19

喉がつぶれるまで歌い通した後、研究室に戻った。

一人研究室でパソコンと向かい合っている夢籐は、いつも通りヘッドホンを付けながら室内の電気もつけないでいた。

きっと俺が室内に入ってきたことにも気付いていないのだろう。

手早くコーヒーを淹れ、夢籐のデスクまで持っていくことに。

夢籐の視界に入るようにコーヒーをデスクに置くと、やっと俺の存在に気付く。

「いい助手を持つと研究にも精が出るってもんだよね~」

「俺に言われても…」

「あ、そうそう。見てよコレ」

「……、絵本?」

「二冊目なんだ~。それ」

少し大きめの絵本で、表紙に大きな字で『ゆめ旅行』と書いてある。

可愛らしい絵のタッチに、メルヘンな世界観…。

「誰が書いた絵本…、ってコレ…ッ!?」

「何を隠そう…、僕なのさ!」

「ふ~ん」

「うっすい反応だね…。記念すべき第二作なのに」

夢籐は、やれやれと肩をすくめながら本棚に直す。

そこ…、研究資料を置いてる棚なんだけど…。

適当なところに直すと、後で困るのは自分なんだぞ…。

「ん? こっちは一冊目の本か?」

「そう…、輝かしき僕の栄光だよ?」

「これ…、借りていいか?」

「君にならサイン付きであげちゃうよ?」

「いや、それはいらん」

「ずいぶんと遅い反抗期が来たもんだ!」

いい歳した男が、ふんだっ! とか言っているんだが。

ちょくちょく夢籐のキャラがブレている気がするが…、まぁいいか。

今はこの絵本に、俺史上最高に興味が惹かれている。

これもまたメルヘンチックな世界観で、御伽話より御伽話。

絵のタッチも柔らかい雰囲気で描かれていて、とても夢籐の監修とは思えない。

だが、『作者/絵』の後には夢籐の名前が続いていた。

「……」

絵本をじっくりと一ページ一ページ読んだのはこれが初めてかもしれない。

ページ端まで描かれている絵を、くまなく。

…。

……。

「…ふぅ。なるほどな」

「僕の絵本で何か学んだのかい? 偉大な先生は目の前にいるっていうのに」

「あ、あぁ。…二、三聞いていいか?」

「それじゃあ…、おかわりを所望するよ」

丁度空になったカップを、今どきの若者もしないウインクしながら、俺の前へと差し出すのだった。


いつも通り、背の低いテーブルを挟むように腰を下ろす。

夢籐はおかわりを飲みながら、二冊の絵本を交互に流し見ているあたり、飲み終えるまで待てということだろう。

やっとカップをテーブルに置くと、夢籐はおもむろに口を開き始める。

「ん~~で? この本がどうしたんだい?」

「これを書いたのは、夢籐で間違いないか?」

「あぁ。間違いないよ」

「ってことはやっぱり…。このお話は研究結果を基にしたもの…、で合ってるよな?」

「憶測や予想の範疇でことを語るのは、研究者としては下の下の三流のすることだよ? 僕がそんな人間じゃないのは誰よりも君が知っているだろうに」

はっきり答えてくれないが、これは「イエス」ととって問題ないだろう。

であれば、聞きたいことをズバッと切り出していいはずだ。

「じゃあ…、これが本題なんだけど。…俺に、『獏』について教えてくれないか?」

「まさか皇輝君……。ひょっとして君は………、影響されやすい?」

「茶化さなくていいから」

「も~。可愛げのない…。まぁ、そんなところが可愛いんだけど」

どっちなんだよ。とツッコミは入れてやらない。

俺は、いつもより真剣なのだ。それを感じ取ってもらわないと…。

「君はズルいね。そんな目で見られると、折角僕の作っている和やかな雰囲気がアウェイになっちゃうじゃんか~」

「わりぃ。アウェイなんだ」

「わ~かったよ、もう…。僕の研究で知り得た知識を、…君に教えてあげるよ」

夢籐は読み聞かせをする要領で絵本を開き、一ページ、一ページ解説を入れていく。

…。

「コイツは普通、〇を食べる生き物で…」

…。

「世界を旅して…」

…。

「一説では、〇を司る神として…」

…。

……。

一冊の絵本の解説は一時間を余裕で超え、三時間弱が過ぎていた。

夢籐は自分の研究結果ともいえる話ができること。

俺は知りたいという欲求からくる集中力。

二人共、たった一冊の絵本の内容に三時間ぶっ通しでもまだまだ余裕だ。

「それが…。コイツの正体…、ってわけか」

「僕の研究が本当の意味で正しければ…、ね? …にしても、君とこうして討論ができる日が来るなんてね。お父さんは嬉しいよ」

「俺はほとんど聞き専だったけどな。……なぁ。前から聞きたかったんだけど、今何歳なんだ?」

極めて素朴な疑問。そして今までの話とは全く別ベクトルの質問。

今までそんなことも知らずに関わっていたのかと言われるとそれまでなのだが、実際の年齢を本当に聞いたことがない。

普段から自分のことを「お兄さん」とか「お父さん」だとか言っているが、容姿はどちらでも不自然ではない。

だが、この絵本の初版。その日付を見ると些か疑問に思うことが…。

「俺の兄にしてはその…、いい歳だろ? どっちかっていうと父さん寄り…」

「明言は控えとくよ。トップシークレットだからね。…だけど、そうだね…。君のお父さんとは同じ志をもった研究者同士だった。とだけ言っておこうか」

「えっ……。俺の父さんが…、研究者!?」

唐突の告白に驚き、腰が浮く俺を見て夢籐は大きなため息を一つ。

そして一冊の本を本棚から取り出して、テーブルの上に放り投げる。

この本。確かに何回か見たことがあるが…、これがどうしたっていうんだ…?

