第10話
飛行機がバルセロナの空港に降り立ったのは夜の九時を僅かに過ぎていた。ロンドンで乗り換えた飛行機は幸運なことに定刻より少し早めに到着した。だが、私は焦っていた。
私に公式に残されている時間はほぼ今夜だけと言っていい。手荷物だけ持った私はパスポートコントロールをいの一番ですり抜け、タクシー乗り場へと急いだ。
「この写真の場所に行ってくれ。Please take me to the place in this picture(この写真の場所に連れて行ってくれ)」
「ペルドン・・・ケ ディセ ウステ?」(え、なんて言ったんだ?)
ブロンドの髭面のタクシーの運転手は大仰に手を振って拒否しかけたが、私の真剣な表情にしぶしぶ写真を覗きこんだ。
「キサ エス ラ バルセロネータ」(たぶん、バルセロネータだろうな)
何を言っているのかは分からなかったが、運転手は乗れ、というように車の中に向かって手を振った。後部座席に座ると、運転手は鼻歌を歌い始めた。意外に上手だった。その鼻歌が八曲終わったところで車が停止した。
"Probably around here. The beach is within the walking distance"(たぶんここらあたりだ。海岸までは徒歩で行ける)
英語だったので私にもかれの言ったことが分かった。料金を少し余分に払うと、運転手は豊かな髭を
"You reserved a room in this city?"(ホテルは取ってあるのか?)
と聞いてきた。
”No”(いや)
私は答えた。
”If you want one, call me. I know a good and cheap hotel”(部屋をお望みならここに電話をくれ。安くていいホテルを知っている)
そう言ってカードを渡すと、運転手はにこりと笑った。
”Thank you…グラシアス”
私の答えに意味ありげに一つ頷いて運転手は道を引き返していった。タクシーのテールランプが道の向こうへと消えていくのを見送ると、私はビーチへと向かった。夜の海は静かで人は殆どいなかった。バルセロナはスペインの中では比較的安全だとは言え、夜十一時近くの海岸に外国人の女性が一人きりと言うのは危険に違いあるまい。私は急いで、知花がどこかにいないか目を
背後で一台の車が通り過ぎた時、そのヘッドライトが砂浜を照らし、その中に見覚えのある模様が映り込んだ。彼女があのフレンチレストランで椅子に掛けていたスカーフの模様だった。
私は砂を踏んで、その模様が見えた方へ進んでいった。女が一人ぽつりと座って海を見ていた。知花の背中だった。見慣れた・・・愛おしい、抱きしめたくなるような、ちょっと猫背の、小さな・・・儚げな。
その知花はあのスカーフをお尻に敷いて座っていた。
空には月がかかっていた。知花の送ってきた写真通りの美しい月だった。
「月がきれいですね」
私は背後から声を掛けた。ぴくりと知花の背中が動いた。
「そう・・・ですわね」
知花の声は震え、湿っていた。
「体が冷えますよ」
「今、心と体を同じ温度にしている最中なんです」
かろうじて涙声を抑えるように知花は答えた。私はしばらくの間立ったまま彼女を見下ろしていた。時が静かに、満天の星の下で経っていった。
「どうしてここだって分かったの?ディジタルは苦手だって言っていたのに」
知花は海を見詰めたまま、いつもの口調に戻って尋ねてきた。
「苦手なものは誰かが教えてくれる」
「来ない方が良かったのに」
溜息のような声で知花は囁いた。
「でも・・・わざわざ君がメールで送ってきたのは位置情報の残った写真を送りたかったんだ、とそいつは言った。彼も・・・スペインまで行く必要はないと言ったけど」
「宮本君ね。彼からたくさんのメールが来たわ。アドレスも教えてなかったのに。なんでかな?」
