第26話
シャーロックの頬に向けて振られた蒼月の右腕は、シャーロックの頬を殴れることなく、天井近くまで飛んでいた。
「は?」
蒼月はなにが起こったのか理解できなかった。
シャーロックは何かしたような素振りすら見せなかった。蒼月がストレートを放ったところから一瞬たりとも動いてないように見えた。
「うわああああああああああああああああああああああ!!」
蒼月の右腕が床に叩きつけられた瞬間、思い出したかのように肩から鮮血が噴き上がる。
「サヴァン因子を打たれたとしても、俺には助ける手段はある。だけどお前をもう戻せない」
シャーロックは床に落ちた蒼月の腕を拾い上げると、その腕が灰に変わる。サヴァン因子の過剰摂取により人から化物になりかけていた。
「フェーズⅢを超えた時点で、もう殺す以外の方法は取れない」
蒼月の肩から噴き出す赤い鮮血は、床に壁に天井に付着するなり灰になって落ちている。
「これはサヴァン殺し。フェーズⅢ以降になってないと機能しないが、その性能は見ればわかるか」
シャーロックが手に持っていたのはただのナイフであり、その刀身に塗布してある薬品が、サヴァン殺しと呼ばれるサヴァン因子の崩壊剤。触れるだけでサヴァン因子を崩壊させるものではあるが、ある程度進行していないと機能しないことがネックではあるが、進行していれば因子によって進化した身体が因子の欠落により原子崩壊を始める。
自分の腕が刎ねとばされた衝撃にではなく、自分の身体が灰になっていく恐怖で床にのたうち回る蒼月を傍目に見ながら、みこの拘束具を外しにかかる。
「あああ、死ぬのか? オレは死ぬのか? 助けてくれ。頼む。お願いします。お願いだから助けてくれ」
蒼月は死の恐怖からシャーロックの足元に縋り付き、許しを請うがシャーロックは蒼月の左腕を踏み潰し、灰にするだけで蒼月のことに興味を示さなかった。
「さて、剥がしにかかるか」
蒼月だったものを廊下の端に蹴り飛ばし、みこの拘束具を調べ始める。異常なまでに強固に頑強なものが使われていた。
「ずいぶんと面倒なやつを引っ張ってきたもんだな」
調べていくうちにみこの拘束に使われていたものは、かつて猛獣や被験生物を拘束するために使われていたものと同じような構造をしていた。
これは鍵が無いと外せないようなものではないが、適切な手順を踏まないと拘束がより狭まる仕様になっている。自力で開錠できないこともないが、この鍵に対する知識が無い状態でいじくれば、より強く絞まる性質で対象の抵抗する意思を削ぐのに適した鍵であった。
「待ってろ。すぐに外す」
まず足元の拘束具を数分で外すと、後ろに回り手錠をピッキングし、片方の手だけ先に動くようにする。そこを起点に胴回りの拘束具を外す。拘束具の大部分は外れたが、みこは動くような素振りを見せない。口に着けられた拘束具と目隠しを急いで外し呼吸を確認する。規則正しい呼吸音が聞こえ安堵する。
「おい。起きろ。おい!」
シャーロックは拘束具をすべて外し終えると、紫水みこの肩をゆすり起こす。
「……ん-? あれ。ここは、どこ?」
紫水みこの
「ここは旧真島研究所だ。お前は紫水真水に誘拐されてここに軟禁されていたんだ」
理解できないというように、首をかしげる。
「まさか、な」
シャーロックの嫌な予感が的中してしまった。
「わたしは、だれ?」
紫水みこは記憶喪失。いやサヴァン因子を取り込んだ結果、その前後の記憶が欠落していた。
「マジかよ。これは本格的に不味いな」
スマホを取り出し、和光へと連絡を取ろうとしたところで足音に気づく。
「おやおや、お目覚めのようだね。みこ」
ワットソンに任せたはずの紫水真水が階段を上り切っていた。
「ワットはどうした」
ここに真水がいることから、おおよそ察しはついている。ワットソンが紫水真水に負けた。この事実だけは予想がついている。問題なのは彼が死んだのか生きているのかだけである。
「ああ、あの犯罪者ですか? あれなら下で死んだんじゃないのかな?」
真水は興味なさげにワットソンについて答える。
(なら、確実に生きてるだろうな)
確実に殺したと言い切らないあたり、ワットソンの始末よりも、みこを回収することを優先したということだ。ワットソンが生きている可能性が高い。
「みこ。背中に乗れ」
「え?」
自分のことを呼んでいることはわかるようだ。
「いいから乗れ。あいつに捕まると死ぬぞ」
死ぬ。という言葉にビクッと身体を震わせ、シャーロックの背中に乗る。
「舌噛むから、喋んなよ」
みこを背負うと、そのまま一瞬で真水の横をすり抜ける。
目的地は突入の際にワットソンを残してきた部屋だ。この研究所の間取りをシャーロックはすでに把握している。
「アイツがいれば、真水を倒せる。だから生きててくれよ。ワット」
最短ルートではなく、紫水真水が移動するルートを妨害しつつ、一見どこに向かっているわからない複雑なルートを選びながらワットソンの元へ急ぐ。
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