今日も世界は頭痛を呼ぶ3
軽快且つ乾いた音が辺りに鳴り響く。俺は只、無心になって目の前にぶら下がるサンドバッグを強く弾いたーー。
「時間だ!そこまで!」
右のハイキックが綺麗にサンドバッグを叩いた所で、トレーニングコーチが声を上げた。
「秋月君、本当にプロを目指さないのか?」
「すいません。永劫、薬を飲む身ですし…今はちょっと…」
「そうか…まあ、仕方ないな…」
「気が変わったら何時でも言ってくれ」と笑うコーチに「その時はまた」と笑顔で答え、俺はシャワールームへと向かった。
週2回のジム、週4回のアルバイト、週1日の休みーー俺の放課後や休日は、殆どそれだけに彩られている。別に友達が居ないと言う訳ではない。無論、多くもないが、仲の良い友人達は俺の家庭の事情を知っているせいか、無理に誘ってくることはなかった。
俺が病気で倒れた後、家の経済状況に多少良い変化があった。離婚を期に疎遠になっていた母方の祖父母が援助を申し出てくれたのだ。
祖父母とて特段裕福という訳ではないが、一般家庭程度の蓄えと年金収入を有しており、俺が高校に通っている間の生活費を負担するくらいなら問題無いという話だった。
一度は断ったものの、母親も俺の事を考えたのだろう。最終的には一部だけーーそれも何れは返す事を条件に、その援助を受け入れたのだ。
その結果、俺は普通の高校生活を送れるようになった訳だが、まあ、このよく回る頭は考えてしまう。
母親の約束を考えれば、結局は返さないといけないお金なのだと。
それに高校の学費も奨学金で補っている。猶予付きとはいえ、卒業した瞬間から借金が出来る身であることを考えれば、蓄えはいくらでもあるに越した事はなかった。
さりとて、生活や蓄えの為とアルバイトばかりしていれば、母親が病む。俺が倒れ、意識が無かった時、医者から峠だの山場だの言われたらしく、精神的に相当参ったようだ。
俺がアルバイトのアの字でも言おうものなら、祖父母から援助を受けたのはその為なのだと、ヒステリックを起こしていた時期さえあった。
そんな経緯もあって、俺は簡単にはアルバイトをさせてもらうことが出来なかったのだ。しかし、さっき言った通り蓄えは欲しい。
その結果、俺が考えに考えた末に思いついたのが言い訳が、ジムに通いたいからだった。
言い訳とは言っても昔から格闘技に興味があったのは事実で、何らかの形で運動はしたいとは思っていた。それでいて、部活動のように毎日、時間を取られることもない。
「なれるか解らないがプロを目指してみたい」
そんな風に夢を語れば、息子の夢は極力叶えたいと考える母親だ。難色は示したものの反対はしなかった。
そして、俺はジムに通う費用を稼ぐことを口実にアルバイトをし、実際にはその分と貯蓄、お小遣い分を差し引いた額を生活費として母親に渡している。
そうすることで俺は、ようやく母親を納得させると共に目的を果たすことが出来たのだった。
シャワーを浴び終わった俺は、身体をある程度乾かしてジムを出る。
地方とはいえ、それなりの都市ということもあり月夜の空に星は見えない。
しかし、春から夏へと向かう季節ということもあり、ジムで熱くなった身体に夜風が気持ち良く、雲の無い空は心に澄み渡る気がした。
そして、また思考が巡り始める。
プロになる気が無いというのは別に傲慢からではない。職業にするには心許というのもあるし、元々、運動がしたいだけというのもあるがーーはっきりと言ってしまえば、才能が無いからである。
幸か不幸か、IQの高さはこういう部分でも活かされる。人間の身体を動かしているのは脳であるから、コーチの言うことを直ぐに理解し、実践する事は可能だ。
しかし、詰まる所、それだけなのだ。
絵で例えるならば、トレースが得意なだけで自分で描ける訳ではない。要はオリジナルにはなり得ないのである。だから、俺は自分に才能を見出だせないのであって、より無気力になりーー。
「あっ!!秋月君だ!!」
その声に驚きながらも振り返れば、そこにはグレーの緩いパーカーにグレーのスウェットという出で立ちの大和のどかが立っていた。
「…ああ。大和さん。今晩は」
何故ここに、と思ったのも束の間、彼女の腕にはシュークリームが入ったコンビニの袋が下げられていた。
大方、この近くに住んでいて、コンビニスイーツを買った帰りに偶々見かけたといった所だろう。
態々声を掛けてくれたことに喜びを感じながらも会釈すれば、彼女はずり落ちそうなダボダボなパーカーを直すこともせずに「今晩は〜」と小さく萌え袖を振った。
恐ろしく可愛いその姿を見て、にやけそうになるのを堪えていると、何を思ったのか彼女は徐にファイティングポーズをとって見せた。
「シュ〜!シュ〜!」
呆気に取られている俺の前で、謎の擬音を発しながら緩々なワンツーを繰り返す彼女。
最後にはアリも潰せなさそうな謎のキックを繰り出した後、彼女は何時ものにま〜とした笑顔になってーー。
「キックボクシングしてるの格好いいねっ!ガンバッ!」
「ありがとう」
マジで萌えた。
「むふ」と言う謎の返事とガッツポーズが愛らしい。
単純に褒め言葉に照れた俺が頭を掻いていると、彼女は思い出したかのようにコンビニの袋からシュークリームを取り出しーー。
「…シュークリーム?」
「うん!シュークリーム!…えヘヘ」
押し付けられたシュークリームを見つめる俺。
恥ずかしげに微笑む彼女。
暫しの間、俺達の間には不思議な時間が訪れた。
「また明日〜!学校でね!」
「ちょっと大和さんーー」
萌え袖をぶんぶん振り回しながら住宅街の方へと走って行く彼女に、俺の声は届かなかった。
彼女の姿はやがて小さくなり、そのまま住宅街の奥へと消えていった。
時折、繰り返す穏やかな風の音しかしない月夜の空。所在無く手を伸ばした俺。
そのまま佇み続ける訳にも行かず、俺は再度頭を描いて帰路に着く。
閑静な住宅街。一軒家の窓灯りをぼんやりと眺めながら帰路も半分を過ぎた頃、ふと目に入ったのは寂れた公園だった
経年劣化を感じさせる木製のベンチ。何となく座りたくなった俺は誘われるがままに公園へと足を運ぶ。
「…シュークリーム」
腰を下ろし、見つめる右手には彼女に押し付けられたシュークリーム。俺は包装を破いて口に含む。
(コーチ。俺、今なら世界を獲れる気がするよ…)
口内に広がるカスタードクリームの甘みにニヤつきながら、俺は根拠の無い全能感に満たされるのだった。
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