第4話
ひと月後の最初の土曜日、私は業務の引継ぎを口実に家を出た。妻は、休みなのに大変ね、と言って私を送り出した。後ろめたい気持ちと楽しみの入り混じった奇妙な心持ちは電車の揺れに合わせるかのように奥底の方から苦い味の懸念が混じり始めた。
それまで深く考えていなかったが、私のオフィスは大手町で、銀座とさほど距離がない。土日だけに出勤しているものはそんなにいないだろうが、そういう問題ではない、と電車の中で私は考え始めた。社内だけではなく仕事の性質上、私の顔を知っている人間は少なくはない。営業先だけではなく、仕入先、同業者を含めれば相当数いる。それでもまだ、出くわして話ができれば高校の同級生と偶然会って旧交を温めているという言い訳ができるかもしれない。しかし、こちらが気付かないうちに向こうが見たら、どう思うだろうか?私が覚えていなくても向こうの方がこっちの顔を知っているということも大いにあり得る。私の連れ合いを知らない人間なら夫婦と見間違えるかもしれない。だが・・・、社交的な妻は会社の集まりがあると私の要請に応じて何度か顔を出していた。妻の顔を知っている人間も少なくはない。
何を今更と思う人もあるだろう。
おそらく家を出て解放的になった私自身の浮きたった心が、じわじわと現実的な懸念を増大していった。
その上待ち合わせはホテルだ。週末に夫婦でホテルで過ごす人もいないではないだろうが、相手が連れ合いではない女性だとすれば、邪推する人間もいるだろう。ホテルから一緒に出てくれば、カフェから出てきたのか部屋から出てきたのか見分けがつかない。邪推は、人がそう思いたいという方向に流れていく。清廉潔白だとしても人は面白おかしい方に捉えたがるものだ。そして最後には「誤解を与える行動をするのがいけない」という宣告をする・・・人間とはそういう生き物だ。
そんなわけで、電車に座って開いた本が一ページ分も頭に入らぬまま私は有楽町の駅で降りるという羽目に陥った。それでも私には彼女と・・・知花由香と会うのを止めるという選択肢はなかった。・・・人間とはそういう生き物だ。
ホテルのカフェに入ると彼女はすでについていた。ゆったりめのシフォンのブラウスにピンクベージュのロングスカートの彼女は歳よりずっと若々しく見えた。小さく私に向かって手を振った彼女の席に私はあたりを注意深く見まわしながら近づいた。
「どうしたの?誰か知っている人でもいた?」
私が席に座ると彼女が発したその問いは、彼女に自分の懸念を伝えるいい口実になった。臆病者と思われるかもしれないと恐れつつ、私の懸念を伝えると、彼女は少し考えこんた。
「そうね、私は東京に知り合いは少ないけど、立花君は違うものね。私が立花君の立場でも、やっぱりそう考えちゃうだろうな」
知花の優しい答えが私には嬉しかった。相手の立場を想像する、というのは簡単そうで、実は容易ではない。
「でも・・・ここで食事をしたくらいならだれも何も言わないでしょ?」
知花は微笑んだ。
「それはその通りだけど・・・一緒に出て言ったら部屋から出たのと区別がつかないんじゃないかな。良く分からないけど」
私の返答に彼女は何を思いついたのか、ぱっと顔を輝かせると意外なことを言い出した。
「そうね。でも面白いじゃない。ほら高校にもいたじゃない。付き合っているのを周りに隠すカップル。私たちもそれを真似てみましょうよ」
「え?」
面食らった私に向かって彼女は悪戯っぽい口で続けた。
「そうね、ここで食事をしてまず私が先に席を出て、そうだ、映画館に行ってあなたを待っているわ。あなたは後から映画館に来て、落ち合いましょう。映画見るくらいの時間はあるでしょ?」
「それは大丈夫だがけど・・」
まるで不倫をした芸能人みたいな手だな、と私は思ったが口に出さなかった。
「なら決まり」
そう言うと彼女は手にしていたメニューを眺め始めた。その姿を見ているうちに、抱いていた懸念はどこかへ消えていった。芸能人と違って私たちは見張られているわけではない。確かに、その点では内緒で付き合っている高校生のカップルの方が近い。
「私、オムライスにする。立花君は?」
「ええと・・・何にしようかな」
私はメニューに目を走らせた。
「ほら・・・映画の時間もあるんだから早く決めないと」
知花は明るい声で私を急かした。
スマホで検索し近くの映画館で上映しているもののうちから、私たちは開演時間と作品を見比べながら、どの映画を見るか話し合った。
「立花君は・・・どれが観たい?」
