盲目

M.S.

盲目

 こんな私にも昔、想いを寄せていた女性がおりました。ええ。承知しております。こんなかおで、女性に想いを寄せるだなんて、その女性に失礼だ、とお思いでしょう? そうでしょうね。

 このような貌ですからね……。

 物心付いた時から、鏡には化け物が住んでおりました。

 ────ええ。それは、私でした。

 ある日、鏡を覗いた時、私は母にこのように言ってしまいました。

「どうして鏡には、気持ちの悪い子供が映っているの?」

 母は、唯々ただたださめざめと歔欷ききょしては、

「ごめんね、ごめんね」

 と、繰り返しておりました。ああ、母さん、その節は本当に申し訳無い事をしてしまいました。


 はい、そうです。ご覧の通り、私の貌は常軌を逸しておりますでしょう? 昔からのものです。色々な診療所にも診せに行きましたが、最後に行った皮膚科には、「整形を繰り返すか、しくは一回首でも吊って死んで、生まれ直すのがよろしい」。そう言われてしまいました。お医者様にもそう言わしめさせる程に私の貌は、どうやら良くないそうです。遂には診察の折、私と目を合わせてくれるお医者様は何処どこにもおりませんでした。


 貴方あなたも、どうやら私とは目を合わせていないようですね。 ……いいえ、責めているのでは御座いません。それが、正常な人にける防衛機制のようなものであると、心得ておりますから。今更、傷付くような月並みな心など持ち合わせてはいないのですよ。

 ……御免なさい。何処か、やはり責めるような物言いになっておりますね。お赦し下さい。このような貌で生まれてしまってはほとほと遠回しに、攻撃的になってしまうのです。

 相手に対しても、自分に対しても。

 ……さて、看護師さん、貴方は私の醜い貌を見たくない所為せいか、まだ下を向いておられるようですね。ええ。勿論、仕方の無い事であるとわきまえております。貴方にはそのまま下を向いておく事をおすすめします。

 私にとっても、貴方にとっても、それがよろしいかと。


 聞きたくはないとは思いますが、私の貌について、詳細をお話しします。でないとこの話は始まりませんから。看護師さんから私の事を詮索したのですから、それ相応に、話は聞いてもらいますよ?

 ……とは言っても、何処から話しましょう?

 私の貌を見た百匹の野良猫が絶命して、腐臭が街を覆った話からしましょうか? いや、私の貌を見た生命科学の研究者が、私に献体けんたいとなって欲しいと申し出た事なんてどうでしょう? ……それとも、私が八歳の時に、この貌の所為せいで自責の念に駆られた両親が、自宅の鴨居かもいにぶら下がって首をくくった話なんてのは、どうでしょうか?

 ……ああ、御免なさい。どうやら、気分を悪くされたご様子……。

 では、単純に、私の貌の造形についてお教えしましょう。ず、一番の特徴がこの大きなどす黒い、顔の左側全体をいびつに覆う痣でしょう。どうしたでも無く、気付いた時にはもう私の貌の上で、痣は大分育っておりました。それに伴ってかは分かりませんが、左側の眉、睫毛、口髭、顎髭は生えて来ません。また、骨格が斜めに歪んでいて、左右の貌の部品のバランスが悪いのです。口と鼻は斜めに曲がり、瞼も高さが随分違います。加えて、雌雄眼しゆうがんでありまして、左の瞼は二重ふたえなのですが、右の瞼は切長なのです。通常の貌を保っているつもりでも、はたから見れば、薬をやっているように見えていたと思われます。

 ……そんな私が、どういう経緯でその女性を好きになったか、興味を持ちませんか?

