33

 三人絡み合うようにぬかるんだ草土へ倒れていた。

「このクソガキゃあ、痛かやんかあ」

 そう怒声を吐くのは恵だ。脇腹を刺す刃物を握った美智の震える指を、恵は両手でつかんでいる。

 美智は自分が恵を刺している現実に気づくと、魂を吐き出すような悲鳴をあげながら凶器から手を離した。黒十字の鎖も首から外した。そして湿った草土に尻を滑らせて後ずさった。恵も美智も、悶絶しそうな互いの顔に目を凝らしていた。

 美智の悲鳴が嗚咽に変わった時、蓮の叫び声が響いた。

「何でえ? 姉ちゃん? 何で姉ちゃんが?」

 蓮は上体を起こして恵を抱いた。

「あ、痛い、あ、痛い」

 恵は顔をひどくゆがめて黒十字を握り、あっという間に引き抜いて捨てた。

「あ、ばか、何で抜くと?」

「だって、痛かもん」

 白いシャツの脇腹辺りが鮮血で変色していく。

「ばか、ばか」

 蓮は姉を刺し傷が上になるように寝かせ、彼女の手の平をシャツの赤い部所に当てさせた。

「姉ちゃん、ここ、しっかり押さえといて」

「せからしかあ」

 と苦しげにもらして、恵は目を閉じ、眉間に深く縦皺を刻んだ。

 腰を抜かしてむせび泣く美智に、蓮は絶叫の目を剥いた。

「みち、救急車。救急車。みちが呼ばんといかんよ。みちが呼ばんと。すぐに。すぐに」

 その時、右手に触れた何かを、蓮の指が無意識につかんでいた。ぬるっとした血の感触が、指から脊髄へと熱い電流のように突き入った。するともう抵抗し難い力がそれを振りかざしていたのだ。ぶるぶる震える黒十字の銀刃から、恵の血が滴った。蓮の心にオンブルが目覚め、「ホッホー」と喜びの笑いを発した。

「やったぜ、ブラッククロスだ。ブラッククロスを取り戻した。もう手放さねえ。おれのもんだぜ。おれのもんだ」

 オンブルの血走った目が草に落ちた鎖付きの黒い鞘に引き込まれると、彼はぐにゃりぬにゃり這い、それを取って刃に被せた。

「ホッホー」 

 重低音の悪魔の笑いが、河原も大河も揺るがした。

「さあ、れんよ。もうおれたちには一刻の猶予もねえ。警察に捕まる前に、ぶらっくろ様の力を借りて、たくみに復讐しに行こうぜ・・」

 オンブルは伸縮する影を震わせながら立ち上がった。

「さあ、最後までやりとげるんだ。今一度、答えな・・れんよ、おめえの心の沸点は何度だい?」

 蓮は修羅場に沈む姉を見て、唇を強く噛みながら首を振った。姉の白シャツの血の赤は、悪夢のように広がっていた。

 オンブルは怒りの声であおり立てた。

「どうした? なんなら、川島みちから粛清してもいいんだぜ。今や、このブラッククロスは、おめえの姉の血でも汚れているんだからな。さあ、言うんだ・・おめえの心の沸点は何度だい?」

「違う、違う・・」

 と蓮は絞り出すように言う。

 美智は泣きながら携帯電話を耳に当て、何やら訴えている。

 オンブルは黒十字を胸に押しつけ、挑発を止めない。

「なあ、れんよ。思い出してみなよ・・鉄工所跡の闇の底で、おれがおめえに教えたことを・・生命体も無機物も、すべてのものが同等の価値を持っているってことを。それは言い換えれば、すべてのものが同等の無価値ってことなんだぜ。だからおめえに害を与えるたくみを殺してもかまわねえのさ。ただあるのは弱肉強食なんだと言ったのは、他ならぬたくみなんだからよ」

 黒十字を持つ拳で、蓮は悪魔が息づく自分の胸を何度も叩いて反抗した。

「だったらおまえも、無価値じゃないとね? だけどおれは、違うと感じとるとよ。おまえも、おれの知らないおまえ以外のおれの心も、そして今意識できるこのおれの心だって、なんか知らないけど、計り知れない価値があると感じるとよ。そう心が痛いくらい叫んでいると」

