第13話:迷走の末に(下)

始業時刻も間近となると、にわかに騒がしさに包まれ始める朝の教室。僕は文庫本を広げていつも通りの振りをしながら、実のところは、もうじき彼女がやって来るであろう隣席を常に視界の端に収めてその様子を伺っていた。


人の気配が近づいてきて、僕の体に力が入る。


ドサリと隣席に荷物が下ろされ、イスが引かれる。青いラインの入った上履きとそこから伸びる白いソックスが机とイスの間へ滑り込み、その腰がスルリと座席上へと落ち着いた。


声は、やってこない。視線も感じない。その人物は席に座ったまま、黙々と荷物の整理をしているようだった。


そのことに僕は驚き、同時に、昨日聞いた話が全くのデタラメでなかったことに落胆もしたのだった。


もしも、勝気に笑っていた彼女の言うことが真実だったのだとしたら、僕は困るのだ。





「百恵はさあ、すぐ調子に乗るから。小瀬君迷惑してるでしょ」


自販機でスポーツ飲料を購入した小柄な女子生徒は、すぐ近くのベンチに腰掛けながら僕に語り掛けた。わざわざ僕が座りやすいように端に座ってくれているというのに、コーヒー飲料を購入した姿勢のまま動けず突っ立ったままの僕は、なぜか視線だけをその空いた空間に向けながら会話に応じている。


「いや、まあ……してますよ。そりゃあ」

「素直! 敬語!」


何がそんなに可笑しいのか、膝を叩きながらカラカラと笑う。やはり、彼女のような人種は苦手だと僕は思う。何が楽しくて、好きで、嫌いで、何を目的に生きているのか、理解に苦しむ。


若狭百恵だってそうだ。奴は間違いなく、僕とは別世界に生きている。だから、そんな異邦人との関わりを断つにはどうしたらよいのか教えてくれることを期待して、僕は彼女と話しているのだ。


「百恵とは中学校から同じなんだけど、人の事情も考えずグイグイ来るくせに、それで失敗したらめちゃくちゃヘコむから面倒くさいんだよね。今日の昼もウザいくらいに落ち込んでたし」


なのに、彼女の口から語られるのは、知りたくもない「そっち側」の事情だった。そんなことを、今ここで僕に明かしてどうしようと言うのか。


僕は不安になった。目の前でさも愉快そうに語る小柄な彼女が、一体何を思っているのか、その得体の知れなさが不気味だった。


逃げ出したくなった。だけど、手に持っているコーヒー飲料はまだパンパンで、彼女の方が飲み終わるのにもまだ時間はかかりそうだった。今この場を去るのに明らかに不自然だ。


そんな風に決断を渋るのが良くないことなど、分かり切っていたというのに。


「だからさ、小瀬君。ちょっと百恵にお仕置きしてやってくれない?」

「な、なん……?」


握りしめたままのコーヒー飲料がどんどん温くなっていき、早く飲みきってしまったらよかったと後悔する。決断は、さっさと下した方がいいに決まっている。何事も。





二時間目の授業は日本史だ。鎌倉時代の社会情勢について、教師が図に示しながら説明している。


僕は歴史の授業が好きだ。もう終わった過去の物である歴史は、全て事象の関係性から説明することができる。全容が開示され、その全てを手中に収めることができる感じと、どこか物語性を感じることのできる歴史の流れが、僕の感性を大いにくすぐった。


ポイントだと思われる部分をノートに記述し、更に自分でも補足していく。こうやって紙の上で、時代を体系立てていく作業がたまらない。


こんな風に教師の話と板書に集中することができるのは、隣の席が異様なまでに大人しいからだ。


まるで人が変わったようだった。


話しかけてくることも無ければ、こちらを見てくることも、ましてや手紙を投げてくることも無い。ちらっとだけ視界に映って見えた横顔は、まっすぐ前を向いていて、何かを企んでいるような様子もない。今日の若狭百恵は、至って平凡な良き隣人であった。


