第5話 追憶
懐かしい声が聞こえたからだろうか?
僕には幼い頃から将来を誓い合った女性がいた。
親の都合上、日本中を転々とする人生ではあったが、その幼馴染には必ず年に一回は逢瀬を重ねていた。
綺麗な人だった。何故僕を将来の伴侶に選んだのかは未だに分からない。今となっては知る術もないからだ。
結論から言うと幼馴染は高校に入って直ぐに、自宅で首を吊って死んでいた。
自殺者に限らずに死人の顔は大抵は歪んでいて、生前との乖離に遺された者はパンドラの箱の憂鬱に惑うことになる。
最後なのに、忘れたいのに、刻みたいはずなのに、見たくないのに、後悔したくないから見てしまう。今際の生に彼女は何を思ったのだろうか?
僕はパンドラの箱を開いてしまった・・・彼女は・・・彼女の顔は
笑っていた。
まるで、死んでいないかと錯覚するようなその顔に、死ぬ瞬間に笑顔になるという行為に僕の心は少しおかしくなっていた。
どうして笑っていたかについて遺された人達は様々な意見を聞いたが、大抵は苦しさから逃れられる事に、終わりが迎えられる事に喜んでいるという意見が大半を占めていた。
頭では納得していた、口ではそれに反論し続けていた。彼女の死んだ理由なんてどうでも良かった。僕が生きる理由になれなかったのが、悔しかった。
僕は、、、彼女と一緒に死にたかった。
彼女のプロポーズの言葉が僕の全てだった。
「世界で一番幸せな二人になりたいわけじゃない。でも世界一不幸になっても一緒に歩いてくれる?」
僕はすぐには「YES」と答えられなかった。
嫌だったからではなく、その言葉が僕の全てになると確信があったからだ。その重さを一時、噛みしめながら
「どんなに不幸でも一緒にいるよ。でもなるべく幸せな人生が送れるといいね。」
そんな言葉が幼い彼女から溢れてきた時に気付くべきだったのかもしれない。ギリギリだったのだ。自分が今、生きているのか、それとも死んでいるのか。
その頃には彼女には絶望という名の「死に至る病」の末期症状が出始めていたのかもしれない。
死に至る病とはキルケゴールが唱えた、"絶望"が人を殺すという事である。
『人間は精神である。だが、精神とはなにか。精神とは自己である』
人間自身を定義づけるのは、絶対なる己という存在を確固しなければならないとキルケゴールは考えたのだ。
人間は一生を絶望と共に過ごす事になり、生きていくという事は絶望に向き合っていく事なのである。
失敗した自分を、自暴自棄になっている自分にしっかりと目を据えないといけない。それこそが自分自身であるからだ。
僕は幼馴染の死を最上の絶望と定義づけた。僕にとってこれ以上は無い。絶望も愛と一緒で不可算名詞であるから、元々比べることなど出来はしないが、僕は死に至る病に罹っている自分に目を向け、この絶望に向き合う事を決めていた。
もう少し生きてみることに踏み出した。
葬式は酷くこじんまりと行われた。まるで葬式をする事が恥ずかしい事で在るかのように。
「まさか自殺するとはね?」
「何か前兆とかあったのかね?」
心無い言葉が宙に浮かんでいる。
「喪主も家族も偉いね。凛としているよ」
「最後に笑顔で死ねた事は良かったのかもね。〇〇の最後にほんの少しの救いはあったのかも」
早く葬式が終わって欲しかった。拳は震えていた。
僕は〇〇の両親を見た。肚を割って話した経験は勿論ない。元より娘の友人の一人に対して特別な思い入れなど有る筈が無い。
相手にとっては子供で、本心で話す必要もない存在だったろうから、正直何を考えているかも分からない。
だが両親の顔を見て私は会場を後にした。
両親も遺族も誰も泣いてなど居なかった。それどころか足を運んだ参列者に僅かにでも笑みを返していた。心無い人だとは思わない。
その選択の本心を知る由もないのだから。ただほんの僅かでも泣いてくれたら、失った痛みを伝えてもらえたら僕はもう少しまともなスタートが切れただろうに。
僕の心は知らない内に壊れていた。
何故彼女は僕にあんな言葉を投げ掛けたのだろう?
