第8話


 高速道路の出口あたりにはうっすらと見慣れた風景が広がっていた。だが出口を降りた途端、眼前に中にそれまで目にしたことのない新しい舗装道路が唐突に現れ、私はカーナビを横目で確認した。知花は高速にのっている途中で微睡まどろみはじめ、今もすやすやと横で寝息を立てている。カーナビは次の信号を右折すればすぐ私たちの卒業した高校に着く、と私に教えてくれた。指示された通りその信号をゆっくりと右折をしたとたん、頭の中に残っていた風景と現実がいきなり重なり合い、私は思わず息を呑んだ。

 この道は・・・私が自転車で通った道だ。細部に違いはある。コンビニがある場所は駄菓子屋だったし、古びた不動産屋の入っている建物は確か昔は文房具屋だった。でも、本屋は細々とまだ営業を続けていたし定食屋の看板は昔通りだった。

「・・・ごめん、寝ちゃったみたい」

 目を覚ました知花が横で呟くと、うーん、と伸びをした。

「構わないさ、ほらもうすぐだ」

 私が車窓を指すと知花は

「わぁ、ほんとうだ。懐かしい」

 と窓に鼻をつけた。息で白くなった窓を片手で拭くと、知花は

「ねぇ、あの写真屋さん」

 と声を上げた。左手に確かに見覚えのあるレンガの建物があり反射的に私は車のブレーキを掛けた。

「覚えている?っていうか知ってた?」

 知花は目を覚ましたばかりとは思えないうきうきとした口調で私に尋ねた。

「今、思い出した。なんで忘れていたんだろう」

 私はそのことを「忘れていた」という事実に動揺していた。

「知ってたんだ」

 知花は私を見た。

「うん」

 高校の近くにあるその写真店は卒業アルバムの制作を手掛けていて、学生にも馴染みのある店だった。腰は少し曲がっていたが動きは矍鑠かくしゃくとした店の老主人は文化祭や体育祭のイベントには学校にやってきては学生の写真を撮り、私たちにも気さくに話しかけてくる面白い人だった。そして・・・その写真店のウィンドーにはいくつかの写真が飾られていて、その一つが知花の写真だった。彼女の中学校の入学式の写真はウィンドーの右下に飾られていた。その写真が飾られていたのは父親が地元の名士だという理由もあったかもしれないし、入学式にわざわざプロのカメラマンを呼んで写真を撮るということが珍しいことだったからかもしれない。だが一番の理由は、被写体がとりわけ可愛らしいということだったのだろう。

 私は横浜へ戻る前に、彼女に別れを告げる代わりにその写真を見にもう一度だけ高校へ行った。そして、その写真に心の中でさようなら、と別れを告げたんだった・・・。何故、そのことを今まで忘れていたんだろう?

「もう飾っていないわよね、いくらなんでも」

 彼女が呟き、私は後続の車を二・三台やり過ごしながら横浜へ去る直前の話を手短に彼女にすると、運転席のドアを開けた。

「え・・・見に行くの?」

 彼女はためらった。

「もうないわよ。あの頃は恥ずかしかったけど・・・なくなっていたらそれはそれで寂しいから・・・やめよう?」

「それはそれでいいじゃない」

 私は陽気に言った。

「もしまだあったら、本人を連れて帰って来たよって報告したいんだ」

 そうね、と言いつつまだ彼女は躊躇していた。

「いいじゃないか。悪い思い出じゃない。僕が見たいんだ」

 そう言うと漸く彼女はドアを開けた。私たちは風の強く吹く道を戻った。私たちの他に誰も歩いている姿はなかった。だが、たどり着いた写真店のウィンドーは修理されたのか桟が白く塗られ新しくなっていて、その中に彼女の写真はなかった。