 ……ええ。お話ししましょう。

 時間は、大分遡ります。


────


 小学生の頃です。幼馴染が居りました。女の子です。言ってしまえばこの子がその、想いを寄せていた女性になります。その子は私の家の斜向はすむかいに住んでおりました。

 私も両親から、斜向かいに同級の子が居るので仲良くするように、と言い聞かされていたので、その子の事は出会う前から聞き及んでおりました。

 その日は、小学校の入学式の日でありました。

 家が近いという事で、その女の子と一緒に学校へ向かう事になったのです。私はその子の住む屋敷の、大きな門扉の前で彼女を待っていました。暫く待ち、門扉の向こうに見える玄関の扉が開きました。ですが、そこから姿を現したのは、白杖、その次に彼女という順番でした。玄関のポーチには段差がありまして、彼女はそこを白杖で叩きながら、恐る恐る段差を慎重に降りて来ています。

 すぐに分かりました。

 盲人もうじんであると。

 彼女は段差を降りて、玄関から門扉までの通路を白杖で確かめながら、ゆっくり歩いて来ます。手探りで門扉の取っ手に触れ、それを引き、門を出た所で白杖の先が私の下腿に当たりました。

「あっ、御免なさい」

 彼女は咄嗟に謝罪しました。

「いえ」

「あ、貴方は……?」

「聞いていませんか? 斜向かいに住むFです。これから一緒に、登校する事になります」

「あら、そうでしたか。これから、宜しくお願いしますね……、既にお分かりかもしれないですが、このように何も見えなくて……、ご迷惑をお掛けします」

 その時、私は何を思ったと思います?

 あろう事か。

 ────彼女が盲目で良かった。

 なんて、非道ひどい思いを抱いたものです。


 小学生の頃は常に彼女の側に寄り添って、手を引いて行動していました。

 私達を揶揄やゆして付けられた渾名あだなは〝美女と苦渋〟。おそらく〝美女と野獣〟をもじって付けられたものと思われますが、はなはだ面白い事を言ったものです。それを聞いた私は怒る所か、唯々ただただそのセンスに脱帽し、感心するばかりで御座いました。

 その頃は私の教科書や上履きが定期的に無くなったり、同学級の生徒が何かの都合で遠くへ引っ越したり、何故か担任がころころ変わったりするくらいでさして大きな問題は無く、私達は小学校を卒業しました。


 小学校を卒業すると、私達は揃って地元の公立中学校にそのまま入学しました。

 私に関して言えば学業は元々襤褸襤褸ぼろぼろであったし、彼女の方も、視覚の制限があるお陰で中々難しかったでしょうから。

 もうその頃の彼女と言えば、白杖に頼る事無く、確かな足取りで自宅の玄関ポーチの段差を降り門扉を開く事も出来ていました。視覚が使えない分、聴覚でそれを代償するように彼女の耳は発達しているようでした。

 それでも外を歩くには私の足音を聞いて付いて来る必要があるようで、私はもう彼女の手を引く事は無くなったものの、側には居続けました。

 彼女はどうだったかは知りませんが、丁度その年頃になると、私としても手を繋ぐ事にはいささ面映おもはゆさを覚えました。

 同時に少し、もの寂しさも、感じはしました。

 ただ、その距離感はなんだかくすぐったく私の大事な部分を、確かに撫でておりまして、これが恋と気付くまでには大分時間をつかってしまいました。


 とある日、事件が起きてしまいました。……と言うよりは、私が起こしてしまったのですが……。

 授業後は私達、二人とも部活動には所属しておりませんでしたので、教室に残っていました。そこで、私が本を朗読し、彼女に物語を読み聴かせるという事が日課になっていたのです。

 丁度、ジョバンニとカムパネルラが鉄道に乗車しようという場面になった頃です。

 二人きりだった私達の教室に、一人の男子生徒がやって来ました。その男子生徒の、罰が悪そうな、気恥ずかしそうにした顔を見て、すぐに理解出来ました。おそらく教室の人がけたこのタイミングで、彼女に想いを伝えに来たのだろうと。

