30
「れんのばか。どうしてこんなに傷つきたがるの?」
目覚めた彼は、潤んだ声でそうつぶやいた。
左目にこびり付いた血塊を、折れた指をかばいながら、右手の指で一つ一つ剥がした。左手の指は潰れていて、動かそうとすると痛みで気が遠くなった。止まらない涙で赤黒い視界が霞んだが、しだいに鉄工所跡にいることが見えてきた。卓巳の気配はない。立ち上がろうとすると、左わき腹の内が破裂しそうに痛んだ。
泣きながら外へ出ると、太陽の放射が傷口に沁みた。どうやら左側頭部が割れているようだ。自転車に手をかけた時、小路を誰かが下って来た。涙を拭いて見ると、昨夜この道で転んだ老婆だった。病的に痩せていて、今日も片手にハンドバッグ、もう片方に買い物袋を持って、今にも頭から転びそうにふらついている。
彼は老婆の前へ自転車を押して呼びかけた。
「お婆ちゃん、重たかろう? 買い物袋、荷籠に入れるといいよ。おいらが運んであげる」
老婆は皺だらけの顔をさらに醜くしかめて彼を見た。
「あんた、誰ね? そげなこと言って、わたしから、荷物ば盗るつもりじゃなかね?」
彼も顔をくしゃくしゃにした。そして泣き声で言った。
「おいら、ピエールだよ。昨晩、お婆ちゃんがここで転んだ時、れんが助け起こしたのを覚えていないの? おいら、またお婆ちゃんがケガしないかと、心配なんだよ。さあ、袋、入れなよ」
潰れた手で荷籠を示すピエールを見る老婆の目は、死を匂わせるほど濁っていた。
「ああ、ああ、昨日の人ね? ばってん、あんたの方こそ、ケガしとるとじゃなかね? 顔に着いとると、血ね?」
そう尋ねながらも、彼女は両手の荷を自転車の籠に重ねた。
「なあん、たいしたことないよ。おいらも、ちょっと転んだだけさ。さあ、家まで送るよ。家は、近くなの?」
「近かけど、悪かねえ」
老婆のすぐ後ろを、ピエールは自転車を杖代わりに足を引きずり歩いた。そしてやはり泣き声でしゃべりかけるのだった。
「昨夜は送れなくて、ごめんね。昨日は、れんは悪い影に心を支配されていて、お婆ちゃんのこと、魔女みたいに避けちゃったんだ。それで、れんは、地獄へ突き進んじまった」
老婆が振り返って首を傾げた。
「あんた、何言うよっとかのう? わたしゃ、耳が遠くて、よう聞こえんとよ」
ピエールは声を張り上げた。
「でもねえ、おいらは知ってるんだよ。お婆ちゃんは、本当は、天使様なんだよね? 昨夜だって、れんがお婆ちゃんを見放さなけりゃ、地獄へ堕ちずに救われていたんだよね?」
「あんた、妙な事言う人やねえ。それにさっきからずっと泣き声じゃないか。ケガが痛むとね?」
ちらちらピエールを振り返りながら、老婆は危なっかしく歩く。
ピエールの涙が血の色に染まって、地面にぽたぽた落ちる。
「ううん、違うよ。そりゃあ痛くて死にそうだけど、そんなこと、おいらにゃ大事じゃないんだ。おいら、れんが二人を殺して悲しいから泣いてるんだ。殺された二人が悲しいから泣いている。でも、それだけじゃないよ。れんが、もう一人を殺さずにすんで、嬉しいから泣いている。そしてね、お婆ちゃんが一生懸命生きようとして、そんな体でも歩いていることが嬉しくて泣いているんだよ」
蔦の張りついた古い平屋が老婆の家だった。
「あんた、病院に行かんとだめやけんね」
それが彼女の別れの言葉だった。
潰れた左手で側頭部の傷口を押さえ、右手でハンドルを握り、彼は自転車に乗って田圃路を進んだ。手と頭と脇腹の痛みはしだいに重くなり、貧血で脳内も痺れた。工業団地を抜け、堤を上がり、筑後川の河原へ下った。それから川辺のサイクリングロードを川上の方へと自転車を漕いだ。だけど豆津橋の下まで行くと、胸が苦しくて動けなくなった。
ふいに彼の口から低く重い声が溢れ出てきた。
「おれの力で連れて行くぜ」
ピエールはビクッと身震いした。涙目をキョロキョロさせ、喘ぎながらも潤声で反発した。
「やっ、何だい? おまえはオンブルかい? ブラッククロスを失った今、おまえは引っ込んでいなよ」
