「索道の先」

 渓谷を渡る一本のケーブルがある。

 もう何十年もそのままで、何のためにあるケーブルなのかはわからない。

 霧に覆われた先は見通しも効かず、谷底も深いので誰もここを渡った事がなかった。


 風が強い日はケーブルの揺れる音なのか、独特の金属音が鳴り響く。

 私はその音が好きで、風の強い日は良くケーブルの根元で霧の向こうを見ていた。


 ケーブルの根元は鉄骨とコンクリートで出来た土台があって広々と横になれる。

 つまり絶好のサボり場所って事だ。


 なんて休憩を楽しんでいたら、ゴウンゴウンと何時もと違う音がする。

 聞き慣れたケーブル音じゃない。何だろうと顔をあげて驚いた。


 霧の先で何か黒いものが揺れている。

 理解が追いつく前に、四角い影はどんどん大きくなっていた。

 一体何が始まるのだろう。


 呆然と見上げた先で、霧を割って現れた四角い箱が鉄骨にぶつかって止まった。

 そうか、鉄骨の前にタイヤがついているのはこのためだったのか。


「あれ、女の子?」


 よくわからない気付きを得ていたら声をかけられた。

 人だ。

 中から人が出て来た!


「こんにちはお嬢さん」

「こ、こんにちはお姉さん」


 はじめて会う大人の女性に、私はこれでもかと背筋を伸ばす。

 はわわわ、顔を見なければ失礼って言ってたっけ!?


「取って食べたりしないから落ち着いて」

「は、はい」


 私は緊張しっぱなしだ。

 これで合っているのだろうか。

 ところで取って食べるってなに!?


「私食べられるんですか!?」

「いえ食べませんから」


 慌てて逃げ出そうとした手を掴まれた。

 なんてことだ。私はここで死ぬんだ。

 大人が子供を食べるなんて知らなかった。


「は、離してください!」

「待って待って。いくつか質問に答えて欲しいの」

「質問に答えたら解放してくれますか!?」

「もちろんよ」


 私は抵抗を止めた。

 腕を切ってでも逃げてやるという気概だったけど。

 岩場のトカゲがよくやる奴。


 まさかこんな決死の覚悟だっただなんて。

 今度からトカゲの尻尾を持って振り回すのはやめよう。


「生き残りは他に居る?」


 その問いに私は首を傾げた。

 生き残りって何だろう。


「質問を変えるね。お嬢さん以外に、誰か居る?」

「アーム君に、エア君に」

「質問を変えるね。お嬢さん以外に、人は居る?」

「居ないよ。お姉さんがはじめて」


 お姉さんが顔を歪めていた。

 どうしたのだろう。何処か痛いのかな。

 と思っていたら、引っ張られて抑え込まれてしまった。


 痛く、ない。けど、動けない。


「なになになに!? やっぱり私食べられるの!? 何してるの!?」

「これはね、お嬢さん。抱擁っていうの」

「なにそれ知らない! 離してよ!」


 そういえば質問に答えたのに解放されていない。

 こういうの、嘘吐きって言うんでしょう?

 お勉強して知ってるんだから。


「あなたをこれから保護します」

「質問に答えたんだから離してよ嘘吐き!」


 力いっぱい私を抑える腕を叩く。

 お姉さんは呻くけど、離してくれない。

 効いてないんだ!


 力いっぱい、何度も何度も。

 これでもかっていうくらい叩いたけれど、お姉さんは離してくれなかった。


 こうして、私は生まれ育った地を離れる事となる。

 あのケーブル。索道さくどうをこえて、その向こうへ旅立ったのだ。

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