第5話

 窓の外で四月の空が明るく晴れ渡っていた。

 桜の花はすでに散って、若々しい緑の葉が青空に向かって伸び始めている。これから桜が自らのために自由気ままに暖かな季節を楽しんでいく、そんな風景を見る人のためには絶好の日和ひよりだった。

「ちょっと散歩に出かけてくるよ」

 私は洗濯物を干している妻に声をかけた。

「あら、いってらっしゃい」

 健康診断で運動不足だと言われたから、と週末に散歩をし始めたのは先月からだった。それはこの日のためだった。

「今日は少し遠出をするから、昼はいらない」

 声が少し掠れたような気がしたが、

「あらそう、気を付けてね」

 妻はあっけらかんと答えた。天気がいいから、私も一緒に行くわ、と言われたらどうしようか、という懸念はあっというまに杞憂きゆうに変わった。もともと妻はどちらかというと運動が苦手で、散歩も好きではない。

 疑うことを知らない妻を騙すのはやはりどこか気が引け、私は碌に返事もしないまま家を後にした。


 自分から連絡すると言っていたのに、知花から暫く連絡は来なかった。一日に二度、私は自分の書斎でスマートフォンを確認したがメッセージは来る日も来る日も届かなかった。

 彼女からようやく連絡がきたのは、約束した日の三日前だった。メッセージを開いてみると彼女が指定してきたのは、私が今まで一度か二度しか訪れたことのない、学生街として有名な駅にある古い名画座だった。

 学生街は私たちが人目を忍んで会うには絶好の場のように思えたが、私にはそのあたりの地理感が乏しく、何度かスマホをいじくってからようやくルートを決めた。

 横浜で乗り換え、東急線に乗ると、電車の行先は「森林公園」となっている。はて、この電車は渋谷を通るのかと心配になったが電車内のマップを眺めると、確かに渋谷の名前が停車駅にあり、その少し先に私の降りるべき駅の名があった。


 その駅から目的地まで十五分ほど、妻にそう言った手前少し散歩もかねて行こうなどと考えたのが、間違えのもとだった。地上に出ると、そこはただのっぺりとしたただの大きな道が伸びていて、私の持っていた「駅」の印象とかけはなれた場所だった。仕方なく見当をつけ、歩いてようやくたどり着いた繁華街は目指していたJRの駅ではなく地下鉄の駅だった。焦って近くの交番で道を聞き、古本屋とラーメン屋がやたら多い通りを早足で通り過ぎ、大きな道路を横切ると左手にその名画座はあった。そのちょっと先にJRの駅と高架が見える。

 そこにたどり着くまでにかけた時間を考え、私は自分の選択したルートを呪ったが、時間は開演にぎりぎり間に合った。


 映画館の前に彼女は壁にもたれかかって私を待っていた。

「どうしたの、汗なんてかいて」

 私の顔を見るなり、彼女は首を傾げた。

「迷ってしまって」

「あら、駅からこんなに近いのに?」

 そう言いながら彼女はハンカチを取り出すと私の額の汗を拭いた。

「ちょっと散歩がてら来ようなんて思っちゃったんだ。ありがとう」

「どういたしまして」

 そう言うと彼女はさっと私の腕に手を回し、映画館の前にある料金表のところへと向かった。

「ほらここ、二本立てで1300円だって、安いわ」

 彼女は華やいだ声を出した。

「ええと、60歳になったら900円か。私たちあと二年だね」

「ぼくたち高校生じゃなかったの?」

 私がからかうと彼女は人差し指を立て左右に振った。

「さすがに世間じゃそれは通らないでしょ。あ、でも50歳以上の夫婦なら二人で2000円か・・・。へーえ、どっちかの証明書があればいいんだって」

「証明書なら運転免許証があるけど・・・」

 私の言葉に知花は、うーん、と唸って

「でも・・・やっぱり嘘を吐くのはだめよ。ちゃんと払いましょ」

 と言った。どうやら・・・この映画館では熟年のカップルが夫婦かそうでない関係なのかたちまちのうちに知ることが出来るらしい。各々で切符を買い、中に入ると古い映画館らしく狭い通路にさまざまなポスターやら何やらが貼ってあった。

「ほら、ポップコーン、あった」

 彼女は嬉しそうに駆け寄ると、

「どうしようかな、何味がいい?」

 と笑顔で振り向いた。さんざん悩んだ挙句私が塩味、彼女がキャラメル味のを買って、私たちはそれを手に中に入った。


 銀座の映画館に比べて、館は古く座席も年代物だった。席の間隔は狭く座り心地も良いとは言えなかったが、

「なんだか、こっちの方がカップルには嬉しいんじゃない?近くに座れるし」

 と知花は言った。

「知らない人とは離れたいし、好きな人とは近くにいたい。難しいわよね」

「そうだね・・・。今の世の中は見知らぬ人との距離を下りたいって気持ちの方が強いのかも」

 私の言葉に知花は頷いた。上映される映画はなんでも良かったけど、都内にある名画座の上演作品の中でこれが一番見たい映画、と知花が選んだのは「ウェストサイド物語」だった。

