第15話 不運君⑩
一切の躊躇いもなくチャイムを押す。中から「はーい」と再び声が返って来る。
僕は今どんな顔をしているのだろう。
ドアがゆっくりと開くと同時に背中の包丁に手を掛ける。
僕は微動だにせずに相手を見据える。相手もこっちを見つめている。
少女だった。妹よりも遥かに幼いが一人でドアを開けて訪問客に応対しているので小学生にはなっているのだろうか。
相手は黙ったまま僕を見つめている。僕は何も騙らずにそのまま中に入ろうとする。
「○○ちゃんお客さんはどなただった?」
心配になった母がドアを開けてこちらを見に来る。夕食の準備中だろうか?カレーのスパイスが鼻をくすぐる。
「貴方は、、、」力なく腰から地面に着くと初めて見る顔をしていた。
僕の人生で一度も見た事が無い。それは一体どういった感情でそのような表情になるのだろう。
喜怒哀楽、悟り、諦め、贖罪、そのどれもが該当するとは思えなく、今すぐにでも爆発してしまいそうなぐちゃぐちゃな感情に顔は表情を出すことが出来なかったのだ。
僕は傍らの少女を一瞥することも無く、その辺の道を散歩するように鼻歌と共にゆっくりと歩いていく。
悪くない人生だと思えた。このままそこの花を摘み取って、そこでゴールだ。これでやっと自分は生から解放される。
「一歩進んでは母の為。一歩進んでは妹の為。一歩進んでは我が為に。この身が既に悪鬼羅刹なり、徒労に終わろうが、ここに事を為す。意味など必要ない。さようならお母さん地獄で」
包丁を振り下ろす。
確かな衝撃が伝わる。
人の肉は思ったよりも固いのか、先に進まない。力を込めても、恨みを込めても進んでくれない。
不思議に思い自分の手を見る。手が脳の命令を無視して進んでくれないのだ。或いは命令しているのか。
寸での所で包丁は止まっている。
あと一押し誰かが押してくれれば殺せるのに。金縛りにあったように僕の身体は動いてくれない。
少女は声も感情も発さずただ見ている。
近づいたせいで母の呼吸が伝わり聴こえてしまう。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・」
その言葉を聞き走馬灯のようにフラッシュバックする。辛かった日々が、死にたい自分が。
「うぉおおおおおおおおお」
一押しは叶った。全身で包丁を押し込む。
「うぉおおおおおお」
ドアの奥の母の背後から獣のように唸り声を上げ跳び掛かってくる男に吹き飛ばされる。
包丁が落ちる。
壁に背中と頭を打ち呼吸の仕方を忘れる。だが目は瞬きもせずに獲物を捉えている。
男は落ちた包丁を右手に持ちこちらに向けてくる。
「来るなぁ!武器は俺が持っている」
殺し合いの最中に何と悠長な、お陰で息が整った。
何の戸惑いもなく走り出し男に跳び掛かる。
怯んだ男を押し倒し、拳を放つ。
人の身体は硬く殴った方もただでは済まないが拳が壊れようがどうでも良かった。
放つ、放つ、放つ。
スーツの男は包丁を握ったまま拳が開かない。無理もない、正常な人間は包丁を振り下ろせずに身体が硬直している。
包丁を奪おうと握っている指に力を込める。
包丁に注目している隙をついてスーツの男は顔に向けて頭突きを放つ。目は包丁から離さなかったが鼻を打たれ涙と血が溢れ出る。
それでも変わらずに包丁を奪おうとすると、左から拳が飛んで来て頬とこめかみの間を打たれ目を離してしまう。
意識が何コマか失っている間に身体を反転させ逆の態勢になった。
同じ事を今度は僕がされる。
拳が放たれる。放たれる・・・
僕は下から相手の喉に左手を伸ばし締める。人間は咄嗟に首を絞められるとその手を解こうと掌を開き、締めているモノを無意識に掴む。
その隙を衝いて右拳を耳の上にぶち当てる。
「ぐうぅ」
左手は喉を締めたままなので男の声にならない音が零れだす。
やっとの思いで喉の手を引き剥がすと、今度はスーツの男が両手で僕の首を締めようとしてくる。
僕はその手を掴み噛み付く。施設で覚えた技だ。力のある無しに限らず、歯は一番硬い素材で出来ているのだからひとたまりもない。
「ぐぁああああ」
男が痛みで身体を起こすと、バランスが崩れた身体は簡単に押し飛ばせた。
男は噛まれた自分の手を見た後にこちらに敵意の眼差しを向けてくる。そして僕の右手を見てハッとする。
包丁を握っている。
首を絞められた際に無意識に手を放してしまったのだろう。
僕は母に跳び掛かろうとする。
少女が現実を思い出し、サイレンのように喚きだした。
ビクッと硬直した後、聞きつけた人が来たらマズいと考え少女を捕らえ、包丁を向ける。
少女は一時停止した映像のようにピタッと止まる。大粒の涙を除いて。
「やめろぉっ!」
スーツ男は吼えている。僕は手に力を込め首筋に包丁をくっつける。
三すくみの状況が出来ていた。
お互いに身動きが出来ない。僅かな一挙手一投足も見逃せない。
永遠に続く沈黙。
しかし思いがけない福音が耳に訪れる。
「その子は貴方の妹よ」
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