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俺は小学三年生以前の記憶がない。なんでも、車に轢かれそうになった女の子を庇って撥ねられたらしい。
事故を起こした運転手はちゃんと逮捕され、単なる交通事故として警察もメディアもすぐに別の事件を追ったらしい。
後付けで聞いた話でしかないから、らしいとしか言いようがないのだが。
「医者の懸命な治療のおかげで、俺は死なずに済んだ。まぁ何度も心臓が止まっていたらしいけど」
「そ、そんな事があったんだね…」
「そもそも、その事故で俺は死んでいてもおかしくなかったとかも言われ……ッ!?」
なんとみくは、自分の事のように辛そうにうなだれながら目尻に涙を浮かべていた。
なぜだろう。その涙は同情でも、哀れみでもない。特別な意味が籠っている…、そんな気がしてくる。
それに何か続けなければと焦るみくは必死で言葉を探している。
「ご、ごめん。…そんなに気にしないで?」
「う、うぅん。…その後、ご両親とは?」
「父さんは海外で飛び回ってて、事故の後に一回だけ俺の顔を見に戻ったきりだって。母さんは事故のショックで寝込むようになって、今はばあちゃん家で暮らしてる」
「そっか…。なんか、私の方ばっかりいっぱい聞いてごめんね」
「いいって。こんな話になるとしょうがないよ。それに女の子は怪我もしてなかったらしいし、俺も今の生活に不満とかないから。だから…、ありがとう。こうやって俺の境遇を話せる人が身近にいるのは、だいぶ救いになるから」
そんなカッコつけた台詞を聞いてか、優しい笑顔に戻ったみくは今度はじっと何か言いたそうな顔を向けてくる。これは切り出して良いのか迷っている…、といったところだろうか?
これは、俺から話さないと話が進みそうにないのかもしれない。何を聞かれるのかは、大体想像できるから余計に。
ここまで話したら隠す気もなくなるというもの。別に隠すほどの話ではないし。
と、ここで注文した飲み物がテーブルの上に来た。
みくは話しはしたいが注文したものが飲みたくて仕方なさそうなので、先に飲み物に手をつける事に。
「「ゴクッ…、ゴクッ…、ッハ~!」」
二人の飲むタイミングが見事に揃い、それが可笑しくて思わず笑みが零れる。みくと一緒に笑うこの瞬間、たまらなく楽しい。
えっ? 待て待て。……、もしかして…。
「ねぇ…、さっきの続きなんだけど…」
もう飲み終わったのか、みくの声で俺は現実に引っ張り戻される。
さっき脳裏をよぎったもの…。うん。気のせいにしておこう。
「うん。記憶がないのにどうして平気? とかだよね」
「う、うん」
「う~ん。どこから話そうか…。ん~。まぁ最初からするか…」
それが始まったのは事故の後、病院で目覚めてから大体一週間後くらいから。
―知らない『白い街』―
この夢を見始めてから、実は少しずつ断片的にだが記憶が戻り始めた。
事故より前のことは全く思い出せないのだが、事故の直前と直後は時間とともに思い出してきた。ほんの僅かずつだが…。
だが問題はこの夢だ。ただ真っ白の街だけではなく亀裂から始まり、やがて崩壊していく。
底は何もなく、光の一筋も通らない暗黒の世界が広がっている。
抵抗虚しくまっ逆さまに落ちていく。かといって、それを防ぐ方法もわからない。
ずっと何十年も見ているにも関わらず…、なのだ。
でも、必ず助けてくれる手がある。しかも毎回。助けてくれるといっても夢の中でどうこうではなく、底に至る直前に目覚められるだけ。
それだけでも十分、いや、かなり助かっているのだが。
そんな手の温もりに包まれながら朝を迎えると、不思議と安心感があった。
「丁度…、この瞬間みたいな…って、何言ってんだ。俺……」
「……」
少しぎこちない空気になってしまった。今のはさすがに…、失言が過ぎたと思う。
みくはしばらくの間、何か考える素振りをしていたが、俺が再び口をつけたカップを離すのを確認すると、腕時計に目を落とす。
「え、もうこんな時間!? 色々とごめんね!」
ぺこっと小さく頭を下げる。多分、お開きのタイミングを見計らっていたんだろう。
「うぅん。今日はありがとう」
二人同時に席を立ち、会計に向かう。
みくの手には、みくらしい可愛い財布が握られている。
確か結構前に、大空が「女子と食事とか行ったら、男がバシッと払うんだぞ!」とか言っていた気がする。実際、二人分の飲み物代なんてたかが知れているのだが…。ここは男らしく言うべきではなかろうか!?
「こ、ここは払うから、先に出てて」
「えぇぇ~、そんなの悪いよ~」
「いいって、二人分くらい男にもたせてよ」
「う~ん…。そこまで言ってくれるなら…」
「うん。ちょっと待ってて」
「分かった。外いてるね」
そう言って、財布を鞄にしまいながら店のすぐ外で待ってくれているみく。
わざわざ蒸し暑い店の外で待たせているので、早く会計を済ましたい気持ちが強かったが、会計に少し時間が掛かってしまった。
「ごめん。待たせたね」
「いえいえ。ご馳走様です。お会計、混んでたもんね」
混んではいたけど、例の台詞を言えたことで頭がいっぱいだった俺が、小銭をトレーの上にぶちまけた話はしないでおこう。
「それにしても、さすが人気店…。行列がすごい」
「そ~だよね~。早めに来れてよかったよかった」
それでも二人で来た時は十分ほど待った方なので、本当に早く来れてよかったと思う。今は何と、待ち時間が一時間ほどあるらしい。
「じゃあ、駅まで送るよ」
「ふふっ。ここがその駅の近くのカフェだよ?」
……穴があったら入りたい。恥ずかしすぎる。
「あ、あぁ~そっかそっか。駅前人気店だったね。…この店もそうだけど、駅の方に基本来ないからなぁ…」
「いつも一緒にいる神井君と来ないの?」
「あいつは俺ん家でコーヒーとか勝手に飲んで勝手にゲームしてるから、家からほとんど出ないなぁ」
「あはは、仲良いんだね」
「腐れ縁ってやつだよ」
「なるほどね。……それじゃあ、私はここで」
「うん。ほんと、今日はありがとう」
「こちらこそ~。またね~!」
二回ほど振り返り、手を振りながら駅の階段を駆けて行くみく。
ではこれから家路を…、といきたいところなのだが、残念ながら大学にとんぼ返りだ。
例の先生に会いに行かなければならない。それだけで凄く憂鬱になる。
「学校には七時に…、ってあと五分!? 間に合うか…?」
ギリギリ間に合わないかもしれないが、ちょっとくらい遅れても何も言ってこないだろうと思いながら歩を進める。
だが、あることに気付いた足がぴたりと止まった。それは頭の中も同じように、それ以外の全ての思考を停止させた。
――――みくって大空を知ってるのか?
まさか、みくの口から大空の名前が出てくるとは。
一方の大空の口からは、みくの名前を一度も聞いたことが…、ない。
記憶がない間に俺と何かしらの関係があった人は、記憶を取り戻すにあたって結構重要な人物になりうると医者が言っていた。
まさか大空は、みくの存在を隠していたのか…? いや、そんなヤツじゃないことはこれまでの付き合いで十分知っている。
もしかしたら、みくが大空のことを一方的に知っているだけの可能性だってあるだろう。
……。
…じゃあ、なんなのだろう? この心の端っこの方にある違和感は…?
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