「申し訳無いが、外してくれないか」

 その男子生徒は、私の方は見ずに、彼女を見据えながら、でも私に対してそう言ったのです。

「分かった」

 私は素直にそれを受け入れて、無粋にならないようにと思い、外す事にしました。

 はっきり言って、胸中は複雑でした。

 これで、この男子生徒の想いが実れば、きっともう私がこうやって彼女の元に本を読み聴かせに来る事は無いでしょうから。

 それは、まぁ、残念な事ではあるのですが。

 けれど、私のような化け物とこの男子生徒、比べるべくも無い事です。そう思いつつ、私は教室の出口を目指したのですが。

 彼女は私の制服の裾を掴んで、それを制したのです。

 そして、彼女は男子生徒に向かってこう言います。

「用件があるなら、今、此処ここおっしゃって?」

 男子生徒は少し逡巡したようでしたが、それでも想いを伝える事にしたらしく。

「あ、貴女あなたを、入学してから、ずっと見ていました。……もしよろしければ、お付き合いをしていただけないだろうか?」

「ごめんなさい。そういう事は考えていません」

 彼女は男子生徒の告白を、言の葉の剣で一刀両断していました。

 その時の私と言えば、何処か安心したような、でも、何故? という疑念も混じったマーブリングが頭の中に生成されておりました。

 男子生徒は狼狽し、わなわなと震えています。

「どうして……?」

「この人が、良いから」

 そう彼女は、私の制服の裾を掴んだまま、答えます。

「この人の足音以外は、記憶していないの」

 彼女がそう言い放つと。

 男子生徒は恥も外聞も無く、喚き散らしました。

「だが、だがっ。この男、醜いじゃないか。なんでっ、なんでなんだ。何故、この男にこだわる。それが、理解出来ない。こんな、こんな気持ちの悪い男っ」

 次の瞬間彼女は立ち上がり、男子生徒の頬に平手を食らわせました。目が見えないにも関わらず、的確に男子生徒の頬を、捉えたのです。

「消えて」

 すると、男子生徒は完全に狂ったように、聞くに堪えない言葉で私を罵倒し始めました。

「こんな、こんな顔が──で、──は──みたいになっている男の、何が良いんだ! ──なんかまるで──みたいだし、──なんか、もう──じゃないか!


こんな男、人間じゃない!」


 それを聞いた私は完全に理性が消えていました。何故かと言うと、その時に至るまで私は彼女に自分の貌の醜悪さを伝えていなかったのです。

 ────彼女との交流が、彼女が盲目である事によって成立していると考えていたからです。

 だがその時、この男子生徒は彼女に聞こえるように私の醜悪さを。

 彼女の耳元でつまびらかにしてしまった。

 私の貌の詳細を知った彼女が、私から離れてしまうと思いました。


 気付いたら、私の拳は血塗ちまみれになっていました。その男子生徒の血です。

 そこで私は、この男子生徒がこの学級の中心人物で、学業も良く、人望にも厚い生徒である事を思い出しました。そんな典型的な模範生徒である彼を、私が狂わしてしまった。どうやら、私の貌というのは他人までもを醜悪にしてしまうらしい。

 私は、完全に失意に暮れてしまいました。

 そして、彼女に謝罪しました。

「今まで醜悪である事を黙っていて、申し訳無い」

 でも、彼女は。

「……何の、事? それより、続きを聴かせて欲しいわ。……ジョバンニとカムパネルラは、この後どうなってしまうの?」

 今起こった一部始終など、何でも無いという風に。

 朗読の続きを要求したのです。


 その後は特に大きな事件は無く、安穏とした中学生活を送り、卒業しました。

 高校にも揃って同じ所に進学しました。やはり、私達は共々学業の方はかんばしくなくて、あまり程度の良い高校に進学する事は出来ませんでした。

 するとやはり、やからというのが私を目の敵にしまして、事ある毎に絡んで来る事になりました。ある時校舎の裏に呼び出され、私も態々わざわざ律儀に対応する事無いのに、それに従って校舎裏にやって来た訳です。すると十人の輩が私を取り囲み、何処からぱらって来たのか角材を持っている者まで居ました。その中の、これを計画した主犯だろうという男子生徒が私の前に出て来て、挨拶をしに来ました。

