第3話

 グラスの底に僅かに残っている琥珀色の液体を眺めながら私はため息をついた。もう、あと5分で決めていた30分が過ぎる。奥の外国人はときおり寝言を上げながら眠り続け、バーテンダーはカウンターの中で息をひそめるようにグラスを拭きあげる作業をしていた。

 私と知花は双曲線の様に近づき、そして永久に出会うことのない軌跡を描く運命なのかもしれない、そう思いながらウィスキーの残りに手をかけたその時、バーのドアが密やかに開いた。ロビーの騒めきと橙色の光がバーの中にさっと流れ込み、重たげな扉の閉まる音と共に消えた。バーテンダーが目を上げ、寝ていた外国人が目をさましたのか、あくびの音を立てた。

「ごめんなさい、遅くなって。みんなと別になるのにちょっと時間がかかっちゃって」

 知花由香だった。春めいた淡い黄色のコートを纏った彼女は。猫のように音もたてずに扉から私の方に近づいてくると耳元で囁くように言った。

「ああ、気にしないで」

 私は沈み込んでいたソファから体を起こした。バーテンダーがグラスを拭く作業を止め、ほっとしたような表情を浮かべた。唯一目を覚ましている客の、待ち合わせの相手が来ないというのは彼にとっても気がかりなことだったのかもしれない。バーカウンターの向こう側から彼は品書きを持ってくると、私たちのテーブルの上に置いた。

「お久しぶりね・・・」

 彼女はコートを脱ぎ、私の前のソファに腰を掛けると目を覗き込むようにしてそう言った。

「ああ、君は全然変わらないね」

 私は改めて知花を眺めながら答えた。

 確かに・・・私たちが高校生の時の彼女ではなかった。伸ばしていた髪はショートボブになっていたし、目尻には優し気な皺がある。桜色だった唇は控えめのルージュで、落ち着いた色に仕上げられていた。

 でも、知花は美しいままだった。時は彼女の上を掠めるそよ風のように吹いていったのだ。

「そんなことはない、って知っているもの」

 彼女は落ち着いた口調で言葉を返した。

「いや、他の人に比べたら君はちっとも変わらない。高校生の時と」

 もちろんほんとうの気持ちだった。その気持ちが伝わったのか、

「ありがとう」

 彼女は微笑んだ。

「何か、頼む?」

 私はバーテンダーの置いていった品書きを指でさした。

「ええ」

 彼女は答えて品書きに目をやったが、それに手を伸ばそうとはせず私の飲み残したグラスを見つめていた。

「話って・・・なに?」

 話の接ぎ穂を失って私は尋ねた。

「ん?」

 彼女は私に視線を戻した。

「ふふ。本当にお話をしたいって思っただけなの。こんなに久しぶりなのに立花君たら帰っちゃおうとするんだもの。尋ねたいことがあったし。本当に・・・あんまり待たせたからもしかして帰っちゃったんじゃないかって気が気じゃなかったわ。立花君ってせっかちだし」

「そうかな・・・」

 せっかちというのは否定できないかもしれない。

「おそくなっちゃったけど・・・もう本当にここに来るの、大変だったのよ」

 私は目で彼女にその意味を尋ねた。

「だって、帰るのが一緒の方向の子がいるじゃない。そうしたら一緒に電車に乗らなければならないもの」

「なるほど・・・。でももうみんな『子』じゃないんじゃないかな」

 私は訂正した。

「そうね、ほんとうね」

 彼女は笑った。

「それでどうしたの?」

「ほかに約束があるからって、タクシーに乗ったの。タクシーの運転手さんにね、一丁目まで行って十五分したら戻って、ってお願いしたの」

「ああ・・・うまい手だね」

 私は感心した。

「そしたらタクシーの運転手さんがね、逢引きですか、だって」

 彼女は悪戯っぽい目をし、私はあいまいな表情を返した。

「逢引きって・・・素敵な言葉じゃない?待ち合わせとか、デートとかじゃなくって」

「なんて答えたの」

 他に返す言葉がうまく見つからなかった。

「『そうなの、四十年ぶりの逢引なの』、って答えたら運転手さんが気にしちゃってね。戻るときに、大丈夫ですか、だれか見つかって困る人は周りにいませんかってのろのろと走るもんだから、後ろからクラクションをいっぱい鳴らされちゃって、却ってめだっちゃた」

 彼女は楽しそうに言った。四十年ぶりの逢引き、、、その言葉に私は魅せられた。もしかして私は昔・・・とんでもない勘違いをしていたのだろうか?

