鐘の音にチョコレート
月並海
第1話
放課後の教室を音楽を聴きながら出る。耳に挿していたイヤホンから「ラ・カンパネラ」が流れ始めた。
小さいときに幼馴染と一緒に見たプロの演奏会で演奏されていた憧れの曲。自分たちも弾いてみたくて先生に我が儘を言って譜面を借りて二人でピアノとにらめっこした。子供には難しすぎて彼は困り果てていて、私も弾けないって分かったけどどうしても彼が弾く姿を見たくて言ったんだ。
「この曲弾いてくれたら結婚してあげる!」
今思えばなんて傲慢で恥ずかしいことだと思う。
「わかった! 約束ね!」
そう返事をする彼と指切りしたっけ。
十年前のことなのに今でも鮮明に思い出せる。きっと音楽と結びついた記憶だからかな。
曲が終わって、次の曲に移った。スマホの待ち受け画面には私と彼の写真が映し出される。
音楽教室で一番上手だった幼馴染は一足飛びで上達していって、二ヶ月後にはドイツへ留学する。私の片思い歴ももうすぐ十年だ。
スマホを見ると日付は二月十二日。
明後日の日曜日はバレンタインデー、女性から好きな相手へ気持ちを伝える日。
離れ離れになる前に、今年こそ彼に気持ちを伝えてみようか。
私は幼馴染の彼と同じ高校に通っている。けれど、普通科所属の私が音楽科に通う彼と校内で会うことは滅多にない。
普通科の校舎から少し離れたところに音楽科の校舎がある。いつも音楽に満ちていて、ほんの少しだけ近寄りがたい雰囲気があるその校舎。そこでいつもピアノの練習に明け暮れる彼に私は差し入れを持っていくのが習慣だった。
彼のお気に入りの、一番奥の練習室から聞こえてくるのはベートーヴェン作曲、ピアノソナタ「悲愴」。第三楽章もクライマックスを迎えようとするところだった。彼の留学前最後の課題曲らしい。彼の手によって紡がれていく、ベートーヴェンの残した物語にうっとりと聴き惚れる。彼によればこの曲はベートーヴェンの青春時代を慈しみ憂う気持ちに溢れ、何かに憑かれたような緩急は厳しい運命への反逆に感じられるそうだ。細かいことは私にはわからない。でもこの音に身を委ねているこの瞬間が私の一番の幸せだった。
フィニッシュの和音が響いて終わったのだと気付く。中を見れば立ち上がった彼と目が合った。
「お疲れ様、また上手くなったね」
差し入れに持ってきたスポーツドリンクを渡すと彼はありがとう、と言ってその場で半分を飲み干した。
きっと集中しすぎて休憩も取らず弾いていたのだろう、簡単に想像できる。
何はともあれ今日の本題は演奏を聞くことではないのだ。
「あのさ」
バレンタインはお互い毎年予定がないからどこかに出かけていた。だからきっと今年もそうなるだろうと高を括っていた。
「明後日は暇?」
それを人は自惚れと呼ぶとも知らずに。
「ごめん、日曜日レッスン入っちゃった……」
鬱々とした気持ちは日曜日になっても消えなかった。片思いを終わらせるチャンスだったのに。彼が私の事情を知っているわけはないので、自分勝手に落ち込んでいるだけだけど。私の気持ちも知らないで、馬鹿。
レッスンの合間に会うこともできたけど、ピアノに集中する彼の邪魔をしたくなくて誘わなかった。時間は夜十時。もう会いに行ける時間じゃない。
寝転がってネットサーフィンをしていると、スマホが音を立てた。
見てみれば彼からで、五分二十秒とだけ書かれた録音が届いている。
レッスンで弾いた曲の感想を聞きたいのかな、練習中のピアノソナタにしては短いような気がしつつ録音を再生した。
刹那、流れてきた曲に戦慄した。
「ラ・カンパネラ」である。
スマホ録音の悪い音質でも鬼気迫る雰囲気と圧倒的な技巧が伝わってくる。
ああ、この人はついにそこまでいったのか、と息を吐いた。
流れてくる曲は聴く人を魅了する豊かな表現力と圧倒的な存在感、譜面を忠実に再現する技術を持つ彼は必ず世界で通用すると確かな予感に満ちていた。
それと共に私は「ラ・カンパネラ」の楽譜とにらめっこした日のことを思い出していた。きっと彼は忘れちゃっただろうから、私だけの淡い初恋の思い出。
再生が終わりトーク画面に戻る。しばらく余韻に浸っていると新着通知がきた。
『どうだった?』
彼からだった。
『めっちゃ良かったよ! 感動した! 悲愴だと思って驚いちゃった笑』
感動のままに返事を送る。きっと向こうでは満足げな彼がほくそ笑んでいるだろう。
『じゃあさ』
続けて返事がくる。不安な箇所の確認か。一度聞いたきりじゃ粗が見つけられなかったので身構えた。
『約束覚えてる?』
ドクン、と心臓が大きな音を立て始めた。あんな口約束絶対に覚えていないと思ってた。
でも、もしかしたら
『覚えてるよ』
すぐ様返事が来て肩が跳ねる。
『今から会える?』
返事もそこそこに私は上着とチョコレートを持って部屋を出た。
鐘の音にチョコレート 月並海 @badED_
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