第6話

 翌日の日曜日、娘の家族が再び我が家にやってきた。娘の夫、俊介君も今回は一緒で孫の達也と今は風呂に入っている。彼らのマンションにある風呂はいわゆるユニットバスなのだが、達也は我が家の昔風の広い風呂が好みのようで「お風呂セット」なるものを持ってやってくるのが常だった。とりわけ黄色のアヒルで浴槽を埋め尽くすのがお気に入りで、全部を片づけているうちに俊介君の体が冷えてしまうのではないかと心配になるほどの量の大小さまざまなアヒルをポリ袋いっぱいに詰めて持ってくる。

 出た息子を受け取って体を拭き着替えをさせる役は娘で、お風呂上りを待っている間妻と話をしているのが常だった。私がキッチンに降りて来た時も二人で煎餅をポリポリとかじりながら無駄話をしていた。

「飯の支度はいいのか?」

 妻に尋ねると、

「大丈夫ですよ。今日はすき焼きにしますから」

 と返事が返ってきた。どうも娘が返ってくると食卓が豪勢になる傾向があると思うのは私のひがみだろうか?そんな気持ちを押し隠し、娘に

「それで、この間の件は解決したのか?」

 自分でもどういうわけか分からないのだが、ひそひそ声で聞くと、

「この間の件?何のことだっけ」

 娘は首を傾げた。

「俊介君が怪しい場所に出入りしているとか騒いで彼を一人で置いてきたじゃないか?」

 私は呆れたが娘は

「あ、あのことかぁ・・・なんだぁ」

 と平然と答えた。

「あのことって・・・。あの時は大騒ぎしたしていたじゃないか」

「悪かったわ。もう大丈夫」

「なんだ、心配させておいて。結婚した娘が実家に帰るっていうのはよほどのことだぞ」

 と私が叱ると、

「そんなたいそうなことじゃないわ。いつも帰っている実家に俊介を連れてこなかっただけよ」

 相も変わらず口だけは達者だ。その上、何を思ったのか娘は私に向かって反撃してきた。

「そう言えば父さん、昨日も外出していたんだって?ずいぶんと遅く帰って来たって、そっちこそ大丈夫なの」

「何を言っているんだ。散歩をしただけだ」

 どきり、としながらも私は平静を装ったが娘は攻撃の手を緩めなかった。

「散歩に五時間も、六時間もって変じゃない?若い女の子とデートでもしていたんじゃないの?」

 相手は若くはないが・・・そういう問題ではない。何か言い返さねばと身構えた時、妻がおっとりとした口調で、

「そんなことはないわよ。お父さん、確かに2万歩以上も歩いてきたんだから。ちゃんと見せてもらいましたよ」

 と助けを出してくれた。昨日、帰ってきてから得意げに記録を見せたのが思わぬ効果を上げたようだった。だが、

「えー?後で手入力したんじゃないの?」

 娘は疑わしそうな声をあげた。

「これ、手入力なんてできるのか?」

 そんな事とは知らなかったので、私は娘にポケットから万歩計を取り出して見せた。量販家電店で買った安物である。それを見た娘は、

「あれ、スマホじゃないの?」

 と目を上げた。

「スマホに万歩計なんてついているのか?」

「今時、常識よ。そんなことでいちいち驚くなんて、お父さんも相当のデジタル難民ね。今時のスマホはなんでも入っているから他の物を持ち歩かなくてもすむってことがウリなんだから。でもスマホじゃなければ手入力は無理か」

 娘は万歩計を何度かひっくり返しながら、

「確かに2万3千歩、歩いているね。じゃあ、大丈夫か」

 と呟いた。

「2万3千歩だと大丈夫なのか?」

 と私が尋ねると、娘はにやりとして、

「お父さんと2万歩歩く物好きな女性はいないでしょう」

 あっさりと答えた。

「失礼だな」

 私は憤慨した。

「じゃあ、訂正する。今時の女の子は・・・今時であろうとなかろうと女性は、おじさん相手に2万歩なんて歩かされたらそんな人とは即、別れるわ。相手がお父さんであろうとなかろうと。浮気するくらいならせめてタクシーくらい使えって話」

 とても風呂にいる旦那には聞かせられない話だ。

「そんなものか?」

 いったい私たちは何を話し合っているのだろう、と思いながら私はつい尋ねてしまった。私は知花に対して、失礼なことをしたのだろうか?