 私が黙ってしまったからだろう、

「なんになさいます」

 バーテンダーが話が一区切りついたと思ったらしくやってきて彼女に尋ねた。

「おすすめの・・・そんなにアルコールの強くないものを」

 彼女は答えた。


 私たちは差し障りのない会話から始めた。誰それが結婚して一緒になったとか、あの子は離婚して、再婚してから幸せに暮らしているとか。そんな話題を話しているうちに雰囲気がほぐれ、高校の時より彼女と打ち解けている自分がいた。

「立花君にはお孫さんがいらっしゃるんでしょ。三人も」

 ふいに知花はそう言った。

「ああ・・・。よく知っているね」

「宮本君が教えてくれたわ」

「そんなことを話したのか、あいつ。余計なことを」

 私は思わず舌打ちをしそうになった。

「どう・・・お孫さんてかわいい?」

 知花は尋ねてきた。

「そうだね、まあ子供と違ってそれほど責任がないから」

「そう・・・そうね」

 答えたその顔に浮かんだ少し寂しげな表情に、

「君は・・・?」

 私は尋ねた。

「聞いてないの?立花君、わたしに興味がないのね」

 ねたような言い方に私は内心慌てた。

「いや・・・。だってさ、君のことを誰かに聞いたら何か・・・言われそうで。それに・・・」

「それに・・・?」

「なんだか悔しいじゃないか」

「何が?」

 知花は再び私の目を覗き込んだ。その黒目にライトが光ってきらきらと輝いていた。

「だってさ・・・知花はさ」

「私は?」

 きらきらした瞳が私を見詰めてきた。

「勘弁してくれよ」

 笑いながら、私は音を上げるふりをした。知花もオレンジ色の液体の入ったグラスの向こうで微笑むと、

「私ね、大学を卒業すると父の事務所に入って、それから父に言われるままに結婚したの。28の時に父が脳卒中で倒れて夫が地盤を継いだの」

 淡々と知花は話した。

「うん」

 答えながら私の心は疼いた。

「でも・・・そんなに夫婦関係は良くなかった。子供もできなかったし・・・」

 何と答えていいのかよく分からなかった。

「で、夫も40の時に交通事故で死んじゃった」

「それは・・・お気の毒に」

 ありきたりな慰めに知花は苦笑を浮かべた。

「ほんとうに気の毒だったわ。夫は女性とドライブに行く途中で交通事故を起こしたの。なんていうの・・・そのクラブっていうところに勤めている女性と」

「ああ、ホステスね」

「そう、そのホステスさんと」

「それは・・・大変だったね」

「うん、亡くなった方の補償とか・・・。それにホステスさんと一緒に旅行中で交通事故を起こしたなんて人聞きが悪いから。秘書さんということにしたり・・・大変だったわ」

 知花は自嘲するような表情を浮かべたが、急に、

「もう、昔の事よね。それに私も悪かったのかもしれない。もう・・・いいの」

 そう言って目の前にグラスを取った。

「そんなことより、私ずっと立花君に聞きたいことがあったの」

「なんだろう?」

「覚えていないかな、進路志望の面接のときのこと」

「ああ・・・」

 もちろんはっきりと覚えていた。というか、知花との鮮明な記憶はその時と卒業式の時しかなかった。

「知花が時間より早く、別室に乱入してきた時のこと?あの後、おかげで面接がぐだぐだになっちゃんたんだ」

 私がそう答えると、

「あ、そうだったんだ、ごめんなさい」

 知花は笑った。

「横浜ってどんなところ?って聞かれたんだよ」

「そうそう、で・・・あの後私がなんて言おうとしたかわかる?」

「いや・・・」

「大学は・・・横浜に行くの?ってね」

「そうか」

 彼女は頷いてから、首を振って、

「それだけじゃないの。ほんとうはね、横浜に帰るなら私を連れて行ってくれないって、聞こうと思ったの」

「え?」

 グラスに残っていたウィスキーを口にしていた私はせそうになった。だが知花は構わず話を続けた。

「そうしたら、進路の先生にも、私は立花君と一緒に横浜に行きます、って言おうかなぁなんて考えていたの」

「一緒にって・・・?横浜の大学に?」

「違うわよ。だから、立花君と一緒に住んで結婚して子供を産んで」

「・・・」

 私は彼女を見詰めた。

「もしそう尋ねていたら、立花君はなんて答えた?」

「・・・うれしいなって答えたと思う」

 私は正直に答えた。

「じゃあ、言えばよかったんだ」

 がっかりしたように知花は肩を落とした。

「でも・・・そうしたら君のお父さんは・・・」

「そうなのよ」

 彼女は眉をひそめた。

「絶対に私の親が許さなかったと思う。もしも結婚したいなら自分の跡を継ぐ覚悟はあるんだろうな、とか立花君を脅したと思うの」

「議員・・・ねぇ」

 私は宙を見た。私がその頃生涯なりたくないな、と思っていたのは議員と教師だった。

「立花君は議員になったと思う?」

「それはまあ・・・、あんまりなりたいとなんか思わなかっただろうけど。そもそも選挙なんて結果が分からない」

「でもね、たぶんうちの親の後継者って認められていたら、なれちゃったのよ」

 知花は鼻に皺を寄せた。

「それは・・・困ったね」

 私は呟いた。

「でしょう・・・。私ね、立花君はきっとそんな人生は嫌だと思うとも思ったの。自分が嫌だと思うことは人にしちゃいけないって、それが私の親が私に教えてなかで唯一正しいことだと思う。親は私にそうはしなかったけど」