知花はそう言うと、やっと振り向いた。目尻に涙の跡があった。
「宮本君と会ったなら・・・聞いたのよね?」
「うん」
私は頷くと、
「横に座ってもいいかい?」
と尋ねた。知花は少し考えた後で体をずらした。形のいい彼女のお尻の跡が半分砂のおかげで残った場所に私は腰かけた。そして彼女の体に腕を回した。彼女はされるがままになっていた。
「早かっただろ?」
私が尋ねると知花はこくりと頷いてから、首を横に振った。
「四十年、遅かったんだよ」
「それは謝るよ」
私は真剣に答えた。
「僕は君にきちんと自分の気持ちを伝えるべきだった。君が僕に望んでいたことを果たすべきだった。今僕はそれをしたいと思っている」
「だって・・・映画館でだって私たち割引の対象にならないんだよ」
彼女は静かに言った。答えになっているようでそれは奇妙な回答のように耳に響いた。
「世界は私たちを認めてくれないんだよ」
「そんなことはない」
彼女を救うためには・・・私には他に手段が考え付かなかった。
「一緒に生きよう。君を僕が大切にする。互いに死ぬまで一緒にいよう。この世界で」
どうせ、元には戻れない。私はそう考えていた。ならば私が救うべきものはたった一つだ。たった一人だ。家庭も仕事ももう後にしてきたんだ。
だが、彼女は
「それはだめだよ」
と小さな声で答えた。
「私、告知を受けてからずっと考えたの」
「ん?」
私は彼女の体を近くに寄せた。彼女はそれを拒まなかったが、言葉をつづけた。
「もしね、立花君と一緒になっていて、そしてやっぱり同じ病気になって・・・その時、立花君は私に優しくしてくれるかどうかなんて分からないって、そう思うことにしたの。ならば、今の方が素敵だって・・・思えるでしょ?そう思うようにした方がいいんじゃないかって。生まれ変わったら一緒になろうなんて言ってもらえる方が幸せなんだって」
私は彼女の言ったことを
「僕たちがあの時に一緒になっていても・・・僕はやっぱり言ったんだと思うよ。魂はめぐってめぐって、いつまでも一緒にいたいとそう思える人に出会うまで巡って、その相手を見つけたらいつまでもどんなに生まれ変わっても一緒にいたいって、そう思うようになるんだと、僕は思うよ。そしてその僕の相手は君なんだ」
彼女は私に体を寄せた。
「ありがとう。嬉しかったよ。来てくれて」
「どうしようと思っていたの?」
「ここで・・・ずっと立花君のことを考えながら余生を送ろうって思っていたんだ」
「余生・・・?」
「手術するつもりはないの。どんなに痛くても次に生まれ変われば立花君と一緒になれるんだってそう思えばこらえられるんじゃないかって・・・私って、怖い女かな?」
「ううん」
僕は首を振ったが知花は話し続けた。
「女って怖いんだよ。六条の御息所みたいだなぁ、って自分でも思った。立花君の奥さんを恨んでいるわけじゃないけど、あなたを思う気持ちがいつそうなっても不思議じゃないと思った。でもそれはなんだか惨めだとも思ったの。それにやっぱり・・・」
言葉を失ったように呆然と海を見詰めている知花の手を私は握った。
「とにかく、一度日本に戻って宮本とも話して、それから決めよう」
知花は答えなかった。ただ、私の体に強く寄り添った。
「どこに泊まっているの?」
私が尋ねると知花は
「自分の家。Mi casa」
「え?」
私がその答えに目を覗き込むと、知花は軽く笑った。
「こっちにアパートを買ったの」
「まさか」
「本当よ」
そう言うと知花は立ち上がった。
「今晩は特別に立花君を泊めてあげる。ホテル、取っていないんでしょ?」
「ああ、ありがとう」
「ところで、会社はいいの?もうすぐ始まるんじゃないの」
知花は尋ねた。
「明日の便に乗れば出社できる。もっとも君も一緒じゃないと僕は帰るつもりはない」
私は答えた。
「・・・じゃあ、行きましょう」