「よく、そんな気持ちの悪い顔をぶら下げて、お天道様てんとうさまの下を歩けるもんだ」

「神経の太さには、自負がありまして」

 要するに、私と彼女の関係を快く思っていない輩の集まりが、私をこの催しに招待したのでしょう。

「ちっ……、〝これ〟で褒めてやるよ」

 彼は手にしていた鉄パイプを振りかぶって私に洗礼を下そうとした訳ですが、私、自分で言うのもなんですが、貌の醜悪さに加えて体格と力にはある程度自信がありまして。

 彼の鉄パイプを手掌で受けて、奪い、それで反撃して彼の顎を砕いた所、彼はぴくりとも動かなくなってしまいました。それを見て取った他の輩は、一斉に私に襲い掛かって来ました。

 そこから先は、少し興奮し過ぎた所為か、あまり覚えておりません。気付けば輩は皆、足下に、使い古した襤褸雑巾のようになって転がっておりました。

 皆、顔をぐちゃぐちゃにされ、私と同じになっていました。

 その事に少し、何と言うか愉悦を覚えて浸っていた所、彼女を待たせている事を思い出しました。


 足早に校舎に戻って、彼女の居る学級の教室へ向かいます。目的の教室の引き戸を開けると、中で残っていた生徒は蜘蛛の子を散らすように、私が入って来た扉とは別の扉から退散して行きました。

 彼女だけを残して。

「ごめんなさい。待たせました」

「いいえ」

 彼女は、私を待つしかない。

 私の足音を頼りに、家まで帰るのだから。

「今日も、読み聴かせの続きをして頂戴? どうしてホームズは、握手をしただけで、その人が物書きだと分かったのかしら?」


 暫く、二人きりの教室で朗読を読み聴かせた後、切りが良い所で帰る事にしました。

 例によって、彼女は私の少し後ろを私の足音を頼りに付いて来ます。それは何だか私が彼女をはべらせているような構図になってしまうので、彼女には申し訳無く感じていました。それは彼女が自ら、〝私は、この醜い男に付き従っております〟と周りに周知させている事のような気もして、私は彼女が不憫に思われました。

