第9話

 翌月・・・。私たちが約束をしたのはクリスマスを控えた前の週のことだった。珍しく、知花は

「たまにはおしゃれな場所でランチを一緒に食べましょ」

 と恵比寿にある有名な高級フレンチを場所に指定してきた。それまでは気安い場所で会っていたのだが、その店はドレスコードがあり男性はジャケット着用が必要とある。散歩用の運動靴はいかにも相応ふさわしくない。散々考えた挙句、同窓会で会った恩師が病気で入院したので見舞いに行く、という口実で私は家を出た。ジャケットにコート、革靴というのは休日のいでたちとしては窮屈な感じもしたが、フォーマルなデートと言う感じもないわけではなかった。

 店は恵比寿の駅から少し離れた場所にあり、広がるクリスマスの華やかなイルミネーションを眺めながらたどり着いたのは瀟洒しょうしゃな洋風の一軒家の建物であった。蝶ネクタイをつけたウェイターに案内されて中に入ると知花はもう席についていた。

「たまにはいいでしょ、こういう場所も」

 場所のせいか知花はいつもよりずっと華やかに見えた。服装はいつもの通りあっさりしたものだったが、椅子にかかった青と金の素敵な色遣いのスカーフがそう見せたのかもしれない。

「ああ、そうだね」

 私の返答に、

「気のない返事ね。意外と取るの大変だったのよ。クリスマスも近いし」

 知花は私を恨めしそうな眼でみた。

「いやフランス料理なんてめったに食べないから緊張しているんだ」

 私は言い訳をしたが、

「うそ・・・」

 知花は手をひらひらさせて微笑んだ。

「いつもみたいに散歩っていう言い訳ができなかったから面倒だったんでしょ」

「それも・・・ないとはいえない。面倒というのは違うけど、正直どう言って出かけるか悩んだ」

 私は白状した。

「どう言って出たの?」

「高校の先生が病気で見舞いに行く、ということにした」

 私は正直に答えた。それを聞いて、

「あらまぁ」

 知花は呆れたような顔をした。

「そのうち、先生を殺してしまうつもりね」

「その時は喪服で来ざるを得ない。その時は申し訳ない」

 私は手刀を切る真似をした。

「やぁね」

 知花は笑った。そんな会話をしているうちに、ウェイターが・・・フランス料理店ではガルソンというらしいが、メニューを・・・フランス料理店ではカルテというらしいが、持ってやってきた。フレンチレストランとは言葉が窮屈な場所だ。

 組み合わせで選ぶ方式になっていて、私は前菜にサラダ、メインに羊のローストを選び、知花は前菜に鮮魚のカルパッチョ、メインにビーフの煮込み料理を頼んだ。ワインは知花が選び、私たちは運ばれてきた白ワインのグラスを重ねた。