絶望に染まった身体を少しでも薄めるための水としての役割を求めていたのだろうか?それともただの気まぐれだったのだろうか?
或いは自分という存在を誰かに忘れて欲しくないという一心で、僕の心に無理やりにでも居座ろうとしたのだろう。人を人たらしめている者、それは記憶だ。彼女にとって忘れらるという事は、死ぬことよりも辛い事だったのだろう。
お互いの事は殆ど理解しているつもりだった。本当につもりだった。僕たちは何かの拍子に、ついでにふと死ぬ事が有っても後悔しないような気持が常にあった。
常に自分が死ぬイメージが頭の中にあった。外に出れば、トラックに潰され、乗り換えの電車に飛び込み分断され、高い所から蝶の様に舞い芋虫の様にのたうち回る。服に火を着けて踊り狂い、首に刃を立てて赤い線香花火が墜ちるまで花を咲かす。
あんな笑顔を僕は見た事が無かった。
あの笑顔を見てからの僕は居ても経っても居られなかった。日常に組み込まれていた弱い者を嬲る行為、なぜ自分なのかと分からない不条理にお互いの心はとっくに擦り切れていた。
チャンスが舞い降りて来てしまったのだろう。自宅で死んでいたことから家族の誰かに助けを求めたが、望む答えも、欲しかった麻酔も与えられなかったのだろう。
絶望が最後の一滴に満ちて零れてしまった・・・彼女の笑顔は精一杯の恨みを込めて遺された者にじわじわと回る毒の不条理を与え、歴史に残る偉人の様に忘れる事も叶わない。
僕にとっては・・・彼女が全てだった。
彼女さえそこに居てくれたら生きていられたのだ。人に生殺与奪を任せている時点で情けないが、僕にはそうする以外生きられなかった。
チャンスは舞い降りた・・・
「どんなに不幸でも側にいるよ。一緒に歩こう」 僕の首を彼女の両手が包み込む。
「遺書、渡せなかったな」
「ええ、、、でも知らない方が幸せな事もあるのよ」
「俺達は親失格だな」
「〇〇は本当にギリギリを生きていたのね・・・文字通り、一言のミスも許されなかった。でもそれは貴方だけじゃない。誰だってそうよ。」
遺書
『親愛なる婚約者様へ
先立つ不幸ごめんなさい。今まで本当にありがとうございました。貴方はどう思っているか分かりませんが、私は貴方が居てくれたお陰で、今日という日まで生きて来れました。信じられないかもしれませんが、私は何度も死のうとしました。でも同じ様に苦しんでいる貴方がまだ足掻いているのを見て、私はもう少し、あと少し生きてみようという気になれました。だから、心にちゃんと余裕があったら本当にこんな結果が自分でも許せないと思います。私は、、、私は貴方と一緒に笑顔で死にたかった。そしてこれは、本当にいつもワガママばかりでごめんなさい。一人は寂しいです。でも待っています。貴方が来るのを私は最高の笑顔で』
「見せられる訳ないのよ、こんな甘すぎるラブレター・・・」
何故こんな、まるで自分の半身を失ったような痛みを思い出せなかったのか。
今は多分後ろから殴られたのか、後頭部のたんこぶが本当にエグい痛さだが、ゆっくりと息を吸い、未だに自分の首にある残像を振り払い、大きく息を吐き切る。
私は初めて呼吸の仕方を会得したように鼓動が噛み合う。
何故忘れていたのか?
ただ一つ言えるのは私は生きている。ここに私は立っている。
歩き出さなければ、この連中の中に”殺人鬼”が居る。人がどんな想いでここに立っているのかを嘲け笑う人でなしが。
まるで10年ぶりに薬無しで眠れて、心地良い夢を見ていたのに、凍える冷水を全身に浴びて、飛び起きたみたいに最悪な目覚めだ。
死体は消えていた。犯人が何処かに隠したのだろう。
俺に止めを刺さなかった事を必ず後悔させてやる。
私は後頭部のエグい大きさのたんこぶを摩りながら、更に大きな決意を秘め、皆が集まっている場所を探す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます