紛れろ、恋情

月並海

第1話

 親しげに身を寄せ合う男女を見た龍之介は教室に入る直前でそっと踵を返した。

 二月の中旬、放課後の校内は静かだ。もうすぐ学年末考査を迎えるにあたり、部活がないこともその一因だろう。

 高校二年生である龍之介も例に漏れず、図書室でテスト勉強をしていたところだった。

 冷たい空気に満ちた廊下を当てもなく歩きながら、龍之介は教室で見た彼らのことを考える。

 二人の名前は船井明里と小泉司。彼らは友達だ。高校に入学してからすぐ仲良くなった3人は、そこへ日野孝志という男を加え四人グループでよく行動を共にしていた。

 彼らと過ごす日常も、もうすぐ三年目に突入する。気の置けない関係に龍之介は心地よさを感じていたが、長い時間を共に過ごすにつれて友情以外の感情も生まれていた。

 ありていに言えば、恋をしたのである。それも、相手は同性である司だ。

 龍之介自身も初めは勘違いだと思った。だけど、そういう言葉で片づけるには龍之介が司に抱く想いはあまりにも甘く熱かった。司の授業中の真面目な姿勢も自分と変わらない目線も、気遣い屋なところも仲の良い人といるときだけ見せる砕けた雰囲気も、全部自分だけに向けられたらいいのにと龍之介は感じた。もはや性別など関係ないと思い直したのは、彼を好きになってから四つの季節が過ぎた頃だった。

 龍之介は今までとは格段に違う寒気を浴びて、自分が校舎の端の渡り廊下まで歩いてきたことに気付いた。

 のぼせた頭を軽く振り、気持ちを心の奥深くへと沈めていく。この恋情を認めた時から司には気持ちを伝えないことに決めていた。仲の良い同性からそんな風に思われていたことを知れば、少なからず関係は歪んでしまうだろう。司ならば今までと変わらずそのまま友達として付き合ってくれるかもしれない。だからこそ、優しい友達に無用なストレスをかけたくないと思っていた。

 それに、司には好きな人がいると龍之介は確信していた。本人から直接そう告げられたわけではないが、二年も一緒にいればなんとなく検討はつく。相手は明里。二人は幼馴染で四人グループの中でも特に親しい。片思い中の龍之介にとっては、早くくっついてほしいようなそのままでいてほしいような、胃の痛い問題である。

 来た道を戻っていると、スマホが音を立てた。画面を見れば司から「今日は勉強しない?」とメッセージが来ている。元々、課題で分からないところを司に聞くために教室に行ったのだ。

「二人に気を遣ったんだよ」

 嫉妬が含まれた愚痴は誰にも届かずそのまま空気へと溶けた。メッセージの内容から司はまだ教室にいるらしい。明里はまだいるだろうか。なんとなく行きづらい。

 時期が時期だし、きっとバレンタインの予定でも立てていたんだろう。去年のバレンタインは平日だったから、龍之介も明里から義理チョコをもらった。可愛くラッピングされた手作りの生チョコ。イベントに合わせて好意をアピールできるのは女子の特権だと思う。素直に好意を伝えられる明里が眩しすぎて、龍之介はたびたび目を逸らしたくなる。

 今年のバレンタインは幸か不幸か日曜だ。司がチョコをもらって喜ぶところを見ずに済むのは正直嬉しいが、月曜日がとてつもなく恐ろしい。

 うだうだと悩みをこねくり回していれば、見慣れた風景に帰ってきたことに気づく。司と明里がいる教室の前だ。

 入り口を通り過ぎるふりをして、中にまだ二人がいるのか確認しようとすれば運悪くこちらを見ていた司とばっちり目が合う。

「龍之介! 遅いよ!」

 男子高校生にしては高く明るい司の声が教室を抜けて廊下に響く。どきりとして龍之介は思わず足を止めた。相変わらず距離の近い二人のところへ行くことを少しの間躊躇ったが、ここで不自然に思われるのは嫌だと思い教室へ入る。

「悪い悪い。ちょっと解けない問題があって先生に聞きに行ってた」

「まじか。数学得意な龍之介君が解けない問題とかあるん?」

 適当な言い訳は予想外に興味をひいてしまい、帰るに帰れなくなった龍之介は仕方なく近くの席に座った。背負っていたリュックから問題集とノートを出す。

「これなんだけど」

「うげぇ、漸化式じゃん。俺きらい」

「わたしもわかんなーい」

 龍之介が指す適当な応用問題から2人は数秒で目を離した。

 理系科目が得意な龍之介と孝志、反対に文系科目が得意な司と明里。今までも何度も勉強会をしており、特に司は読解問題について説明が上手い。今日もとある読解問題について解説をしてもらう約束だった。