「血の、匂いが、します」

 その頃の彼女と言えば、やはり視覚に頼らない分他の四感が鋭いようで、私の拳や制服にこびり付いた輩の返り血を敏感に感じ取ったようです。

「何か、あったのですね?」

「……問題無い」

「問題が無い事なら、教えて?」

「少し、絡まれてしまっただけです」

「……私の所為せいで、絡まれてしまった訳では、無いですか?」

「それは、断じて無い」

 私は彼女に、ふっ、と鼻を鳴らした音が聞こえるようにして、そう一蹴しておきました。

「……私の世話が面倒だったら、いつでも離れて下さい」

 彼女は彼女なりに悩んでいるようでした。私が、自分の顔貌を憎むように。やはり私の醜悪さは、他人に苦悩を強制してしまうようです。

 彼女のその掠れるような声音を聞いて。

 私は胸が苦しくて苦しくて、堪りませんでした。

「それも、断じて無い」

 私は彼女が好きだったし、彼女も私の事をそう思っていて欲しかった。そしてその発言も、私の事を思っての事だと信じたかったのです。


 時期に雨が降り、私の足音は、雨足の音と混じってしまいました。きっとこの時、天は私と彼女を試したのです。

 私は後ろを振り向きました。

 すると彼女は私に向かって、手を差し出していて。

「手、引っ張って下さい」

 私はもう、先程胸に湧いた苦渋など、雨と共に何処かへ流れていたのです。制服に付いた返り血の匂いも、すっかり流してくれました。


 彼女の屋敷の前に着く頃には、もう雨は止んでいました。

 でも、私と彼女の手はまだ繋がれています。一時の通り雨は、私と彼女、お互いの気持ちを再確認する事を手伝ってくれた訳です。

「ありがとう」

 そう彼女は言って、私から手を離しました。名残惜しいですが、手を繋いでいる所を彼女の両親にでも見られたら大変です。

 もし、醜い私と彼女との間で、ある種の感情が芽生えていると知ったら、きっと彼女の両親も驚き、苦しみ、首を括ってしまうかもしれません。

「……私……」

「……?」

「眼、手術する事になりましたの」

「そう、なんですか」

「はい、もしかしたら、目が見えるようになるかもしれないそうです」


 そこから先は、どのようにして自宅の寝台まで辿り着いたか覚えていません。唯々、失意の泥濘でいねいまり込んで、頭を抱えておりました。

 ────彼女の眼が、見えるようになる。

 ────彼女の眼が、見えるように、なってしまう。

 彼女の眼が見えるようになる、と言う事は、必然的に私の醜悪さを余す所無く目の当たりにしてしまうと言う事です。私は、〝彼女の眼が良くなるといい〟と道徳と倫理的にはそう感じるべきと分かってはいたのですが、やはり、〝彼女の眼が、一生開かなければ良い〟と思う自分もいまして、そんな二律背反の間に激しく揺れておりました。

 彼女に初めて会った日の事を思い出します。その時から、私は変わっていませんでした。

 醜悪な顔も、醜悪な心も。

 ここで私は、彼女の前から消えておくべきだったのだと思います。そうすれば、彼女の眼が開く前に私が消えれば、私はその綺麗なままの思い出をいつまでも宝物のように、胸に仕舞って、好きな時に引き出してはそれを眺め、何年が経とうとそれに想いを馳せる事が出来たからです。

 けれど、実際私が思い付いた事と言えば。


 ────彼女の屋敷に侵入し、彼女の眼球と視神経を奪って、永遠の闇を与えよう。


 そう、思い付いた訳であります。

 ……理解出来ないでしょう?

 それをやってしまおうと思える程に、私は彼女に恋をしていたのです。ほら、恋は盲目と言うでしょう? 私には法律も、道徳も、倫理も、何もかも見えていなかったのです。


 そう決心してからは、早いものでした。決行は日付も変わって暫くした深夜に行う事にしました。

 午前三時の暗闇は、完全に私の味方という訳です。

 彼女の屋敷の入り口は大きな門扉があったものの、高校生程の男子であれば、じ登って乗り越えられる程のものでした。玄関扉の前まで来て扉を引いてみますが、勿論、鍵が掛かっておりました。

 此処までは概ね予想通りです。

 彼女の部屋の位置は分かっています。向かって左側の二階の、此処からも見えている部屋が、彼女の部屋です。

 私は先ず、玄関扉の真上にあるひさしに向かって跳び手を掛け、腕の力で体を持ち上げて、その庇の上に立ちました。そこから左を見ると、彼女の部屋に通じるベランダが突き出ているのが分かります。ですが、此処からの跳躍では、そこの笠木に手は届きそうにありません。そこで、私とベランダの間に設置されていた雨樋あまどいに手を伸ばして何とか掴み、一階と二階を隔てるようにして壁から突き出ていた幕板の、僅かな足場を頼りに、彼女の部屋のベランダに移ったのです。

 さて、愈々いよいよベランダの引き戸の前に来た訳ですが、鍵が掛かっていた場合、戸を叩いて彼女を起こさねばなりません。

 彼女を起こしても、さして計画に支障はありませんが、出来るだけしたくない事でした。

 引き戸に手を掛けると、鍵は、掛かっておりませんでした。

 私は音を立てまいと、細心の注意を払って足を踏み入れたのですが……。

「いらっしゃい」

 先に、寝台に横になっている彼女から声が掛かってしまいました。私は驚きつつも、黙って居ました。彼女は目が見えない訳ですから、黙していれば私とは気付かれないと思ったのです。

