった。
重たい瞼を恐る恐る開ける。白でも黒でもなく、焦った顔のお父さんとお母さんが目に入ってきた。周りを見渡せば知り合いのおじさんやおばさん、担任の先生までいた。
感覚の戻ってきたつま先を動かせば、砂浜のざらりとした感触がした。
指先が濡れたズボンに触れたから、身体は濡れているらしい。
どうやら僕は年を越す直前に海に入っておぼれていたようだ。随分経っても帰ってこない僕を心配して両親や近所の人が探してくれたらしい。
「冬の海に入るなんてお前は馬鹿か!」
「……、ごめんなさい」
父の怒号が響く。それが本当の心配から出ていることが分かったから、僕は素直に謝った。
探してくれた大人たちにも同じように謝って場は解散になる。
こんな大事になってしまったから、しばらく海には近づけないかもしれない。そう思ったから最後に揺蕩う濃紺色を目に焼き付けようと、僕は沈んでいた方を見つめた。
目が覚めてから、やっぱりあの太陽は夢ではないと思っていた。だって、一月の海に浸かっていたはずなのに僕の身体は夏の砂浜みたいにポカポカだからだ。
太陽が輝きを増したのは、きっと僕の回答があの星のお眼鏡にかなったからに違いない。
「待っててね。すぐに行くから」
誰にも聞こえないように口先だけで約束を呟いた。浜にぶつかった波がざぱんと音をたてた。それが返事のように僕には聞こえた。
もう大丈夫。息はしやすい。
沈んだ夜の向こう 月並海 @badED_
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