 しかし、今日は二人のために数学をやった方がいいかもしれない、と思った龍之介は口を開く。

「だったら、今日はこの辺解いてみようか。次のテスト範囲だし」

「いいね! わたしは賛成!」

「龍之介がいいならいいけど……。いいの? 現国やるって約束だったじゃん」

「大丈夫」

 眉根を寄せる司に気を遣わせまいと精一杯明るい声色を出す。別に、教えてもらうのは今日じゃなくたっていい。別に、わざわざ解説をしてもらわなくたって回答をそういうものだと飲み込めばいいだけ。それだけの話だ。

 龍之介は同じ机でノートを広げる2人に交互に解き方を教える。

「ここから一般項を求めるんだけど……」

「うん」

「そうそう、こっちはこの項の指数を計算すれば……」

「なるほど」

 しばらくそうして問題を解いていたが、集中力が最初に切れたのは明里だった。

「あー! 何か楽しいことしたい!」

 シャーペンを放り出して明里がぐうっと背伸びをする。彼女の快活さを象徴するようなポニーテールがさらさらと揺れる。

「楽しいことって言ったって、再来週からテストだし。難しくない?」

 解答の手を止めて司が言う。龍之介もそれに同意するように頷いた。もしどこかに出かけるとしたら、今週末が最後のチャンスじゃないだろうか。二月十三日、十四日。

 嫌なイベントを思い出してまた龍之介の胸がじくじくと痛む。話題が発展する先を想像して今すぐここから去りたい気持ちでいっぱいになる。俺が帰った後にバレンタインの予定を決めてくれますように、と龍之介が切に祈っていた時のことだった。

「じゃあさ! 次の土曜日みんなで遊園地行こうよ!」

「えっ」

「はぁ?」

 明里の唐突なアイディアに、龍之介と司の声が重なる。が、続く彼女の言葉は龍之介にとって更に衝撃的だった。

「わたしそこで、日野君に告白する!」

 今度は驚きで声も出なかった。

 孝志に、告白する? 

 彼女の言葉を三回ほど心の中で復唱して、やっと意味を掴む。

 理解すると今度は全身から、どっと冷汗が噴き出す。

 好きな人が目の前で失恋した事実に身体が硬直した。司の顔を見ることができない。どきどきどきどきと心臓が早鐘を打つ。視線だけを恐る恐る左にいる司に向けると、

「はぁ」

 彼は頬杖をついておおきなため息を吐いた。ショックを受けたというよりは、呆れているようだった。

「司は、知ってたのか? 明里ちゃんが孝志のこと、好きって」

「あぁ、うん。結構前から知ってたよ、てかさっきまでずーっと孝志の話されてたし」

 途切れ途切れの龍之介の問いに、軽い調子で返答される。

「司も龍之介君も土曜は一日空けといてね!」

「えっ、龍之介まで巻き込むの」

「だって! いつものメンツがいれば日野君も来てくれるだろうし」

 押しの強い明里の言葉に、司はたじたじとなりながら龍之介の方を向く。その顔には、嫌なら断れよ? と書いてあった。

 いつもの龍之介ならば断っただろう。片思い相手が好きな人といるところなんて見たくない。でも、彼が失恋する現場に立ち会わないといけないとしたら? 司を独りにさせたくないと思ったときにはもう言葉を発していた。

「俺も行くよ」

 気遣わし気に自分を見つめる司の目を見返すことができなくて、龍之介は両手を挙げて喜ぶ明里の方に視線をやった。

 そうして、彼らのバレンタインは始まったのである。


 翌日の昼休み。選択授業で別の教室にいる孝志と司を龍之介と明里はぼうっと待っていた。クラスの半数が食堂や校庭、購買に行くので教室は案外閑散としている。

 週末に向けて遊園地のホームページを見ている明里に龍之介は疑問を投げかけた。

「そういえばさ、なんで遊園地なんだ?」

 告白するためのデートスポットなら、水族館や映画の方がよほど合っていると思っていたので遊園地に行くのは意外だった。

 すると、明里は周りを確認した後で姿勢を低くして声を潜めた。つられて龍之介も耳を明里に近づける。

「吊り橋効果、って知ってる?」

 彼女の問いに龍之介は頷く。

「恐怖体験で起きるドキドキを、一緒にいる相手を好きになったドキドキと勘違いする効果だったっけか」

 今度は明里が頷く。なんとなく彼女の意図が読めてきた。

「もしかして明里ちゃん。ジェットコースターとかで孝志に吊り橋効果狙おうと?」

「えへへへ」

 文字に書いたような作った笑い声をあげて明里が二人の間の机に顔を伏せた。図星だったらしい。いつもは明るく強気な彼女も好きな相手へ告白となればなにか保険が欲しいようだった。

