第11話:迷走の末に(上)

これほどまでに、他人というものが異質で、理解不能に感じたことは無い。





僕は数学が苦手だ。中学に上がってから今日に至るまで、テストでまともな点数を取れた試しがない。なぜ上手くいかないのかを考えたことは数知れず、現時点での僕の結論は、恐らくだが、僕という人間は数学に向いていないというものだった。


単純な計算をしたり、基本的な公式を覚えることはできても、そこから先、複雑な思考を必要とする段階に入ったところで脳が猛烈な拒否反応を示すのである。これは、実は他の教科の時にもそのような傾向はあるのだが、数学に関してだけはとりわけ顕著だった。


古来から人間は、様々な困難に相対してきた。遥か原始時代には人間の何倍もの体躯を誇る野生生物と対峙し、農耕を始めては様々な災害や不作に喘ぎ、国家が成立してからは政治・経済の不振……といったように。その度に人類は、知恵と団結によって苦難を乗り越え、そして成長してきた。


けれども、時々思う。僕は、僕という人間だけは、そんな困難に相対した時に真っ先に逃げ出し、諦め、運よく生き延びてしまった人種の子孫なのではないかと。





教室の黒板には、思わず目を逸らしてしまいたくなりそうな数字と記号の羅列が並ぶ。僕はそれを、目を線にしながら必死にノートに写し取っている。


突然、机の上に飛び込んでくるものがあった。


「っ……?」


虫でも飛んできたのかと思い、反射的に体がのけぞる。しかし、いつまでたっても動きのない白い四角の形をしたそれは、よく見なくとも二つ折りにされた紙切れであった。


不審に思いつつも、それを広げる。


『今日は大丈夫? 分からないことがあったら教えてあげるから書いてね!』


そこに記されていた見知った書体と、紙の隅に薄くプリントされている寝そべったペンギンのキャラクターを見れば、このお節介なメッセージの送り主が誰なのかを特定するのは容易かった。


僕はそれと知られぬよう、横目で隣席の様子を伺う。


そこでは、目ざとくも僕からの視線に気づいた若狭百恵が、手にキャラクター物のメモ帳を持ってこちらへ小さく手を振っていた。


……懲りない奴だな。


すぐさま視線をノートへと戻す。後でゴミ箱にでも捨てようと思い、僕は紙を二つ折りから更に小さく折りたたむと、若狭百恵とは逆方向の机の隅へと追いやった。


隣からカランと音がした。僕はそっちを見ていなかったから、一体何があったのかは分からない。大方、手に持っていたペンを落としたか、体を動かした拍子に服のどこかが机に当たったか。


それから、タタタタとペンの走る音が聞こえ、紙を破った音がした後、また僕の机の上に紙切れが飛び込んできた。


雑に折られていたせいか、僕がわざわざ広げなくとも、紙切れはその中に記されたメッセージを僕に見せつける形で机の上に転がっていた。


『返事ぐらいしようよ!』


先ほどの物よりも乱れた書体を見て、少し気持ちが冷え込む。それでも僕は迷うことなくその紙切れを折り込み、また机の隅へと同じように追いやった。


間髪入れず、3枚目が机に飛び込んでくる。


今度はそれを開くことなく、流れるように机の隅へと弾いて掃いた。


その瞬間、わき腹に衝撃。


「ッ!?」


突かれた箇所を手で覆いながら、身をよじって、僕を襲ったものが何なのかを確認する。そこにあったのは、薄い青色のシャープペン。丸っこい形状に似合わないギラギラした銀の光沢を放つキャップ部分が、僕の方へと向けられている。


その先を追うように視線を上げていく。そうするとその先にあったのは、横顔を向けながらこちらを睨みつける若狭百恵の不機嫌な表情だった。


「……」


苛立っているのだろう。不快だったのだろう。


口をへの字に曲げながらシャープペンを突きつける彼女は、その全身で僕のことを非難していた。


彼女を怒らせたのは、間違いなく僕だ。僕のとった行動が、きっと何か彼女の逆鱗に触れたのだろう。


だけど、僕には分からない。何が間違っていたのか、どうすればよかったのか、まるで分かる気がしなかった。


脳みそが動作不良を起こす。キンキンとショートして、制御不能だ。


気付いた時には、僕は席から立ちあがっていた。


「すみません、体調が悪いです」


誰に言っているのか、自分でも分からない言葉を虚空へと投げる。返事も待たず、僕は歩き始めた。視界は既に働いておらず、ただ記憶の中にある教室の出口まで一目散に向かう。


誰がどんな表情で、どんな反応をしているのか、確かめる余裕はない。ましてや彼女がどうしているかなんて、想像もできない。


「お、おい、保健室に行くのか」

「はい」


聞こえてきた声に、機械的に返事をする。誰が言ったのか知らないが、恐らくは教師だろう。


ドアを開け、廊下に出る。室内に向かって一礼し、ドアを閉めた。


廊下を少し歩くと、急に足から力が抜け、壁に寄りかかり頭をごつんとぶつけた。


項垂れる。


こんなだから僕は、いつまでたっても何の答えも導き出せないままなんだ。


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