「私たちの40回目のクリスマスと初めての『一緒のクリスマス』に乾杯・・・ね」

「そうだね。39回も僕たちはクリスマスを失ったんだ」

「クリスマスは失ってはいない。あれは毎年定期的に来るものだ」

 知花は演説家のような口調で言った。

「でも私たちはもっと大切な何かを失ったかもしれない。一緒にいる時間というものを・・・」

「うん、そうだね」

 私が答えると、知花はくすりと笑い、

「せっかく詩的に言ってみたのに・・・張り合いがないわね。あ、そうだ、写真見る?」

 と尋ねてきた。

「ああ、あの時の写真ね。うん」

 私の答えに彼女は椅子においてあった四角のケースから写真を取り出した。四つ切の大きな写真の中には白と黒のグラデーションに縁どられた私と知花が微笑んでいた。

「ああ・・・いいねぇ」

 私は少し感動した。そこには今の写真にはめったにみられない、「かけがえのない時間を切り取った」感覚があった。

「良い写真だ」

 私は魅入られるように写真を眺め続けた。

「でしょ。でも目尻の皺まできっちりと写り込んでいて、ちょっとしゃくだわ」

 知花は頬を膨らませた。

「美人ていうのは皺まできれいな人のことを言うのさ」

 軽く私をつまねをして、知花は笑った。

「ラブレターは入っていなかったかい?」

 あの時の知花と写真店主の気安げな情景を思い出して私は尋ねた。

「もちろん、入っていたわ」

 知花は誇らしげに答えた。

「なんだって?」

「自分が撮った写真の中で一番いい写真だから、大切にしまっておきますって」

 私は唸った。

「たぶん、彼のコレクションの中のあなたは切り取られているわね」

 知花は鋏で写真を切る真似をした。

「・・・かもね」

 その時、最初の皿が運ばれてきた。

「じゃあ、しまいましょ」

 そう言うと知花は写真を袋に納め直した。

「え、一枚くれるんじゃないの」

 私の言葉に知花は笑った。

「それはまずいでしょ。どこに隠しておくつもり?これは全部私のものよ。だって私が払ったんだもの」

「いじわるだな」

「そのかわり、これをあげる。私からのクリスマスプレゼント」

 知花は見覚えのある小さなセロファンの袋を私に手渡した。

「これは・・・」

 知花の昔の写真だった。

「それだったら、見つかっても言い訳できるでしょ?高校の時の彼女と言えば今更怒られもしないでしょう」

「・・・かな?」

 僕は首を傾げた。

「でもいいの?大切なものだろう?」

「いいの。立花君に持っていてほしいから。さあ、いただきましょう」

 会話をしている最中にテーブルに並べられた美しいいろどりの皿を眺めると知花は上目遣いに私を見た。悪戯っぽい視線は私の反応を楽しんでいるようだった。


「お腹いっぱい。それに少し酔っちゃったみたい」

 メインの時に追加した赤ワインのせいだろう、知花はほんのりと紅く目の周りが染まっていた。

「おいしかったね」

 知花は言った。めったにフランス料理なんて食べないのだが、一つ一つの皿の上品で繊細な味わいを堪能させてもらった。たしかに人生においてはこんなランチがたまにあってもいいものだ。

「うん」

 最後にでてきたサバランを紅茶でゆっくりと味わいながら私は答えた。

「今度はもっと遠いところに行きたいな」

 ぽつりと知花が呟いた。

「え、どこ?」

 私は尋ねた。私だって、そうしたい。だが遠いところとなれば、今までのように散歩だの見舞いだの、という言い訳を使うわけにはいかないだろう

「内緒。・・・でもわがままはいわないから安心して」

 知花は微笑した。

「海の近く?」

「そうね・・・。なんだか海を見てそこからどこに行けるのか考えてみたい。海って・・・前にも言ったけど私にとってはそこからどこかに逃げる場所だもの」

 遠くを見るような目で知花は答えた。彼女は・・・どこかに逃げ出したいのだろうか?何と答えていいのか分からず、私は胸のポケットにしまった彼女の幼い時の写真を取り出した。そして写真を見ながら、

「これは僕の知らない知花なんだね」

 と呟いてみた。

「立花君の知らない私はまだまだいっぱいあるよ」

 と知花は笑った。

「少しずつでもいいから知っていきたいもんだね」

 私がの答えに、知花は少し考えてから答えた。

「知らないところがある方が、神秘的よ。立花君は、私が朝一番最初に飲むものを知らない。私がどんなものを着て寝ているか知らない。私がどんな想いで一日を過ごしているのかも知らない。私だって、立花君がどんなおじいちゃんを演じているのかしらない。立花君がどんな基準で靴下を選ぶのか分からない。でも、私たちは互いに理解して、好きあっているじゃない」

「好きな人のことを少しでも知りたいっていうのはいけないことかい?」

 私は尋ねた。

「いけなくはないけど・・・それでもっと好きになるかどうかは分からない。一緒に暮らすと知りたくないことも出てくるかもしれない」

「でも・・・僕は・・・」

 私は抗った。

「うん、生まれ変わったら一緒になりたい。私もよ。それはずっと変わらない」

 謎のような笑みを浮かべて、さあ、そろそろ出ましょ、と彼女は言った。一緒にランチを食べていた人々の数も少しずつ減って、今では壁際にいる老婦人とその娘らしいペアが残っているだけだった。

 会計を済ませ、店を出ると知花は

「少し風にあたりたい」

 と言った。レストランの近くにベンチがあり、私たちはそこに腰かけてクリスマスのイルミネーションを眺めた。

「クリスマスってね」

 知花は目の前に広がる華やかな灯りの情景を見ながら口にした。

「ん?」

「春が来るお祝いなんだって」

「え、そうなの?」

「中国とか日本では一陽来復っていうでしょ。冬至が来ると」

「ああ、そうだね」

「キリストさんが降誕したっていうお話にしたのは人々に春が来ることだ、って知らせる意味なのかもね。西洋でも東洋でもみんな春を待ち望んでいるのよ」

「でも、まだずいぶんと寒い季節が続くじゃない」

「でも、冬至が来ると少しずつ日は長くなって明るくなっていくでしょ」

 知花は空を見た。心なしかそれまでの季節より空が青く見えた。

「だね」

「まだつらい寒さは残るけど、でお希望を持っていればすぐ春が来る。ほら、君もそれを感じるだろうっていう意味ではきっとちょうどいい時なのよ・・・でも、やっぱりちょっと寒いね」