 知花は不満そうに言った。

「でもなぁ、知花と結婚できたんだったらがまんしたかもしれないなぁ」

 私は思った通りのことを言ったが、実際高校生の時にそこまで思い切れたかは分からなかった。だがそれを見た知花は、

「じゃあ・ ・・やっぱり言った方が良かったんだ」

 がっかりしたように言った。

「でもさ・・・」

 私はあの時のことを鮮やかに思い浮かべながら尋ねた。

「それは・・・僕のことを好きだったというより、横浜に住みたかった、、、っていうか束縛から逃げ出したかったんじゃないかな」

「私だって、そう考えたわよ。立花君に対してそんなの失礼じゃないかってね」

 知花はまじめな顔で答えた。

「でもね、違ったの」

「違った・・・」

「うん」

 知花は女子高生のように頷いた。

「そうか、でも僕の方こそ君に言うべきだったんだよ。横浜からあの高校に行って、唯一良かったことは君に出会うことができたことだってさ」

 ほんとう?と知花は華やかな声を上げたが、すぐに

「なんだが・・・馬鹿みたいだったね、わたし。ひとり相撲をとって」

 としょんぼりとした顔になった。

「わたしたち、ね。だからひとり相撲じゃない」

 私はまた訂正した。

「で・・・旦那さんが亡くなってどうなったの?もしかして、君に声がかかったの?」

 そう尋ねると、知花は

「そうなの危うく出馬させられそうになったのよ。急なことだったし、後継者なんて誰も考えていなかったから」

 と頷いた。

「なれば・・・よかったんじゃない?」

 私がからかうように尋ねると、

「絶対に嫌だった」

 彼女は断言した。

「ずっと親に人生を流され続けたけど、それだけは嫌だった。幸いにして実家の方の親戚筋に男の子がいて、彼が出馬してくれることになったからよかったけど」

「当選したの?」

「もちろんよ。だって私が応援したんだもの」

 彼女は笑った。

「後にも先にも、あれほど熱心に応援したことはないわ。父の時にも、夫の時にもおざなりだったけど」

「君が応援したなら僕も一票入れただろう」

「私にでしょ」

 知花は頬を膨らませた。

「そうかな?」

「立花君って、そういうところいじわるなんだよね。私のこともわざと気にかけないふりをしていたんだもの」

 いや、と私は首を振った。

「それは知花だって同じさ。それにあの頃はね、君が太陽なら、僕は冥王星だと思っていたんだ」

「冥王星?」

「ああ、太陽系の一番外の地位を海王星と争っている惑星さ。っていうか、今となっては惑星でもなくなっちゃった」

「なんで?」

 知花は尋ねた。

「小さすぎてさ、星屑扱いになっちゃったんだ」

 星屑、と口の中でつぶやくと、知花は

「でも立花君は私の地球だったよ。唯一、生き物がいて、青い海があって」

 ゆっくりとそう言って私を見た。私は面映くて、話題を変えた。

「あの時さ、僕は横浜には海があるからって答えただろ。あれ、失敗したなって思ったんだ」

「なんで?」