そう言うと知花は私に手を差し伸べた。私は立ち上がると、知花が敷いてあったスカーフを拾い上げ、叩いて砂を落とした。
知花の住んでいる場所は砂浜が眼下に見える通り沿いの古い建物の三階だったが、中は綺麗にリファービッシュされていた。部屋はリビングとダイニングキッチン、そして寝室の三部屋だ。私がわずかな手荷物を広々としたリビングにあるソファの前に置くと、知花は
「おなかすいたでしょう?何か食べる」
と尋ねた。
「ああ・・・」
「でも今から料理っていうのも・・・チーズとワインでいいかしら。あと適当にサラダを作るから・・・。シャワーを浴びて体を流して」
何気ない言葉だったが、初めて二人きりで過ごす空間と生活感に私は新鮮さを感じた。シャワーは快適で旅で疲れた体に気持ち良かった。新しいバスタオルで体を拭き持参してきた着替えを着てリビングに戻ってくるとテーブルの上にワインとチーズが白いナプキンの上に置かれていた。その横にパプリカとトマトとレタス、それにラディシュとクルトンを添えたサラダがボールいっぱいに置かれてあった。
「良いところだね」
椅子に座って私を待っていた知花に向かってそう言うと、
「そうでしょ」
と知花は答えた。
「こんなところで生まれたら、自由にどこにでも行ける、そして帰ってこれる、と思えそう」
彼女は赤いワインを二つのグラスに注いだ。
「大丈夫なの、お酒は?」
「ええ、少しくらいならいいでしょう」
そう言って知花は自分のグラスを持ち上げると私に目で合図をした。私も目の前のグラスを持ち上げ、彼女のグラスに合わせた。
私たちは差支えのない、そしてとりとめのない話をした。どこ経由で私がバルセロナに来たとか、彼女はどこで買い物をしているのか、とかそんな話だった。やがて、彼女は
「私もシャワーを浴びてくる」
と言って席を立った。知花がシャワーから戻って来た時、私は不覚にもうとうとと椅子で眠っていた。飛行機の中では知花を案ずるあまり、食事もろくにのどを通らず、眠ることもできなかったためだった。だから、知花が私の頬に手を触れて起こした時、私は夢を見ていた。夢の中で昔の知花は海岸を駆けていて、私は知花を追っていた。だが、足が砂に取られいつまでたっても追いつけない、そんな夢だった。
「疲れているのね」
そう言った知花はバスタオルを体に巻いただけの姿だった。
「もう休みましょう」
彼女は私の手を取った。
「ベッドは一つしかないの」
そう言いながら、私たちは寝室に入った。ベッドはその部屋の中央に置かれていた。二人で眠るのに十分な広さのベッドだった。
「立花君・・・」
知花は濡れたような瞳で私を見詰めた。
「私を抱いてね。強く抱きしめて。でも、セックスをしたいんじゃないの。それは、生まれ変わった時に、ね。そうすれば子供もできるし、私たちは家族を作れる」
「それは・・・厳しいな」
私は久しぶりに勃起していた。体は彼女を激しく求めていた。
「でも・・・知花がそれを望むなら」
知花は軽く頷くと、私の着ているものを脱がし始めた。セーターを脱がし、シャツのボタンを外し、そして下着を脱がすと、胸に顔を当てた。
「立花君の鼓動が聞こえる」
「うん」
私は呆けた人のように答え、知花を抱きしめた。知花はゆっくりとそれを外すと、ズボンに手を掛けた。そしてジッパーを引き下ろした。彼女の手がペニスに触れ、私はそれだけで射精をしてしまいそうだった。ズボンを脱がし終えると彼女はブリーフを捲り上げるようにして外し、私のペニスを両手で包んだ。
「立花君なんだ」
そう言うと、彼女は私をベッドに座らせた。
「お願いがもう一つあるの。聞いてくれる?」
「なんだい」
「私の左手をここに結び付けて」
そう言いながら知花はベッドの木枠を指でさした。
「なんでそなことをするの」
私は疑念を抱いた。知花にはそんな性向があるのだろうか?