「私なら、500歩でダメかも」

 妻が笑った。500歩・・・近所のスーパーまでの片道の距離だ。

「それは僕と・・・という意味か?」

 なんだか忌々しくて妻を問い詰めると

「そういうわけじゃないけど」

 余計なことを言ったと考えたのか、妻は小さな声を返した。

「おーい」

 その時、浴室の方から俊介君の声がした。

「かおりちゃん、そろそろ上がるぞ。達也をお願い」

 その声に

「はーい」

 と娘が返事をすると、いそいそと立って出ていった。どうやら娘夫婦の仲は心配しなくても良いらしい。なんだかんだといって気にかけていた自分がなんだが馬鹿馬鹿しくなって書斎に戻り夕食ができるのを待っていると、カバンの中から着信音が微かに響いた。カバンを開けスマホを取り上げてみると、思いもかけず知花からのメッセージが届いていた。

「昨日は楽しかった。どうもありがとう。また立花君と映画を観に行けたらいいなと思いつつ、次の回のためにカラオケの場所を探しています」

 ささくれ立っていた気持ちが嘘のように鎮まり、胸がときめいた。

「こちらこそ、思いがけず長い間歩かせてしまったようで申し訳ない。カラオケ、楽しみにしている。練習しておくよ」

 そうメッセージを送り返すとすぐに返事が来た。

「散歩、とっても楽しかったわ。若いころに戻ったみたいだった。好きな人と散歩するのが私の夢だったもの。南沙織、練習しておくわ」

 彼女は散歩を苦にしない、私と一緒の散歩を楽しんでくれた。女性にもいろいろいるんだ。お前たちみたいに男をタクシーの支払い係だと思っているような女ばっかりじゃない。娘にそう言いたくなる気持ちを抑えながら、

「君といると若返ったような気がする。それこそ高校二年生のあの頃に戻ったような気持ちになるよ」

 とメッセージを返した。しばらくして再びメッセージが返ってきた。

「高校二年生って、謎かけなの?なら『十七歳』がリクエスト曲ね。でもあんまりメールをやり取りしていると変に思われるかもしれないからこれで失礼するね」

 十七歳・・・セブンティーン。私の一番好きな南沙織の曲だ。謎など掛けたつもりではなかったが、

「君の歌を楽しみにしているよ」

 メッセージを送ると私はスマホを再びカバンに仕舞った。


 ”・・・早く 強く つかまえにきて 好きなんだもの”

 ステージで歌う知花の声はのびやかで透明で、若いころにテレビでよく観た南沙織本人の姿に重なった。私は観客よろしく歌声につられて知らず知らずのうちに体を左右に動かしていた。スクリーンいっぱいに映る沖縄の海をバックに歌う白いワンピースを着た知花は、控えめに言っても、とても素敵だった。

 川崎の小さなビルの二階にあるカラオケは思ったより内装が豪華で料理もうまかった。どこかから出前を取っているらしく、チェーン店にありがちな入場料を安くして料理で元を取るというようなスタイルでないのが好感を持てた。

 最後に、深々とお辞儀をする仕草で歌を終えた知花に私は心からの拍手をした。

「知花、歌も上手なんだね」

「すごく練習したのよ、昔の録画をみて。衣装も・・・らしいでしょ?」

 昔着ていたのを引っ張り出してみたの、とワンピースをひらひらとさせながら知花は頬を染めた。

「恥ずかしかったわ」

「でもそっくりだった」

「そう?とっても緊張しちゃった。彼女のレコード大賞受賞の時みたい」

「そんな動画があるの?」

 私は尋ねた。今度一度見てみよう、というと知花は頷いた。

「たぶんテレビを録画した動画が色々あるんだけど、彼女、とっても素直な子みたいで緊張した時とそうでないときと表情が全然違う。でも歌はいっつも同じ。プロなのね。立花君が好きだって言うのわかる気がした」

 そう言うと知花はマイクを置き、

「じゃあ、こんどは神田川を一緒に歌おう」

 検索を始めた。画面をスクロールし、曲を見つけると

「ほら、あった。一緒に歌おう」

 と立ち上がり、私の手を引いた。


 五月の連休、私の会社は飛び石のままだったので会社を休むことはできなかったが、娘たちは休みを取って車で箱根に出かけた。妻は誘われてまんざらでもない顔で一緒についていった。箱根の温泉で今、俊介君は大浴場いっぱいの黄色いアヒルを回収中なのかもしれない。そして私は「横丁の風呂屋」に出かけていく恋人たちの歌を歌っていた。

”ただ、あなたのやさしさが怖かった・・・”