「ううん、と・・・君に任せるよ」
「それじゃだめだよ。自分の見たい映画をちゃんと言わなきゃ」
「そうだなぁ」
「ねぇ、これなんか観たいんじゃない?」
彼女が指したのはホラー映画だった。目を大きく開いた若い女性の瞳の中に奇妙な生き物が映っている。私は首を振った。
「いや、本当に映画なんて見るのは久しぶりなんだ。中身もよく知らない」
「そうか、ホラー映画だと怖くて君に抱きついちゃうかもしれないなぁ」
人の気も知らぬげにそう言うと、
「じゃあ、これにしましょうか」
彼女が指で示したのはアメリカの、老夫婦が車で二人、旅に出る、という趣旨の映画だった。キャッチコピーによれば、その旅先で「彼らは永遠の愛を知る」・・・のだそうだ。
「時間もちょうどいいし、じゃあ、私が先に行って待っている」
「うん」
答えると彼女は、席を立った。まるで悪戯をする時のような生き生きとした彼女の様子を私は席から見送った。
映画館は土曜だというのに人はまばらで、彼女はエレベーターの横にあるスツールに俯いて座っていた。私が近寄ると彼女は目も上げず何も言わずにそっと映画の鑑賞券を一枚差し出し、何も言わずにすっと席を立って入り口から入っていった。
渡された券を入り口の中にいる若い女の子に渡し、半券を手に映画館の中に入ると彼女は奥の席にやはり俯いたまま座っていた。
「どうだった。見つからなかった?」
顔を少し上げると、彼女は囁いた。
「大丈夫だけど・・・なんだか挙動不審の男女って感じがする。却ってめだつかもしれないなぁ」
私が答えた。
「ふふふ」
彼女は笑って顔を上げた。
「そうだよね。私もそう思った。でも、楽しかったわ。ほんとうに高校生の時に戻れたら、もっと楽しいのに」
「だね」
と応じて、私は彼女の横に腰かけた。
「ねぇ、私、何か売店で買ってくるわ」
「じゃあ、切符代とそれを・・・」
財布を取りだそうとした私を彼女は制した。
「高校生だもの、割り勘よ。さっきあなたがお昼代を出してくれたから、今度は私が出すわ」
「いいの?」
「大丈夫。お父さんからたっぷりお小遣いもらったから」
そう言うと、彼女はバッグを席においていそいそと売店へと向かって行った。
「なんでポップコーンを売っていないのかな」
彼女は買ってきたチョコレートを半分こに割りながら文句を言った。
「たぶん・・・音がうるさいってクレームがあったんじゃないかな」
「クラッシックのコンサートじゃあるまいし、映画はポップコーンの音を聞きながら観るもんじゃない?」
「そういう考え方もある」
私は彼女から受け取った、チョコを口に入れながらそう答えた。
「でも、そうじゃない人もいるんだろう。まあ、色々な考え方を受け入れて、柔軟な対応をするってことが必要なんじゃないかな」
「どういうこと?」
彼女はチョコの残りをバッグにしまいながら尋ねた。
「ポップコーンを食べたいなら、食べれる映画館に行く、みたいな」
「確かに。それにしても・・・立花君って高校生のくせに大人っぽい考え方をするよね」
彼女はなんだか非難めいた口調で言った。
「高校生じゃないし、もうおじさんだし」
私が言うと
「さっき言ったでしょ。私たち、高校生なんだよ。っていうか、今は高校生の真似をしているの」
「・・・分かった」
私は降参した。
「ほら、そろそろ始まるよ」
スクリーンに配給会社の名前の入った映像が映し出された。
「ねぇ?」
私が腰を深く座り直すと、知花が私を見た。
「うん?」
「手、握ろうとしないの?」
「え?」
私は思わず声を上げた。
「高校生って手を握りながら映画を見るんだよ」
知花は人差し指を唇にあててから、私の耳元で囁いた。
「そう?」
私はどぎまぎしながら、ゆっくっりと彼女の手を握った。
「じゃなくて・・・」
彼女は私を睨んだ。
「もうちょっと、ためらいがちに、ちょっと触れて・・。。で、私もお返しにちょっと触って。高校生って、そうするんじゃない?」
本当に高校生がそうするのか分かりかねたが、私は彼女の言うがまま、手の甲で彼女の手に触れた。彼女の手がそれに返すように私の手に触れ、私はおずおずといったようにそのまま手の甲をゆっくり密着させ、そして手のひらを返して彼女の指を包んだ。しばらくすると、彼女の指が私の指に絡んで、そして私たちは手を繋いだ。
「これ・・・自分で言っておいてなんだけど、なんだかちょっと恥ずかしいね」
彼女は言った。横を向くと頬が少しピンクに染まっていた。視線をスクリーンに向けたまま彼女はもう一回、