「おめえこそ、ジャンヌが死んで、お払い箱じゃねえのかい?」
心臓が悲鳴をあげる胸を右手で押さえながら、ピエールは首を振った。
「おいらがいなくちゃ、れんは生きていけないじゃない。それに、おいら、恋人に捨てられたメグミンのためにもなくし、これからは、川島みちのためにも泣くんだよ」
彼の顔の表情も声色も一瞬で劇変する。
「へっ、おめえがいなけりゃ、れんは生きていけないだと? それはこっちのセリフだぜ。おれがいなかったら、れんはもう自殺していたぜ。やつは、神も仏も信じねえしな」
「おやっ、おまえは、信じると言うのかい?」
「ホッホー」
重低音の怪しい笑いが湧き出た。
「神も仏も幽霊もあの世も、みんなおれたちみたいに心の深層から生み出されたものじゃねえかい? なのにれんときたら、自分のことさえ、ちっとも知らねえんだ」
「ああ、おいら、どうしよう? 世界が回りだしちゃった」
ピエールは膝から崩れ落ちた。彼の上に自転車も倒れた。だけどすぐに彼の血走った目は大きく見開いたのだ。身を起こしながらその口から発せられたのは、やはりオンブルの声だった。
「まったく、れんもピエールも弱すぎるぜ。人間が本来秘めている力の、ほんの二割くらいしか出せねえときてる。ぶらっくろ様なら全部出せるのになあ。おれだって、三割も四割も出せるんだぜ」
西から広がってきた青空に抱かれ幾億の乱反射で踊りだした大河のすぐ横を、オンブルは川波に逆らって進んだ。大河の内は濁り、水かさも膨れ、流れも急だ。生温かい北西の風が大河を斜めに渡って湿気を増し、彼を包んで忌まわしい汗を滲ませた。
水天宮の二百五十メートルほど手前まで行った時、ズボンを泥だらけにした口髭の男に呼び止められた。
「ねえ、あんた。あんたは、のぞみと一緒に、この前うちに来た人じゃないかい?」
「うん? おめえは確か・・」
オンブルは自転車を停めた。
白髪混じりの癖毛を風に揺らし、中年の男は堤の方から泥を撥ねて駆けて来る。
「わたしは、佐藤のぞみの父ばい。あれっ、あんた、ケガしとるとね?」
佐藤義男の目も、オンブルに負けぬほど血走っていた。
オンブルはその目を深く覗き込んだ。
「娘を捜しているのかい?」
立ち止まった義男が見つめ返した。
「のぞみのことを、知っとるとやね?」
オンブルは黄泉の底へ続く川の深みへ視線を移した。
「ああ、よおく知ってる。彼女は以前、この川に身を投げようと、入って行ったんだぜ。なぜかって? 三人のクラスメイトの男たちに、オモチャにされていたからさ。結局昨日、やつらに体を奪われている最中に、彼女は舌を噛んだ。あげくに、その首謀者の宮川たくみに袋詰めにされて焼かれちまった。今、彼女の骨は、たくみの家の裏庭に埋まっているんだぜ」
義男の顔が、その話を理解しようと醜くゆがんでいった。
「えっ? えっ? クラスメイト? みやかわ、たくみ? のぞみは、焼かれて、たくみの家の庭に埋まってる? えっ?」
オンブルは彼を置き去りに、川上へと自転車を走らせた。
義男の顔は決して呑み込めない言葉の凶器にひん曲がったまま固まっていた。だけどそれを発した少年が消えたことに気づくと、その醜貌が赤く吊り上がって鬼の凶相となり、どかどか追いかけた。
「おいこら、待たんかあ。あんた、何でそげな嘘ば言うとかあ?」
オンブルは足をフル回転して加速した。
義男も追いつこうと必死で走ったが、濡れたサイクリングロードに足を滑らせ転んでしまった。車に例えるなら大破して炎上するほどの大転倒で、脳震盪でしばらく動けなかった。ただ彼の唇から「みやかわ、たくみ?」と、不穏な声がもれ出ていた。
オンブルは濁流の吐息を左頬に受けながら、水天宮下の河原を越え、長門石橋の下を抜けた。傍らの大河は、今にも無数の波の鱗を光らせる巨大な龍となって咆哮し、躍り出でそうだった。
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