 だけどオンブルは復讐の赤い目を燃やし、なおも黒十字を掲げて殺意の牙を剥くのだ。

「そうかい? それならなおさらおめえは行かなくちゃならねえ。おめえのその大切な心を守るために、たくみを殺しに行かなくちゃ。だってよ、このままだったら、ずる賢いたくみは、おめえだけを極悪人に仕立てるに決まってるじゃねえか。たくみは、自分が刑罰を受けたくないから、おめえにとどめを刺さずに逃げやがったんだぜ。あいつはいじめた責任も取れねえ卑怯者なんだ。なあ、もう、おめえは、後戻りなどできねえんだぜ。さあ、これが最後だ。れん、おめえは答えなきゃならねえんだ・・おめえの心の沸点は何度だい? ほら、おめえの心の沸点は何度だい? あっ、この野郎、何しやがる? ああっ」

 止めようとするオンブルを「うおー」という大声で撥ね退け、蓮は黒の十字架を大河へ放り投げていた。もう一つの熱い怒りが心の奥底から沸騰し、彼に新たな力を与えたのだ。

 飛んで来た怖い物に驚いた二羽の水鳥が、鳴声をあげて岸から遠ざかって行く。黒十字は濁り水に見えなくなった後、膨れ上がった急流に浮き沈みしながら、また別の主人の臭いを感じて川を下った。

 蓮に新たな生命力をもたらした怒りは、今、目の前で死の危機に瀕している姉への思いから生じたものだった。蓮は自分の頭や胸を幾度も叩いてオンブルを追いやった。そして決死の形相で二度咆哮した後、拳を肩の前で震わせて叫んだ。

「おれの心は猛烈に沸騰しとるとぞ。だけどそれは誰かを殺すためじゃなか。誰かを生かすために沸騰しとるとぞ」

 痛い、痛い、と呻く姉を、傷口を自分の体に圧しつけ、蓮は抱き上げていた。黒猫の希望が寄って来て彼の足元にじゃれついた。

 異様な涙目をぶつけてくる美智に、蓮は声をかけた。

「みち、忘れんとって。みちは、これからも、どげんおれを恨んで生きてもよか。それでみちの心が少しでも癒えるのなら、それでよか。だけどおれは、うまく言えんけど、ずっとずっと、みちを愛しく思っとるけん」

「救急車、呼んだけん・・」

 と美智は湿地から湧くあぶくのような声で告げた。

「だけど、あんた、狂っとるし、それに、あんたも、めぐみさんも、もう、今にも、死にそうじゃない」

 低すぎる美智の声は風にまぎれたが、聞き逃すまいと濡れた瞳を凝視する蓮の心に、彼女の心は深く染み入った。蓮は別れの笑みを美智へ贈ると、朦朧としている姉を抱いたまま、水溜りを避けもせず、河原を長門石橋の方へ歩いた。救急車はそちらの駐車場へ降りて来るだろう。今の姉には僅かな遅れが命取りになりそうなのだ。追いかける子猫が彼の足を駆け上がり、恵の胸に座って苦渋に潰れる顔を舐めた。

「どうか許してください」

 ともれる譫言に、希望がグールグール癒しの喉を鳴らした。

 許して? 何を? 

 と蓮は考えた。

 やがて、顔色が薄れていく姉を見て蓮は直観したのだ・・血が足りない姉の心は、すでに現実を離れ、別世界を彷徨い始めていることを。彼自身も、今にも気が変になりそうなくらい瀕死だったし、血を失う恐怖を思い知ってもいるし、これまでも無意識の深層と関わってきたから、姉の異常が自分のことのように伝わって来たのだ。姉は無意識の深い森の中で許しを請うているのだ。蓮はそんな姉を無条件に理解し、抱きしめたいと思った。

 姉の言葉が、今一度、蓮の中に鮮やかに思い起こされ、大きな鐘のように響いていた。数日前、涙を流しながら、苦悩する蓮を胸に抱き、髪を撫ぜ、耳元でやさしく言った言葉だ。

「れん、ひどい目にあっとるとでしょ? 大丈夫やけん。あたしはいつも、どんなことがあっても、あんたの味方やけんね。だけん、大丈夫」

 あの時の胸の鼓動の温かさが、今も心に響いている。

「大丈夫やけん」

 と蓮は呼びかけた。

「大丈夫やけん・・」

 泣きながら繰り返した。

 恵の目が見開いたが、その焦点は虚ろだった。無限連鎖の閃光舞い立つ大河を弱々しく指さし、もつれる舌で必死に言う。

「燃えとる、燃えとる、ほら、燃えとるよお。お願いします、どうか許してください。ああ、わたしも、燃えとる」

 蓮は姉の頬に希望と一緒に祈るように頬を重ねた。

「ごめんね、姉ちゃん。ごめんね。分かっとるよ。分かっとるけん。ほら、おれが今、よかとこへ連れて行ってるけん、なあん心配なか。心配なかけん」

 二人の涙が融合して、頬を撫ぜる頬を温かく滑らせた。













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黒十字 ピエレ @nozomi22

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