「見たことある?」

「むかし一度だけ、たぶんテレビでね」

「じゃあ、初めてってことだね」

 知花は言った。

「?」

 私の顔に浮かんだ疑問符に

「テレビで観た映画は観た映画のうちに入らない・・・って誰か言ってた」

 と知花は答えた。

「そんなものかな?映画館にはめったに来ないんだけど」

「じゃあ、どの映画も私と観るのが初めってことになる」

 そう言うと知花は微笑んだ。場内が暗くなり、私は前回、知花に言われた通り、彼女の手の甲を自分の手の甲で触れた。すると、

「もういいよ。私たち付き合い始めて一月ひとつきも経つんだもの」

 知花は自分から指を絡めてきた。

「一月・・・」

「でしょ?会ったのはたった一日かもしれないけど、あれから一月経っているもの。その間に思いは熟成するのよ。ねえ、キャラメル味、食べる?美味しいよ」

「うん。じゃあ、取り換えっこしようか」

「そうね、そうしましょう」

 私は・・・確かに幸福だった。こんな幸福感を味わったのは、いったいいつ以来だろう。


「素敵な映画だったね」

 映画を見終えると知花は、食べ終えたポップコーンの包みをごみ箱に捨てながら言った。

「ポップコーンも美味しかったし」

「君の言った通り、確かにテレビで観た印象と違うなぁ。ずっと躍動的に見えたもの」

 私も正直な感想を言った。

「ミュージカルって僕はあんまり見たことないし、好きにならないだろうって思っていたけど、こんなに面白いとは思わなかった」

「私たちの時代の映画なのかしら?だから面白いって感じるのかな」

 知花は首を傾げた。

「いや、製作は1961年って書いてあったから、僕らが生まれたころ出来た映画だね」

「そうなんだ。でも今見ても、あんまり古臭い感じはしなかったね」

「名作なんだよ。名作ってそういうものなんだ、きっと」

 知花は頷くと

「ポップコーンと名作は永遠だね」

 と微笑んだ。


 私たちは駅の方へと歩いて行ったが、なんだかすぐに別れるのは惜しかった。知花も同じような気持ちらしく何も言わずに私の横を歩いていた。駅を越えて飲食街の立ち並ぶ路地に入るとやがて、川に出た。

「こんなところにも川があるんだね」

知花が水面を指した。

「神田川って書いてある」

橋に書いてある名前を私が読み上げると、

「ここが有名な神田川かぁ」

 そう言うと、彼女は口遊んだ。

「あなたはもう忘れたかしら、赤い手ぬぐいマフラーにして」

 懐かしい歌だった。

「ふたりで行った横丁の風呂屋・・・。きっと、そんな風にして暮らしたのよ。もし私があの時立花君の気持ちをちゃんと尋ねて、立花君が応えてくれていたなら。そして立花君は政治家になることを拒否して一緒に駆け落ちした私は父親に勘当されて。私たちは貧乏な二人暮らしで、でもなんだか幸せで・・・」

