1ー2

 彼女の名前は木場茉奈香きばまなか。私立法栄ほうえい大学の法学部に所属する4回生である。


 幼い頃から推理小説を読み漁り、一時は本気で名探偵を志したこともあったが、今は現実的な路線に切り替えて検事を志望している。現在はロースクールの試験と卒論の執筆で忙しいはずなのだが、それでも名探偵になるための研鑽は怠らず、修行と称してはあらゆる国の推理小説を読み、必ず犯人を当てると息巻いている。もっとも、その推理力が発揮されることはほとんどなく、ミスリードに引っ掛かっては連敗記録を更新するのが関の山なのだが。


 そんな茉奈香の友人が、先ほどのポニーテールの学生、木内由佳きうちゆかである。茉奈香と出席番号が近く、2回生の時に語学のクラスが一緒になったことで親しくなった。この風変わりな名探偵を、生暖かい目で見守ってくれる数少ない存在でもある。法学部に入ったのは『受験したらたまたま受かったから』で、茉奈香のように法曹を目指しているわけではないが、どうやらその妻の座を狙っているらしく、裁判官や検事のOBに狙いを付けているともっぱらの噂である。


「ねぇ、それよりさ茉奈香、いつお兄ちゃん紹介してくれんの?」由佳が茉奈香の隣に座って尋ねてきた。


「あー、お兄ちゃんねぇ、配属変わってから忙しいみたいで、あんまり実家に帰ってこないんだよね」


「確か捜査一課だっけ? 警視庁の花形だし、そりゃ忙しいよねー。でもさ、3年目で一課に配属ってことは相当優秀ってことじゃんね?」


「いや、そうでもないけど……。っていうか、由佳はお兄ちゃんのこと誤解してるんだよ。うちのお兄ちゃんってホント頼りなくて、今でも刑事やってるなんて信じられないんだから。会ったら失望すると思うよ?」


「いいの! ちょっとくらい目瞑るから、何たって公務員だし!」由佳が目を輝かせて言った。


 茉奈香には3つ年上の兄がおり、3年前に警視庁に入庁し、今年から晴れて捜査一課の刑事として働いている。

 普通、一課に配属されるまでには何年もキャリアを積まねばならず、入庁3年目での一課への配属は確かに大抜擢と言えたが、それが兄の優秀さゆえだとは茉奈香には到底思えなかった。何しろ茉奈香の兄ときたら、童顔に加えて身長は160センチしかなく、おまけに強面の人を相手にすると竦み上がって動けなくなるという、およそ刑事らしくない特性を兼ね揃えているからだ。にもかかわらず、由佳は茉奈香に会うたびに兄を紹介してほしいと言ってくる。相手が公務員なら誰でもいいのだろうか。


「あ、そういえば茉奈香、卒論やった?」


 由佳が唐突に尋ねてきた。話題がぽんぽん変わるのはいつものことだ。


「うん。もう半分くらい書き終わってるから、年末までには仕上げられると思う」


「マジか。相変わらず早いな茉奈香は!」由佳が天を仰いだ。

「あたしなんかやっと序章書き始めたとこなのに。代わってほしいわ」


 茉奈香と由佳は刑事訴訟法のゼミに所属している。検事の仕事に直結しているからという理由でこのゼミを選んだ茉奈香に対し、由佳は『他に入りたいゼミがなかったから』という消極的な理由で茉奈香と同じゼミを選んだ。科目自体にさして興味がない以上、卒論で苦労するのは当たり前ともいえる。


「他の子達はどうなんだろうね。卒論、どれくらい進んでるのかな?」茉奈香が呟いた。


「さぁねー。でもみんな苦労してるみたいよ? そもそもテーマ決めるのに時間かかったって子も多いしね」


 卒論はテーマが命、というのはよく言われることだ。自分が興味を持てるテーマで、なおかつ研究が尽くされていないテーマを見つけるのはそれだけでも至難の業といえる。茉奈香も最初は『実社会における名探偵と検事の役割分担について』というテーマを設定しようとしたのだが、ものの2秒で指導教授に却下された。


「あ、でも、島田君は結構進んでるみたいよ」由佳が思い出した顔で言った。「『あとは結論書くだけだ!』って張り切ってたし」


「島田君もロースクール志望だもんね」茉奈香が頷いた。「卒論はちゃっちゃと終わらせて、試験勉強に専念したいってとこかな」


 島田は茉奈香達と同じゼミに属する男子学生で、弁護士になって父親の事務所を継ぐのだと自己紹介の時に言っていた。茶髪を襟足まで伸ばした髪型からしていかにも遊んでそうだと最初は思ったが、人は見かけによらないものだ。