 彼女は顔を伏せていた腕から目だけ出して、

「日野君、恋愛とか全然興味なさそうだし……。ちょっとでもチャンス作れるなら、おまじないでもなんでも使いたい……」

 とぼそぼそ呟いた。

 その様子が女の子らしくて可愛らしくて、男ならきっとみんな好きになってしまうんだろうな、と遠いことみたいに考える。実際、自分にはその可愛らしさが羨ましい。

 しかし、片思いしてるときになんでもいいから背中を押してほしい気持ちもよくわかる。だから、龍之介は頬を緩めて明里に言う。

「少なくとも、吊り橋効果は実験の結果生まれた仮説だからおまじないよりも効果あると思う」

 ぶっきらぼうな応援に明里もいくらか元気を取り戻したらしく机から顔を上げた。目には爛々とした光が戻っている。

「だよね! よし、頑張るよ!」

「うん? 何を頑張るんだ?」

「うわぁ‼」

 明里がガッツポーズをして気合を入れていたところにちょうど孝志と司が帰ってきた。言葉の意味をいきなり孝志本人に尋ねられた明里が驚いて立ち上がる。

「悪い船井。驚かせるつもりはなかったんだが」

「あはは……、こっちこそ大きな声だしてごめん」

 孝志と明里の会話を聞きながら龍之介は、四人で囲んだ机の上に弁当を取り出す。顔を上げれば、微かに頬を赤くした明里とアイコンタクトを取る司が目に入った。緊張が伝染して思わず龍之介も箸を止める。

「あのさ、日野君。次の土曜日予定空いてる……?」

 三人の視線が問いかけられた1人に注がれられる。孝志は焼きそばパンに被りついたところだった。もしゃもしゃと大きく咀嚼している間は声を出さないので、四人の間におかしな沈黙が満ちる。購買や食堂から返ってきたクラスメイトの声がやけに大きく聞こえる。

 数秒ののち、孝志は首を上下させてから口を開いた。

「空いてる」

 明里の顔がぱぁっと華やぐ。一段と明るくなった声が言葉を続ける。

「じゃあ! テスト前に四人で遊園地行かない?」

「いいな。受験始まる前に思い出作りって感じで」

 孝志がメガネのブリッジを押した。普段はポーカーフェイスの彼の顔に微かな笑みが浮かんでいる。友達の喜ぶ顔に龍之介まで嬉しくなる。

 今にも飛び跳ねそうなほどに喜びを纏う明里に司が口パクで、やったねと伝える。続いて同じように司に目配せをされて、龍之介の心臓がずきずきと鼓動に合わせて痛んだ。本当に彼女を応援するつもりなんだと、はっきり理解する。

 それからようやくいつも通りの昼食が始まる。話題はやはり週末の予定についてだ。話が上手い明里と司はもちろんのこと、いつもは聞き手に回ることが多い孝志も今日は口数が多い。龍之介だけが、気持ちの整理がつけられずに何となく相槌を打っていた。


 金曜日の夜。龍之介は本当に明日四人で出かけるべきか、未だに迷っていた。明里の告白が上手くいかなければ、司が彼女を慰める姿を見ることになる。もしかしたら、失恋の傷につけこんで二人が上手くいってしまうかもしれない。明里の告白が上手くいけば、司が悲しむ様子を見ることになる。龍之介にはそこで失恋の傷につけこむ度胸は残念ながらない。

 遊園地に行くことを決めた日から、悩みは変わらずうだうだぐるぐると脳内を回り続けている。

 ベッドでうつぶせになっていると、頭の上でスマホの通知音が鳴った。顔を上げずにスマホを手探りで掴む。顔の目の前まで持ってきてやっと顔を動かせば、「明日楽しみだね」という司からのメッセージが来ていた。