 知花はぶるっと体を震わせた。

「そうか。これからどうする?」

「そろそろ引き上げようか。今日はちょっと用事があるの。ごめんね」

「うん。次は年明けたらすぐに会えない?例えば二日とか三日とか」

「どうして?」

「女房が実家に帰るんだ。下手な言い訳をしなくても済むし」

「いいわよ」

 知花は奇妙な笑みを浮かべた。

「許してあげる」

 そう言って知花は立ち上がった。私たちはレストランスタッフの丁寧な挨拶を背後に聞くと、クリスマスイルミネーションで彩られた歩道を二人で歩いた。

「どうやって帰るんだい?」

尋ねた私に、

「バスかな、普段なら。でも今日は銀座に用事があるのよ」

「そう。じゃあJRで行く?」

「ううん。地下鉄にするわ」

「そうか・・・」

 私は地下鉄の入り口の階段まで彼女を見送った。地下鉄に通じる階段を降りかけた彼女は

「じゃあね」

 と私が一言いうと、彼女は一度降りかけた階段をゆっくりと戻ってきて、

「美味しかったわ。ありがとう。よいお年を、ね」

 と私の手を握った。手は冷たかった。私はそれを温めるかのように包んだ。

「ああ、じゃあ、また。君こそよいお年を」

 そう言った私に離した手を振ると、彼女は足早に階段を下りて行った。


 年が明け、元日だけ家で過ごした妻は二日目から実家に戻っていた。だが、知花からの連絡はなく、私は不安に苛まされていた。知花は一人暮らしだ。万一熱でも出していたなら、と考えるといたたまれず私は二日の昼にこちらからメッセージを送った。

「どうかしたの?病気じゃないかと思って心配している」

 だが、返信はなく私はいよいよ焦燥に駆られた。知花の住んでいる場所は先だって知花と高校に行った時に彼女が写真の送り先に記した宛先で分かっていた。弦巻にあるメゾン ブランシェの308号室。出かけてみるべきであろうか?私は迷っていた。だがそんな迷いの中に溺れかかった私宛にその日の午後、彼女からメールが届いた。

 そのメールには一枚の写真が添付されていた。どこかの浜辺だった。月が美しい。だがメッセージはどこにもなかった。

「どこにいるの?」

 私はいつも使っているSNSでメッセージを送り暫く返答を待った。メールは相手が読んだかどうか分からない。SNSはその点便利だ。だが返事が来ないどころか既読のマークさえ付かなかった。

 沖縄だろうか?あの時、遠くへ行きたいと言った彼女の言葉を私がかろんじたように思って怒っているのだろうか?未読の儘の画面を見続けるのを諦め、私は仕方なくコーヒーを淹れることにした。コーヒー豆をミルで挽き、お湯を沸かして最初のドリップを落とした時、突然スマホが鳴り出した。

 知花からだろうか、そう思って私は急いでスマホを手にしたが意外なことにその電話は宮本からだった。宮本とは同窓会の日、電話番号とSNSの連絡先を交換したのだが、互いに連絡を取り合うことはなかった。若者と違い、私たちの世代は用もなく連絡を取り合うことはほとんどしない。まして相手は外科医だ。仕事も忙しいだろうし、さまざまな連絡もあるだろう。急病かと思ってスマホを取り上げたら、用もない私からのメールだとしたら腹を立てかねない。そんな宮本から、何の連絡だろう?そう思って通話のボタンを押すと、

