第10話:視線の意味
見られている。
隣席の若狭百恵とは、最低限の挨拶や、お義理程度のやり取りを交わすに限ってからというもの早数日。
「小瀬君、おはよう」
「おはよう……?」
いつもであれば、お預けを食らっていた犬が椀にガッつくが如く喋り始める若狭百恵が、今朝はやけに大人しかった。挨拶をして、それっきり隣から声がかかってくることは、終ぞ始業のチャイムが鳴るに至ってもまるで無かったのである。
とうとう
明らかな異様に、若狭百恵から感じる視線に、気付いてしまった。
横目で隣の様子を伺う。朝のホームルームだというのに、正面に立つ教師に背を向けるように半身になりながら、こちらを見る若狭百恵と目が合った。
僕の視線に気付いた彼女の表情が、ニヤリといやらしく捻じ曲がる。
「……っ」
教師の話が、全く頭に入ってこない。なぜだか目を逸らすこともできず、蛇に睨まれた蛙のように、僕は身じろぎ一つすることもできずにホームルームを過ごした。
教師がドアから出ていき、教室が再び喧騒に包まれると、魔法から解かれたように僕の体から緊張が逃げて行った。空気が味を取り戻し、景色が一気に色づく。同時に僕は、ずっと変わらぬ姿勢でこちらを見続けている彼女へ抗議の声を上げた。
「何のつもりだ」
「話しかけても、無視されるから。見てるだけ」
「はぁ? 僕は無視したことなんて」
「そう。じゃあ、私の勘違いかな」
話しながら、若狭百恵はビクともしなかった。こちらを小ばかにするようなニヤケ面はそのまま、口ではそれっぽいことを言いながら、まともに取り合おうとしていないことが丸出しだ。
「……いつまでそうやっているつもりなんだ」
「うーん、いつまでだろ」
「そんなんじゃ、教師の話だってまともに聞けない」
「そんなことないよ?」
どこまでも飄々とした態度に、だんだん苛立ちが募ってくる。……いけない、ここで感情的になっては奴の思うつぼだ。僕はあくまで毅然と、自分の正当な要求を口にするんだ。
「やめて欲しいんだけど」
「……」
その瞬間、若狭百恵の目がスッと細められたのが、確かに見えた。
「分かった」
返事をすると彼女は顔を逸らし、同時に1時間目担当の数学教師が入り口から顔を出した。教室は一気に静まり返り、日直が号令を下す。
僕は立ち上がり、号令に沿って頭を下ろしながら、顔を逸らす直前の彼女の表情を思い返していた。
あれは、初めて見た表情だった。目が細められると同時に、口元が強く結ばれて、頬が少し上気して膨らんで。
その表情が示す感情に気付いた途端、僕の心は冷や水を掛けられたような焦燥感に襲われた。
怒らせてしまった、のだろうか。
覚悟していたことのつもりなのに、心臓はバクバクと脈打って落ち着かず、自分の小心者ぶりには嫌気がさす。
だけど、僕に一体どうしろというのだ。黙って奴の訳の分からない行動をすべて受け入れろとでもいうのか。
理不尽だ。これだから、他人と関わるのは嫌なんだ。
頭の中で、一体どうしたらよかったのかと、もうどうしようもないことへの不毛な反省会が繰り広げられて止まらなくなる。そうしているうちに、いつの間にか板書は進んでいて、既に授業は半ばまで進行してしまっているようだった。
慌てて教科書とノートを開き、遅れを取り戻そうとシャープペンの芯をカチカチと押し出す。そこでようやく、僕は既視感を感じる視線に気づいた。
まだ目を向けたわけではないが、間違いない。若狭百恵が、またしても僕の方を見ている。
なぜだ。どういうことだ。さっき僕は確かに要求を告げ、彼女も了承したはずではなかったか。
僕の気のせいか? いいや、周辺視野の端の端で、間違いなく隣の人間からの視線を感知している。さらに言えば僕は、視線には敏感な方だ。
意を決し、抗議の視線を送ろうと思い、顔を横に向ける。その瞬間、さっと若狭百恵の顔が正面を向いた。
「………………」
唖然とし過ぎて、全く声が出なかった。いや、授業中だから声を出してはいけないのだが。もし今この瞬間のみ、僕に発言権が付与されていたとしても、そのあまりの幼稚さに、やはり僕は言葉を失ってしまっていたことだろう。
僕は何も見なかった。そういうことにする。
気を取り直し、再びノートに顔面を張り付けて、板書の続きを書こうと意識を集中させる。すると、途端に復活する隣席からの視線の槍。またしても若狭百恵がこっちを見ている。しばらく無視してみても、一向に収まる気配がない。
我慢できずに、再び顔を上げ、横を見る。またもや視線はサッと逸らされ、澄ました表情の横顔は、何事も無かったかのように手元の教科書に目を向けていた。
しかしよく見ると、その目はただ教科書の方を向いているだけに思えた。なぜなら、口元のニヤケが全く抑えられていない。
コイツ、小学生か!?
