31
「さあ、着いたぜ・・」
誰かが息を切らせながら坂口蓮にそう呼びかけた。
「おめえがあまりに弱っちいから、おれはこんなに強くなれたけどよ・・ちくしょうめ、あのキチガイおっさんのせいで、力を使いすぎたようだ・・おれも、ちょっくら、休ませてもらうぜ」
全身を打つ衝撃に蓮は意識を戻していた。湿った深緑の匂いが眼前にあった。濡れた草土に突っ伏しているようだ。
「ここは、どこ?」
上体を起こすと、頭や脇腹に恐ろしい痛みが突き上げてきた。辺りを見まわし、いつの間にか梅林寺の西の河原へ来ていることを知った。
「おれはまだ、生きていると? だとすると、おれは、たくみも殺したとやろか?」
蓮はキリキリ痛む頭で鉄工所跡での決闘を思い起こした。
「いや、違う。そうだ、おれは、やられちまったとよ・・ああ、よかった、おれ、たくみだけは、殺しておらん、きっと」
そうつぶやいたものの、確信は持てなかった。おどろおどろしい鬼胎ばかりが腹の内にあった。
すぐ側に自転車が倒れていた。荷籠から猫缶が一つこぼれているのが目についた。それを左手で取ろうとして、拳が潰れていることに気づいた。右手でひろい、立ち上がりかけて、脇腹の激痛と貧血で大地が斜めに回った。視界が暗くなり、また泥水の中へ突っ伏していた。
「ちぇっ、何だ、おれ、もう、死ぬのか? だったら、それでよか。おれはきっと、生きてちゃいかんやつやけん。だけど、死ぬ前に、せめてこれをのぞみにあげなくちゃ」
希望が住処としている梅林寺手前の樹を目指し、水の浮いた草土を滑りながら這った。小さな花やてんとう虫を潰しそうになるのを避けながら這った。豪雨上がりのその河原には、その時人影は見えなかった。だけど、彼が大樹の近くまで這った時、突然、恨みに濁った女の太い声が響いた。
「れん、てめえ、覚悟しいや」
声の方を見ると、短い黒髪を風に逆立て、娘が一人、堤を駆け下りた。そして草土の水を撥ねながら駆け寄って来た。
蓮の瞳孔が鋭く開いた。喜びに顔をゆがませながら、彼はふらふら立ちあがった。猫缶が震える指から滑って落ちた。
「みち、来てくれたとやね」
美智のネイビーブルーのポロシャツも白いミニスカートも、殺された恋人の恨血で変色していた。赤くむくれた頬にも血がこびり付いている。魔物に憑かれた目は狂暴に見開いて吊り上がり、歯軋りする口も血まみれだ。
「ああ、これが復讐なんだ」
と蓮は叫んでいた。
美智は仇へ突進しながら、胸のブラッククロスの凶器を抜いた。
「これが復讐なんだ、これが復讐なんだ」
と繰り返す蓮の目に涙が光った。
銀の刃が陽光に煌いた時、ぬかるみに足を取られた美智は、転んで泥水まみれになった。ぶるぶる身ぶるいしながら立ち上がる顔は、怒れる仁王だった。
「ちくしょうめ。ゆうじの無念を、あたしが晴らすとぞ。死ねや」
刃を腹の前に立て、もう一度猛進した。
その美智の動きが、蓮にはスローモーションのように見えた。しっかり標的になろうと踏んばった。
「みち、みち・・」
愛してるの言葉の代わりに、懸命に顔を引きつらせて笑顔を注いだ。女の叫び声が響き、黒い影が伸びて来た直後、強い衝撃が体を襲った。
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