「立花か?」

 あたりを憚ってでもいるのか、宮本の低い声が受話器から流れてきた。

「そうだ。どうしたんだ?何か用か?」

「聞きたいことがある」

 彼の声は真剣だった。

「知花のことだ」

「知花?」

 宮本の口から彼女の名前が出るとは思ってもいなかったので私は驚いた。

「なんの話だ」

「電話では話せない。今日、空いているか?」

 宮本の声は低いままだったが、その口調に急かすような調子を感じた。

「ああ」

「じゃあ、病院の近くの喫茶店に来てほしい。そうだな・・・。診察がまだ終わらないんだ。終わってから抜け出すから、5時半でいいか」

「構わない」

 彼の指定した喫茶店の名前と電話番号をメモする。

「正月だっていうのに仕事か?」

 私が問いかけると、

「ああ、病気は正月を避けてくれないからな。悪い、忙しいからこれで切る」

 と言うなり、電話は切れた。いったい宮本と知花の間に何があったのだろう?私は呆然と切れたスマホの画面を見ながら考えた。二つの可能性があった。宮本は医者だ。その職業から考えられることは知花が何かの病気にかかっていることだった。

 だがもう一つの可能性も考えられないではなかった。宮本と知花が何かの拍子に付き合い始めた、という可能性だった。宮本は離婚して今は独り身のはずだ。私は知花を愛しているが家族がいる。知花が家族の束縛から抜け出すことをしない私を見限って宮本と付き合うことにしても何の不思議もない。彼は医者で収入もそれなりにあるに違いない。同窓会で見た限り、宮本は如才ない社交性も持ち合わせている。

 そこまで考えて・・・私はそれ以上考えるのを止めた。いずれすぐにわかることだ。もし彼女がそう決心したなら私には二つの選択肢しかない。家族を捨てるか、彼女と別れるかだ。それを決めるのは宮本から話を聞いてからでも遅くはない。

 だが、心は穏やかではなく宮本が指定した喫茶店に私が到着したのは指定の一時間前、4時半をちょっと過ぎた頃だった。指定された喫茶店を見つけるのには少し手間がかかった。そこはチェーン店ではなく古くからある今では希少な風情の喫茶店で店内もさほど混んでいなかった。その奥のに席を取って私はコーヒーを頼んだ。

 それを待っている間手持無沙汰のまま、私は知花から送られてきた海の写真を眺めた。いったいどこだろう?夕暮れになずんでいく瞬間を捉えたその写真はどこのものとも知れなかったが、今季節が冬であることを考えると、東京より温暖な場所のように思えた。やはり沖縄だろうか?ふと自分の送ったSNSのメッセージを開けてみた。そこには既読のサインがついていた。だが、それに対する返事はなかった。

 ぼんやりとその画面を眺めているうちにやってきたコーヒーは冷め、生ぬるくなった液体をすすりながら私は知花を失うことの切実さに心を痛めていた。改めてどんなにか、自分にとって彼女が大切なものかを思い知らされていた。失われた39年を取り戻すことはできないが、これからは彼女が人生の中に存在する、それがどんなに私にとって大切な事なのか。

 そんなことを考えているうちに時間は過ぎ、いつの間にか夕暮れが忍び寄っていた。コーヒーをもう一杯お替りしたその時、ドアが勢いよく開き宮本が入ってきた。口元をまっすぐに閉じて中を見回している宮本に私は手を振った。

「よお」

 そう言いながら入ってきた宮本はコートも脱がず席に座った。よく見るとコートの下は白衣のままだった。

「忙しそうだな」

 私の言葉に、目を自分の服装に落とすと、

「まあな」

 ぎこちなく宮本は笑った。

「知花の話ってなんだい」

 私はストレートに尋ねた。ちょうど運ばれてきたコーヒーを持ってきたウェイターにホットミルクを注文すると、真向かいに座った宮本は私をまっすぐに見た。

「これは医者としてじゃない。高校時代の友人の話として聞いてくれ」

 宮本はそう言ってから、あたりを見回した。

「どうした?」

「いや・・・。知っている人がいたらちょっとどうかな、と思ってね」

 宮本は前置きをすると、

「知花は俺の患者なんだ」

 と低い声で話し始めた。

「腰のあたりが痛む、といって連絡をしてきたのが三月ほど前だ」

「三か月・・・?」

「うん」

 宮本は手帳を取り出すと

「正確には9月の22日に検査をして結果が分かったのは10月の7日だ。彼女は深刻な病気にかかっている」

「癌か?」

 宮本は頷いた。

「悪いのか?」

「正直なところ、良くはない。複雑な場所だし、おそらく転移している」

「10月7日・・・か」

 彼女と会ったのはその三日後・・・高校に行きたい、と言った日だ。

「どのくらい深刻なんだ」

「手術を勧めたが彼女は考えさせてくれと言ってもう三か月以上も経っている。本当は今朝彼女が来るはずだった。最後の意志を伝えるたねにな。だがいくら待っても来ない。一応、緊急時の連絡先に連絡をしたが彼女の居所は分からないと言ってきた。普通ならそこまでしないがなんせ相手が高校の同窓生だからな。緊急連絡先は甥で県会議員だったから、そこから手を回して彼女の自宅にも行ってもらったが留守だった。で、お前に電話した」