「だって立花君を好きすぎて抱きしめたら壊しちゃいそうで」
知花は笑った。
「いいの。じっと抱いていてくれるだけで」
分かった、と私は答え知花の左手を桟に結わえた。
「ちゃんと、ね」
左手がしっかりと結びつけられたことを確認すると、知花はバスタオルを外した。体は驚くほど若々しかった。少し恥じらった素振りをすると知花はそっとベッドの毛布とシーツの間に体を滑り込ませた。
「立花君も・・・」
知花は消え入りそうな声で言った。私は暴走しそうになる感情を抑えながら知花の横に体を置いた。
「ごめんね」
「どうしてだい?」
私の質問は彼女が謝るその訳と、そんなことをする理由の二つに向けられた。
「だって・・・。二人ともこうしていればきっと次に生まれ変わった時に互いを求めあう力が強くなるから」
彼女は後の方の質問に答えた。
そしておずおずと残った右手を私の体に巻き付けた。その肌はひやっと冷たく、だがみるみるうちに血を上らせて桃色に染まっていった。私のペニスは彼女の肌に触れて爆発しそうになりながらなんとか堪えていた。
「知花・・・由香・・・」
「うん、なに?」
甘い声で知花は答えた。
「立花君、好きよ」
「僕もだ。キスしてもいいかい?」
「ほっぺたになら」
知花の答えに
「なぜ?」
と私は尋ねたが、
「どうしても・・・」
くぐもった声で知花は答えた。
「じゃあ・・・」
私は体を捻り、知花の頬にキスをした。
「ありがとう」
知花は言った。
「ずっとこうしていられたら、幸せなの」
私は無言で知花の体を強く抱きしめた。
こんな状態ではいつまでも眠ることはできないに違いない、そう思っていたが24時間近く寝ていなかった体は私の予想を簡単に裏切った。
「由香っ」
私は叫んだ。彼女が私に頼んだ左手の結び目が解けそうになるほど、強い力で引かれ、大きな音を立てた。病気が知花を苦しめていると思った私は彼女を揺すり、
「大丈夫か?」
と尋ねた。由香の目は大きく見開かれていた。誰か人を呼ぼう、立ち上がりかけたその時私は微かな異臭を嗅いだ。どこかで嗅いだことのある香り・・・。由香の体は痙攣していたが、彼女が私を抱いていた右手は開かれていた。その時、私は由香の口元が動くのを見た。
「ご・・・め・・・ん・・・ね」
そう動いたように見えた。そのとき彼女が・・・手をベッドの木枠に括り付けてほしいと頼んだわけがわかったような気がした。括り付けた右の腕は私の体が抜けられるように開かれたままだった。その手首はよほどの衝撃が走ったのだろう、ひもの跡が鮮やかに赤くついていた。
これは・・・病ではない、そう唐突に思った私は人を呼ぶのを止めた。
逃げて・・無言でそう彼女が目で言っていた。今ならまだ間に合うから。ごめんなさい。私が病気で滅びていく姿をあなたに見せたくなかった。けど、最後だけはあなたに強く抱きしめてほしかった。そう言っていた。やがて痙攣は止んだ。彼女の体温が急速に冷えていくような気がした。その瞳から零れた涙に私はそっと唇を寄せた。そして彼女の瞼を閉じた。
あの時、カラオケで彼女が歌った曲が・・・南沙織の歌が耳によみがえった。そして浜辺の彼女の後姿がそれに重なった。
「誰もいない海、あなたの愛が確かめたくって・・・」
彼女はさっき、小さな背中を見せながら海でそう歌っていた、そんな気がした。涙が、次から次へと溢れ出てきた。
「好きなんだもの、私は今 生きている」
次から次へ歌詞がウェーブするようにわんわんと耳に響いてきた。
そう生まれ変わったら、生き返ったら一緒になろうね、私は彼女に向かってそう語り掛けた。やがて決心が固まると、
「由香・・・」
私は彼女の名を呼んだ。
「もう、君を一人にはさせない」
彼女の唇の端についた白い泡を私は指で拭き取ると、シーツに擦り付けた。少しめまいがする。呼吸が早くなっている。毒が空気に混じっているのかもしれない。
「僕らはまだ17歳、希望と夢と愛に満ちている」
毒のせいか眠気のせいか朦朧としつつある意識の中で、私は思った。
「僕たちの17歳を誰にも邪魔なんかさせるものか」
そして、私は・・・いや僕は彼女の唇に自分の唇を寄せた。そこにはあの頃の艶艶と桃色に輝く美しい唇が見えた。
初めての、そして最後のキスは甘いアーモンドの香りがした。
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