「恥ずかしい」
と呟いた。私が少し指に力を入れても彼女はなされるがままに指を絡ませたままだった。
映画のエンディングロールは、日の沈むアメリカの中西部の山々を映していた。次第に画面は暗くなっていく。その山々の中腹に映画の出演者を始めとした関係者のクレジットが刻まれていく。
「あんまりだわ」
知花は洟をすすると、繋いでない方の手でバッグを探り、ハンカチを取り出して目を拭いた。
「そうかな」
「だって、ひどいわよ」
老夫婦はいろいろな街を旅し、そして中西部の、この山が見える寂れた街に辿り着いた。そこでひょんなことからガソリンスタンドを任されるようになり、街の人々と知り合い、友情を深めていく。だが、その時夫はすでに病魔に侵されていた。街に一人しかいない老医師に大きな都市の病院に行くように勧められた夫は首を振る。
"This is our land"
夫は、妻がこの街で隣人との友情を育んだまま、生きることを望む。そして、映画の最後は山を一望できる場所に立てた木の墓標に跪く妻の背中ごしに夕日が沈んでいく風景が映し出されている。
「立花君だってそう思うでしょ。彼は死ぬべきじゃないの」
知花は映画監督に抗議していた。
「でも、二人で幸せに暮らしましたっていうストーリーじゃ映画として成立しないんじゃない?」
私が言うと。
「いいの、それで。それまで苦労ばっかりの人生を送った人たちがせっかく見つけた幸せを映画監督が奪う権利はない」
「でも、実際の話じゃないだろうし・・・それに高校生がこの映画を見てそれほど思い入れるものかな?」
「だって・・・私58歳だもの」
え、と彼女の横顔を見た私の手から自分の手を離すと、彼女は私を軽く
「うん、そうだね」
そう答えると彼女は私の手を少し強く握り直した。エンドロールが終わり館内に明かりが戻ると、私たちはどちらからということもなく握っていた手を解いた。
「でも・・・期待していたより面白かったわね」
彼女はハンカチをバッグにしまい直しながらそう言った。
「そうだね、意外と・・・。お茶を飲む?」
「時間は大丈夫なの?」
「大丈夫さ、それにちょっと済ませなければならないことがある」
そう言うと彼女は頷き、私たちは映画館の入っているビルの中にある喫茶店でコーヒーを頼んだ。
「君はスマートフォンを持っている?」
二人でコーヒーを頼みウェイトレスが席を離れると、私は知花に尋ねた。知花は、
「ええ、もちろん」
と言ってバッグから取り出した。
「じゃあ、互いに連絡先を交換しよう。これからは連絡を取り合えるように」
「大丈夫なの?そんなことをして」
知花は首を傾げた。
「大丈夫、これは専用のスマホにするから」
「でも・・・二台持っているって変じゃない?」
知花は鼻に皺を寄せた。
「いや、僕には会社のスマホがあるからさ」
「三台ってもっと変」
「ところが、ね」
私は出して見せたスマホの横にもう一つのスマホを置いた。
「あら、同じ?」
「うん。やっと中古で見つけたんだ」
「どういうこと?」
だから・・・、と、私は彼女に説明した。会社用のバッグは誰にも見られないように鍵をかけている。それは別に妻のためではなく、時折携帯せずにはいられない書類を簡単に見られないようにするためのものであった。実際の鍵と暗証番号を二通り組み合わせる仕組みのもので、会社用の携帯も普段はそこにいれてあるが、連絡を取るためにスマホを出してあることもしばしばであった。だから・・・どちらかは必ずそのバッグに入れておけば、二つ同じものがあることには家族に気付かれない。万一、どちらかが置いてあってもそれは会社用のスマホだと思われる。
「じゃあ」
彼女は言った。
「その会社用のスマホで連絡することにはできないの?」
「それはダメなんだ」
会社用のスマホは会社の資産であるために、通話を含め会社がチェックすることができる。私用に使われることは禁止され、私の会社でも私用に使ったために懲罰を受けた部下が出たことがあった。その話を妻にもしたため、妻の頭の中には会社用のスマホが私用に使えないということが入っている。
そもそも妻は無頓着な性格だから、普段使っている私のスマホをチェックすることはない。というより、私を疑っていないし、私も今まで疑われるようなことはしたことがなかった。それを聞き終えると
「おぬしも悪よのぉ」
と言いながら、知花と私はは私の持ってきたSNSと電話番号の交換をした。
「悪じゃないと思うよ。余計な心配をさせたくないだけさ」