 最後のフレーズを一緒に歌い終えると、知花は

「ほら、おじぎ」

 と私を促し、二人は他に誰もいない部屋で観客に向かうようにお辞儀をした。


 私たちは歌を歌うのに満足すると赤ワインを一本頼んだ。そしてそのワインで乾杯しながら、私は言った。

「こんど、生まれ変わったら一緒になろうね」

 たぶん、気持ちが高揚していたんだと思う。普段の私は「生まれ変わる」などとい考え方は幻想だと思うような男だった。知花は、うん、と頷くと

「そうだね。生まれ変わったら私を立花君はお嫁さんにしてくれるよね。今度はすれ違わないようにしよう」

 と言ってグラスを合わせた。

「今はその時の練習だね」

 知花はワインを飲み干すと言った。

「練習?」

「そう、ちゃんと互いに記憶しあって、生まれ変わっても忘れないようにする」

「そうだね」

 私は知花をまじまじと正面からみた。知花はくすぐったそうな顔をして、

「ちゃんと、知り合った時から気持ちを素直に相手に伝える」

 と続けた。

「うん」

「難しいことが起きても二人で一緒に解決する」

「もちろん」

「いいなぁ、そうなったら。早く生まれ変われるといいね」

 無邪気に笑った知花に、

「じゃあ、そうなったらどこに住む?」

 と私は尋ねた。

「やっぱり横浜がいいかなぁ」

 知花が答えたが、私は首を振った。

「いや、互いに知っているところはなしにしよう」

「そうね、じゃあ似た街で神戸とか長崎とかどう?」

「海が近いからね」

「京都も素敵だなぁ。一緒にいろんなところを散歩できそう」

「そうだね。京都の町には海はないけど、琵琶湖が近いし、府としては海に面している」

「あ、そうだっけ?」

「うん、福井と兵庫の間、舞鶴とか・・・」

「行ったことがあるの?」

「ないけれど・・・」

「立花君は何でもよく知っているねぇ」

 知花は感嘆したように私を褒めた。

「いや、娘に言わせると僕はデジタル難民だそうだ」

 そう言ってこの間娘がやって来た時の話をすると、

「そうねぇ、昔は携帯なんてなかったし、メールなんて言うのもなかったのに、どんどんと変わっちゃって・・・こっちが追い付かないわよね」

 知花も覚えがあるらしく頷いた。

「そうだね。覚えても、覚えたころには次の新しい技術に置き換わっているし、覚え甲斐がないよ。うまくいかないからって下手に触るととんでもないことになるし、それにハードだソフトだ回線だって、何か起こった時にどれが問題なのかさっぱり分からない。買っただけで完結する製品っていう概念がインターネットで崩れたんだ」

「昔は良かった、なんていうと年寄り扱いされちゃうしね」

「うん、それに比べて地理なんてそんなに変わるもんじゃないから覚え甲斐もあるよね・・・もっとも昔のソビエト周辺やアフリカには僕らの時代と違う国もたくさんできているし、やっぱり少しずつ時代は変わっていくんだろうなぁ」

 慨嘆するように言った私に、

「じゃあ、他の国だったらどこがいい?」

 突然知花は尋ねてきた。

「え、何の話」

「今度生まれてくるところよ。別に日本じゃなくたっていいじゃない」

「いや、僕が行ったことのあるのは中国とか、韓国とかせいぜい東南アジアまでだ。仕事の関係だけだから。今のところここで生まれ変わりたいと思うようなところへは行けていない」

「じゃ、私の方が知っているかもね。ハワイとかカリフォルニアもいいけど、でもやっぱり一番印象のあるのはヨーロッパかな」

「へえ」

「一度だけ行ったことがあるの。大学を地元の学校にするっていう父の言うことを聞いて、そのかわりにヨーロッパを一月。ロンドン、ミュンヘン、ウィーン、パリ、マドリッド、セビリア・・・その最後の街がバルセロナだった」

「良さそうな町ばっかりだね」

「バルセロナが一番思い出が深いかなぁ」

 知花は懐かしむような表情をした。

「最後の夜、海岸でひとりで泣いちゃった。旅行自体は楽しかったんだけど、それと引き換えに私は自分の人生を失っちゃったかもしれないって、ふと思ったの。月がきれいな晩でね。波打ち際で・・・ずっと波の音を聞いていた」

「じゃあ、もう一度行きたいね。行って人生を取り戻せばいい」

 私の言葉に知花は頷いたが、思い直したように言った。

「そうね。でも、生まれ変わる場所がバルセロナっていうのもいいかもしれない」

「と、なるとふたりともスペイン人かぁ」

"Si por supuesto"

「知花はスペイン語を勉強していたの?」

「ええ、大学で」

「さっきのはどういう意味?」

「うん、もちろんっていう意味」

「かっこいいね、なんだか」

 知花は照れくさそうにした。

「覚えているのはそのくらい。あとはケセラセラくらいかな」

 はにかんだ知花がだきしめたくなるほどおさない表情をした。


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