「んー」

 唸りながら体を仰向けに反転させる。腕を伸ばして画面を見る。「本当に明里ちゃんが孝志と付き合ってもいいの?」、「やっぱり行くのやめない?」、「俺ジェットコースターが一番楽しみ」。どの返信も適当ではない気がした。

 悩んだ末に、「俺も楽しみ。遅刻すんなよ」と当たり障りのない返信をしてスマホの画面を暗くした。

「はぁぁ」

 大きく吐いたため息は悩みを薄めてはくれない。思い出すのは、直前まで不安に埋もれながらも勇気を出して好きな人を誘った明里とそれを優しい瞳で応援する司のことだった。

 結局、自分は恐ろしいのだと実感する。玉砕覚悟で好きな人に告白することも好きな人が誰かと付き合うことも今の心地良い四人の関係に変化が訪れることも、何もかもすべて。

 前に進むことも身を引くこともできない自分に嫌気がさす。それでも、結局好きでいることをやめられない。

 龍之介を苛む悩みは解決の糸口が一向に見つからない。それなのに、土曜日は着実に近づいてきていた。


 当日は気持ちの良い冬晴れになった。龍之介は短い襟足とカーキ色のモッズコートの隙間から入り込んだ冷たい空気に首をすくめた。待ち合わせの九時までは後十分もある。早く着きすぎたかな、と思いながら待ち合わせ場所に向かう。遊園地近くのコンビニの前には既に明里と司がいた。

 眠そうな声でおはよーと言う明里は短い丈の黒いダウンジャケットにマフラー、いつも上げている髪は下して寒さ対策は完璧だ。おはようと言ってスマホを見ている司も紺のダッフルコートにマフラーとこちらも寒さ対策は完璧である。

「龍之介君、今日はありがとう。いつも勉強とかお世話になってます」

 と言って彼女から手渡されたのは、文庫本大の青い紙袋だった。バレンタインのチョコレートらしい。まさか今年ももらえるとは思っておらず、嬉しくて顔がほころぶ。

「こちらこそいつもありがとう。孝志の分はカバンの中?」

 手元に他に贈り物らしきものがない彼女に尋ねれば、小さく首を縦に振った。

「観覧車で、渡そうと思ってる……」

「うん。静かだし座れるし告白に合ってると思う。がんばれ」

 龍之介が精一杯のエールを込めて笑いかければ、自信なさそうな笑顔が返ってくる。ふっと目を横にやれば、両手を呼気で温めている司が見えた。手には、自分と同じ青い紙袋。

 龍之介はポケットの中の物を撫でた。昨日の放課後、引き寄せられるように行ったバレンタインの催事。どの店でも女の子たちが幸せそうな笑みを浮かべていた。ただ一人、自分だけが告白できない相手に渡せもしないチョコレートを探して歩いている。そのことがどうしようもなく寂しくて悔しくて、気づけば小さな四角柱に入ったチョコレートを二つ買っていた。一つは落ち込んだ自分用に、もう一つは今日手元に。

 お守り代わりに持ってきたことをもう後悔する。帰りに気落ちしているかもしれない司に渡せたらいいかな、と甘い期待でポケットに入れた出かけ間際の自分が憎い。

 しばらく三人でとりとめもないことを話していれば、駅の方から速足でこちらに来る孝志の姿が目に入った。彼も黒いダウンジャケットにネックウォーマーと暖かそうな格好である。待たせた、と言った自分の吐息で彼のメガネが曇った。

「孝志も来たね。じゃあ、行こうか」

 集合を確認して司が歩きだす。龍之介は明里と孝志が自然に2人になるように、先を歩く司の隣へ駆けていく。

「龍之介はよく眠れた?」

「まあまあ」

「嘘。目の下黒いよ」

 一瞬で見抜かれたことに驚いて右を振り向けば、へにゃりと笑った司の顔が視界に飛び込む。上でも下でもなく同じ高さにあるその笑顔が、龍之介の心臓をきりきりと締め付ける。好きだなぁと思う。関係を変えたくないなぁと思う。そして臆病な自分を心の中で笑う。

 遊園地の入り口にはもう大きな人だかりが出来ていた。様々な気持ちを胸に秘め、四人は事前に買ったチケットを手に行列の最後尾へと進んだ。

 遊園地の中はポップなBGMと楽し気な人々の声で音が溢れている。四人はコーヒーカップ、ゴーカートなど待ち時間の短いアトラクションを選んで次々と乗っていく。遅い昼食はパンフレットにリーズナブルで美味しいと書かれていたハンバーガーショップで摂った。