「読み聴かせを、しに来てくれたのかしら?」

 ですがその発言を聞いて、私は、私の正体が完全にばれている事を悟りました。

「……解っていたのですね」

「……ええ、〝音〟で分かりました。玄関の上の庇から、幕板を足場に此処まで来たのでしょう? それが出来るなんて、まるで曲芸師のようですね」

 彼女は口元を押さえて笑っていました。どうやら怒りや、嫌悪を私に向けているのでは無いと分かって、少し安心しました。

「さて……、貴方はこんな夜中にめくらの女を夜這いするような人間では無い事は分かっているし、すると、何か急ぎの用事がありまして?」

 私は彼女の居る寝台に近付きます。もう、たとえるならば抜いた刀を振り下ろす先を見失って、さやに戻すのも罰が悪いと言うような感じでした。

 来る所まで来てしまったので、私は単純に、直接的に、彼女に伝える事にしました。

「手術など、しないで欲しい」

「……」

 彼女は暫く思案した風で、言葉を選んでいるようでした。

「私、もう貴方の貌の事は、前から解っていましたよ」

「それは、醜悪な事それ自体は分かっているが、その程度までは解っていないでしょう」

 彼女は首を横に振りました。

「……いいえ。解っていますよ。〝音〟で解るんです」

「……どういう……」

「貴方が瞬きした時の空気の揺らぎから雌雄眼である事も、鼻腔から吐き出す息の流れから、鼻柱が曲がっている事も、本を読み聴かせてくれる時の、吐息の揺蕩たゆたいから、口が歪んでいる事も


貴方のその、貌の左を覆う、黒い三日月の事も」


 私はそれを聞いて、涙を溢さずにはいられませんでした。

 ────一体この世界の何処に、私の痣を三日月と呼んでくれる人が、居るのでしょうか?

「そこまでっ、そこまで解っているなら、尚更手術など、しないでくれ」

 私は無様に哀願しました。彼女の中で、私は三日月のままで居たかったから。彼女が眼を開いた時、そこに居るのは三日月では無く、化け物だと知られたくなかったから。

「でもね」

「……?」

「このまま眼が見えないと、私、ずっと貴方の後ろしか歩けないから。付いて行くのではなくて、そろそろ、貴方の横に並んで歩きたいの」

 私は、すっかりその醜悪な貌を、更にぐちゃぐちゃにして泣きました。彼女に悟られないように、床に突っ伏して、貌を隠して泣きました。

 そんな私に、彼女は言ったのです。

「また、読み聴かせをして頂戴ちょうだい劉備りゅうびが死んでしまった後、諸葛亮孔明しょかつりょうこうめいしょくをどうしたの? 蜀は、かんを平和に導く事が出来たのかしら?」


 それが、彼女への最後の読み聴かせになってしまいました。

 次の日の朝、警察がやって来て、私を連行したのです。どうやら、その前日の昼間に私を襲って来て、返り討ちにした輩の内、二人を絶命させてしまっていたようです。その罪で、私は少年院に入る事になってしまいました。


 刑期を終えて、すぐに彼女の屋敷へ舞い戻りました。ですがその時には既に、表札はありませんでした。隣家の住人に訳を訊いてみると、どうやら何処か遠い所へ引っ越してしまったようです。

 頭の隅に置いていた最悪の予想が、成ってしまいました。

 きっと彼女の御両親は、面倒事を引き起こす私の隣に彼女を置いておきたくはなかったのでしょう。私が少年院に入った事を切っ掛けに、私と彼女を切り離す事を決めたのだと思います。


 もう、彼女が眼の手術をしたのか、しなかったのか。

 今、彼女が誰の足音を頼りに屋外を歩いているのか。

 知る由もありません。


 それからの私と言えば、この街で彼女の残り香を探しながらうろつき、何年も何年もアルバイトを転々とし、結局、真っ当な仕事に就く事も出来ず……。まぁ、このような醜悪な貌では、社会で生きていける筈もありません。

 今回、近くのホームセンターに赴き太めのロープを買って来て、自宅の鴨居にぶら下げて、この世にお別れをする事にした次第です。


────


 以上が、この病院に来るまでの経緯で御座います。結果で言えば、自殺は未遂に終わってしまいました。私の重さに、遂に鴨居が耐え切れずにげてしまったのでしょう。私の両親も、そこの鴨居で首を括っていましたから。

 それでも、後遺症として視界の殆どを失い、手には痺れが残りました。もし彼女が再び私の前に現れてくれたとしても、もう彼女に読み聴かせをするために、本のページめくるのは、ちょっと難しいでしょうね。


 どうでしょうか? 看護師さん。

 問診票は埋まりましたでしょうか?

 これが、私の今までです。


 ……?、看護師さん?

 先程から、ずっと、下を向いて泣いているようですが?

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盲目 M.S. @MS018492

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