これで良い。これこそが、本来あるべき平穏な高校生活というものなのだ。


再びノートに目を落とし、歴史の流れを綴ろうと紙面上にペンの先を置く。


ふと、宮崎朝陽が昨日言った言葉が脳裏にちらついた。


『小瀬君、さんざん百恵にやられたんだからさ』

『やり返したっていいんだよ。』

『それが百恵のためにだってなるし』


呆れたように、馬鹿にするように、心配するように、記憶の中で語る彼女。


…………断る。


優しいその声色と表情へ、僕は首を振る。


やはり、彼女たちと僕とでは考え方から違うのだと、心で笑う。


自分の満足のために、人に迷惑をかけようだなんて、僕は天地がひっくり返ったって思わないのだ。だから、若狭百恵が大人しくなったのなら、もうそれでいい。


僕と彼女の関わりは、今この瞬間に断ち切られたのだ。


決意を込めて、ノートに縦線を大きく引こうと指を伸ばす。


シャッ


引かれた仕切り線に僕は満足して、ノートの続きを書こうとペンを握り直した時だった。


「若狭、答えられるか」

「はいっ……」


教師の突然の指名に、彼女だけでなく教室中が驚きの表情で顔を上げていた。何事かと板書を見ると、教師は空欄となっている鎌倉時代の仏教名の部分を指して、若狭百恵をジトっと見つめていた。


完全な不意打ちだ。彼女が何かやらかしたのだろうか。ノートに没頭していた僕に知る由は無い。


教師の方を向く若狭百恵の雰囲気はどこか虚ろで、所在なさげに手が閉じたり開いたりしている。どう見ても答えられそうな様子ではなかった。


教室が重たい空気に包まれる。彼女が立ったまま、もう一分経ったのか、まだ10秒ほどしか経っていないのか覚束ない。


僕は自分のノートを見た。なぜだろうか、なぜかそこに書かれている、鎌倉仏教の一覧表。思い出されるのは、つい先日彼女に数学の答えを教えてもらった時の、腹の立つニヤケ面だった。


……今日だけだ。


隣の席から見えるようにノートをずらし、小声すら出せない沈黙の中、何とか若狭を振り向かせようとペンを伸ばす。


服の袖を掠めるぐらいにするつもりだったのに、彼女が急に動いたものだから狙いがそれた。


その腰と脇の間位に、ペンの尻がぐさりと刺さる。ずっしりとした柔らかい感触に、反射的にペンをしっかり握って耐えてしまった。


「わきゃっ!?」


変な声を上げる若狭百恵。


しまった。


教室中から刺さる、視線、視線、視線。教師はもちろん、生徒たちも、新橋も、その隣の玉川さんも、全員が僕たちを呆けた顔で見ていた。


「……何やってるんだお前達」


もう完全に教師にもバレているが、ここまで来たらやり切るしかないと、彼女に向かって必死にペン先でノートを示す。


なのに、いつまでたってもアイツは答えを言わなくて。不思議に思って顔を上げると、そこにはノートではなく僕の顔をただじっと驚きの表情で見つめるアイツがいて。


「…………!!」


その表情が、見る見るうちに赤く、喜色に満ちていくのを僕は見せつけられてしまったのだ。


……違う、違うぞ。僕のこれは、違う。お前たちがしてきたような……お前がするような迷惑行為とは違う、必要だったことで、ただ借りを返しただけのことなんだ。


そう伝えたくても、当然授業中。言えるはずもなく、僕から顔を逸らした若狭百恵は、上機嫌のまま教師へこう言い放ったのだ。


「分かりません、いきなりだったので!」

「……ちゃんと授業に集中するように。あと小瀬」


いきなり名前を振られ、ビクリと顔を向けた僕へと、教師は苦々しげに言った。


「授業中にちょっかいをかけるんじゃない。小学生じゃないんだぞ」

「……ップ」


誰かが小さく噴き出した。そこからは波及的に、教室中が笑いに包まれる。


爆笑の渦の中心にいながら、僕は自分に襲い掛かった理不尽に、ただひたすら心を乱され続けていた。


ふざけるな。ふざけるな、ふざけるなよ、僕は違う。僕は、そんなんじゃない。


隣を見る。


恥ずかしそうに身を縮こまらせて、ニヨニヨと口元を緩ませている若狭百恵の横顔が、僕には無性に腹立たしく、頭が煮えくり返る思いだった。

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クラスの天然女子が強すぎる 貴志 @isikawa334

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