 一番初めに食べ終わった孝志がパンフレットを眺めながら次に乗るアトラクションを探す。

「この後どうするか。そろそろジェットコースターとかお化け屋敷とか? 気温も上がってきたから多少なら待てるだろうし」

「あっ! わたし観覧車行きたい!」

 明里の言葉に龍之介はついに来たか、と息を飲んだ。それは司も同じらしく、ポテトをつまんだまま手が止まっている。

「僕はいいけど。小泉と奥田は?」

「俺もいいよ」

「俺も」

 司と龍之介が同意を示して次の目的地が決まる。

 観覧車の待機列は龍之介の想像よりも長く、15分は待たないと乗ることが難しそうだった。2人ずつに並んだ列では自然と明里と孝志、司と龍之介のペアが出来る。

 ポケットに手を入れれば、チョコレートの包みに触れた。やっぱり、このまま明里と孝志を2人きりにしていいのかと考える。ちらりと司の横顔を盗み見れば、いつも通り明るい笑顔と柔らかな声音で明里たちと話をしている。その笑顔に陰りは一点も見られなかった。

 じくじくずきずききりきり、心臓は痛みを伴う鼓動を止めない。

 無情にも時間は経ち、4人の順番はどんどんと前に進む。あと1組で龍之介たちの番だ。

「龍之介大丈夫?」

 黙りこくった龍之介をのぞき込んだ心配そうな司の瞳と目が合った。どくん、と心臓が一際大きく震えた。もう、無理だと思った。なんで自分は今日のこのことここに来てしまったんだろうと思う。家にいれば、幸せなカップルの誕生を羨むこともなかったのに。衒いなく伝えることのできる好意に嫉妬することもなかったのに。好きな人にチョコレートも渡せないことを悲しまなかったのに。

 どんよりとした陰を落とすこの気持ちは、遊園地に行くと決めた日から膨れ上がるばかりだ。もしかしたら司を好きになった瞬間から芽生えていたのかもしれない。そう思えば、今まで通り奥底に押し込めればいいだけ。

 龍之介は目の前の司から離れるように後ろに下がると、

「ごめん。ちょっと眠くてぼーっとしてた」

と言って笑顔を作った。

「確かに暖かいからな、眠くなる気持ちもわかる」

「龍之介君、観覧車で寝ないでよー」

「……」

 孝志と明里が龍之介につられて笑う中、司だけが納得いかない表情で龍之介を見る。

「司?」

「孝志、明里。悪い、俺たちちょっと下で待ってるよ」

 と言って司は龍之介の手首をつかむと、速足で列を抜けそのまま観覧車から離れる。手を引っ張られる龍之介も合わせて足を動かす。遠くなる待機列から「今行くの!?」という明里の声と「次の方、こちらへ」とゴンドラの案内係の声が聞こえた。

「えっ! 司、どうしたんだよ!」

 混乱した龍之介が声をあげるが、司は答えないし振り向かない。ただ黙々とにぎやかな雑踏の中を進む。頬をかすめる冷たい空気が痛い。

 ずんずんと進んでようやく足を止めたのは、比較的静かなエリアのベンチの前だった。

「龍之介、座って」

「う、うん」

 素っ気なく端的に言われた言葉に龍之介は取り合えず従ってベンチに座る。すると、司が肩が触れるくらい近くに座った。いつもよりだいぶ近いな、と思っていれば、龍之介側の肩を上げて、んと何かを示す。

「えっ?」

「肩貸すから寝ていいよ」

「えっ」

 司の言葉に驚く。確かにさっきは眠気を言い訳に使ったけれど、こんなに心配されるほど自分が眠たそうに見えてるとは思っていなかった。

「俺、大丈夫。そんなに眠くないから」

「いーから」

 そういうと司は龍之介の頭に手をやりそっと自分の肩に頭を乗せた。

「俺が優しくしたいだけだから」

 そんなこと言われてしまったら、もう、身じろぎする理由すら見つけられなかった。龍之介は軽く息を吐いて強張った身体から緊張を逃がす。ゆっくり瞼をおろす。聞こえるのは、変わらず賑やかなBGMと人の声。今なら、言えるかもしれない。