「ああ、ないかぁ」

 私は思わず声を上げた。

「だってもう五十年近く前の写真だもの。写真屋さんだってそんな古い写真じゃ宣伝にならないでしょ」

 彼女はもっともらしく言ったが、その表情はやはり少し寂し気だった。

「でもさ、昔からある写真店だっていう意味で宣伝になるんじゃない?」

 私の反論に

「それはそうだけど・・・」

 彼女は口ごもった。

「あんな素敵な写真、宣伝にならないわけないよ」

「それは買い被りだよ」

 店の前で私たちが言い合っているのに気が付いたのか、写真店の扉がゆっくり開いて白髪が混じりの男の人が不審げな顔を出した。

「どうかされましたか?」

「あ、いえ」

 彼女は慌てたように身を引いた。

「なんでもありません」

 そう言った彼女の手を取って、

「すいません、昔、ここに子供のころの彼女の写真があって、まだあるかなと思って・・・」

 私が言うと、知花は

「あ、でもずいぶん昔の写真なんです。気になさらないでください」

 と頭を下げた。だが、写真店の男の人は、

「そうですか、昔からのお客様でしたか。どうぞ中へ。その頃の写真なら取ってありますから」

 と言って私たちににっこり笑いかけた。


 当惑しているような表情のまま知花は私の横に座り、写真店の男が、

「たぶん、それは私の親父が撮った写真ですね。親父は10年ほど前に亡くなって、その後写真を入れ替えたものですから・・・、ああ、これだ」

 と声を上げるとセロファンの袋を取り出した。そこから一枚ずつ写真を取り出したその中にあの写真があった。

「ああ、この写真です」

 私はその写真の端を摘むと知花と自分の間に置いた。セピア色の背景から、幼い知花がまっすぐな視線を向けてきた。

「なるほど・・・。これは親父がお気に入りだった写真です」

 写真店の男、というか店主は懐かしそうに言った。

「お前もこういう写真を撮るようになれ、ってよく言われました。白黒の最後の時代ですね。たぶん、もうカラー写真が一般的になっていた頃でしょうが、まだ色があんまりよくない時代で、レンズと現像の組み合わせでは白黒の方がずっとシャープに撮ることができたんです。陰影も良いですね。親父はレコードも趣味で、ステレオよりもモノラルの方が音はいいんだ、それと同じだ。だが、そのうちカラー写真やステレオの方がきっと良くなる、技術っていうのはそういうもんだ、なんてよく言っていたなぁ」

 そう言うと、その写真を小さな袋にするりと滑り込ませて知花に、

「どうぞ、お持ちください」

 と手渡した。知花は驚いたように、

「よろしいんですか?お父様の形見でしょうに」

 と呟いた。

「いや、確かに親父のお気に入りではありますがね」

 男は言った。

「被写体の方が来られたら、渡そうとは思っていたんですよ。ずっとこの写真店のために頑張ってくださった写真ですから。わざわざ来ていただいたんだし、どうぞお納めください」

「ありがとうございます」

 知花は両手で差し出された写真を受け取ると、

「ここでまだ写真を撮ることはできるんですか?」

 と店主に尋ねた。

「ええ、と言ってももう写真を撮りに来られる方は少ないですけれど。仕方なく色々と別のものも売り出しているんですけどね」

 そう言って店の中を指した。写真加工用のソフトや、写真の撮り方の解説書などが並んでいる棚を見ながら、

「今はみんなスマホで自分で撮ってソフトで加工する時代です。もう写真店なんて商売としては成り立たない時代ですけどね、それでもまだ専門家に写真を撮ってほしいという方はわずかですがおられます」

「じゃあ、私たちを撮っていただけますか?」

 知花は尋ねた。

「もちろんです・・・。そうされますか?」

 主人は半信半疑というような表情を浮かべた。

「お願いします。ねぇ、立花君もいいでしょ?」

「ああ・・・」

 思いがけない展開に私は少し躊躇ったが、

「分かった。でも、車をなんとかしないと」

 と答えた。ハザードランプをつけっぱなしのまま車はもう十分以上ほったらかしにしている。警察にでも通報されたら面倒なことになる。

「それならば私の店の駐車場に入れてください」

 そう言うと写真店の店主は、私を店の外に連れ出して駐車場の場所を教えてくれた。


 駐車場から戻ってくると、知花と写真店の店主はお茶を飲みながら昔話をしていた。二人ともずいぶんと楽し気に打ち解けあっている。

「そうですか、あの高校の同級生ですか」

 私が入ってくるのを見ながら店主は、

「私は高専に行ったもんですから、あの高校の卒業生ではないんですけど、親父は学校にずいぶんと世話になったみたいですよ。今でもその頃の関係でときどき写真の依頼をいただいています」