「あ、いた! おーい、木場! 木内!」


 不意に自分達の苗字を呼ぶ声がして、茉奈香と由佳は顔を上げた。今まさに噂をしていた人物が、息せき切ってこちらに走ってくるのが見えた。


「島田君? どうしたのそんなに慌てて」


 茉奈香が首を傾げた。島田は茉奈香達の前で立ち止まり、膝に手を突いてはぁはぁと息を切らしていたが、やがて青い顔を二人の方に向けた。


「なぁ、お前ら俺の卒論知らねぇか?」


「卒論? 知らないけど」茉奈香が答えた。


「マジで? 困ったなー、どこ行ったんだろ。確かに鞄に入れたはずなんだけど……」島田が顔を曇らせた。


「何、もしかして卒論なくしたの?」由佳が尋ねた。


「そうなんだよ! 俺、こないだようやく卒論完成したから、昨日のゼミで提出しようと思って持ってきたんだよ。でも、最後のページが抜けてることに気づいて、結局昨日は提出しなかったんだ。

 で、家帰ってから抜けてたページ印刷して、本体とまとめようと思ったら今度は本体がなくて……」島田ががっくりと肩を落とした。


「つまり、昨日のゼミの後でどっかに落としたってこと?」


「そうなんだよ。でも全然どこやったか覚えてなくて。あれなかったら困るんだよなー。もう終わったと思ったからパソコンのデータも消しちまったし、一からやり直しとか勘弁してくれよ……」


 島田が頭を掻きむしった。卒論の執筆にはただでさえも時間がかかる上に、島田はロースクール受験を控えている。やり直しは何としてでも避けたいのだろう。


「そもそもホントに落としたの?」由佳が懐疑的に尋ねた。「他の講義の資料に紛れてるだけじゃなくて?」


「それはない! 講義資料全部ひっくり返したけどなかったんだ!」


「じゃあ落とし物センターに届けられてんじゃないの? 名前入ってんでしょ?」


「そっちにもなかったんだ! 3回行って調べてもらったから間違いねぇ!」


「家に忘れたわけでもないの?」


「それはない! 昨日のゼミの後は鞄から出してないからな!」


「うーん……。じゃあやっぱり落としたってことなのかな。ホントに心当たりないの?」


「それがないんだよ。そもそもゼミの後で取り出した記憶ないし……。なぁ、俺ちゃんと鞄にしまったよな?」


「あんたが覚えてないのに、あたし達が知るわけないでしょ?」由佳がうんざりしたように言った。


「くっそー……。これはもうあれだな。一種の事件だな!」


「事件?」由佳が目を細めた。


「そうだよ! 俺の卒論の出来があんまりいいから、誰かがそれをパクりやがったんだ!」


「そんな滅茶苦茶な……」


「いーや、それしか考えられねぇ! 発表しちまったら誰の論文かなんてわかんねぇもんな! くっそー……。いくら俺が優秀だからってパクリはねぇだろ!」


 島田は本気で憤慨している。彼は一度思い込んだら、それがどれほどバカげた考えであっても信じずにはいられない性分なのだ。


 由佳は呆れ顔でため息をついたが、そこで茉奈香がずっと黙りこくっていることに気づいた。


「茉奈香? どうかした?」


 由佳がそっと声をかけた。茉奈香は顎に手を当てて何やら考え込んでいたが、急に不敵な笑みを浮かべた。


「ふっふっふ……。ここはどうやらあたしの出番みたいだね」


「茉奈香?」


 由佳が怪訝そうな視線を向けてきた。島田も憤慨するのを止め、当惑した顔で茉奈香を見つめる。


 茉奈香はおもむろに立ち上がると、スカートのポケットから黒いパイプを取り出した。勿体ぶった仕草でそれを口に咥える。


「島田さん。あなたは大事な卒論の盗難被害に遭い、途方に暮れておられる」茉奈香が尊大な口調で言った。

「でもご安心なさい。この名探偵が来たからには、あなたの卒論は必ず取り返して差し上げます」


「木場? お前何言って……。」


 島田が眉を顰めたが、茉奈香は皆まで言わせなかった。左手でパイプを口から外し、右手の人差し指をびしりと島田に突きつける。


「今回の不可解な窃盗事件……。この名探偵、木場茉奈香が華麗に解決してみせましょう!」

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