「司、これは寝言なんだけど」

「ふはっ、いいよ。なあに?」

「本当に明里ちゃんと孝志を2人きりで行かせちゃって良かったのか?」

 ずっと聞きたかったことを口にした。どきどきと心臓が大きな音を立てる。接してるところから司に音が伝わってしまうんじゃないかと思うくらいの大きさで心臓が震える。

 目は開けられない。五感の1つを閉じて緊張を誤魔化しているから。

 司は龍之介の問いにほとんど間を置かずに言葉を返した。

「そんなのいいに決まってんじゃん。大事な幼馴染と友達が両想いになるなんて最高だよ」

 そう言った司の明るい声は本当に心の底から出たもののように思える。龍之介は今だけは本当に彼が笑顔なのか確認したい衝動に駆られた。

「……、明里ちゃんのこと、好きだっただろ?」

「はっ? えっ?」

「えっ?」

「俺が明里のこと? いや好きだけど家族愛とかそういうのだよ?」

「えっ!」

 自分の驚きと司の驚きで、龍之介は思わず目を開けてのけぞった。目線の先には、同じかそれ以上に驚いた顔の司がいる。彼の髪を揺らした冷たい風が龍之介の頬も撫でて熱を逃がした。

 沈黙を先に破ったのは、司だった。

「俺、好きな人他にいるよ……」

 どきり、と心臓がまた大きく震える。明里以外にいる好きな人の話、想像もつかないけど聞かなきゃいけない気がした。龍之介はまっすぐに自分を捉える司から視線を外して話す。

「へ、へぇ。その子とは上手くいきそう?」

「…………これは寝言なんだけどさ」

「えっ? うん」

 自分がさっき言ったことと同じ言い訳をされたことに驚いて言いよどむ。視線を戻せば、なぜか目の座った司がいる。

「俺が好きな人、めっちゃ鈍いんだよね」

「……うん」

「頭がいいところも好きなんだけどさ、その分なんでも自分で考えて答え出しちゃうわけ」

「うん」

「俺は高校入ってから一番長く一緒にいると思うし、悩み相談とか答え合わせとか、そういうので頼ってくれてもいいんじゃない? って常々思うわけですよ」

「……うん?」

「ここまで言えば、俺が好きな人誰か分かる?」

 心なしか司の顔が赤い気がする。自分の顔も赤い気がする。自分のことを言われているような気がする。それが全部、気のせいではないとしたら? 龍之介は徐にポケットに手を入れた。

 そこには、今日は出番がないと思っていた代物がある。

 今がチャンスかもしれない、と龍之介は思った。包みをポケットから取り出し、恐る恐る彼の前に差し出す。

「好き、です」

 顔を見ることは出来なかった。

 声も聞こえなくて、耳にはいらない音ばかりが入ってくる。

 どきどきどき、と血流をやけに鮮明に感じる指先。そこから重さが無くなった瞬間、欲しかった言葉が龍之介のもとに降ってきた。

「俺も龍之介のことが好きです!」

 ばっと顔をあげれば、そこには司の満面の笑みがあった。ずっとずっと、自分にだけ向けてほしいの思っていたあの笑顔。彼の手には今まで龍之介のポケットの中にあったものと同じものがある。

 驚きと嬉しさで言葉を失っている龍之介に、司が言う。

「龍之介からバレンタインもらえるなんて絶対にないと思ってたから、めちゃくちゃ嬉しい」

「喜んでもらえて、よかった」

「……、あのさ」

 と明るい声音は一転、今度は言いにくそうな小さな声で司が問いかける。

 なに? と龍之介が続きを促せば

「手、繋いでも良い?」

「…………うん」

 耳まで真っ赤にした2人の手のひらが、ゆっくりと重なる。司の冷たい指先が龍之介の温い手のひらに触れてそれから指先を絡める。

 言葉はなかった。静かに幸せを味わっていた。

 龍之介はじっと見つめていた絡める手から少し視線をあげて、司を見る。

 自分と同じように手のある方を見ていた司の視線がゆっくりと上がって目が合って、なんだかおかしくなってお互いに笑いがこみ上げてきた。

 観覧車の方へ目をやれば、こちらへ歩いてくる黒いダウンジャケットのカップル。明里と孝志だ。2人の手はしっかりと結ばれている。

「行こうか、司」

「そうだね」

 手はどちらからともなく離された。去っていく体温が名残惜しかったけれど、寂しさはなかった。きっとまた何度でも彼の手に触れる機会はあると自信をもって思えたから。

 自分用に買ったチョコレートは月曜日に司と一緒に食べたいな。そう考えながら龍之介は空っぽになったポケットに手を入れた。

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紛れろ、恋情 月並海 @badED_

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