 と言った。

「そうなんですか。もう私たちの知っている先生方も残っていないんですけど、去年同窓会をやって、なんだか懐かしくなって」

 と知花は愛想よく答えている。

「いいですねぇ。お友達とわざわざ昔、通った高校に来るなんて。仲の良いお友達同士だったんでしょうね」

 私と知花を見比べるようにして店主は言うと、

「じゃあ、どうされますか。そのままの格好でよろしいでしょうか」

「ええ」

 知花は頷くと、

「ねぇ、立花君」

 と私に念を押した。

「うん、そうだね」

 私は自分の格好を確かめながら答えた。白いセーターにチノパン・・・あまり写真にふさわしいとも思えないが、なんとかなるだろう。


「はい、お二人ともちょっと表情が硬いですよ。そう、そんな調子です、はい、結構です」

 しゅぼっ、というストロボの音がしてカメラに掛けた黒い布から店主が顔を上げた。

「ではもう一枚」

 どうせ撮るならあの写真を撮った頃に使っていた古い二眼レフでいかがですか、という店主の誘いに乗ったばかりでなく、できれば白黒のフィルムでと言った知花のリクエストに店主が応え、私たちの撮影は結構手の込んだものになっていった。

「デジタルならすぐにお見せできるし、現像も早いんですけどね」

 店主はなんだか嬉しそうに、カメラを仕舞いながら言った。

「この手の写真はこれから現像しなければならないんで。暗室を使うのも久しぶりだなぁ」

 店主の渡した配送の書類に知花は受取先の宛名を書きながら、

「でもなんだか楽しみです。どんな写真ができあがるのか」

 と答えた。

「それは銀塩写真の醍醐味です。まあ、今時そうおっしゃってくれる方はあんまりいないですが」

 店主はカメラの箱をポンポンと叩いて、

「でもきっといい写真になります。親父が大切にしていた写真の被写体になってくださったお方を息子の僕が40年も経ってから撮れるなんて、嬉しい限りです」

「こちらこそ・・・。でも申し訳ないですけどこの写真はウィンドーには飾らないでいただきたいわ。知っている人がこのあたりにまだ住んでいるし、何か変なことを言われないとも限らないんで」

 と言った知花の言葉に、

「もちろんです。被写体の方の了解なしにそんなことはしませんからご心配なく。今は東京に住んでおられるんですね」

 応えた店主は知花が書いた書類に目を通すと、

「たぶん、一週間以内には到着すると思います」

 と店主は領収書を知花に渡した。


 駐車場までは歩いてそんなにはなかったが、風の冷たさとさっきまでの写真店の中の暖かさの対比のせいで、二人は身をこごめるようにして歩いていた。

「寒いね」

 知花は手に息を吹きかけた。

「さっき、ずいぶん楽しそうに話していたね」

 私は何気なくそう言った。

「え、なんのこと?」

「いや・・・なんでもない」

「あ」

 知花は立ち停まった。

「なに?」

 車までもうすぐだというのにその場で動かなくなった知花に私は尋ねた。

「もしかして、立花君、嫉妬してる?」

「え・・・」

「さっき車を止めて帰って来た時、なんだか不機嫌そうだった」

「そんなことはないよ」

「妬けた?楽しそうに話をしてたから。彼50歳で未婚なんだって。私の年を言ったら、信じられない、まだお美しいですね、だって」

「・・・」

「妬けたんだ」

 私は頭をかいた。

「俺の女に手を出すんじゃねぇ、とか・・・」

 知花がからかうように言った。

「言ってみて」

「俺の女に手を出すんじゃねぇ・・・」

 私は口真似してみたが、あまりうまくいかなかった。

「なんだかちょっと嬉しいな」

 そういうと知花は駆け寄ってきて、私の手を握った。

「だいじょうぶだよ。私は立花君の事、ずっと思っていたし、今も思っているよ」

 車に乗り込みエンジンをかけ、車道に入るとあっという間に高校に着いた。

「ああ、ずいぶんと変わっちゃったなぁ」

 知花は溜息をついた。新しい校門越しに見える建物も当時の面影はなかった。二階建てだった校舎は取り壊されたのか、三階建ての新しい校舎に置き換わっていたし、グラウンドにもフェンスが作られていた。

