29

 梅林寺から河原へ降り、坂口恵は弟から聞いた子猫の名を呼んだ。

「のぞみちゃん、のぞみちゃん」

 さっきまでの豪雨が嘘のように空には爽青が広がり始めていたが、大河の水は濁って膨れあがり、河原の草土も雨水に覆われて歩き辛かった。

 泥水を撥ねながら、口髭を生やした中年の男が一人、恵の後ろから駆け寄って来た。

「あのう、あのう・・」

 彼が肩に手を伸ばすのと、恵が驚いて振り返るのと、ほぼ同時だった。

「うわっ」

 飛び跳ねるように避けたので、恵のスニーカーが泥水を弾きながらぬかるみに沈み込んだ。紺のロングスカートの裾も泥で汚れた。

 男は瞳の奥を覗き込むように恵を見つめた。

「ごめんね、あなたがのぞみを呼んだけん、声をかけたとよ。わたしも、のぞみを捜しとるけん」

 彼の目が切実すぎて、恵は視線をそらせなかった。

「おじさんも、のぞみちゃんを知っとるとですか?」

「のぞみは、昨日から帰って来んとよ。近頃、この辺りに来てるって聞いたけん、捜しとるとよ」

 彼は佐藤希望の父、義男だった。寝ていないのか、赤い目の瞼がむくんでいる。

 二人で希望の名を呼びながら歩いていると、六つに幹分かれした大樹の方から、子猫の声が聞こえた。

「ああ、おじさん、きっとのぞみちゃんです」

 恵が喜びの声をあげて大樹へ寄って行く。

 義男も「えっ? えっ?」と訝りながらも、靴もズボンも泥塗れに駆けた。

 鳴き声の方を覗いていると、二人を観察しているエメラルドの瞳に出会った。樹の枝の上に黒くて細い体が潜んでいた。

「のぞみちゃんでしょ? さあ、降りておいで」

 恵は黒猫へ両手を差し伸べた。希望は自分の名を呼ぶ声に「ミャアミャア」応えたが、口髭の男に何かの影を嗅ぎ取り、尻尾の毛を逆立てて身構えている。

 義男は顔を曇らせて恵を見た。

「あの猫が、のぞみ、ね?」

「違うとですか?」

 義男は眉間に縦皺を刻んで首を振った。そして湿った河原を川下へと去って行った。

 恵は用意していたレトルトパウチを破って、中身を樹の幹の間に絞り出した。希望が我慢できずに降りて来た。恵を横目で見ながら匂いを確かめ、舌で味を調べ、そのあまりもの美味に目を細め、ぺちゃぺちゃと幸せの舌音をたてた。

 恵はパウチの中身を全部出しながら子猫に語りかけた。

「のぞみちゃん、嬉しかね? れんが、あんたを気にかけとるけど、わたしは、れんが心配でここに来たとよ。あいつは近頃、おかしかとよ。今日も朝からいなくなったけど、ここには来んとかねえ?」

 ご馳走を食べ終えた黒猫は、翠輝く瞳で恵を見つめた。恵がやわらかな毛を撫ぜても逃げる気配はなく、白い薄手のシャツに体を擦りつけながら、グールグール喉を鳴らした。














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