「君のお父さんは脳科学の第一人者といっていいほど優秀で有名な人だよ。ほら、その本の最後のページに載っているけど…、まさか自分の息子に何も話してないとはね」

俺の事故の後も、ろくに顔も見せなかったあの人が…。

とはいえ、顔もちゃんと思い出せないほど記憶にないのだが。

「本当に…。無鉄砲な男だよ。正直、そういうところが気に食わなかったんだけどね」

「もっと具体的に頼む! 父さんは…、今どこで何してるんだ!?」

「本当に知りたいのかい? それを」

「だ、ダメなのかよ?」

しばらく沈黙だった夢籐だったが、またため息を一つすると「嫌な役をさせるね…」と小さな声を零し、俺に向き直る。

「君のお父さんは…、亡くなったよ。ずいぶんと前に」

「なっ……。……そうか」

「泣いたり叫んだりしてもいいんだよ? 肉親の死は特に人の心を乱す……」

「泣かね~よ。顔もろくに思い出せないし、母さんを一人にした人間なんて…」

これは…、本音。

母さんが身も心もボロボロになっている間も、ずっと一人で海外を飛び回っていたいい加減な人に涙なんてない。

それに…。今は本当の父さんより父さんしている人がいるし…。

「皮肉にも…。君のお母さんを救おうとしていたのが、君のお父さんなんだけどね」

「…それって?」

「君のお母さんは、先天性の脳の病だった。そこに君の事故のショックで、それこそ起き上がることが困難なほど脳に深刻なダメージを負った。なのに彼といったら…、身内の不幸の立て続けにも臆せず、ずっと君のお母さんを救うことだけを考えて…。きっと君の顔を見に行ったのも、ひと時の休息なんかじゃなく、身の安全を確認しただけなんだと思うよ。『息子は大丈夫。次は妻だ』なんてね」

言葉が…、出てこない。

母さんを放って、俺を放って、一人黙って研究を続けて…。

ずっと、愛した人間を救うために。

じゃあなんで…、俺に何も言わなかったんだよ?

少なからずこの本には、数年前まで生きていたって書いてあるのだ。

大学生にすでになっていた俺に、顔すら見せないなんて…。

「いい加減な男だろ? 好きな女を救うために、息子をも存外にしてまで研究に明け暮れて。そしてのし上がったんだ。本物の研究者に。だけど…、君のお母さんを治す手立ては終ぞ見つからなかった。君や君のお母さんには悪いけど、正直ざまあみろって思ったよ。やっと躓いてくれたんだから」

珍しく自分の感情をあらわにする夢籐に言葉が出ない。

「目的や目標は違えど、君のお父さんとはライバルだった。差は開くばかりだったけど」

その目、その口からは父さんへの悪態が募る。…募る。

「僕はずっと及ばなかった…。ずっと…、嫉妬していた。彼の才能に。彼の執念に。彼の…、信念に」

まるで自分を皮肉るように。自分を責めるように。

…でも。と夢籐は続ける。

「君を見ていると思うんだよ。君も僕を超える優秀な研究者になるかもって。そんな君の成長を傍で、この目で見られることは僕にとって凄い経験なんじゃないかって…、ね。君を任されて、よかったよ」

「任すって…?」

「君のお母さんだよ。君の入学が決まった途端に連絡が来てね。多分、君のお父さんと関りがあったことを知っていたからじゃないかな?」

あぁ。そういうことだったのか…。

今の夢籐はもう覚えていないが、ずっと俺のことを支えてくれていたのは他でもない夢籐だった。

時には、兄らしく。

時には、父らしく。

他者を受け入れることも、みくとの関係のことも、ずっと夢籐がいた。

…そうだ。夢籐は兄以上に、父以上に俺のことを……。

だから…、夢籐には言わなければならないことがある。

「俺にとって、夢籐は父親同然だ。たくさんのことを教えてくれたし、ずっと手放さずにいてくれた。それに、夢籐は俺の目標なんだ。脳の研究かなんかしていた父さんの道は、俺の中にはない。俺の追うべき背中は夢籐であり、そんな『父さん』を持てて…、感謝してる。……あんがとな」

今の今まで言ってこなかった、俺の夢籐に対する思い。

生きる道をみくが与えてくれたのなら、生きる術を教えてくれたのは夢籐だ。

心の底からそう思う。ありがとうって…。

そんな俺の台詞に目を点にしている夢籐。さすがに何か言ってくれないと空気が…。

「あ、あはは…。君の口からそんな台詞が聞ける日が来るなんてね…。……、目から汗がっ…」

「え? 泣いてんの? あの夢籐が!?」

「…五月蝿いよ。僕も一端の人間なんだから泣く…、って汗だって言ってんでしょ」

「ほうほ~う。科学的に考えて、目から汗って出るもんなんですかぁ??」

「僕の分野外だから一概に否定できな…」

「あ、逃げんな!」

最後まで言い終えずに部屋を後にする夢籐。

一度も俺に顔を見せることはなかったが、どこか嬉しそうな足取りではあった。

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