「裏に回ってみようか」

 車を校門の脇に止め、私たちは学校の裏手に進んだ。その途中で、

「あ、自転車置き場はそのままだ」

 私が指をさすと、

「ほんとだ」

 と知花も立ち止まった。屋根だけはきなおしてあったが、自転車置き場は昔の儘の場所に、昔と同じ形で残っていた。

「僕は通学のためにここに自転車を止めていたんだ」

「知っている。自転車を漕いでいる時の立花君、颯爽さっそうとしていたよ」

 知花が私のことを見ていたなんて、その頃は全然気づかなかった。

「見ていたの、本当に?」

 私の問いに、

「見ないふりして見てた」

 と知花は呟いた。

「そういうの、得意だったし」

 その時、私たちと逆の向からやってきた軽自動車が向かい側に停車すると、ププっと控えめなホーンを鳴らした。するすると窓が開くと黄色のダウンジャケットを纏った30代後半くらいに見えるこざっぱりとした髪をした女性が

「知花先輩、知花先輩ですよね」

 と声をかけてきた。

「あ、敬子ちゃん」

 知花が驚いたような声を上げた。

「どうしたんです。こんな寒い時期にやっていらして」

 車を停めて、小走りに道路を渡ってくるとその女性は知花に尋ねた。

「うん、なんだか高校が懐かしくなっちゃって、ドライブに連れてきてもらったの」

「そうですか」

 女性は私を頭のてっぺんからスキャンするように眺め、にっこりとすると

「再婚なさったんですか」

 と知花に尋ねた。

「うん」

 知花は躊躇う様子もなく頷いた。私はびっくりしたことを気づかれないようにそっと知花を見た。

「でも内緒だよ。ほら、みんな何を言うか分からないし」

「分かっています。安心してください」

 と頷くと、その女性は

「私、藤村敬子と申します。お初にお目にかかります」

 と丁寧なあいさつをし私も、

「立花と申します、妻がお世話になっております」

 と挨拶を返した。そう言う以外に選択肢はない。女性はにこっと笑顔を作ると、

「良かった、素敵な旦那さんですね」

 と言ってくれた。

「そう?」

 知花は首を傾げ、笑った。

「そうでもないよ。ふつう」

「でもあの頃の知花先輩、なんだか大変そうでしたもの。今はとってもお幸せそう」

「ありがとう」

「じゃあ、ゆっくりしていってくださいね」

 女性はこくりと挨拶をして車に戻っていった。窓から手を振りながら女性の車は視界から遠のいていった。


「大丈夫なの?あんなこと言って、結婚しただなんて」

 私の問いに

「あの子は大丈夫だと思う。いちばんまじめで口が堅かったし。盛岡くんとは違うわよ」

 と知花は答えた。

「ひどいな」

 私は一応、盛岡に同情するふりをした。知花は軽く鼻を鳴らすと、

「だってその通りだもの。あの子私たちの高校の、うーんと10期下だったかな。初めて出会った頃はまだ高校、昔のままだったけどなぁ。あの子、すごく賢かったのにおうちの事情で大学に行けなかったの。で、選挙スタッフにとして夫の選挙を手伝ってもらったのよ。とっても有能だったけど、恋人ができて結婚してやめちゃったんだ」

 懐かしそうに言った。10期下・・・ということは30代後半に見えたあの女性はもう50近いわけだ。

「素敵な女性だね」

「あら」

 知花は私を睨んだ。

「普通の旦那としての意見さ」

「だってのろけるわけにもいかないじゃない。そのうえ、旦那っていうのはうそだし」

「まあね。それにしてもいろいろな人に出会うね、あんまりうろうろしていると大変なことになりそうだ」

「ほんとうに。でも来てよかった」

 知花は明るい声で言った。

「そう?」

「立花君と写真も撮れたし」

 そう言って知花はまた私と腕を組んだ。

「だね」

 私は組まれた手を握った。

「嫉妬もされたし」

「からかわないでくれよ」

「旦那だなんて嘘もついたし」

「でもふつう・・・」

「ふつうっていう嘘もついたし」

 言いあいながら私たちは高校のぐるりをゆっくりと歩いて回った。けど、なぜかあの駐輪場だけを残して、高校の建物はすべて新しく変わっていた。




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