「・・・」

 私は目を上げた。

「なんで・・・って顔をしているな」

 宮本は私を見返した。

「ああ・・・。いつ気づいたんだ?」

 宮本は目を瞬かせ、

「あの同級会の時さ。彼女、お前のことをやたらと気にして聞いてきたんだ。帰るらしいって行った時、慌てて、挨拶だけしてくるからって・・・その時からかな。ま、あの時はもしかしたら、と位にしか思っていなかったが」

 と答えた。

「だがこの間診断を伝えた時、どういう訳かクラスメートにも言わないで、ってくぎを刺したてきた。それにピンと来て『立花にもかい?』って聞き返しんだ。そしたら絶対に言わないで、と返事した。『なぜ、立花君なの?』とは聞き返しては来なかった。きっと動揺していたんだろうな。そもそも医者が家族以外に情報を漏らすことはしない。それを敢えてクラスメートにも、と言ってきたこと自体おかしいと思ったんだ」

 そう続けた宮本は私を探るような視線で見た。

「たしかに・・・知花とは同窓会以来、何度か二人で会っている。だが男女の関係ではない」

 私は正直に答えた。

「そうか・・・」

「俺は知花のことが好きだった。知花が俺を好きだったなんて全然気づかなった。彼女は政治家の娘であることで精神的拘束にかけられたみたいな状況だったんだと思う。だから地元じゃない場所から来た俺のことを白馬の騎士とでも思ったのかもしれない」

「うむ」

 宮本は頷いた。

「だが俺は一人で横浜に帰ったんだ。それ以来あのとき初めて会った。彼女は結婚したが旦那さんは車の事故で死んだ。それもどうやら浮気相手と一緒だったらしい。彼女は今でも俺のことを思っている、と言ってきた。それは俺も同じだった。だから・・・。互いにその時間を取り戻そうとしたんだ。男女の関係については一度、そんな誘いをしたこともある。しかし、彼女は・・・」

 私はそれ以上言葉を続けられなかった。

「・・・。分かった。それ以上は聞かん」

 宮本は、そのことに関してはそれだけを言うと、コーヒーをかき混ぜながら

「彼女を連れ戻すことはできるか?手術をするしないに関わらず、とにかく放っておくことはできない。どうやら彼女には頼ることの出来る肉親と言うのはいないらしい。となると頼めるのはお前しかいない」

 と尋ねて来た。

「しかし、俺も居所は知らん。写真を一枚送ってきたが」

 私は答えるのが辛かった。

「写真?それはメールか、それともSNSか」

 宮本は視線を上げた。

「メールだよ」

「お前たち、いつもメールでやり取りしていたのか」

「いや、たいていはSNSだ」

「その写真見せてもらえるか?」

 宮本の言葉に頷き、私は彼女からのメールを見せた。

「悪いがそのメールを俺のスマホに転送してくれ。もしかして居所が分かるかもしれない」

 宮本は言った。

「どういうことだ?」

 尋ねつつ私はメールを転送した。

「スマホの写真には位置情報が入っているんだ。だがSNSだと位置情報は自動的に消される。メールならば意図的に消さなければ位置情報は残る。なんだそんなことも知らないのか?」

「知らなかった。しかし、そんな情報どうやって見るんだ?」

「よし届いた。じゃあ・・・」

 と宮本は言いながらスマホを操作した。

「何をやっているんだ?」

「位置情報を読むソフトがある。お前にわざわざSNSではなくメールで写真を送ったのは自分がどこにいるのか知らせるためかもしれん」

 だが、宮本はしばらくすると首を傾げた。

「おい、これは・・・」

 彼のスマホには数字が羅列されていた。北緯41度・・・日本ならずいぶん北だ。だがその横に経度としてE 2.11.15と見慣れぬ数字が載っている。東経2度。日本ではない。その数字を控えると宮本は急いで今度は地図アプリでその場所を確かめた。