 そう言うと、知花は

「若かったあの頃、何も怖くなかった」

 と歌を続けた。

「昭和時代だね」

 私の目には懐かしさが浮かんでいたに違いない。

「うん、でもなんかあこがれるなぁ。この曲は私たちの時代よね」

「確か高校に入りたての頃だったなぁ。それか・・・ちょっと前だったけな」

 私は記憶をたどりながら答えた。

「なんかあの頃は・・・こんな切ない歌にも未来があったよね」

 知花は遠くを見る目つきをした。

「でも・・・きっとそんな部屋は冬、寒いよ」

 私が言うと

「二人で抱き合っていれば大丈夫。あったかいと思う。歌詞もそう言っている」

 と知花は笑った。

「夏にはゴギブリが出るし」

「それはいや」

 知花は速攻で拒否した。

「じゃダメじゃない」

「ゴキブリはあなたが面倒見るの。ちゃんとやっつけて。あの頃だってゴキブリホイホイはあったし」

「でも貧乏な二人には買えない」

「じゃあ、ゴキブリホイホイを買うためにあたしはバイトする。そして過労で倒れるの」

「となると、今度は昭和枯れすすきみたいだね。貧しさにまけた・・・」

 私が口遊むと、ふふふ、と知花は笑った。

「高校生・・・じゃなくてまだ、大学生だもの。貧しさにも世間にも負けない。頑張るぞ」

 そう言って知花は力こぶを作る真似をした。

「ねぇ、次はカラオケが良くない?」

「ん?」

「二人して神田川を歌おう」

「昭和枯れすすきも?」

「ふふふ」

 彼女は声を立てて笑った。

「あの頃の女の子はみんなたのきんトリオに夢中だったのよ。昭和枯れすすきは叔父さんが良く唄っていたけど」

「知花は誰が好きだったの?」

「野村君かな。ギター上手だったし。立花君は?誰のファンだったの?」

「ひと世代前だけど・・・南沙織」

「へえ、そうなんだ。なんで?」

 私は考えた。ほんとうのことを言う方がいいんだろうか?そう思いながら私はその頃に思っていたことをそのまま口にした。

「知花に印象が少し似ているから、かな」

 知花は私を抓る真似をした。

「嬉しがらせようとしたな?でも彼女、沖縄出身だものね。そういう意味では雰囲気はあるのかな」

「ん?」

「私の先祖も・・・ひいおじいちゃんも沖縄出身だよ。知らなかった?」

「え、そうなの?だって教えてくれなかったじゃない」

「知花って、沖縄の名前なんだよ。常識」

「常識って言われても・・・」

 私の反論を知花は無視するように、

「南沙織かぁ」

 と空を見上げた。

「彼女、潔く芸能界から足を洗っただろ?そんなところもいいかな。南沙織ってシンシアとも言ったじゃない・・・。シンシア、最初に覚えた難しい英単語だったなぁ」

「立花君の初恋?」

「芸能人に憧れるのは初恋じゃない」

 それに。南沙織に似ているから知花を好きになったわけじゃない。知花に似ているから南沙織を好きになったんだ。

「じゃ、別の人なんだ。横浜の女の子?」

 知花は尋ねてきた。

「・・・」

「?もしかして・・・あたし?」

 知花は私の肘を人差し指でつついた。

「いじわるを言うなよ」

「そうかあ。ごめん、私の初恋は幼稚園の先生なの」

 知花はなんだか嬉しそうだった。

「別に張り合っているわけじゃないよ」

 私は頬を膨らませた。そんな私をからかうような目で見ると、

「世の中には、ほんとうに初恋同士のカップルっているのかなぁ」

 知花はぽつりと呟いた。

「昔は・・・いたんだろうな。世界が狭かったから。子供の時に知り合って、ずっと互いに好きでそのまま夫婦になるっていう人々が」

「そうね」

 知花はこくりと首を振った。

「今は・・・選択肢が多くて目移りしてしまうんだ」

「それにテレビや映画で美人や美男子がでてくるとどうしても比較しちゃうよね」

「みんながみんなそうじゃないだろうけど、でも影響はあるよね。新垣結衣さえいなければ、とか」

「そこまでみんなレベルは高くないんじゃない」

 知花は言った。

「たしかに」

「でも、彼女も沖縄。南沙織さんも新垣結衣さんも安室の奈美恵ちゃんも、比嘉愛未ちゃんも、沖縄はカワイイの宝庫だね」

「そして知花由香も?」

 私が尋ねると、

「それは相手次第」

 知花は歌うように答えた。


 私たちはいつの間にか川を離れていた。見知らぬ街を二人きりでさ迷い、角があれば思いのままに曲がり、そうしているうちにいつしか日はなずみ始めていた。

 そしてどこかの繁華街に近づきつつある予感を抱きながら曲がった小路の先にラブホテルのネオンがあった。私は彼女を見て、彼女は私を見たが、彼女は少し考えて首を振り、視線を落とした。

「立花君のことは好き。でも、違うの。そういうのはなんか」

「うん、そうだね」

 私は頷いた。彼女に対する欲望がなかったわけではない。だが、そうすることによって何かが壊れるような気がした。彼女とのことは浮気ではない。浮気な肉体関係は構わない。それは何かを壊すかもしれないが、本質的なものは壊さない。だが、本気なら・・・。それは私と彼女の周りの様々なものを徹底的に破壊する、そんな予感があった。そして彼女もそう思ったに違いない。

 ホテルの前をそそくさと通り過ぎると、暫くの間黙ったまま私たちは歩き続けた。

「だって・・・わたしたち高校生だものね」

 ようやく彼女がそう言った。

「うん」

 私はできるだけ明るい声で答えた。

「あるいは58歳」

「私たち・・・ちょうどいい時間をどこかに置き忘れてきちゃったのかな」

 どこかしんみりとした口調で知花は言った。

「そんなことないさ、こうして会って楽しく昔話も今の話もできる。今がちょうどいい時間なんだ」

「そうかな。そうかもね」

 知花が私の手をつかんだ。私も彼女の手を握り返した。

「また会ってくれるよね」

 囁くように彼女は尋ねた。

「もちろんだとも」

「良かった」

 彼女は微笑んだ。


 いつの間にかたどり着いたのは新宿の駅だった。ずいぶんと長い距離を歩いた。彼女は私鉄、私はJRで、そこで別れることにした。階段を下りていく彼女の姿を私は目で追いかけた。彼女は・・・階段の途中で立ち止まると振り向いた。私が手を振ると戸惑ったように手を振り返し、そして再び前を向くと階段を踏みしめるように彼女は階段を下りていき、やがて人ごみに紛れてその姿は見えなくなった。

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