春は未だ遠く
月並海
第1話
北の山から流れてくる寒気は、なけなしの体温を根こそぎ奪っていく。ボロ布は何枚羽織ったところで少しの温度も守ってはくれない。
夜の見張りもあと少し。幸いにも本日の前線基地では、夜襲は起こらないようだった。
視線は敵の来る方向へ向けたまま、ふうっとため息を吐く。見張りの緊張感は戦闘時とはまた違った種類だ。射撃のときはスコープの先の標的のみ一点に全神経を集中させるのに対して、見張りのときは全神経を薄く隅々まで広げているイメージだ。
その印象を一度だけ、見張りでバディになった後輩に伝えたことがあったが歩兵である彼には理解を得られなかった。
緩んだ緊張からくる眠気に脳を揺らされていると、背後の階段を上がってくる音がする。
咄嗟に、抱えていた狙撃銃から身体を離して足元のアサルトライフルを構えた。
カンカン……………カンカン………、微かな足音は確実にこの見張り塔の最上階を目指している。
足音は一定のリズムを刻みながら私のいる部屋まで上がってきた。
「せーんぱい!調子はいかがですか、ってわあ!びっくりするじゃないですか!」
間の抜けた語勢と共に様子を伺いに来たのは、本日の見張りのバディである後輩だった。
彼は驚いた、と口にはしつつも後ずさることも立ち止まることもなく、悠々とした足取りで私の隣まで近づいてきた。
「今のところ問題ないけど、夜明けが一番強襲の可能性が高いから油断はできない」
太陽が朝を伝えるとき。そのときが最も敵を襲うのに適しているというのはなんとも皮肉な話だと思う。
多くの兵士たちは寝起きで戦闘準備は出来ておらず、寝ずの番をしていた見張り達はあと数時間で眠れるという安心から緊張が緩む。
太陽から様々な恩恵を受けて営みを続けてきた人間たちが朝の訪れに安堵を覚えるのも、何ら不思議ではなくゆえにそこは戦略に組み込まれる。
双眼鏡で私が見ていた方向を観察した後輩が口を開いた。
「先輩知っていますか?この先には海があるんですって」
「知ってる」
「じゃあ波の音って聞いたことあります?」
今度の質問にはすぐに答えられなかった。聞いたことがないからだ。私たちの国には海がない。年中雪が降り積もる北の内陸国。海を求めれば周りの強国に阻まれる。それが私たちの国の歴史だ。この前線基地も海を求める戦いの一つである。
自分たちの海が手に入れば、国が豊かになる。短い夏には漁や交易ができて、長い冬にはそこで得た外貨や保存食で飢え死ぬ人もいなくなる。そんな夢をこの国の人々は毎晩見ている。貧しい小国にとって海は、何にも代えがたい心惹かれるものなのだ。
「……ない」
「やっぱり!俺も一度ラジオで聞いただけなんですけどね。ザザザザーって感じなんですよ」
ぺらぺらと調子よく舌を回す彼は、同じ時間だけ見張りをしていたとは思えないほどに活力あふれている。
「えーっと、この辺にあったはず」
そう言いながら後輩は弾薬やら色々入った倉庫に入って行くと、木でできた枠組みと薄いボロ布を持ってきた。彼は足元に転がっている錆びた釘と金槌で、器用にボロ布を木組みに張り付けていく。
「それは?」
「シードラムって楽器らしいんですけど。本で読んで。あっ先輩なんかいらない弾ありません?」
「その辺に転がってるのならぜんぶいらない」
後輩はいくつか弾丸を拾うと、木組みの片面にだけ張られた布の上に載せた。
「聞いててくださいね」
彼はそう言って、木組みを左右交互に傾かせた。ボロ布の上を狙撃銃の弾丸たちがスルスルコロコロと滑っていく。金属の触れる高い音と布が擦れる鈍い音は、ザザザザというよりはサラサラといった印象だ。
おしゃべりな後輩は黙って木組みを傾ける。私はそこから聞こえる音に耳を傾ける。
「本当は砂とか豆とかでやるらしいんで、もっとそれらしい音がするはずなんですけど」
「そうね。折角海に着いたのに弾丸がぶつかる音がするのは嫌だわ」
「それもそうですね!」
と後輩は笑って私の言葉に答えた。そうしてまた、黙って木組みを傾け始めた。
私はそれを聞きながら外を見た。空は白んできていた。冬は夜が長い分、夜明けが短い。目を離せば一瞬で様子が変わる。
見張りを交代する兵士が来れば私たちの今日の任務は終わりだ。
けれども、戦闘がいつ始まるかは分からない。やっと眠れたと思ったら戦闘準備に呼び出されることもよくある。安眠なんて夢のまた夢だ。
海を求める戦争は未だ終わりが見えない。春はまだ来ない。
けれど、寒い日ばかりでもない。冷え込む夜明けはその日が快晴になることを報せている。
太陽の光が見張り塔の部屋に差し込んだ。今日も朝がきた。
私は日の当たる窓辺に身体を預けながら、瞼を閉じた。寝入る間際まで波の音が聞こえていた。
見たこともない海の夢を見た。
春は未だ遠く 月並海 @badED_
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