「バルセロナだ」

 宮本が呟いた。

「バルセロナ・・・?」

 私の声は少し裏返った。

「何か思い出すことがあるのか?」

 宮本の問いに私は小さく頷いた。

「・・・ああ。彼女が学生時代に行ったヨーロッパ旅行の最終地だと聞いている。思い出の場所らしい。生まれ変わったらそこに一緒に住もうかという話を一度したことがある」

「そうか・・・。そこに彼女はいる」

 宮本は黙り込んだ。そして暫くするとぼそぼそとした口調で

「立花・・・。日本ならともかく・・・スペインじゃな。俺は無理は言わん。お前にも家族はいるし、仕事もある。これは彼女の問題だ」

 と続けた。

「・・・」

「だが・・・。彼女は帰って来んだろうな。俺がいくらメールを送っても」

 彼は溜息をついた。そうだ。彼女を連れ帰ることは、たぶん私にしかできない。

二人ともは沈黙したまま暫く相手を見つめ合った。

「一つだけ頼む。俺もメールを送るが立花からも説得してくれ。少なくとも俺からよりも効果があるだろう」

 漸く宮本がそう言った。

「分かっている。それに悪かった、お前のことを疑っていた」

「何のことだ?」

「彼女と会う約束をしていたのにちっとも連絡が来なかった。その時お前から電話があり彼女の事で話がある、と言って来た。だからつい・・・」

「相手が俺だと?」

 宮本は眉を顰めた。そして

「お前たちが羨ましいよ。初恋をずっと抱えたようなもんだ。そんな人間が俺のまわりにいるとはな。俺はそんな純情な男じゃない。今でも若い女が好きだ。実は付き合っている女もいる」

 と自嘲するように言った。

「俺にとっては初恋だが、彼女はそうじゃないと言っていた」

 私は何を言っているのだろう?

「バカだな。恋に関しては女性はどんな嘘でもつく。相手の気をひくためにな」

 宮本はからかうような口調で答えると、

「悪いな。まだ仕事から残っている。今度また飲もう。知花のことは気に掛けて連絡してくれ。でも無理はするな。それ以上は頼まん。彼女は一人前の大人だ。自分のやっていることの意味は分かっている筈だ」

 そう一方的に言うと宮本はテーブルに置かれていた伝票を摘まみ、

「飲み会は割り勘だからな」

 と言って手を上げて店を出ていった。


 帰りの東急電車の中で私はバルセロナ行きの便を検索していた。朝と夜に便がある。彼女が最後に会ったあの日、銀座に行ったのはパスポートを申請に行ったのかもしれない、そう考えるとやり切れなかった。私はどうするべきなのだろう?宮本の言った通り、私には守るべきものがまだある。だが・・・その中に知花は入っていないのだろうか?確かに、何かを守ろうとすれば、何かを失わなければならない。だが、一度失った知花を私はもう一度見捨てられるのだろうか?電車は暗い闇の中を切り裂くように走っていた。その向こうに後ろへと走っていく灯りが滲んだ。

 家に戻った時には私の決心は固まっていた。何としてでも知花を連れ戻しに行く、それが結論だった。同じ女性に同じような悲しさを味合わせてはいけない。それ以外の論理はどこにもなかった。幸いにしてパスポートは持っていた。

「事情があって海外に行く用事ができた。すまないが留守をする」

 妻あてのメモを書くと、気持ちが少し落ち着いた。朝の便の予約を入れ、さっそく荷物を準備した。それほど持っていくものはなかった。金、パスポート、それさえあれば何とかなる。あとは少しの着替えとこまごまとしたものをキャリングケースに詰めた。会社は六日が仕事始めで、とんぼ返りでもしない限り間に合う見込みはなかったが、一応、五日に帰る便を予約に入れておいた。航空会社の人は首を捻るかもしれない、がそんな事に構ってはいられなかった。知花を一日で連れ帰ることができなければ、帰りの便も会社も、そして家族も何かしら諦めるものが出てくるだろう。だが、仕方がない。一度掛け違えたボタンをかけ直すのは今しかない。


 翌日・・・。私は出発直前にロビーで搭乗券をスマホに映し、そしてその写真を宮本のアドレスに送った。私の書きためておいた知花との経緯と一緒に。なぜだか、彼には知っておいて欲しかったのだ。知花と私がどんなふうに互いを愛していたかを。でも、私たちが一線をこえたことはなかったという事実を添えて。


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