第8話:席替え(後)

うちの高校は3階建てで、南北に細長い二つの棟で構成されている。主に通常教室が入っているA棟と特別教室や文科系の部室が主のB棟とが渡り廊下で行き来できるようになっている。2年生の教室はA棟2階全体のやや北側に集中していて、僕の所属するB組はその中でも棟の中腹部に位置する何とも中途半端な場所にある。これの何が困るかって、トイレが遠いということだ。


トイレは南側の端か、北側の渡り廊下をB棟にわたってすぐの位置にしかない。どちらを選んでも距離的にほとんど差は無いが、B棟のトイレは若干古く見た目が汚いため、2年生のほとんどはA棟南端側のトイレを利用する。だけど僕は、B棟側のトイレを愛用する異端者であった。なぜかというと、単純に空いているからということと、アウトローな選択をすることへの密かな快感を楽しんでいたというのが理由だ。


なぜ長々とこんな回想をしたかというと、今正に僕は、そのトイレの帰りに渡りを戻るところを待ち伏せされ、無茶な要求をぶつけられているということにつながるのである。


渡り廊下独特の吹き付けるような風が、僕と女子生徒の間を通り過ぎて行った。


不意を突かれたことによる動揺から立ち直った僕は、体勢を整えるとはっきりと答えを告げる。


「嫌だけど」


不当な要求には当然の返事を。目の前の良く知りもしない、傲慢な女子生徒に大して僕は毅然と立ち向かう。


当たり前の話だ。せっかく幸運にも舞い降りた、平凡で平穏な高校生活の先ぶれたるこの座席を、ぽっと出の女子に明け渡す道理などあるはずもない。


だというのに、目の前の女子生徒は意外そうに眼を見開くと、わなわなと唇を震わし始めた。


「どうして?」

「ど、どうしてって」


どうしてもこうしてもない。席を入れ替えたくないのに理由などいるものか。


無視してこのまま突っぱねたっていいはずだ。なのに、身を守るように体の前で手を組み、このまま風に打たれていたら倒れてしまいそうなほどか弱い雰囲気を醸し出す女子生徒と対面していると、まるで僕の方が悪いことでもしているかのような気持ちにさせられる。


ため息をつき、僕は律儀に疑問に答えた。


「……僕は窓際の席が好きだから。あなたの席がどこかしらないけど、だから替わりたくない」

「そう、なんだ」


何となく新橋のことを理由に挙げるのが気恥ずかしくて、嘘ではないが核心でもない理由でお茶を濁してしまうのは僕の弱さだった。


言ってから、目の前の女子が窓際の席だったらどうしようかと一瞬不安にもなったが、納得したような落ち込んでいるようなその反応を見るに、どうやら杞憂だったようだ。


「無茶言ってごめんね」

「あ……」


女子生徒は、カクっとお辞儀をすると勢いよく身を翻し、スタスタと廊下を戻っていってしまった。思わず腕を伸ばして、そのまま行く先を失った自分の手のひらを呆然と眺める。……引き留めた所で、彼女にかける言葉など僕には無いはずなのに。


自分の意思を通すとは、誰かの希望をはねのけることであり、それは即ち直接的な他害なのだ。そんなことは分かり切っていることだ。


手を握りしめ、僕も教室へ戻るため渡り廊下を進む。階段の踊り場へ出て、角を曲がって教室へ。


そこに見知った人影が立ちふさがっていて、勢いが付いていた歩調に急ブレーキがかかった。僕はたじろろいで、そこにいた人物に相対する。


「話は聞かせてもらったよ」

「わ、若狭さん。何して……」

「話は聞かせてもらった」


言い終わり、満足げに腕を組んで鼻から息を漏らす若狭百恵。そのセリフが言いたくて仕方が無かったと見える。


どうやら、先ほどの僕と女子生徒の会話をここで盗み聞きしていたらしい。とてもいい趣味とは思えない。しかし僕には、それを非難する余裕が無ければ関心も無い。


ただ、この案件に彼女が首を突っ込んできたという事実に対しての不安、それだけが僕の心中を支配していた。


若狭百恵が、胸をドンと叩き親指を立てる。先ほどのセリフもそうだが、言動の一つ一つがわざとらしく、幼稚だ。不安しかない。


「私に任せてよ。皆をウィンウィンにしてみせるから!」

「……何をする気だ」

「んふふふふー! ないしょー」


踵を返し、ルンルンとスキップで教室へと戻っていく若狭百恵。不安しかない。


僕の心の中には、返す返すも、不安しかなかった。




6時間目のロングホームルーム。教室の前に立つ学級委員の号令とともに、皆が一斉に机を移動し始める。


あれから、特に若狭百恵が接触してくることはなく、平穏な一日を過ごした。部室での昼食も、今日が最後だと思うとほんの少し感慨深かった。


僕は一抹の不安を残しつつも、一目散にくじに示された座席の位置へと机を動かしていく。移動とはいえ、ただ前の方向に机を動かすだけなのですぐに済んでしまった。


やることも無くなり、何となく教室内で未だ繰り広げられている民族大移動を眺める。するとその中に、午前中僕に接触してきた女子の姿を見つけた。


その女子は、教室中腹列の最前席という、誰からも人気のない位置に机を落ち着けていた。僕と座席の交換を申し出たのも頷ける彼女の席配置に、要求を受け入れていたら僕があの位置になっていたのだと想像し、眉間にしわが寄る。


やはり、この席を死守したのは正解だったのだ。その証拠に、ほら、我が腹心の友である新橋が僕の元へと近づいてくる。


だが、おかしい。その表情が、何だかちっとも明るくない。


「新橋、どうした」

「いや、修一よ……あのだな」


表情に影を落とし、口をもごもごとさせてはっきりしない姿はとても彼らしくない。


何より新橋は机を持ってきていなかった。


「修一……すまん」

「何だと?」

「上手く言えんが……頑張れよ」

「おい、新橋……っ!?」


力なくこちらに背を向け、去って行ってしまう。その背中と入れ違いに、満面の笑みでこちらに机を持ち運んでくる女子生徒の存在に、僕は不安が的中してしまったことを悟った。


「若狭、さん? どうして」

「うふふふっ……ほら、あっち」


若狭百恵が指さした方を見る。その方向は、つい先ほども目線を向けたばかりの既視感のある光景。だというのに、教室中腹辺りの最前列の席に座る先ほどの女子生徒、その隣に、なぜか新橋が机を置いていた。


女子生徒がぺこりと頭を下げ、新橋もまた、たどたどしく腰を曲げる。なんだか見ているこっちの方がくすぐったくなるような光景だ。


なぜだ……なぜそっち側に行ってしまったんだ。新橋、僕とお前は親友ではないのか?


「これで玉川さんは新橋君の隣になれたし、私も嫌な席にならずに済んだし、小瀬君も席を移動せずに済んで……我ながら名案だったなぁ。ねぇ小瀬君!」

「……若狭さん、分かってて言ってる?」

「んん、何が?」


ずかっと席に腰掛けた勢いのまま、若狭百恵は腕を枕に机へ伏せって、顔だけをこちらに覗かせる。そして、イタズラっぽく頬を曲げて笑った。


「よろしくね、小瀬修一君」

「……よろしく。若狭百恵さん」


僕は決心した。


コイツはどうやら、なぜだか知らないが僕にまとわりつくのをやめる気は無いらしい。


ならば、立ち向かってやろう。僕の意思と、コイツの意思、どちらが相手を蹂躙し、説き伏せ、支配するのか。


平穏とは程遠い高校生活が始まったことを、僕は今改めて確信した。

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