第9話:教えて欲しい
自転車通学なうえ、始業時刻ギリギリの混雑が苦手な僕は、朝教室の誰よりも早く登校するのが常だった。人気のない静まり返った校舎を歩き、時折遠くから聞こえてくる運動部の朝連の音を聞き流しながら教室に入る。簡単に荷物の整理を済ませ、椅子に腰かけ、家から持ってきた小説を開く。早朝の誰もいない教室は、本の世界に没頭するのに丁度よかった。
今日持ってきたのは、昔テレビシリーズとして放送されたホラー短編の文庫版だ。最初に読んだのはもう何年も前のことで、話の内容も展開ももはや全て覚えてしまっているのだが、それでも夢中になって読んでしまうのがこのシリーズの素晴らしいところだ。もう何度もめくり返して、端がすっかり寄れてしまっているページを、ゆっくり、ゆっくりと読み進めていく。こういったある種反復運動じみた行動が、僕はたまらなく好きだった。
時計の針が回り、だんだん教室に人が増え始めてきても全然気になることは無い。もうすっかり僕は、紙と文字と思考の世界に入り込んでしまっているからだ。親友である新橋も、朝僕に声をかけてくることはない。僕の反応が、朝は極端に薄くなってしまっているのを理解しているからだ。
そしていよいよ始業時刻間際となると、運動部の朝練組連中が教室にやってきて、にわかに狭い部屋の中は喧騒に包まれ始める。そうなると、流石に僕も全く無問題とはいかなくなる。本の世界に入り込むには少し工夫が必要で、若干のイラつきを覚えながらイヤホンを耳に突っ込む、というのがいつもの朝の流れだった。
だが今の僕には、そんな些細な抵抗運動ですら許されてはいないようだった。
ドカッと、隣の机上に鞄が下ろされた音に、僕はびくりと体を震わせる。
「小瀬君、おはよう! 何読んでるの?」
「おはよう……若狭さん」
朝一番、バカでかい挨拶に気圧され、僕は持ち上げかけていたイヤホンを下ろす。と同時に、机の上に置いていた文庫本を膝元へとさりげなく避難させた。
イヤホンをカバンにしまいながら、質問に答える。
「小説だよ」
「もーう! 何の小説、何て題名?」
牛かよ。
鞄を無造作に置いた状態のまま、中身の整理をすることもせずに食い下がってくる若狭百恵から、必死に小説を覆い隠す。別にやましいものでもないし、見られたところでどうということは無い。僕が何を読んでいるかを他人に知られたところで、何ら支障は無いだろう。通常なら。
しかし、相手は若狭百恵である。これまで散々僕に迷惑を働き、悪逆非道の限りを尽くす彼女に対してだけは、ありとあらゆる可能性に備え僕は自分を守らなくてはならないのだ。
「別に……言っても知らないと思うし。興味も無いと思うよ」
だから僕は、曖昧で、何の生産性も無いつまらない言葉を彼女に向ける。これ以上僕に関心を持ってくれるなというメッセージを暗に込めて。
しかし、若狭百恵は止まらない。止まることを知らない。僕もそれを知っていた。
「そんなの、聞いてみなきゃ、知ってみなきゃ分からないじゃん」
「……」
それは正論だ。まずは知ることから始めなければ、相互理解などあり得ない。しかしそれでも、若狭百恵は間違っている。
僕はもう知り尽くしているのだ。他人というものを。若狭百恵らのような、人の迷惑を顧みない有象無象の思考パターンというものを。
だから僕はもう、若狭百恵のような相手に自己を開示する必要などないのだ。情報は秘匿する。それは戦いにおける超重要項目である。
無言で向かい合ったまま……いや、俯く僕を彼女が睨みつけたまま、始業のチャイムが鳴った。それは今回の試合が無効試合で終わったことを示すゴングのようでもあった。
「出席取るぞー」
「あっ、うわわっ」
教師が入って来たのをきっかけに、彼女は慌てて鞄の中身を広げ始めた。教科書や筆箱などの必需品に混じって、よく分からない紙切れやらマスコットやらがこぼれて床に落ちる。相変わらず鞄の中身は乱雑なようだ。
「ああっ」
「……ん」
そのうちに、キャラクターもののメモ帳がポロリとこぼれ、僕の足元にするりと落ちた。流石に無視するわけにもいかず、若干躊躇しつつも拾い上げて、隣に差し出す。
「ありがとう……ねえ小瀬君」
若狭百恵はそれを受け取りながら、礼を言った後、言葉を続けた。
「この子は、『楽ペン』って言って、楽することが大好きなペンギンのキャラクターで、私のお気に入りなんだよ」
「……? そうなんだ」
急にキャラクターの説明をされて、頭に疑問符を抱きつつもとりあえず返事をする。なんだろう、「お前も買えよ」などと宣伝でもしたいのだろうか。だとしたら、あいにく僕は、あまりキャラクターものには興味が無い。
勧められたならまた曖昧に断りの言葉を言おうと身構える、しかし彼女は全く予想外の方向からのアプローチを掛けてきた。
「小瀬君の好きなものも、次は教えてね」
「え……」
それきり彼女は前を向き、僕の頭はぐらりと揺れた。
何だ、それは。
何でお前がそんなことを言うんだ。そんな態度、それじゃあまるで……。
いいや、騙されるな、僕。これも奴の作戦に違いないんだ。そうやって、僕の懐を開けさせて、油断させたところを刺すつもりなんだ。奴らはいつだってそうなんだ。
心を落ち着けようと、ひたすら過去の経験を振り返って、頭の中を暗い思い出でいっぱいにしていく。辛く、忘れたい記憶のはずなのに、こういう時には便利なのが僕の人生最大の皮肉だと言えた。
過去の後ろ暗い物の中に混じって、つい先日の席替え後、部室で新橋に詰め寄った時のことが思い出される。
どうして黙って席を変えたりしたのか、そう尋ねた僕にアイツは言った。
『若狭さんが、どうしてもお前の隣の席になりたいって言うから。凄い切実な感じで、流石に断れなかった』
新橋、お前は騙されているんだよ。奴に。
若狭百恵は、ただ自分が教卓ド真ん前のはずれ席に座りたくなかっただけなんだ。そのために、それっぽい理由をつけて周りを利用しただけなんだ。
そう言っても、新橋はとうとう僕の言葉を完全に信じてはくれなかったが。
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