こんな茶番に付き合わされていることに羞恥を覚え、僕は頑とした意思をもって再びノートへと視線を落とす。と、同時に、また横から向けられるあからさまな視線。
無視。それがこういう輩に対する正解であることを僕は知っている。
こういうことをする奴は、こっちが慌てふためく反応を見て楽しんでいるのだ。だから、こっちが何の反応も示さなければ、つまらなくなってやめるはずだ。若狭百恵だってきっと例外じゃない。
僕は耐えた。ノートに視線を落とし、貼り付け、我慢し、授業内容はほとんど頭に入っていない。何て無駄な時間だ、とんでもない損害だ。それも全て、隣のふざけた存在のせいである。僕は怒りを強め、それさえも原動力にし、顔の向きを正面のただ一点に固定することに努めた。
「えー、それじゃあこの時のsinθの値は……若狭」
「……!」
堪えぬいた末に、僥倖が光を刺した。教師が不意に、奴のことを指名したのである。やはり神は僕を見放してはいなかったのだ。
僕に対する視線の波は止み、隣からは席を立ちあがる音が聞こえてきた。だが、若狭百恵がその問題に答えられないことを僕は知っている。何せ、この授業時間中ずっと僕の方を向いて、授業などそっちのけでくだらない嫌がらせに邁進していたのだ。不意に当てられた問題に答えられるはずなどない。
そのはずだったのに。
「1/2です」
「うん、よろしい」
こともなげに回答を導き出すすぐ横の声。これは果たして若狭百恵の物なのだろうか。
信じ難く、現実感が朧すぎて、僕は思わず呆けながら、あれだけ忌避していた隣へと視線を向けてしまう。そこで丁度席に腰掛ける若狭百恵と目が合って、その瞳はまたしてもいやらしく細められていた。
呆然として前を見る。僕は一体この一時間何をしていたのだったか。まるで狐につままれたようだ。頭が上手く働かない。
「じゃあ、cosθの値は……その隣の小瀬」
「ぅえへっ」
呼ばれ、反射的に立ち上がってしまった。まずい、何を聞かれているか全く理解できていない上に、今僕の脳みそはこれ以上ないほどにバッドコンディションだ。これはもう、恥をかくことがほとんど決定していた。
ならばせめて最後に、恨みを込めて若狭百恵を見る。それもこれも、全部こいつのせいだから。
僕を窮地に立たせた悪党は、まるで純真な子供のように丸い目で僕と向かい合っていた。まだせめて、意地悪なニヤケ面で、恥をかく僕を笑っていたなら、もっと恨みようもあるのに。僕はなおさら彼女が憎かった。
散々からかい尽くした男からの、熱烈な視線を彼女がどう受け取ったのか。僕には分からない。
彼女は、パッと何か思いついたように慌てて鉛筆を手に取ると、自分のノートの端に何かを書き始めた。
そして最後に、その鉛筆の尻でツンと僕の太ももを突っついて、小さな声で言ったのだ。
「……今回だけだからね」
若狭百恵の乱雑な字で書かれていたそれを、僕はもう反射的に読み上げてしまっていた。
「√3/2、です」
「よろしい」
その瞬間、チャイムが鳴った。続きは次回、とだけ言って教師が去り、教室にはまた喧騒が蘇る。
僕は立った姿勢のまま、恐る恐る隣を見た。
「小瀬君、数学苦手?」
さも愉快そうな笑顔で、頬杖を突く若狭百恵は僕のことを見上げていた。
その笑顔は、僕の目には正しく悪魔的に映った。堕落を迫り、さも親切な隣人のような顔で寄ってくる。
僕の既に、その泥沼に一歩を踏み出してしまっているのではないだろうか。そんな気がして、血の気が引くのを感じた。
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