「まあね」
知花は笑った。
「確かに、私たち会って話したり食事をするだけだもの」
「だよね」
人によっては、それがいけない、というのだろう。私自身、知花と会って話すことが楽しくて、その楽しさがどこかうしろめたい気を起こさせるのは事実だった。
コーヒーを飲んでいる間に知花は何やら自分のスマホをいじっていた。そして私の買ってきたばかりのスマホに着信音が響いた。持ち上げて見ると、
「おぬしも悪よの」
という着信が届いていた。苦笑すると、続けざまに
「今度はポップコーンの食べられる映画を観に行こうね」
というメッセージが送られてきた。私はすぐに、
「そうだね」
と返事をした。けれど、それだけじゃ何か寂しいと思って、ポップコーンの絵柄のスタンプを付け足した。
知花は画面を覗いて、それから私に笑いかけ、言った。
「こっちから連絡するから待っててね」
家に戻ると娘の一家がやってきていた。娘には達也という二歳になる息子がいて、歩き始めた息子の面倒を見るのが大変なのか、この頃よく家にやってくる。
帰ると、玄関にベビーカーが置いてあり、小さなのを含めて靴が増えていて大変分かりやすい。だが、その日靴は二足しかなかった。
「あ、お父さん、仕事だったの」
奥から顔をのぞかせたのは娘のかおりだった。
「ああ・・・」
曖昧な返事をしながら部屋に向かうと、いつもは一緒に来る夫の俊介君の姿がやはりなく、孫の達也が部屋の中をよちよちとひとりで歩き回っていた。
「俊介君は、今日は一緒じゃないのか?」
「今日は留守番」
娘は冷たい口調で答えた。
「何かあったのか?」
まさか、離婚とか言い出すんじゃないだろうな、と私は少し心配しながら尋ねた。娘は誰に似たのか、性格がきつい。
「あらあら、着替えもしないで」
言いながら妻が二階から降りてきた。
「いや・・・なんで俊介君が一緒じゃないのか聞いていただけだ」
「あら」
妻が眉を顰めた。
「話してないの?」
「だって、お父さん今帰って来たばかりだもの」
娘が口を尖らせた。
「ほんとうにまあ・・・なんだか喧嘩したらしいのよ」
妻は私に向かって溜息を吐いた・
「喧嘩?」
「だって、俊介ったら・・・昨日夕飯の時間になっても帰ってこないし、連絡もよこさないのよ。こっちは達也の世話で大変な思いをして食事を作っているっていうのにさ」
「そのくらい仕方ないだろう、仕事で手を離せない時だってある」
「違うのよ。夜遅く帰ってきたから、問い質したら飲みに行ってたのよ。それもなんか外国人パブってところに」
「・・・」
娘婿の行動を擁護していいのか私には分からなかったが、問い詰められて行先まで白状してしまった彼に同情するとともに、白状した以上、おそらくたいしたことはしてないんだろうと想像した。
「で、喧嘩か」
「喧嘩っていうよりね、昨日作ったものをあなたはちゃんと食べてって言って出てきたの」
「しかし・・・」
一人で昨日の残り物を食べるっていうのはなんだかかわいそうだ。
「大丈夫よ、彼、はい、っていっていたもの」
娘はあっさりと答えた。
「男にはつきあいっていうものもあるんじゃないか?」
「女にもつきあいってあるのよ。つきあいしていたら夕食が作れないこともある。でも男の人はそんなこと認めないじゃない」
思わず、絶句した私をちらりと見て、娘は
「はい、たっちゃん、こっちへおいで」
と孫に手を差し伸べた。
「じゃあ、今日はお寿司でも取りましょうか」
妻の言葉に、
「わぁ、たっちゃん、今日はお寿司だって、すごいね、良かったね」
娘は孫を抱き上げあやした。何もわからずに孫はキャッキャッと手を叩いている。
「達也君には寿司は関係ないだろう」
「卵焼き、食べれるもんね・・・」
そう言うと、娘は私を上から下までじろじろと眺め、
「珍しいじゃない、ピンクのシャツなんて着て。本当にお仕事だったの?誰かいい人と会っていたんじゃない」
とズバリと聞いてきた。一瞬、どきりとしたが、
「ばかな、そもそもこれは母さんが買ったシャツだぞ。お前の家庭のごたごたをこっちまで持ち込むなよ」
と言った私の反論に
「そうよ、失礼なことは言わないであげて。休みなのにお仕事だったんだから」
そう妻が援護してくれた。それを聞きながらもし私が知花と会っていることを暴くとしたらそれはおとなしく素直な妻ではなく、この勘のいい娘の方だろう、と密かに考えていた。
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