「だってさ、海のない県の人って、そういうことを言うだけで何となく反発するじゃない」

「確かにそうね」

 知花は頬杖をついた。そして、

「海のない地方の人がね、海を羨ましいと思うのは、逃げ場がないように思うからだと思うな」

 としみじみとした口調で言った。

「そうなのかなぁ?」

「だって、人は昔から不都合な事があったら海を越えて逃げたんでしょ?だから、海があるから素敵だっていう立花君の回答は正解だと思うよ」


 もっと話し続けたいのはやまやまだったが、あまり遅くなると言い訳がたたなくなりそうだった。たとえあったとしても私が二次会、三次会に付き合う性格ではないことを家族は知っている。そんな私の気持ちを察したのか、

「そろそろ出ましょうか」

 と彼女は言った。

「そうだね」

 私は時計を見た。八時半を回っていた。

「じゃ、ちょっと待っていて」

 彼女は立ち上がると化粧室へと向かった。


 彼女が席を外している間に私は勘定を済ませると、彼女のグラスの底に残っているオレンジ色の液体を指してバーテンダーに尋ねた。

「それってオレンジジュースなのかい」

「さようです。シャンパーニュをオレンジジュースで割ったもので、ミモザというものです。お連れ様がお勧めをということでしたから。一番ふさわしいものをと思いまして」

「彼女のコートの色にでも合わせたのかな」

 私が尋ねると、いいえ、と彼は微笑んだ。

「今日は3月8日でございますので」

 と答えた。不思議な答えに、

「3月8日?」

 と私は聞き返した。

「ええ、3月8日、イタリアでは男性が女性にミモザの花を贈る習慣があるんです」

「へえ、そうなんだ」

「ええ、ミモザの花には秘めた恋という花言葉がございます」

 そう言うと、彼は一礼してカードをもって立ち去った。


 勘定が済んだころ、彼女が戻ってきた。

「またお話しできるかな」

 立ったまま、彼女は私に尋ねた。

「もちろん、また会いたいな」

 私は素直に答えた。別に不倫というわけでもない。昔の友人とその頃にできなかった会話を楽しむだけだ、と心の中で言い訳をした。秘めた恋・・・。高校の時ならいざしらず、私たちはもう大人だ。その答えに知花はにっこりとすると

「じゃあ、来月の最初の土曜日の昼、ここのホテルのカフェでランチを取らない?」

 と提案した。

「分かった」

 私は答えた。この年になって休日出勤などほとんどしなくなったが、業務の引継ぎといえば、別に不審がられることもあるまい。

「知花はどこに住んでいるの、東京?」

「ええ」

 そう言うと、彼女は私も知っている閑静な住宅街の名を上げた。

「じゃあ、大丈夫だね。地元から来るんじゃ大変だけど」

「そうね」

 彼女はにっこりと笑った。

 私たちはそうやって最初のデート・・・知花に言わせれば逢引きを終えた。



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